四ツ家追分から稲葉宿、萩原宿を経由して起宿まで歩く。
稲葉宿は、慶長五年(1600)頃から始まり、元和弐年(1615)頃、宿場として整備された、と伝えられる宿場で、
天保の頃の家数は三百三十六軒、宿内人口は千五百七十二人で、本陣と脇本陣がそれぞれ一軒、問屋は三軒、旅籠は八軒あった。
萩原宿は、萩原村と西之川村、後に串作村が加わり、三村で運営されたが、
美濃路の中で、一番小さな宿場で、家数二百三十六軒、宿内人口は千人程だった。
起宿は、宿場と木曽川の渡船場管理という二つの業務を持つ宿場だったが、
小さな村だったので、周辺の小信中島村、冨田村、西五城村、東五城村を加宿とし、起五か村と呼ばれた村々が、宿場の業務を分担して行った。
美濃路(美濃街道)と岐阜街道の追分の四ッ屋追分は、稲沢市井之口四家町にある。
美濃路(美濃街道)は、県道136号を行く。
四ッ屋追分からJR東海道本線の踏切を渡り、
まっすぐ西へ進む。
左側に大里東小学校があり、400m歩くと左にゴルフ』センター、
右側にグランドパレスと書かれた建物が現れる。
これは立体駐車場でその奥にパールシティーというスーパーと、
稲沢グランドボールというボーリング場がある。
井の口団地を過ぎた交差点で右折すると、 正面にキムラユニテイー(現オートプラザラビット)があり、 道は三叉路になるが、右のカーブする道を歩いていく。
「 江戸時代には、道が曲がりくねっていたため、 七曲縄手といわれたところである。 」
左側に森永乳業や輸送会社の駐車場などがあり、左側には田畑が広がっていた。
かなり遠くに見える稲沢駅付近の聳えるような建物は、三菱エレベーターの塔である。
ここで高層ビルのエレベーターがテストされている。
福田川に架かる大橋を渡ると、、正面に十階建てのマンション群が見えてきて、
本多金属、平凡運輸の先で、県道は左にカーブするが、
美濃路は、右側にある散歩道が付いた道である。
歩道側は一段高くなっていて歩きやすい。
突きあたったところで、左折し、そのまま進むと、
先程見えたマンション群の右側に出たので、ここで右折する。
「
その先の二階建てのテラス団地群は、昭和三十二年から三十三年にかけて建設された、
旧住宅公団の稲沢団地である。
ほとんどの家が空き家になっているので、近くの人に聞くと、建て替え計画があり、
その工事中ということだった。
希望者は、新築の高層棟に入れるようなので、
住み続けている人達は何かの事情があるのだろう。
年をとった住民が住む団地に同じようなことが全国で起きている。
それにしても、この団地は広い。
道の右側には、団地の住民をあてにして出来たと思える店が続いていたが、
これらの店の経営も大変だろう、と思った。 」
四百メートル程歩くと、左手に大きな建物が現れた。
市立図書館と稲沢市民会館である。
(注)訪れた時、団地の建て替え計画中であったので、
現在は周囲の風景が変わっているのかも、知れない。
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私が歩いて行く県道136号は、左右の見渡す限りの田畑の中を北上していく。
しばらくの間、黙々と歩き、観音寺田交差点にくると、
民家の一角に「南無阿弥陀仏」など書かれて、
石碑は二つと石仏を彫った石碑が祀られていた。
県道は次の信号交差点を左折するので、そこを曲がると、 道の左側に「JA愛知西稲沢南部支店」と書かれた建物があり、 その道の反対側の鳥居の右側には、 「尾張総社国府宮一ノ鳥居」と書かれた石柱と常夜燈が建っていた。
「
尾張総社国府宮とは、尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)のことである。
地元では畏敬を込めて、国府宮神社と呼ばれている。
この稲沢の地は、農耕の盛んな比較的静かな地であるが、
奈良時代には、尾張国府が置かれ、国分寺、国分尼寺が建てられ、
総社も造られたところである。
尾張国府は、現在の名鉄名古屋本線国府宮駅のあたりにあった、といわれる。
神社の誕生時期ははっきりしないが、本殿の脇に、磐境(いわくら)があることから、
国土神(くにつかみ)を祀る古い神社で、近くに国府が置かれたことから、
国府宮と呼ばれ、更に、尾張総社を兼ねるようになった。 」
国府宮に立ち寄る。
一の鳥居をくぐり、二の鳥居を北上すると、国府宮神社の楼門があり、
それをくぐると、本殿があった。
その間、七百メートル位であろうか?
