伊勢名古屋道あるいは善光寺道とも呼ばれた下街道は、
名古屋宿の追分から内津峠を越え、池田宿、高山宿、釜戸宿を経て、
中山道の大井宿の槙ヶ根追分で、中山道に合流していた。
この間は六十キロ余りの距離で、合流地点には、明治八年に建てられた
「 左、伊勢名古屋道、右、西京大阪道 」 と刻まれた大きな道標が建っていた。
中切道標まで戻り、下街道を進むと中切集落に入ると、古そうな家があった。
四百メートル程歩くと、左側に中切八幡神社の参道があり、
入っていくと 「村社八幡神社」の標柱と鳥居、秋葉大権現の常夜燈が建っていた。
鳥居は、享保十二年(1727)に領主の旗本、馬場尚繁が寄進したもので、泉州の石工山内与一郎の作である。
社殿は中切公民館の敷地の奥の石段の上にあった。
手前の右側に 「奉納庚申尊天」 の幟が沢山立っていて、
その前に庚申碑と三猿が祀られていた。
更に右に行くと、山麓に かまどのレプリカがあり、
その前に「史蹟釜戸地名発祥地」碑が建っていた。
説明板
「 平安時代1200年頃)この洞の巨岩が、
御飯を焚く竃(かまど)に似ていることから、
誰云うとなくかまどと呼ばれるようになった。
当時、詠まれた歌に、かまどの名がうたわれている。
「 天地の 声のどけきは かまど山 草木とともに 春は来にけり 西行法師 」
「 春は花 秋は柴たく かまど山 霧もかすみも 煙なるらん 源三位頼政 」
江戸時代前、創立不詳なれど、ここに阿弥陀堂が建立され、善光寺参りの第四十一番の札所であった。 」
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街道に戻ると、土岐川が右側から迫ってきた。
中央線が開通した明治三十五年当時は、すぐ前の土岐川の右岸を走っていたが、
昭和四十二年に川の南側に線路の付け替えが行われ、
現在は川から離れたところに線路がある。
少し行くと、道の左側に黒塀に囲まれた屋敷があり、
正面に「明治天皇釜戸行在所」の石碑が建っていた。
少し歩くと交叉点があり、このあたりは町屋集落。
交叉点では正面の狭い道を歩く。
「龍吟」という銘柄の小川酒造の屋敷内に、
明治天皇の昼食に使った御膳水の井戸が残っているというので、
気をつけながら歩いたが、通りすぎてしまった。
左側に天猷寺(てんにゅうじ)の石門が建っていた。
「 天猷寺は、臨済宗妙心寺派に属する寺である。
元和二年(1616)、旗本馬場氏初代の半左衛門昌次が、
父宮内少輔昌祐の菩提寺として、知行地の釡戸に建立したものである。
馬場半左衛門昌次は慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後、旗本となり、
土岐・恵那・可児郡内に二千石を知行し、
釜戸町屋に陣屋をおいた置いた木曽衆の一家である。
その後、延宝八年(1680)に、三代目の馬場利尚が現在地に寺を移した。 」
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石門を入って行くと国道19号に出る。
天猷寺は国道19号を越え、石段を上ったところにあるのだが、
国道には信号も横断歩道橋もない。
車の通りが激しいが、間を見て横断したが、勇気がいった。
石段を上った先の山門はハナの木山門と呼ばれ、
全てハナノキから出来ているのは大変珍しいという。
「 天保六年(1835)、土地の大工成橋財助が、釜戸町神徳のハナノキ自生地の大木を もって建てたもので、間口は四メートル半、 垂木の形成期は鎌倉矩とよばれる扇形である。 」
本堂は享保十九年(1734)の再建である。
その時、本堂の柱五十数本を一本の大ケヤキからとったことから、
一木寺とも呼ばれたと伝えられる。
「 この寺は馬場氏の菩提寺となっていて、
初代昌次と十代克昌、十一代昌之の墓は江戸にあるが、
二代利重から九代昌平の八代にわたる当主とその一族の墓がここにある。
いづれも江戸時代の旗本の格式を現代に偲ばせる格式のあるもので、
笠塔婆二基以外は剣碑で実に大きな墓石である。 」
寺を出ると「竜吟の滝」の標識があったが、滝には寄らず、沢を下ると、
不動橋があり、街道に出た。
「 不動橋は竜吟の滝から流れてくる不動澤に架かる橋である。
橋の袂に「←竜吟の滝500m」の標識がある。 」
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橋の先の左に入る三叉路の角に「←竜吟の滝 瑞浪市自然ふれあい館」の 大きな看板の下の先に、大きな龍のオブジェがあった。
