『 郡上街道を歩く 』


江戸時代、中山道加納宿(岐阜市)から北上し、郡上八幡、白鳥を経て、 白鳥から石徹白(いとしろ)の大師堂に至り、
越前大野に抜ける道が郡上街道である。 
石徹白は白山の麓に位置し、そこへ向かった郡上街道は白山信仰の道でもあった。 
越前街道と呼ばれることもある。 
国道156号線の旧道にあたり、長良川の谷沿いの道で、多くの峠を越える道である。




郡上八幡

郡上街道は、国道156号線の旧道にあたり、長良川の谷沿いの道で、多くの峠を越える道である。 
特に、美濃市から郡上八幡の間は、長良川は蛇行し、深い谷を刻みながら流れている。
郡上八幡の町は、室町時代後期の永禄二年(1559)に、遠藤盛数が八幡山に城を築づいたのが始まりである。 

「 遠藤盛数が築づいたのは砦といわれる程度の城だった。
その後、盛数の長男、慶隆が城主となったが、本能寺の変後、 羽柴秀吉と対立する織田信孝の傘下に属したため、追放された。 
天正十六年(1588)、稲葉貞通が城主となり、本格的な城造りを始めた。 
八幡山の麓に新たに壕を掘り、本丸に天守台を設け、塁を高くして、塀を巡らし、 武器庫と食糧庫を増築し、鍛冶屋洞に面して大きな井戸を掘り、二の丸を増築して居館とした。 
この時、現在見られる近世城郭としての郡上八幡城の基礎が築かれた。 
慶長六年(1600)、遠藤慶隆が徳川家康の傘下で、郡上八幡城を攻める。 
俗に、八幡城の合戦というもので、城はかなりの被害を受けた。 
関ヶ原の戦い後、郡上八幡初代藩主に任命された遠藤慶隆が再び、城主となり、 城下町の整備に力をいれて、神社の建立や寺院の開基につとめた。 
三代目の常友は、寛文七年(1667)、幕府の許可を得て、 総石垣で、三塀、二重櫓の松ノ丸と桜ノ丸等を築いて、城の大修築を行った。
この時の石垣工事は難航したようである。 
善政を布いた遠藤家だが、五代目の常春に跡目がなく、お家断絶となってしまった。 
そのあと井上氏、金森氏、青山氏といったふうに変遷し、明治時代を迎えている。 
郡上八幡城は、明治三年(1870) 廃城となり、石垣だけを残し、取り壊された。 」

司馬遼太郎は 「 街道をゆく 四 」 の 中で、

「 郡上八幡城というのは、戦国以来、城主の姓がいくつか変わっている。 
戦国期には遠藤氏と稲葉氏、江戸期には遠藤氏が復帰しており、 そのあと井上氏、金森氏、青山氏といったふうに変遷し、 その間、落城を一度経験し、江戸期には大規模な農民一揆を経験したから、 歴史に老い寂びた城といっていい、・・・ 」 と、書いている。

明治に城は壊され石垣だけが残っていたが、 昭和八年(1933)、郷土振興のため、 本丸に天守を作ろうということになったが、 資料がなかったため、 当時現存していた国宝大垣城の天守閣を模して造ることになった。 
水谷藤兵衛を大工棟梁として造られた天守は、 木造四階、入母屋造、板瓦葺の天守である。 
また、桜の丸に門と土塁と隅櫓、松の丸に隅櫓を新築した。 

郡上八幡城天守
     桜の丸      松の丸
郡上八幡城天守
桜の丸(門・隅櫓・およし堂)
松の丸(土塀・隅櫓)


麓の城山公園あたりは二の丸跡である。 
駐車場には山内一豊と妻千代の銅像がある。 
郡上市は、 「 土佐二十四万石の大名、山内一豊の妻千代は、初代八幡城主の盛数の娘であり、 慶隆の妹である。  」 としていて、銅像が建てられていた。

「 一豊の妻・千代(見性院)は、近江国の浅井氏家臣の若宮友興の子とする説が 有力であったが、 郡上市の慈恩寺が所蔵する遠藤氏の家系図に、 「東常縁の子孫である遠藤盛数の娘が山内一豊室である 」 との記載があったことから、最近は 遠藤盛数の子説が有力になってきたようである。 」