「 応永二十六年(1419)造営の楼門は、ひわだ葺き、重層入母屋造、
拝殿は桃山様式をとどめる単層切妻造、妻入りで、壁がなく総円柱の吹き放しで、
二つとも国の重文である。
楼門から籬(まがき)、拝殿、回廊、釣殿、本殿までがくの字に配置されている。
二月七日に開催される国府宮の裸祭は、神護景雲元年(767)、
称徳天皇の悪疫退散祈願に応じ、
尾張国司が総社で執行した追儺神事を承継したもの、といわれている。 」
神社のお参りを済ませ、鳥居まで戻り、旅を再開する。
名鉄名古屋本線の踏切を渡るり、高御堂2南交差点を過ぎると、
両側の民家の左手に高御堂団地の建物がわずかに見えた。
右手にお寺の屋根が見えるので、地名と関係するのではないかと、
小路の入っていった。
その先には、なにが祀られているのか分からないが、お堂が二つ、
手前にはお地蔵様と思える石仏が祀られている小堂があった。
その先に、八幡神社(鷹八幡社)と御岳神社の小さな社(祠)が祀られていた。
傍らに、「 高御堂元鎮守 鷹八幡社 」 の石柱があった。
石柱の文面
「 八幡神社は高御堂村の元鎮守社で、八幡社の上に鷹がつくのは、
当地在住の徳川家の家臣・鷹匠の吉田氏が、藩主を案内し、当地で鷹狩の際、
八幡社に休息後、以後、鷹の名前を冠せよとの藩主の言葉による。 」
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その隣にあるのが、蓮御山吉祥寺である。
稲沢市が建てた説明板
「 真言宗の寺院で承和元年(834)、弘法大師・空海が創建したと伝えられる。
尾張国府の南の鎮護として七堂伽藍を有し、多くの塔頭があり、
その寺号が小字名として残った。
文保二年(1318)、高野山の実尊上人が真言宗の道場として中興した。 」
街道に戻り、旅を続ける。
道は高御堂団地の一角にある保育園のところで、三叉路になり、
県道は斜め右へ曲っていくが、美濃路は直進する。
その先で小さな橋を渡るが、流れているのは大江用水である。
信号交叉点を右折し、六差路の曙橋北交差点は、左側の道を直進する。
次の信号交差点で、右手にある高御堂交差点を見ながら、
県道82号線を越え、その先の狭くなる道・県道136号に入る。
これが江戸時代の美濃路である。
右側の「有限会社ビレイパレス」の標示のある家の植え込みの前に、
お手製の 「 美濃路 稲葉一里塚跡 」 の木標があった。
小さなものなので、気を付けないと、通り過ぎてしまう。
「
稲葉一里塚は、美濃路の宿場、稲葉宿の東入口にあった。
稲葉宿は、慶長五年(1600)頃から始まり、元和弐年(1615)頃、
宿場として整備された、と伝えられ、宿場業務は、稲葉村と小沢村にて分担された。 」
その先の道の両側には、古い家が残っていた。
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小沢三丁目西交差点を過ぎると、三叉路になり、 美濃路はここを左折していくのだが、 突き当たりのT字路にある農業改良普及センターが、稲葉宿の本陣があったところである。
「 本陣の建物は残っていないが、あったこと示す石碑があるというので、
敷地内に入り探すが見つからない。
うろうろしていると、出てきた職員は道のかいがらいぶきの垣根のところにあるよ、
と教えてくださった。 」
当時の愛知県知事・桑原幹根が揮ごうした 「 稲葉宿本陣跡 」の碑という大きな石碑が、建っていた。
改良普及センターの道端には、稲沢市の中核を担った、稲沢町道路元標が残されていた。
本陣跡を左折し、宿場があった中心地に入っていく。
「