地域コミニテイバスの竜吟の滝のバス停がある。
左側の樹木の中に大きな常夜燈と赤い鳥居、小さな祠などがあった。
右側の草むらに、「岩村道」の道標が建っていた。
石碑には 「是 右岩村みち」 と刻まれているが、真ん中に折れた跡があるので、後で繋いだのだろう。
右に僅かに道のようなものがあるが、
江戸時代には大給松平家が藩主だった岩村藩へ通じる道だった。
(ご参考) 岩村藩
「 岩村藩の初代城主は、慶長六年(1601)に、
上野那波藩から二万石で入った松平家乗である。
子の乗寿が継いだが、乗寿は遠州浜松藩へ移封され、
代わりに三河伊保藩より丹羽氏信が入藩した。
元禄十五年(1702) 丹羽氏五代目氏之の時、越後保方藩へ転封となり、
代わりに松平乗寿の孫・松平乗紀が入った。
享保二十年(1735)に松平乗賢が老中に命ぜられ、
一万石の加増があって三万石となり、その後幕末まで、
大給松平家が藩主を続けた。
藩の領地は恵那郡と土岐郡だが、
後の加増により駿河国内に一部などの飛び地があった。 」
岩村藩の参勤交代時には、この道は使わず、柿野村三国山麓で三河に入り、
挙母から岡崎出て、東海道を行くルートだった。
岩村藩が旗本馬場氏所領の釜戸までの道を整備したのは、
藩の治安維持の他に下街道の経済的な価値が高いと判断していた証拠だろう。
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二百メートル歩くと、丸中商店のところで、県道65号が合流してきて、道は広くなった。
この道を少し歩くと左側に 「愛宕山大権現」 と書かれた常夜燈が建っていた。
この街道は秋葉山常夜燈が多いが、愛宕山常夜燈は珍しい。
その先のJRのガードをくぐると、三叉路で、右折する広い道は県道65号線で、現在の岩村街道である。
左側の手前は細い道で、これは県道421号である。
細い道が下街道で、道幅は当時のままのようにも思えた。
「
下街道は奈良時代の東山道、鎌倉時代の鎌倉街道がその前身である。
江戸幕府が中山道を開設した際、道中奉行の大久保長安が、
東山道の恵那から鵜沼までの道を山稜の上を通るルートに変更した。
しかし、これまでの土岐川沿いの道が便利だったため、
商人や庶民が歩く街道として残ったのである。 」
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その先には釜戸温泉前のバス停があり、水月館があった。
「 江戸時代には下街道の町屋宿として、旅籠や茶屋が並んでいたようであるが、 狭いままなので発展性もなかったせいか、商店街のようなものはなかった。 」
その先の小栗農機具店を左折すると、JR釜戸駅があった。
駅の看板に 「 おいでや 中山道の大湫宿 」 の看板があったが、
駅の北側にある国道19号の中大島交叉点から、
釜戸小学校の脇を上っていくと、中山道の大湫宿がある。
中山道を歩いた時、大井宿から御嵩宿の間の細久手宿の旅館に泊まればよかったが、大湫宿はこの駅から三キロ程の距離だから、
たいしたことないだろうと上っていったが、
かなり急な坂で難儀したことを思いだした。 」
駅を過ぎると右から土岐川が接近してくる。
釜戸コミュニティセンターバス停を過ぎると、中央本線の踏切に出た。
この間、五百メートルくらいだった。
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踏切を越えると、左側の石段の上に津島神社がる。
その先右側には懐かしい赤い郵便ポストがあった。
土岐川に接近すると、「荒磯大明神」の石祠があった。
小さな橋を渡り、五百メートル行くと右側に下荻之島公民館のバス停がある。
その先の奥まったところに公民館があったが、
その近くの道脇に常夜燈が建っていた。
そこから二百メートル程行くと、道は左に曲がり、五十メートル先で、
左に曲がるが、その左側には出雲大社釜戸教会がある。
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このあたりから坂道は急になるが、道が左にカーブすると、
国道19号と中央自動車道は左から接近してくる。
国道から出ていた枝道があるが、この道から下街道を右に入ろうとすると、
ハンドルが切り切れないで、何度か切り返していた。
ここには笹ヶ平のバス停があり、その先には集落があった。
左側には二体の石仏が祀られていたが、泥地蔵と馬頭観音だろうか?
