名古屋宿から清須宿を経由して四ツ家追分まで歩く。
清州城は慶長十五年(1610)に徳川家康の命で廃城になり、
城下町に住む町民全てが名古屋に移された。
これが有名な清洲越しである。
この結果、清洲城の石や木材などは名古屋城に運ばれ、
その地は、清州新田として開発され、荒れ果てたままだった。
当時の臼引歌は、そのありさまを [ 思いがけない名古屋ができて、花の清州は野になろう 」 と歌われた。
尾張藩は、天保四年(1832)頃、清州城天主台址二百三十三坪の土地だけを保存することにし、清州代官、朝田藤三郎に命じて、城址の周囲に石垣を設けさせた。
現在、清州城があるが、最近建てられた観光用の城である。
押切北交差点を渡り、直進すると右側に凧茂本店がある。
この店は、名古屋凧を製造販売している店である。
最盛期には二十軒あったというが、現在はこの店だけと、家の脇の案内板には書いてあった。
その先の右側に、白山神社がある。
江戸時代の尾張名所図会に、
「 社内に榎木一株あり。 是即白山の神木なれば、榎権現の称ここに起こる。 」 とあり、当時は「榎権現」 とも呼ばれていたようである。
「
織田信長が幼少期にこのあたりを駆けまわったといわれ、
今川義元との桶狭間の戦いの際には、清州からここに立ち寄り、戦勝祈願を行っている。
江戸時代に入り、街道奉行が管理する美濃路になると、神社の前は立場になり、
茶屋等が営まれた。 」
榎小北交差点を過ぎると、道は狭くなるが、それでも平気で車が行きかうので、
少し危険な感じがした。
少し歩くと、右側に八坂神社があり、奥にはヨシズヤが見えた。
八坂交差点で、また、国道22号線を横断する。
ここは枇杷島1丁目であるが、道は更に狭くなった感じである。
小さな惣兵衛橋を渡る。
新しい家に混じって、古い家もわずかであるが、残っていた。
しばらく歩くと、名鉄の高架橋が見えてきた。
その手前、右側に清音寺があり、門前には「覚明行者剃髪道場旧跡」という石柱が建っている。
「
覚明行者は、享保三年(171)、尾張国春日井郡牛山村の農夫の子として生まれたが、
家が貧しかったので、土器野村の新川橋辺の農家に引きとられて養われた。
その後、修行の道に入るが、得度を受けたのが清音寺である。
その後、四国巡礼を七度行うなど、各地を回ったが、白山神のお告げで御嶽山を目指し、
御嶽行者として、御嶽山の参詣道の開発を行い、御嶽信仰を全国区に拡大した人物である。 」
右側には市教育委員会が建てた説明板がある。
説明板「清音寺」
「 曹洞宗。 治承三年(1179)、時の太政大臣藤原師長は、平清盛のために、
尾張国井戸田に流された。
師長は村長横江氏の娘を寵愛したが、後に赦されて都に帰るとき、
形見に守本尊の薬師如来と白菊の琵琶を残した。
しかし、娘は別れを悲しみ、ここで身を投じたという。
その後この地を枇杷島と名付け、娘の菩提を弔うためこの寺を建立した。
寺号の清音寺は、娘の法号清音院からとられている。 」
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名鉄のガードをくぐると、三叉路に突き当たるが、
そこに昔の枇杷島橋をかたどったモニュメントがある。
江戸時代には中央の小島を挟んで大小2つの総桧造りの橋がかけられていた。
その脇に、「 信長や秀吉が遊んだ庄内川 」という案内板がある。
「 ここ枇杷島河原付近では、茶筅髷に腰にいろいろなものをぶらさげた吉法師時代の信長が遊んだ。 」 と書かれていた。
ここまでが名古屋市西区枇杷島である。
江戸時代の美濃路は、ここから庄内川を渡ったが、
現在はここより下流に橋が架かっている。
堤防に沿った道を上って行くと、途中に「黒体竜王大神」の石柱と小さな社殿がある。
「 覚明行者とゆかりのある古い神社で、 もともとは西枇杷島町下小田井字中島にあったが、 庄内川の改修によりここに移されたものである。 」
県道67号(名古屋祖父江線)に出て、庄内川に架かる枇杷島橋を渡ると、 清須市西枇杷島町になる。
「
庄内川は、岐阜県と愛知県を流れ、岐阜県では土岐川と呼ばれる川で、伊勢湾に注ぐ。
古来、度々洪水を起こすので、尾張藩は城下を守るため、洪水の危険があると、
西側の小田井の堤防を農民に切らせた。