稲葉宿は、家数三百三十六軒、宿内人口千五百七十二人で、
本陣と脇本陣がそれぞれ一軒、問屋は三軒、旅籠は八軒あった。
稲葉宿には、享保年間には市場も開設され、朝鮮通信使が通行するときには、
茶屋も建てられた、というので、象の一行もここを歩いていったのだろうか? 」
高層マンションや最近の家が建つ間に、虫籠窓の漆喰壁の家が残っている。
古い家を確認しながら歩いていく。
左側の白い漆喰壁、虫籠窓、格子で囲まれた屋敷は戸が閉まっているが、 豪華で大きかった。
道の反対側の松江園茶舗と駐車場の間に、稲沢銀行の石柱が建っていた。
「 稲沢銀行は、明治三十三年(1900)に開業した地方銀行で、
昭和二十年(1945)に東海銀行に併合された。
この場所は銀行の本店が置かれたところで、江戸時代には稲葉宿の西町であった。 」
その先の右側には褐色のタイル張りの建物は古そうである。
その前にある、「瑞豊と富士ポートワイン」 とある看板はなかなか味わいがあるもの。
この家は、藤市酒造で、瑞豊は本みりんの銘柄名であった。
道が右へカーブするところの右側にある格子の家の左側に、
「稲葉宿問屋場址」 の石碑が建っている。
この石碑は地元のロータリークラブが建立したものである。
石碑の文面
「 四ッ屋追分から分かれたこの美濃路の稲葉宿は慶長五年に開設され、本陣、脇本陣の他、小沢、東町、西町には問屋場が置かれて、人馬の往来、物資の輸送の為に供されたが、
文化三年に人足二十二人、馬四十五頭が常備される助郷の制があった。
ここは東町問屋場である。 宿場役人伊東氏の住居である。 」
助郷の制は、近郷の農家から馬や人を集める制度である。
「 農繁期にも関わらず、強制的に集められた。
幕末になると、交通量が増え、農民の負担は増えた。
明治弐年、この年は米の収穫が悪かったのに、
清州代官所は通常の徴収を行ったので、それに反発した農民は稲葉宿の商人の家を襲い、
打ち砕いた。
その足で清州代官所に向かったが、鉄砲隊に打たれて多くの犠牲者を出した。
世にいう稲沢騒動である。 」
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その先には、紅葉山宝光寺があり、その対面には、珍しい円柱の道標がある。
道標には、「 右つしま道三里 」 と、刻まれているが、
江戸時代には、ここから津島神社に向かう道があったようである。
少し歩いた左側に連子格子の家が残るが、このあたりが江戸時代の稲葉宿西町の
はずれである。
メゾン西町とある建物のある信号交差点で、県道136号は右に折れる。
ここは、稲葉口の交差点で、江戸時代には稲葉宿の京方入口(西側入口)であったのだろう。
交叉点を右折して少し歩くと、正面に浅井会計事務所があり、ここで左に折れて行く。
道なりにカーブしていくと、西尾張中央道(県道14号線)に合流する。
正面には、コメダ珈琲店があった。
朝早かったこともあり、中に入りモーニングセットを注文し、
新聞を読みながらコーヒーを飲んだ。
美濃路は、ここから道がなくなっているので、西尾張中央道を歩く。
石橋南交差点を過ぎ、石橋交差点の先の中島道場交差点を左折し、
二つ先の交差点を右折すると、旭建設があり、その先に一宮市の標識が建っていた。
細い道を直進すると、三叉路でここを左折すると、県道136号に出る。
その先に道場鳥居前バス停があり、右側に「中島宮」と書かれた石柱と鳥居があった。
ここは一宮市萩原町中島である。 中島宮に寄り道をする。
「 萩原町中島の地は、古代に倭姫命が社を建てる地を求めて、旅をした時、 ここに滞在したと伝えられる古い所である。 」
