『  下街道を歩く  F 瑞浪駅〜武並〜釜戸橋  』


伊勢名古屋道あるいは善光寺道とも呼ばれた下街道は、 名古屋宿の追分から内津峠を越え、池田宿、高山宿、釜戸宿を経て、 中山道の大井宿の槙ヶ根追分で、中山道に合流していた。 
この間は六十キロ余りの距離で、合流地点には、明治八年に建てられた 「 左、伊勢名古屋道、右、西京大阪道 」 と刻まれた大きな道標が建っていた。 




瑞浪駅から美濃氏古城・鶴ヶ城跡

平成二十三年(2011)二月二十三日、 今日は瑞浪駅からゴールの槇ヶ根追分まで歩く予定である。 

前回終わった「岩谷不動尊」の標柱のある交叉点に戻り、右側の細い道に入った。
ここからは水の木集落だが、この狭い道に車が入ってきて、 その先で右折して県道に入っていったが、朝の通勤で急ぐ車なのだろう。 

道の左側に用水が流れて、用水と民家の間には秋葉神社常夜燈が建っていた。
道なり進むと右下にファミリーマートがあり、県道の先にはサークルKが見えた。 
コンビニが二軒もあるのは駅が近いので、利用者が多いからだろう。  なお、この先はコンビニはない。 

この道は県道に下りていくこともできるのだが、 山に沿って狭い道は続いていたので、そのまま歩く。
左側の石垣の上に常夜燈があり、「耳の木神社」と書かれた幟がはためいていた。
参道を登った社殿は小さな祠だったが、 地元の人々の手で比較的最近に再建された神社らしい。 

岩谷不動尊の標柱
x 秋葉神社常夜燈 x 耳の木神社
岩谷不動尊の標柱
秋葉神社常夜燈
耳の木神社


少し先の左側に御嶽神社の鳥居があったが、 参道は草に覆われていて進むことはできなかった。 
その先の松坂西交叉点で県道に合流したが、その角に小さな祠が祀られていた。

 

下街道は、次の松坂町交叉点で、県道と別れて左斜めの道に入っていく。 
少し先で、右手の一日市場交叉点からくる道と合流するが、 その先の右側に「村社八幡神社」 の標柱と鳥居があり、 左側には 「土岐氏一日市場旧蹟」 の標柱があった。

鳥居をくぐって境内に入ると、左側に社殿があり、 「美濃源氏之発祥地 土岐氏一日市場館跡」 の大きな石碑が建っていた。

土岐氏顕彰会による説明板「美濃源氏発祥地」
  「 美濃源氏とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて美濃各地に住んだ土岐一族・家臣の総称である。 
源頼朝に仕え、美濃国守護になった土岐光衡(ときみつひら)は、 この地(神戸城・国府城・神箆城などと称した)にあって勢力を伸ばし、 子孫は鎌倉幕府とともに栄えた。 
鎌倉幕府の滅亡、建武中興以降、足利尊氏の興隆に併せて美濃国守護に任じられた土岐頼貞(よりさだ)は光衡の曽孫である。 
頼貞は後に高田(土岐市久尻)に移るまでこの地に居住し、 室町時代十一代にわたり美濃国守護として権勢を誇った土岐氏の中興の祖である。 」 

その奥には、 「明知光秀公ゆかりの地 土岐源氏ここに発祥す 」 の石柱があり、平成十八年に造られた明知光秀の胸像と「明智光秀ゆかりの地」碑が が建っていた。

「明智光秀ゆかりの地」碑
「 ここは、美濃源氏の土岐氏の発祥の地で、 草創期の土岐国房、光信、光衡が平時に住んだ一日市場館があった跡である。 
土岐光衡が、源頼朝から美濃守護に任じられると、 ここ一日市場は、美濃国の国府となった。 
南北朝時代には、土岐頼貞が足利尊氏の信頼を得て、美濃守護に任じられたが、 晩年に頼遠に守護職を譲り、暦応二年(1339)になくなった。 
その後、土岐守護家は本拠を美濃中部の川手城へ移して、一日市場館は廃された。」

その脇の 「明知光秀公でんしょう」の石碑
「 清和天皇に発した美濃源氏は、 一日市場館に土岐頼貞を初代守護として発祥した。 
頼貞の九男・頼基の子・頼重が明智氏初代となった。 
八代頼尚の子頼典が文亀二年に、土岐信友の高屋館に故あって居住、 其の孫として生まれたのが光秀で、 一日市場館屋形の井戸水で湯浴み、ニ歳にして明智城代光安に引き取られたと伝承されている。(以下略) 」  