洪水の被害を恐れた農民は作業を出来るだけゆっくりして、抵抗した、という。 」
橋を渡ると、問屋町の交差点があり、変則の五叉路である。
正面右側に見えるのが橋詰神社である。
天照大神と須佐之之命が祀られ、棟札によれば、創建は承応三年(1654)とある古い神社だが、県道が敷設された時、境内が半分に削られてしまった。
神社の北東50m位のところに、江戸時代は木橋が架けられていた訳だが、
そのあたりには問屋と市場があったようである。
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五差路で、斜め左の赤土の道を行き、突きあたった左右の道(県道126号)が美濃路である。
道を左に行くと、JR東海道本線と新幹線のガードがある。
ガードの手前に、「美濃路」の案内板があった。
ガードをくぐると、その先の東六軒集会所の前に、泰亨車山車蔵があった。
曹洞宗高照寺の前を過ぎると、右側に六軒神社がある。
その先には、西六軒町の紅塵車山車蔵があった。
「
この山車は、尾張西枇杷島まつりに引き出させるが、この祭りは山王祭である。
祭が始まったのは、享保二年(1802)である。
尾張藩の規制が厳しく、最初は山車を飾るだけに制限され、
引くことができるようになるまで、六年かかり、からくりを演じるようになるまで、
更に四年かかった。 」
その先の右側に、「問屋記念館」の看板があり、奥に問屋記念館がある。
下小田井(西枇杷島の旧名)の市場の創始者の一人といわれる山田九左衛門家の住宅を移築し、復元された建物が問屋記念館である。
「 山田家住宅は、住宅部分と商用部分をもった併用住宅で、間口が狭く、
通り庭に沿って部屋が並ぶ中二階建てで、奥に座敷がある、典型的な問屋構造である。
この住宅の大きさは、母屋98.82平方b、離れ52.80平方bで、
橋詰町にあったものを、平成四年(1992)にここに移転した。
明治初期の建築ながら、江戸時代の様式を残しており、
濃尾地震にも耐え残った貴重な建物である。 」
言い伝えによると、「 山田九左衛門の先祖は、慶長十九年(1614)の大阪冬の陣の折、
徳川家康が庄内川を渡河した際、野口市兵衛とともにお世話したことにより、
問屋業が認められた。
のちに橋が架かると、元和八年(1622)、両名は御橋守掃除給として、
一反四畝の永久免税地を賜った。 」 といわれる。
「 下小田井の市は、徳川家康の命により市場が開かれたことから、 渡橋禁止の幕府も架橋を例外的に認めた結果、市場は大いに賑わい、 江戸の千住、大阪の天満と並ぶ三大市場に数えられるようになった。 」
右側にある松原神社を過ると、右側の美濃路一休庵の屋根の上に、屋根神様が祀られていた。
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ここの右側は清須市西枇杷島町北二ッ杁、左側は同町南二ッ杁である。
杁西町集会場のバス停から、仁川湯の大きな煙突が見えた。
「
かってはこの地区の地名は杁東町と杁西町であった。
二ッ杁の地名はそこから生まれたのだろう。 」
「ようこそ新川東商店街」 のアーケードがあり、
道の両脇には昭和レトロの商店街が残っていた。
道がカーブするところに文造寺交差点がある。
「
このあたりは旧土器野村で、江戸時代にはここから対岸の西堀江、萱津を経て、
津島へ向かう道があり、津島上街道と呼ばれた。
名古屋から津島神社のお参りに利用された道である。 」
山田模型店の屋根に屋根神様が祀られていた。
右側にある端正寺の境内に、
高さ四b五十aの「南無妙法蓮華経」 と書かれた大きな宝塔が建っている。
「 この北方に尾張藩の刑場があり、処刑された罪人の菩提を弔うため、 若松庄九郎と熊野屋珠兵衛が八年の歳月をかけて、天保六年(1815)に建立したものである。 」
右側にある地蔵堂のある阿弥陀寺を過ぎると、
道は少し小高くなり、新川に架かる新川橋を渡る。
三菱東京UFJ銀行新川支店に、「新川開削本陣」の説明板があった。
説明板
「 新川は、度重なる庄内川の水害、
特に宝暦七年(1757)の庄内川の堤防決壊による大被害を契機として、天明七年(1787)、
洪水による水の一部を流堤を経て、伊勢湾に放流する目的で開削された放水路である。
しかし、もともと低湿地だったため、新川界隈はたびたび洪水の被害を受けた。