鳥居をくぐり歩いて行くと、また、鳥居があり、そばの石柱には「八剣社」とある。
その奥のこんもりとした森には、「中島宮」の石柱が建っていた。
石柱の側面に、熱田神宮の宮司の名があるが、
この神社は熱田神宮にある八剣社の末社のようであった。
「 ここは、奈良時代の中島廃寺跡で、 中世の土豪の中島氏が中島蔵人を称して住んでいた、中島城があったところである。 」
隣の真言宗、長隆寺は、その菩提寺といわれる。
市の説明板には、 「
この寺には、鎌倉初の寄木造阿弥陀如来坐像、絹本著色五大尊画像(ともに重文)などを
所蔵する。 」 と書かれていたが、寺は無住のようで、
そのような重要なものが置かれているようには思えなかった。
中嶋宮の周囲には、北西に延命寺、南西に西光寺、本養寺、石仏を祀るお堂や常夜燈があり、信心が深い土地柄に思えた。
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六百メートル程歩き、先程の街道(県道136号)まで戻り、先を進む。
西御堂の交差点を越え、光雲川に架かる高木橋を渡る。
このあたりの高木集落は農業中心の暮らしと思えた。
道は左にカーブするが、左に二つの石仏を祀ったお堂があった。
その先には、「南無妙法蓮華経」の日蓮宗独特の書体文字で書かれた、
文政元年建立の石碑が建っていた。
その先の信号交差点で、県道513号を横切ると、
右側に 「高木一里塚」 の碑が建っている。
明治初年までは、街道の両側に塚があり、榎も残っていたという。
その先、二百メートルの右側に高木神社があるが、
そのまま進み、交差点で左折すると、串作南交差点で、国道155号を越えると、
名鉄尾西線の線路に突き当たる。
金網の向こうは萩原駅で到着している電車が見えるのだが、駅にはこの道を左折して、
踏切を越え、右折して行かないと、行くことはできない。
駅前を進み、萩原駅前交差点で右折すると、県道137号で、「萩原商店街」の看板がある。
ここは、江戸時代に美濃路の萩原宿があったところである。
「 萩原宿は、萩原村と西之川村、後に串作村が加わり、三村で運営されたが、美濃路の中で、一番小さな宿場で、家数二百三十六軒、宿内人口は千人程だった。 」
少し行くと、萩原下町の交差点があり、その先は道が狭くなるが、県道136号である。
道の両側には、昭和三十年〜四十年頃を思い出させる商店が建ち並んでいた。
平日の昼過ぎのせいか、客足はほとんどない。
古い家も数軒見かけるが、濃尾地震を受けて全壊したはずなので、明治後期以降であろう。
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左側にある正瑞寺の前の交差点で、美濃路(県道136号)は右に曲がる。
正瑞寺交差点を右折すると、萩原中町で、
連子格子に白漆喰壁、側面は黒い板囲い壁の民家があった。
左側の民家の前に、お堂が二つ建っていて、馬頭観世音と地蔵菩薩が祀られていた。
また、屋根には、屋根神様があった。
ジェリーサロンウカイの前には、「 美濃路 萩原宿問屋場跡 」 の石柱が建っていた。
石柱の説明書き
「 問屋は、人馬の継ぎ立てを司る宿役人の長で、
家の一部を業務の扱い場所(問屋場)とした。
当宿には、上と下の二つの問屋があり、
原則として、交替でつとめた。
ここは、上の問屋場跡である。 」
少し補足すると、問屋場は、上町と下町の二カ所にあり、
上問屋は鵜飼家、下問屋は木全家で、二日交代で業務を行った。
高札場は、中町の正瑞寺の曲がり角に置かれていた。
その先には、商店はほとんどなくなり、道から奥に入ると、