夏の風物詩になっている郡上踊りは、 初代藩主慶隆が各地で踊られていた盆おどりを城下で踊るようにを奨励したことが始まりと伝えられている。

「 郡上八幡は水路が縦横にはしる水の町として有名であるが、 これもまた、三代藩主の常友が寛文七年(1667)に、大火事で全滅した町を火災から守るため、 小駄良川の上流三キロから水を引き、四年がかりで完成させたものである。 」

郡上八幡に起きた一揆は郡上藩預かり天領まで広がり、最後は幕閣の疑獄事件に発展して行った。
白鳥の長滝白山神社には宝暦義民碑が建っている。

「  元禄十年(1697)、飛騨高山から出羽上山へ転封になっていた金森頼時が、 郡上藩に三万八千石の石高で、転封になった。 
しかし、二代目藩主の金森頼錦(頼時の孫)が幕府の奏者役に命ぜられたことから、 接待などのため多くの費用を必要とし、郡上藩の財政が急速に悪化していった。 
郡上藩は、その対策として、年貢の徴収方法を定免法から検見取りに改めたが、 それを不満とした百姓一揆が起きた。 
これは宝暦騒動と呼ばれる、宝暦四年(1754)から四年続いた一揆である。
郡上だけに留まらず、郡上藩預かり天領まで広がり、最後は幕閣の疑獄事件に発展して行った。
一揆の中心は郡上であったが、処刑者のリストを見ると、その他の地区も加担し、 東気良村(現郡上市明宝)の善右衛門と長助が駕籠訴を行った罪で死罪になっている。 
一揆側は江戸に出て、駕籠訴や箱訴などで訴え、宝暦八年十二月、評定所の裁決の結果、金森家は改易し、 お家断絶。 
更に、幕閣である老中本多正珍をはじめ、若年寄、勘定奉行、美濃郡代などが罷免された。 
宝暦九年(1759)、青山幸道が藩主として入城した後は七代にわたり当地を治め、 平穏なうちに明治維新を迎えている。 」 

山内一豊と妻千代の銅像
     水呑み場と郡上踊碑      宝暦義民碑
山内一豊と妻千代の銅像
水呑み場と郡上踊碑
宝暦義民碑





白鳥町

現在は郡上市の一部である白鳥町は白山信仰で栄えたところである。 

「 日本には、古代から山や川などの自然に神が宿るという信仰(自然神崇拝)があり、 白山も、農耕や漁業の神として、美濃、越中、加賀の住民に崇拝されてきた。 
養老元年(717)、泰澄大師が白山の登頂を果たした(開山)後、修験道のメッカとなり、 山頂へ登拝する道(禅定道)は整備され、 起点となる登山口の三ヶ所(越前、加賀と美濃)には馬場が設けられた。 
美濃馬場は美濃禅定道の登り口の白鳥に置かれたので、そこには長滝白山神社が設けられた。
なお、禅定とは白山山頂のことをいい、神や仏のすむ世界を意味するようで、 美濃禅定道は長滝白山神社から桧峠、白山中居神社を経て今清水神社、 銚子ケ峰から別山、室堂、御前峰への山岳道である。 」

長滝白山神社を訪れた。
そこにある石灯籠は鎌倉時代文永八年(1271)の火災後、長滝寺の再建に際し奉納されたもので、 正安四年(1302)に伝燈大師により建てられたと銘記され、国の重要文化財に指定されているものである。

「 白山信仰は、その後、白山の主峰を伊弉冉(いざなみ)神、かつ、白山妙理大菩薩とする、 山岳宗教と仏教を一体とする神仏習合の考えを取り入れた宗教(白山三所権現信仰)に発展していく。 
平安中期以降、美濃馬場は長滝寺(ちょうりゅうじ)に実権が移っていき、 平安末期には白山中宮長滝寺という名で、天台宗延暦寺の末寺となった。 
長滝寺は三馬場の中で一番早く延暦寺の末寺となったこともあり、寺領も拡大し、 平安時代の最盛期には六谷、六院、三百六十坊を数える程繁栄した。 
当時の山内は本院谷、中院谷など六つのブロック(坊中)に分けられ、その中に多くの坊があったが、 戦国時代に入ると、寺領も減り、浄土真宗の興隆により、勢力が衰え、多くの坊中が退転していった。 
江戸時代の収入は檀那による布施で、その際に御師により配られたのが白山御札(牛王札)と白山薬草だった 。
しかし、白山護符を巡る公事(訴)で敗訴し、財政的に大きな打撃を受け、 江戸初期に三十坊あったのが、幕末には十一坊に減った。 
更に、明治政府の神仏分離令により、寺や仏像は廃棄され、長滝白山神社となった。 」