このあたりの村々は、庄内川の氾濫による水害のため、疲弊していたので、
清州惣庄屋の丹羽助左衛門等の度重なる請願を受け、
尾張藩九代目藩主・徳川宗睦は、藩の財政危機にもかかわらず、新川の開削工事に着手した。
新川開削本陣となったのは、土器野新田庄屋役・伊藤権左衛門宅(現在の三菱東京UFJ銀行新川支店)だった。
工事は、1784年に始まり、1787年に完成した。 」
最近でも、平成十二年(2000)年九月の集中豪雨により、堤防が決壊し、
この辺り一帯は水浸しになっている。
そうしたことから、橋を渡った新川橋西詰は、防災記念公園として整備され、
欄干形の道標も作られ、防災用具を入れた倉庫を用意されていた。
公園の一角に、「左つしま」と書かれた橋柱の道標があるが、
左側の川沿いの道は、県道59号線で、かっての津島上街道である。
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右側のまこと歯科を越えると、清須市になる前の新川町である。
その先の右側に、須佐之男社がある。
その先の須ケ口交差点を右折すると、名鉄須ケ口駅、左折すると甚目寺へ行ける。
このあたりは、戦災を免れたのか、古い家が残っている。
そこから少し先にある、小さな、いちりづか橋を渡ると、右側の少し奥に、 「みの路一里塚之址」の石柱があり、説明板が建っている。
説明板
「 ここは美濃路の三番目の一里塚で、かってはこの一里塚橋にまたがり、
両側に小塚があって、榎の老樹が茂っていた。 」
美濃路は名鉄津島線を越え、下外町交差点を渡り進むが、
この通りにも古い家が残っている。
右側の正覚寺は、桶狭間の合戦で織田信長に討たれた今川義元の首がさらされたところである。
その菩提を弔うため、塚を築いた今川塚がある。
また、寺の門前には、外町一里塚道標がある。
説明板
「 昭和二十年(1945)頃、一里塚があったところの用水の改修をしたおり、
川の中から自然石に彫られた道標が掘り出され、この場所に据え置かれた。 」
道標を見ると、「 北 みのかいとう 」 「南無阿弥陀仏」
「 是より 西つしまかい道 」 と、書かれている。
掘り出された場所が、さっき見た、みの路一里塚之址の石柱のところだったとしたら、
元の場所に置いてくれると、小生のように街道歩きをする人にとってはうれしいのだが・・・
左手に浄休寺があるが、そこを通り過ぎると、三叉路に突き当たる。
右側に三輪医院、正面は株式会社山市で、壁に「美濃路」の道標が吊り下げられていた。
美濃路はここでは左側に鍵形に曲がる。
左側にあるサークルKサンクス(現ファミリーマート)前で、県道127号線と合流する。
道幅が広くなり、車の行き来も激しくなった。
巡礼橋東交差点を越えた左側の酒屋など三軒は家として古そうに思えた。
先程のサークルKサンクスから先は、旧清州町である。
名鉄名古屋本線のガードをくぐると、三叉路があり、右折が県道、直進は狭い道で、
美濃路は狭い道に入る。
県道を進むと、右手に、清州山王宮、日吉神社がある。
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美濃路は狭い道に入り、県道と別れる。
船杁橋東バス停を過ぎると、左手に久證寺がある。
大きなタンクが見えてきたと思ったら、
清州鬼ころしの銘柄で売上を伸ばしている清州桜醸造があった。
長者橋東交叉点を横断すると、上りになり五条川のへりに出た。
その先の信号交叉点で、県道127号に合流し、五条川に架かる五条橋を渡る。
五条橋西交差点を直進すると、三叉路で、左側に清涼寺がある。
美濃路は、ここで右折するが、江戸時代にはこの前に札の辻があった、という。
「
当時の清涼寺付近は鉤型になっていて、曲がり角に高札が建ち、
津島への分岐を示す指差し道標もあったといわれるが、残っていなかった。
清須宿は、本陣が一軒、脇本陣が三軒、旅籠が二十軒程、宿内人口は二千五百人の規模だったようである。
慶長七年(1602)、美濃路の誕生したときには、清洲宿は、西市場の伝馬町辺りにあったが、
慶長十五年(1610)より行われた清洲越しで、町ごと名古屋城下に移転したことで荒廃。
元和二年(1616)に桑名町に復活したが、寛文八年(1668)に火災で焼失してしまったので、