小さな祠 x 八幡神社の標柱と鳥居 x 美濃源氏之発祥地碑 x 明知光秀胸像
小さな祠
八幡神社の標柱と鳥居
美濃源氏之発祥地碑
明知光秀胸像


一日市場交叉点を南東に向かい、瑞浪消防署前交叉点を直進すると、 瑞浪大橋がある。
瑞浪大橋を渡って百メートルほど進み、 左側にある日比野治療院の角を左折すると、 二十基ほどの五輪塔と宝篋印塔が並んでいる。 
ここは彼の菩提寺だった光善寺の跡地で、 道路の西側に並ぶ石塔の手前から四つ目の宝篋印塔が土岐頼貞の墓といわれる。 

八幡神社まで戻り、旅を再開する。 
二百五十メートル歩くと、左側によい枝ぶりの松がある家があったが、白漆喰の立派な屋敷である。 

「 一日市場は、 江戸時代には神箆村(こうのむら)の枝郷の一つで、 下街道の休泊所として街村を形成していたところである。 」

この建物はその時代を感じさせるような景色であった。
そこから少し先の右側に「秋葉山権現」と書かれた常夜燈があった。

瑞浪大橋
x 白漆喰の屋敷 x 秋葉山常夜燈
瑞浪大橋
白漆喰の屋敷
秋葉山常夜燈


左側には若宮神社への参道が続いていた。 
更に百五十メートル行くと、右に入る道があり、 何気なく覗くと古そうな家が見えたので、 中に入っていくと、「明治天皇土岐御小休所」の石碑が建っていた。

道はその先で左折して、先程の道に合流する。
そこには一日市場バス停があった。 
この先にも集落毎にバス停はあるが、 時刻表を見ると一日に数本しか走っていない市が運営しているバスである。 

その先で小さな川を渡ると上り坂になった。
一日市場バス停から二百五十メートル歩いたと思えるところで、 上り坂は終わったが、右側に小さな祠があった。

道は左にカーブすると、右手に展望が開けてきた。 
下は開墾始めた田畑が広がり、その先には土岐川が流れている。 
国道には車が走っているのが見え、正面には明智の山が連なっていた。 
道は右にカーブし、小さな橋を渡ると、左から山が接近してきて、山麓には高速道路の擁壁が見えた。 
右側には家が続いているので、道は左右に圧迫されている感じである。 

大西バス停を過ぎると左側に清水区民会館があり、 正面の森に鳥居が見えた。
近づいて行くと手前の山麓にお堂があり、その先に鳥居があった。
お堂は清水弘法堂で、鳥居は八幡神社の鳥居である。 
お堂の前には、馬頭観音像がずらりと並んでいたが、 お堂の脇には三十三観音が祀られていた。 

「 今回の東濃の旅で感じたのは、 弘法大師を祀る祠と神社が多いことである。
この地方の人々の信仰心が篤いということはもちろんだが、 土地が貧しく気象風土が厳しかったという影響が大きかっただろうと思った。 」

明治天皇御小休所碑
x 小さな祠 x 山麓にお堂
明治天皇御小休所碑
小さな祠
清水弘法堂


その先に 「村社八幡神社」 の標柱があり、鳥居をくぐって、 参道のかなり厳しい石段を上っていく。
高速道路をガードでくぐると更に上りになり、 高速道路を走る車は下になった。 
八幡神社はそうした高台にあった。

「 八幡神社は旧神箆村枝郷清水の鎮守社である。 
社殿はまわりの樹木に覆われているので、すこしじめっとしている。
見晴らしもよくなかったので、少しいただけで下りてしまった。 」

五百メートルくらい歩くと、豆沢バス停のところに出た。
右側に県道312号が平行に見えたので、かなり下ったのだろう。

少し離れている桜観音堂に立ち寄ることにした。 
その先の三叉路を右に進み、県道352号と土岐川を越えると、 国道19号の桜堂北交叉点がある。
その先の県道412号の交叉点を横断し、坂道を上って行くと集落がある。
更に上ると右側に桜堂公民館がある。
三叉路からここまでは七、八百メートル程の距離である。 
公民館の前に 「双生竹」 「大池跡」 の石柱が建っていた。
道の右側は以前は大きな池だったのだろうと思った。 