長滝白山神社
     国の重要文化財石灯籠      牛王札
長滝白山神社
石灯籠
牛王札


明治三十二年(1899)の火災で、堂舎のほとんどを焼失したものの、 その後、ほぼ同じ配置で境内は再建されて、 参道の正面には、長滝白山神社の拝殿と本殿があり、左側には長滝寺が建てられた。 
  今回訪れてみると、長滝寺の建物の周囲に、土台になる石が埋め込まれているが、  「 これ等が焼失前の建物の基礎である。 」 との説明があったので、 以前の建物は一回り大きかったということになる。

境内には護摩壇跡や霊水や坊中跡など華やかな時代を偲ばせるものがあったが、 深閑とした境内に小生一人のみとあって、なにか哀れみを感じた。

前述の郡上一揆は、郡上だけに留まらず、郡上藩預かり天領にも広がり、この地も例外ではなかった。
郡上の宝暦一揆と同時期に、郡上藩を大きく揺るがすことになった、 俗に石徹白(いとしろ)騒動といわれる事件である。 

「  石徹白は長滝白山神社から北に十キロ程上ったところにあり、江戸期まですべての住民が神社に仕え、 無税、帯刀御免などの特権を与えられたという特異な地区である。 
住民は御師(おし)として全国を回って、白山信仰を広める重要な役割を果たしてきたが、 そこにある白山中居神社の社領地をめぐって、神主派と神頭職派の争いが起きた。 
神頭職の杉本左近が社領を受け持っていたが、神主の上村豊前がその支配権をとりあげようと企て、 郡上藩の役人をだきこみ、藩主の金森家を通じて、自分に従わない村人たちを極寒の冬に追放し、 五十四人の村民を餓死させたという事件である。 」

白山神社から白鳥町内に戻る途中の前谷白山神社には、 処刑者の一人、定次郎の顕彰碑がある。

「  前谷村の総百姓の若手指導者の定次郎は、この事件で、宝暦一揆の人達と駕籠訴を行った五人の一人だが、 三十一歳の若さで、江戸で打ち首となり、翌年正月に、この場所(八幡穀見野)で曝し首になった。 」

大量の人々を餓死させたことに若い彼が集落を代表して、命をかけて抗議をしたのだが、 今日の日本社会で自分や家族を犠牲にして、部落の弾圧や権利の確保のために抗議した人物はいるのだろうか、と少し寂しい気持になった。 

近くにある阿弥陀滝は日本の滝百選に選ばれているので、ぜひ見たいと思い、駐車場に車を置いて、 歩いて滝に向った。 
紅葉は終わりかけていたが、阿弥陀滝は落差六十メートルの滝で、かなり大きく感じた。

「  阿弥陀滝は天文年間(1532-55)に、白山中宮長滝寺の僧・道雅法師が、滝の下の洞窟で、 護摩をたいて修行したところ、阿弥陀如来の姿が浮かび上がったことから、その名が付いたといわれる。  」

一時間ほどのんびりと滝を眺めて、写真も撮った後、古今伝授の里とPRしている大和町へ向かった。 

白山神社の拝殿と本殿      護摩壇跡      定次郎の顕彰碑      阿弥陀滝
白山神社の拝殿と本殿
護摩壇跡
定次郎の顕彰碑
阿弥陀滝





大和町

大和町は、市町村合併時に郡上市になったが、白鳥町と郡上八幡の中間にある集落である。 

旧大和町が建てた説明板
「 郡上の地を最初に治めたのは、 下総の国(現在の千葉県と茨城県)の名門の千葉氏の一族である東胤行である。
承久の乱(1221)の戦功で、郡上郡山田庄を加増されて、十二代三百二十年の長い間、この地を治めた。 
初代胤行は鎌倉幕府の御家人で、藤原定家の子・為家から歌道を学ぶとともに、その娘を妻とし、 中央歌壇にその名が知られていた。 
東氏の子孫は代々歌道に優れていたが、中でも九代目の常縁(つねより)は高名な歌人であると同時に、 古今集研究の第一人者であった。 
彼は連歌師、宗祇にその奥義を伝授したことで知られ、古今伝授の祖といわれる。 」 