「水」と書いた元は茅葺だったと思われる家などがあった。
そのまま歩くと、左側にこった造りの喫茶店があり、
道の反対側の家の前に、「萩原宿本陣跡」の石碑が建っていた。
苗字が違うので、森権左右衛門の末裔ではないようである。
「 萩原宿の本陣と脇本陣はそれぞれ一軒あったが、本陣は森権左右衛門、 脇本陣は、森半左衛門が世襲し、庄屋も兼ねていた。 」
本陣跡を過ぎると、交差点があり、美濃路は、交差点を左折していく。
左側にイワタ電機という電気屋さんがあり、その先の右手にに、真言宗豊山派の寶光寺がある。
その先右側の稲荷神社の石柱には、「村社」とあるので、萩原村の鎮守社だったのだろう。
萩原駅南西の戸刈山一帯は、古くから、萩の名所として知られ、
万葉集に多くの歌が詠まれている。
戸刈の万葉公園には、歌碑が建っている。
「 春のかすみ たなびくけふの 夕月夜 きよくてるらぬ 高松の野に 」
日光川に架かる萩原橋を渡ると、両側の家は皆大きかった。
このあたりが、萩原宿を構成していた西之川村だろうか?
その先の変則交差点で、右手を見ると遠くに名神高速道路のガードが見えるので、
この交差点を右折し、信号交差点で県道136号を越えて進む。
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信号交差点を越えると、道は細くなるが、この道も県道136号線である。
この道が美濃路跡で、太い道は渋滞回避の為、後日に造られたのだろう。
右側の空地に、「孝子佐吾平の由来」 という石碑が立っている。
碑文
「 天保年間に江戸参府のため、
萩原宿近くを通りかかった明石藩主・松平斉宣の行列の前を、
暴れ馬と馬を取り押さえよう横切った萩原宿の馬方・佐吾平を、
先駆の武士が無礼打ちにした。
佐吾平は、吉藤村風張に生まれ、家は貧しかったが、盲目の老母によく仕え、
孝子のほまれ高かった。
村人は、佐吾平の死をいたみ、この地に小祠を建て、後世に伝えた。
佐吾平受難の話を聞いた尾張藩12代藩主・徳川斉荘(11代将軍徳川家斉の実子)は、
幕府と明石藩に抗議し、明石藩の領地の半分を幕府の召し上げにした。
その後も、尾張藩は明石藩の尾張領内通過は、夜間の装束でしか許さなかった、という。」
碑の反対側には、小さな祠が建てられ、その隣に、 「孝子佐吾平遭難遺跡」と書かれた大きな石碑と、小さな社(祠)があった。
(注) 明石藩の石高が減額された史実上のこともなく、上記の話は公文書などに記録なく、
フィクションと思われる。
肥前平戸藩主・松浦静山が随筆「甲子夜話」に、類似した話が書かれているが、
根拠のある話ではないようである。
「 明石藩主・斉宣が、参勤交代で尾張藩領を通過中、 3歳の幼児が行列を横切った。 村民たちが斉宣に助命を乞うたが許されず、幼児が処刑された。 尾張藩は御三家筆頭の面子をかけて、今後は尾張藩内通行を認めないと通告するに至った。 この為、以後、明石藩は尾張藩内において行列を立てず、藩士たちは脇差1本のみを帯び、 農民や町民に変装して通行したという。 」
地図でみると、この土地の一角だけが、萩原町萩原で、 その他は吉藤で、旧尾西市(町村合併で一宮市に編入)である。
名神高速のガード下をくぐり、五百メートル程歩くと三叉路で、左の道を歩き、
北西に向きを変える。
西萩原交差点を直進し、道なりに進む。
「 今歩いている道は旧美濃路で、県道136号である。
県道136号は変わった道で、交差点に左から来た道も、小生が歩いてきた道も、
両方とも136号である。
この県道は旧美濃路(美濃街道)が母体で、狭い道は一方通行にし、