「泥地蔵」
「 ここから南側、彼方の低い山に美しい娘が住んでいたが、火傷で亡くなった。
娘の供養のため、焼け跡に祀られていたが、旅人に事故が多かったので、
占いにより現在地に移った。
火傷部分に泥を塗って治療祈願した、と伝えられるものである。 」
そこから三百メートル程歩くと、左手に宝珠寺があった。
手前右側の高台は荻之島分校(復礼館)の跡である。
少し歩くと、道は切り通しになっているが、下街道は左側の細い急な坂道である 。
県道がつくられたとき、この坂が急なので、
右側の斜面を削って道にしてしまったので、
小生は気がつかず、通り過ぎてから引き返し、坂道を上っていった。
上り切ったところは、直線でニ、三百メートルくらいか?
手前には二、三軒の家しか見えないが、奥にも数軒あるようである。
しかし、そこを過ぎると空き地になっていた。
「
下街道の時代には桜の木立場があったところで
、茶屋だけでなく馬の水呑み場もあったとされるが、
それらを示す表示や説明はなかった。 」
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その先、峠と思われるところには金毘羅宮常夜燈が建っていた。
また、傍らには馬頭観音と地蔵尊が祀られていた。 (左中写真)
緋桜の歌碑は、昭和六年に建立されたもので、
上段の桜の模様の中には、
蓮信法師の 「 散るたびに もえこがれても 惜しけきは かまど山なる 緋桜の花 」
下段の枠の中には、宝珠寺・天猷寺の朴雲和尚の 「 いにしえの 花かぐわしき緋桜も 今はむなしく 名のみ残れる 」
の歌が刻まれているというが、風化により読み取ることは難しかった。
上切公民館の両側には民家が立ち並んでいて、 その中にはゴマの実をとるため、枝を干している家もあった。
道なりに七百メートル進むと、左側の鳥居の奥に常夜燈があり、 その隣に小さな石仏があった。
「 石仏は馬頭観音で、摩耗してよく見えないが、
「 左ハ竹折 右ハ釜戸 」 と刻まれているようで、
道標を兼ねたものである。
また、左の側面には「観音講中」と書かれている。 」
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県道421号は右に曲り、境橋を渡る。
、
ここが瑞浪市と恵那市の境界である。
橋を渡ると恵那市武並町竹折に変わった。
竹折の地名は、 「 日本武尊が東征の帰途、この辺りで竹を折って杖にしたことからといい、 西行法師もこの地で竹を折って杖にした。 」 と伝えられることに由来する。
橋を渡ると、道はやや左に曲がるが、左側に観音講中が建てた石像がある。
年号は摩耗してよく読めない。
少し行くと左側に大きな松と白壁の塀の大きな屋敷があり、
手前に「伊藤敏博画伯」碑があった。
ここはいとう鶴酒造で、奥には大きな煙突も見える。
「 慶長五年(1600)、関ヶ原合戦で敗れた成瀬新左衛門が、 この地で隠遁生活をはじめたことに始まるという家柄で、 酒造りは文政六年(1823)初代伊藤源兵衛が始めたという歴史のある酒造所である。 」
店の看板もなく、事務所にも人気がないので、廃業したのだろうか?