東氏の館跡に旧大和町が造ったのが東氏記念館である。 
そこには東氏の末裔から寄贈を受けた古文書類や東氏館跡から出土した物を展示されている。 

司馬遼太郎は 「 街道をゆく 四 室町武士のこと 」 という章で、東常縁について書いている。 

「 郡上八幡城というのは、戦国以来、城主の姓がいくつか変わっている。 
戦国期には遠藤氏と稲葉氏、江戸期には遠藤氏が復帰しており、 そのあと井上氏、金森氏、青山氏といったふうに変遷し、その間、落城を一度経験し、 江戸期には大規模な農民一揆を経験したから、歴史に老い寂びた城といっていい。 
ただ歴代の城主をながめても、べつだんすぐれた人物というのは居そうにない。 
ただし、それより以前の室町期の領主としては歌人東常縁がこの世に知られている。 
常縁以前の東氏の城は今の位置になく、篠脇というところのあったらしい。 
常縁がはじめてこの山に移り、室町風の山城をつくった。 
東氏 四代氏村から十一代常慶までの八代二百数十年の間、 東氏の居城になったのは栗巣川をはさんで明建神社の対岸にあった篠崎城である。 」 とある。

司馬遼太郎は、東氏の出目と、、常縁についてのエピソードを紹介している。 

「 東氏は下総の豪族千葉氏の出で、下総に東庄という荘園があり、 千葉氏の一族がここの荘官になったときにその姓を名乗った。 
東氏の血統には坂東武者にしてはめずらしく、文学的才能が流れていて、承久の乱の武功で、 その一族の一派が美濃国郡上郡をもらった。  その後、室町末期まで、十一代三百四十年にわたって、東氏が郡上の領主であり続けた。 
歌人東常縁は、この山里の領主の家系の末期ちかくに位置している。 
美濃の山里にいる常縁にも応仁の乱の余波が打寄せる。 
関東の千葉氏の争乱をしずめるために郡上の兵をひきいて、下総に応援に出かけている間に、 郡上の城も領地も美濃国武将斎藤妙椿に奪われてしまう。 
東常縁は、領地を留守中に城も領地も奪われてしまったことを知り、  「 無念と言うもおろかなり 」 と、述懐した。 
亡父の追善供養の最中であったので、僧たちがいたく同情したが、常縁は、そのまま法要を続けさせた。 
斎藤妙椿はこのなげきを人伝てに聞き、 「 常縁はもとより和歌の友人なり。  今関東に居住して、本領かくなりゆく事、いかにいかに本意なき事に思ひ給ふらむ 」 
さらに、 「 我も久しく此の道の数寄なれば、いかで情無き振舞をなさんや 」 と続け、  「 常縁どのが歌を詠んで送ってくださるならば、所領をもとのようにお返ししよう。 」  と仲介者にいった。  常縁はその言葉を関東できき、さっそく十首の歌を詠んで送った。 
斎藤妙椿はこの歌を受け取って、さっそく返歌を詠んで送り、返歌とともに城も領地も返した。 」

遼太郎は 上記のエピソードを紹介して、室町期は武家社会に文化が浸透し、 自分の行動の規範を利害より文化意識で決しようという例があらわれたと書いている。 
また、古今伝授についても触れ、連歌師の宗祇に六年かけて奥義を伝授したが、  「 秘密といってもたかが知れた口伝で、六年もかかるものではないが、 郡上の山城に六年もかかって通ったというところに、 古今伝授を受けることの重々しさがあるとされていたのであろう。 」  とも書いている。 

小生には古今伝授は難しそうで、興味は感じられない。 
その代わり、手前の道の駅の日帰り温泉・大和温泉はうれしい。 
早速、入湯料を支払い、温泉にゆったりつかり、今日の疲れをとったのである (下写真)

大和温泉


旅をした日     平成18年(2006)12月


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かうんたぁ。