代わりの道を県道に指定したりしているので、多くの道が県道136号になっているのである。 」
右側に「八幡神社」の石柱、その先には正一位秋葉神社、左側に尾西富田郵便局がある。
その先にあるのが、冨田一里塚である。
美濃路でただ一つ、両側の塚が残っている一里塚で、塚の上には、榎が植えられている。
榎はかなり大きなっていて、根には苔が生えていた。
一里塚を過ぎると、左へ入る三叉路の角に、 「 左駒塚道 船渡 五丁 」 と、刻まれた道標がある。
「
駒塚道はここから左に折れて、木曽川河岸にでて、駒塚の渡しで木曽川を渡り、
羽島市竹鼻町駒塚へ至るルートである。
名神高速道路や東海道新幹線が通る木曽川の橋の北側に渡しがあったようである。
対岸には「駒塚の渡し跡」 の石碑がある。 」
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駒塚道標を過ぎると、県道136号の右側にある細い道を歩く。
地図を見ると、小川に沿ってあるように見えるが、入ってみると暗渠になって、
川は見えなくなっていた。
この道は、県道136号と並行して続いている。
途中には、鋸型の屋根をした家や高い煙突のある工場もある。
へでると、「一宮市富田」 とある歩道橋の手前で、美濃路(県道136号)は、
左側からきた道路(県道尾西・津島線)に合流した。
その先の左に入ったところに地蔵寺がある。
「 なお、天文二十二年(1553)、信長と美濃の斎藤道三が会見した聖徳寺は、 県道尾西津島線を南に600m行った、聖徳寺跡バス停付近にあったのだが、 寺は名古屋市に移ってしまい、その跡には石碑が建っているだけである。 」
信号交差点を越えると、一宮市起字下町で、 美濃路の起宿があったところに入る。
「 起宿は、宿場と木曽川の渡船場という二つの性格を備えた宿場だった。
起村は小さな村だったので、周辺の小信中島村、冨田村、西五城村、東五城村を加宿とし、
起五か村と呼ばれた村々が宿場の業務を分担して行った。
起宿は、美濃路の重要宿場だったので、その負担は大変だったのだろう。 」
道の左側に尾西歴史民族資料館があるので、中に入って行った。
奥に新たに建てられた一宮市尾西歴史民族資料館があり、
林家住宅は、歴史民族資料館の別館という位置づけになっていた。
説明板「美濃路 起宿脇本陣跡 林家住宅」
「 この建物は、脇本陣だった林家が建てた家である。
明治二十四年(1891)の濃尾震災で、この場所にあった脇本陣の建物は倒壊したが、
その後に建て替えられたのが、この建物で、江戸時代の町屋建築の様式をよく残している。
玄関入口の潜り戸のついた大戸、街道に面して取り付けられた連子格子、土間に建つ大黒柱、根太天井、立ちの低い二階など、幕末の起宿に見られた町屋をしのぶことができる。 」
中に入ってみると、部屋数を多く、大変大きな家だった。
窓ガラスは外がゆがんで見える古い時代のままのもので、
それを通して見える庭は素晴らしい。
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庭は昭和元年から昭和十一年にかけて、林幸一氏が細かい指示を出して作庭させたもので、
つくばいや灯篭などに、すばらしいものが多かった。
林家より寄贈されたこの建物は、幕末にあった脇本陣とは構造が違うが、
当時の町屋という点で、歴史的な価値があるのだろう。
歴史民族資料館に入ると、この地域の歴史が分かりやすく、展示されていた。
木曽川を利用して、海から山から色々な物資がここを経由して運ばれたことや、
大名行列に使われた宿札や宿帳などが展示されている。