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その先右側の民家の間に、庚申塔と馬頭観音と思える石仏群があった。
その先の右側は田畑が広がるが、
道脇の田に大きな秋葉大権現常夜燈が建っていた。
このあたりは大きな民家が多いが、
二百五十メートル歩くとJRの線路脇で道は右折して、ガードをくぐる。
更に百メートル歩くと小川を渡る。
川を渡ると、道は左にカーブするが、道なりに宮の前集落を進む。
右側の宮の前集会所を過ぎると、国道418号と交わる交叉点に出た。
国道の右手に洞橋があるのが見えた。
下街道はここで左折して国道418号に入り、JRのガードをくぐる。
国道は大きく左にカーブしていくが、
下街道は正面に見える森の手前を右に入っていく道である。
この先にあるのは国重要文化財に指定される武並神社である。
周囲には鎌倉杉が植えられている。
「
武並神社の祭神は大己貴命、少彦名命である。
神社旧記によると、「 創建は定かでないが、延喜式の古社であり、
承久弐年(1220)守護・新田四郎左衞門が鎌倉から杉苗を持ち帰り、
社の東西北に植えた(鎌倉杉という)
その後、歳月が流れ、社殿が荒廃。 永禄七年(1564)、
現在の様式社殿が造営された。
寛永十二年(1672)庄屋井口伊兵衛の尽力により、修復され現在に至っている。 」
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武並神社の鳥居には享保元年と刻まれていた。
常夜燈には修復された寛永十二年の年号が刻まれたものもある。
参道を上ると大きな岩があり、その先に寛永十二年(1672)建立の社殿が建っている。
「 本殿は桧皮葺、入母屋造で、国重要文化財である。
拝殿は伊勢神宮の二十年毎の社殿建替えの古材を使用して建てられたものである。
武並神社の近くには上野バス停があるが、
バス停の根元にある丸い石に
「左 なごや 右 ふじ(武並町藤のこと?)」と刻まれていた。
細い道入ると上り道になったが、両脇の民家は古い形式の家が多かった。
右側の武並郵便局を過ぎると、
左側に「瑞現寺」と「銀松山」の二本の門柱が建っている。
その奥に石仏群が見えた。
瑞現寺の参道を上っていくと、瑞現寺山門があった。
これは織田信秀の居城、名古屋末森城の楼門を移築したものである。
「 瑞現寺は、嘉吉二年(1442)に開創されたが、
その後、荒廃する。
明暦二年(1656)青山玄秀大和尚が竹折村の庵を瑞現寺として再建したが、
明治九年(1876)の火災で全焼。
その後、百年を経て、現在の伽藍に復した。 」
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街道に戻って進むと、三叉路で、直進するとJR武並駅があるが、
県道は右折してJRのガードをくぐる。
左に空き地があるが、その先の三叉路を左折して進む。
川を渡ると上り坂になる。
このあたりは中切集落で、
江戸時代には旅籠や茶屋があったところである。
右側の高台の家の庭に大神宮常夜燈がある。
その先右に入る三叉路を上ると、左側に竹折れの庚申堂がある。
お堂の中には、猿田彦尊組中安全の板と青面金剛像が祀られていた。
「
境内には多くの石仏が並んで祀られ、
その他、小さな石祠がいくつかあったので、
街道にあったこれらのものをここに集めたのだろうと思った。 」
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この先の家が途絶えるところの左側の杉木立の中に竹折の石幢(いしとう)があり、寛文十一年(1671)の年号が刻まれていた。
「 石幢とは六角または八角の幢身の各面に仏像や梵字を刻んだものでであ。 」
川を渡ると道は左へ右にカーブし、四百メートル歩くと新田集落に入る。
この集落も三百メートル程で終わるが、中心には美濃バス停があり、
左側に「正一位秋葉神社」の標柱と常夜燈があり、秋葉神社の祠があった。
猫が写真の邪魔をしたが、どかないのでそのまま撮った。
その先で右に入る三叉路がある。
右折して進む右側の美濃新田集会所の前に、秋葉三尺坊常夜燈があった。
なお、この道は殿様街道と呼ばれる道で、岩村に通じている。