神明町に設けられた。 」
ここを右折し、美濃路を歩くと、西市場清州街道が左右にある交叉点の手前右側に
キヨス林医院と書かれたレトロな建物があり、それに
隣接した日本家屋の前に、大きな門が建っている。
ここが神明町に移転した後の清洲宿の本陣跡である。
門の前には、明治十一年(1878)に、
明治天皇が訪れて小休されたことを記念した石碑が建っている。
「
清須宿本陣は、美濃路のなかでも最も豪壮な建物であったといわれるが、
明治末期の濃尾地震で崩壊、焼失した。
わずかに残ったのが、正面の正門で、それが縮小され復元されたのが現在の門である。
美濃路(県道127号)は交叉点を直進し、清州3丁目交差点を越えると、
JR東海道線のガードがある。
ガードに沿って右に進むと、清州公園と駐車場がある。
園内の一段高いところに、織田信長の銅像が建っている。
この銅像は26歳の永禄六年(1560)の時起きた桶狭間の戦いに出陣した姿を模した銅像で、
桶狭間の方向を見据えている。
(注)現在は、銅像の隣に、千姫像が移設されている(平成24年に移設とのこと)
五條川に架かる橋を渡ると天守閣がある。
現在の天守閣は、清州町の町制100周年記念事業として再建したもので、
正式には「ふれあい郷土館」である。 入場料 300円
史実に基づくものではないので、模擬天守である。
(ご参考) 清州城の歴史
「
室町時代の初め、尾張の守護職だった斯波義重は、
守護所の下津城(現稲沢市)の別邸として、清洲城を築き、織田敏定を守護代にした。
文明八年(1476)、下津城が戦乱で焼かれ、守護所は清州に移り、尾張の中心地になった。
戦国時代に入ると、守護代の織田氏が尾張国の実権を握り、上四郡を岩倉の織田氏、
下四郡を清州の織田氏が掌握した。
両織田氏は互いに争う中、弘治元年(1555)、那古野城主・織田信長が、
清州織田家の当主・信友を攻め滅ぼして、清州城に入り、尾張の拠点とした。
さらに、禄六年(1560)の桶狭間の戦いで、今川義元を破り、天下統一への足固めをした。
織田信長が小牧山城へ移転して後も、清州城主は、その後、織田信忠、織田信雄、豊臣秀次、福島正則と続き、江戸幕府が誕生しても、徳川家康の子・松平忠吉、徳川義直が城主になったが、慶長十五年(1610)の家康からの清州城廃城と名古屋城移転の命令により、城は壊され、
三年後に廃城になった。 」
三百円を支払って、城の中に入ったが、展示されているものは貧弱で、
小学生の見学ならよいが、歴史好き、城好きにはわざわざ入るほどの価値はない。
上から風景を見たいという人が入ればよい。
救いは、手入れされた日本庭園で、上から見た石庭はきれいだった。
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橋を渡り引き返し、左側に「清州古城址」の石柱が建っているので、入っていくと清州古城跡公園がある。
清州古城跡公園の土地は、慶長十五年(1610)の清洲廃城命令後、
尾張藩により清州城跡地として保存され、現在に続くものである。
「
慶長十五年(1610)の家康からの清州城廃城と名古屋城移転の命令により、清州城は壊され、
三年後に廃城になった。
六万人の住民が名古屋に移転し、清州の地は抜け空になった訳で、
当時の臼引歌は、そのありさまを
[ 思いがけない名古屋ができて、花の清州は野になろう 」
と歌われたが、まさにその通りで、旧市街地は、清州新田として開発され、
城の石や木材なども名古屋城に運ばれたので、荒れ果てたまま放置された。
尾張藩は、清州城天主台址二百三十三坪の土地だけを保存することにし、
天保四年(1832)、清州代官・朝田藤三郎は城址の周囲に石垣を設けた。
明治十九年には、東海道本線が敷地内に敷設されたが、
大正七年に清州町が周囲の土地(5634坪)を買収し、清州公園を設けた。 」
清州公園の境内には、弘化四〜五年頃建立の「右大臣織田信長公古城址」と
文久二年建立の「清州城址碑」のニ基の顕彰碑や信長を祀る小社がある。
そして、昭和十一年に造られた信長の銅像があるだけである。
(注)小生が訪れた時は信長像があったが、清州公園に移転しているか、確認していない。
清州城の探訪で時間をとったが、JRのガードまで戻り、美濃路(県道127号)を歩く。