特に面白かったのは、象の旅である。
「
安南国(ベトナム)から将軍吉宗に献上するための象が江戸へ下る途中、
木曽三川の揖斐川では、従者が船に乗せようとモタモタしている間に、
象はさっさと渡り出した。
ところが、川の深みでその姿が見えなくなり、従者達は大騒ぎ。
そんな従者をよそ目に象は長い鼻を水面に出して悠々と渡っていった、とあり、
見慣れぬ象の登場で、宿場がてんやわんやだったことが紹介されていた。 」
二階には、手織り織機などが置かれていた。特に面白かったのは、象の旅である。
「
起村は、江戸時代に起きた木曽川の大洪水で、地形が変わり、
農作物がとれなくなったのを補うため、絹や木綿の織物を始めた。
十八世紀には、桟留縞や寛大寺縞などが織り出され、
尾張縞の名のもとに全国的に知られるようになった。
明治に入ると、絹や木綿は大規模工場で織られるようになり、
尾西地方の小規模の個人企業ではたちいかなくなり、少量生産の毛織物に転換し、
日本最大の毛織物の産地になった。 」
起土人形は、江戸時代中期の頃 名古屋で製作技術を習得した陶工が、
この地で創始したものといわれ、
展示されていた蚕鈴や歌舞伎物や武者人形は五代目の中島一夫さんが製作されたものである 。
中島一夫さんは、一昨年に亡くなられたと聞くので、この技術は今後残るのか、心配である。
尾西歴史民族資料館と林家住宅は、時間があれば立ち寄られるとよいだろう。
(無料、9時〜17時、但し入場は16時30分まで、月曜日と祝日の翌日、年末年始は休館)
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街道に戻り、歩き始める。
その先右側の民家の空地に、「史跡起宿本陣及問屋場跡」 の石柱と、
「国学者加藤磯足邸址」 の石柱が建っていた。
説明板
「 起宿の本陣は、加藤家が代々右衛門七を名乗り、幕末まで務めた。
天明五年(1785)の書き上げによると、間口二十四間、奥行五十四間、建坪弐百六坪、
他に高塀五十八間、三ヶ所の門があった。
問屋場も加藤家が兼務していたが、後に、永田家も問屋場に加わった。
江戸中期の当主、加藤磯足は、本陣職を務めながら、木曽川堤の自普請、村政にも尽くし、
国学者、本居宣長の高弟として、尾張を代表する文化人だった。 」
尾張名所図会には、起宿の渡船場の位置が描かれている。
「
渡船場は、将軍、朝鮮使節用の船橋河戸、伊勢用の宮河戸と常渡船場の三か所があった。
船橋河戸とは、徳川家や朝鮮通信使が通る際に臨時に設けられたもので、
近郷の集落に命じて、船を集め、船を何十艘と並べて、その上に橋を架けたものである。
準備から撤去まで、四ヶ月も要する手間のかかる大事業で、
地域の住民にとっては迷惑なことだっただろう。 」
このあたりには、古そうな家が数軒あった。
その先で、道は変則交差点になる。
江戸時代には鉤型だったのではないか、と思えるが、左に進むと木曽川の堤防に出る。
その手前の右側に「船橋跡」の石碑があった。
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その反対側にある細い道に入っていくと、神明社があった。
隣では、日露戦争の記念碑と大きな樹木がクレーン車により、除去されつつあった。
古くなり危険ということだった。
街道に戻ると、上り坂になった右側に土蔵と門が付いた連子格子の家があった。
道なりに進むと、大明神社の鳥居の前に、「宮河戸跡」の石柱がある。
「 宮河戸は、八百清河戸と称して、神社のお手洗に用いられる他、船の荷揚げに使用された。 また、大藩の大名行列で、常渡船場が混雑するような場合の臨時渡船としても使用された。 」