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道の反対には福寿寺の弘法堂が建っていた。
街道に戻ると、道は左にカーブ、その先で、第一下街道踏切を渡る。
「県道421号岐阜」「武並土岐 多治見線」「岐阜県 恵那市武並町竹折」の
道路標識の先に、左に道はカーブし、上っていく。
左側に遠山家があり、 「明治天皇竹折御小休所碑」が建っていた。
下街道の旅を続けてきたが、いよいよゴールが近づいた。
坂道を二百五十メートル上ると、県道421号は国道19号に合流した。
下街道は国道を渡るが信号がないので、
上下からの車が途絶えて瞬間に向う側に渡る。
さらに、中央高速道路の地下道をくぐる (左中写真)
出たところの三叉路の左側を上ると荒神神社があるが、時間がないので寄らない。
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右側の舗装された急坂を上っていくと、 「← 国道19号400m 中仙道600m → 」 とある道標が立っている三叉路に出た。
道標に指示通りにここで右折すると、道は狭くなったが、 舗装は続き、 「← 国道19号500m 中仙道500m → 」 の道標を過ぎると、 右手には畑地が広がっていて、農業をやっている人の倉庫があり、車でこれるのはここまでである。
左に 「← 国道19号800m 中山道200m →」 の道標がある。
その先は両側がクマザサに覆われた山道だが、
冬なのでそれほど圧迫感はなかった。
この道を二百メート程上っていくと、竹薮の道で、階段が続いていた。
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突然広場のようなところにでると、ここが下街道のゴールである「槇ヶ根追分」 で、ここで中山道と合流した。
時計を見ると、十六時半である。
ここには 下街道の道標と下街道の説明板が立っていた。
説明板「下街道」
「 中仙道を上街道といい、ここで分かれて下る道を下街道と呼んだ。
下街道は竹折、釜戸から高山(現土岐市)、池田(現多治見市)を経て、
名古屋へ行く道である。
この道は途中に内津峠の山道があるが、土岐川沿いの平坦地を進み、
付近には人家も多い。
そのうえ、名古屋までの距離は上街道より4里半(約18km)近かった。
そのため、下街道は一般旅行者に加え商人や伊勢神宮参拝者も多く、
大変にぎわった。
しかし、幕府は、中仙道の宿場保護のため、下街道の商人荷の通行を禁止し、
尾張藩も厳しく取り締まったが、徹底することができず、
幾度も訴訟裁定を繰り返した。 」
広場には伊勢神宮遙拝所、茶屋跡、井戸や台所跡、 いくつかの説明板がある。
「 江戸時代には、伊勢参りなどの旅人の往来が多く、
ここ槇ヶ根立場は旅人の休憩所として賑わいをみせたところで、
江戸後期には茶屋が九軒ほどあったといわれる。
伊勢神宮遥拝所は、伊勢神宮にお参りにいけない人がここで
参拝できるよう設けられたもの。
明治に入り、中央線が開通したことにより、中山道と下街道を歩く人が減り、
いつしか廃れていき、今は茶屋跡と古井戸、墓地を残すのみである。 」
三年前に中山道を歩き、 ここを通過した際の記憶がここに戻ってくると鮮明に戻ってきたが、 その時もそうだったが、今日も人影がなかった。
それはそうだろう。 二月の平日の十六時過ぎにここを歩く人がいるのはおかしいだろう。
以上で、下街道の六十数キロの旅は終わった。
「
竹藪の中には商人や中馬達や善光寺、御嶽、伊勢詣りの人々で賑わった街道の歴史が埋もれているように思えた。
下街道にはこれまで訪れた多くの街道の中で一番といえる程、
馬頭観音が多かった。
坂が急だったこともあろうが、この道は貨物の道と言ってもいいほど、
物の流通が頻繁だったことが要因のように思えた。 」
そんな感慨にふけっていると、周りが薄暗くなったので、
慌ててJR武並駅へ行った。
しかし、列車は出たばかりだったので、無人駅で四十分待ち、
その後、車を置いた瑞浪駅まで乗り、そこからマイカーで自宅に帰った。
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旅をした日 平成23年(2011)2月23日