JRのガードをくぐると、左折し、名二環の高架をくぐると、道の両脇には古い家が何軒か残っていた。
突き当たったところは、右手は県道190号線のある変則三差路だが、ここを左折する。
左角にお堂があったが、石碑を見る限り、御嶽教に関連するものだろう。
すぐに三叉路がある。
その先の三差路は左に行くと、JR清州駅であるが、
美濃路はそちらにいかず、右の狭い道を行く。
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左側に本成寺があり、右手に光遠寺がある。
「
少し行くと、清須市一場から稲沢市北市場町になる。
北市場村は、寛文八年(1668)の清洲宿の大火以前は清洲宿の一部であり、
青物市場があったところである。 」
更に行くと、右側に亀翁寺(きおうじ)があり、
寺前には「国宝虚空蔵菩薩」と書かれた石柱が建っている。
左側のお堂には、石仏が祀られており、その前には秋葉山常夜燈が建っていた。
「 この寺は、後小松天皇(1382〜1412)頃の創建で、 奈良仏師による女人の如くうつくしいといわれる、寄木造虚空蔵菩薩坐像は、 国の重要文化財に指定されている。 」
その先の右手には、かつて牛頭天王社と呼ばれ、須佐之男命を祀る立部神社がある。
秋には、こがし祭りが行われ、二台の山車が練るそうである。
小さな川を渡り、少し歩くと左側に、北市場美濃路公園があり、
「美濃路の由来」の案内板とトイレなどの休憩設備があった。
美濃路公園という名であるが、普通の公園であるが、
街道を歩く者にとっては良い施設である。
その先には、天明三年(1783)に設置された、清須代官所跡がある。
さらに北西に進むと、左手に六角堂で知られる長光寺の仁王門がある。
仁王門の前の左側に、「尾張六地蔵尊」の小さな石柱、
右手には、鉄柵で止められた道標があった。
「
道標は、美濃路と岐阜街道(御鮨街道)との分岐点である、
四ッ家追分にあったをここに移したもので、
「 左京都道 右ぎふ 」 と、彫られている。 」
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長光寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、尾張六地蔵の一番札所である。
「 長光寺は、平頼盛(平忠盛の五男、清盛の弟)の寄進で創建され、足利尊氏が祈願所とし、 織田、徳川の保護を受けた古刹である。 」
境内の地蔵堂は、室町時代の永正七年(1510)建立された六角円堂形で、
現在はこけら葺きから銅板葺きに変わっている。
堂の正面にかかろ大鰐口は永和二年(1376)の銘があるものである。
「 本尊の鉄造地蔵菩薩(国重要文化財)は、文暦二年(1235)の銘を持ち、尊氏は勝軍地蔵と崇め、 また、国家に変事があると全身に汗をかくというので、汗かき地蔵ともいわれる。 」
寺の奥にある臥松水は、織田信長のお気に入りの井戸だった、といわれている。
六角堂南にあるはずの豊臣秀吉正室ねねの義父である、
浅野長勝の屋敷跡を示す石碑は、確認できなかった。
このあたりは六角堂東町である。 寺の西側の道が鎌倉街道で、東側が美濃路である。
少し歩くと、左側に、「清酒京屋伊助総販売元」の看板を掲げた、
蓮子格子の中二階の建物があった。
民家の前に「町内安全」と書かれた常夜燈の奥に、小さな二つの祠が祀られていた。
そういえば、六角堂を過ぎたところにも、小さな二つの祠があった。
寿し処 いそべ の駐車場の先で、美濃路は県道136号に合流する。
県道を左折し、その先の三叉路で左折すると、右側の三叉路の角に道標の石碑が建っている。
説明板
「 これは、美濃路と岐阜街道との分岐点である四ッ家追分を示すものである。
下津・一宮・黒田を経て、岐阜へ向かう鎌倉街道。
後の岐阜街道と、稲葉・萩原・起を過ぎて、垂井へ向かう美濃街道との分岐点である。
ここには茶屋が数軒あり、うどんが名物であったという。 」
四ッ家追分で、岐阜街道(御鮨街道)と分かれた美濃路は、ここより西北方向へ進む。
今日はここまでである。
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旅をした日 平成20年(2008)11月11日