鳥居をくぐって下りて行くと、大明神社と大杉稲荷がある。
大明神社は、慶長九年(1604)の棟札があるが、
創建年代などの由緒は不詳のようである(祭神は天児屋根命)
境内には柿の原木であるヤマガキや天然記念物の大イチョウがたかだかと聳えていた。
濃尾大橋のガードの下をくぐると、門構えの家とか、蔵のある大きな家などがあった。
公衆トイレの左手に、金刃比羅社があるが、金比羅さんは航海の安全を守る神さまである。
鳥居の前には、「金刃比羅社」の石柱と大きな常夜燈があり、
常夜燈には、金刃比羅社の他、天照皇太神宮、秋葉神社と書かれていた。
左側には、「起渡船場跡」の石柱がある。
「
起渡船場は、一般の旅人が利用した舟渡し場で、
ここから対岸の羽島市新井の燈明河戸に渡った。
いまは渡船などないので、濃尾大橋を歩いて渡ることとなる。
」
濃尾大橋は、昭和二十七年(1952)に着工され、
昭和三十一年(1956)の一月に竣工された長さ七百七十七メートルの橋である。
なお、対岸の羽島市との間に濃尾大橋が架かるまでは、駒塚の渡しの渡船利用が続いていた、という。
今日は、中島宮あたりをうろうろしたことと、
尾西歴史民族資料館の見学で予想以上の時間を使った。
更に、コメダでのコーヒーや、串作南交差点のうどん屋が混んでいて、
みそにこみうどんがなかなか出てこなかったこともあり、
ここで日が暮れてきたのは誤算であった。
濃尾大橋を背景にいて、木曽川はゆったりと流れていた。
起地区はバス便はあるが、本数は少ないように思われ、
当初考えていた名鉄竹鼻線の駅を目指すことにして、濃尾大橋を渡った。
途中の交番で道を聞いたりして、不破一色駅に
着いたころは日が落ちて、暗くなっていた。
今日はここまでである。
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旅をした日 平成21年(2009)1月7日
下記の図は左側は倒壊前の脇本陣、右側は現在の林家住宅の見取り図である。
これによると、「 倒壊前の脇本陣は、街道に面して、
右側に表門と玄関に通じる敷石が敷かれ、左側に林氏居住の建物があり、
敷石の先に大名用の玄関その先に、三部屋あり、一番奥が御上段の間、続いて二の間、となり、その奥の離れに御湯殿と御両便所があった。
玄関と大名が泊まる部屋を囲うように庭があった。
裏内門と裏外門から脱出できるようになっていた。 」
ということが分かる。
明治維新で脇本陣が廃止になり、林家は何で生計を立てておられたか分からないが、
濃尾地震後の家を見ると、店構えのある間取りの家に変身している。
資料館で戴いた資料によると、
「 林家は、織田信長の重臣・林通勝の弟、新九郎の三代目の祐春の弟・林与右衛門定通が、慶長十年(1605)に起村に別家した、とあり、
林家が上小田井村の長善寺からの別家であることは、長善寺に寄進した梵鐘から間違いない。
」 とある。
木曽川は天正の大洪水があり、川底に沈んだ住民は左岸に移ったり、
起宿の開発で人が移ってきていた時期に合致する。
「 本陣、問屋、船年寄などは、当初、本陣加藤家が兼務していて、
脇本陣は佐太郎、治右衛門の系譜(姓不明)が村庄屋を兼務して経営に当たっていたが、
享保五年(1720)に経営不振で、林浅右衛門が引き継ぐことになり、
船年寄(起川渡船場の管理職、その後、船庄屋と呼ぶ)を兼務することになった。 」
と思われた。
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