道の左側に 「史蹟桜堂薬師」 の石柱があり、 威厳のある仁王門が建っていた。

説明板
「 仁王門は阿形、吽形の金剛力士像を安置する入母屋造り、 単層八脚門である。 建立の時期は定かでないが、 十六世紀末〜十七世紀初の特徴である簡素でかつ雄大な紋である。  寛文五年(1665)の絵図により、単層八脚門、切妻造り、檜皮葺 或いは柿葺だったことが分かった。  現在の門は入母屋造り、本瓦葺になっているが、 これは棟札などから寛延三年(1750)の大修復の際に改造されたことが分かった。 」 

八幡神社
x 桜堂公民館 x 桜堂薬師
八幡神社
桜堂公民館
桜堂薬師仁王門


祀られている仁王像の像高は、阿形が二.八九メートル、 吽形は二.九三メートルである。

説明板
「 造立されたのは室町後期(十六世紀前半)だが、 元禄十年(1697)に尾張熱田の仏師箕輪幸慶に改造、彩色されていた。 
平成十九年の大改修の際、門の屋根は全面本瓦に、 また、仁王像も室町時代後期の造立当時の姿に戻し、 彩色は赤っぽい古色仕上げにした。 」 

説明板の前には、 「善光寺街道」 の道標、南無阿弥陀仏碑を始め、 五体の石仏碑などがあった。 
門をくぐると左側は池で、亀池弁財天が祀られていた。 

弁財天の脇を進むと、小道にでた。 
前は池なので右にでて、車道を進むと池の脇には、 「美濃瑞浪三十三霊場」の幟があり、陶製の常夜燈が建っていた。 

正面に出ると、陶製の常夜燈の先に、双体の仁王の顔面の陶製像が祀られて、その奥にお堂が見えた。

説明板
「 桜堂薬師(瑞桜山法明寺)は、比叡山の慈覚大師円仁の直弟子、 三諦上人により、嵯峨天皇の勅願寺として弘仁三年(812)に開山した。 
比叡山、高野山より数年前に開かれ、 これらと並んで日本三山の一つと称せられ、坊数は二十四、 現在薬師南方にある峰々の谷々には、それらの坊が建ち並んでいた。 
天台系だったため、信長の命を受けた兼山城主森長可によって、 元亀二年(1571)十月、焼き打ちにあい焼失した。 
江戸時代に入り、寛文七年(1667)、住職が実相院賢秀の時、 岩村藩主・丹羽式部少輔氏澄により再建された。 」  

そうした歴史をもつお堂にのぼると、「瑠璃殿」と書かれていたが、 その前で拝んだ。
寺にある諸仏は主に天正年間のものだが、本尊の聖観音菩薩や日光、月光菩薩像は平安時代の作、十六善神は鎌倉時代作である。 
 

仁王像
x お堂が見えた x 瑠璃殿
仁王像
お堂が見えた
瑠璃殿


お堂の中を一周すると絵馬に交じって、お面があった。

説明板「岐阜県重要文化財 桜堂薬師舞楽面」
「 舞楽面は奈良時代中国の唐から伝来した舞楽に使う面のことで、 舞楽の動作に合うように造られている。 
我が国で最も盛大に行われたのは平安時代で、 春日神社、厳島神社、法隆寺などに残っている。 
当薬師の舞楽面のうち、羅陸王、納曽利の二面は顎が動くように造られており、 抜頭を加えて三面が残っていることで、岐阜県として大変珍しいものである。 
この三面の舞楽面は元亀二年(1571)十月の兵火からまねがれた桜堂薬師の歴史を立証するものである。 」 

展示されていたものは実物の二倍の大きさで、陶製だった。 
階段を下りて外に出ると、賢秀師の供養塔があった。

説明板「賢秀師の供養塔」
「 桜堂薬師は元亀二年(1571)の信長による焼失後、 修復するものもなく荒廃を極めていた。 
天台の僧永秀阿闍利が信濃から京に上がる途中、 この寺に立ち寄り村の長老より荒廃の有様を聞き、哀惜に耐えられず、 この寺の再建を決意したが、 病を患い余命が少ないことを悟った永秀は比叡山より弟子の賢秀を呼び、 再建の願望を伝え亡くなった。 
当時の岩村城主丹羽式部少輔氏澄の協力を得て、 寛文四年にご開帳が行われまでになり、岩村城主より宝物の寄進、 門前市をなすといわれるまでになり、寛文七年には見事復興再建された。 
そうした賢秀師の遺徳を偲び、この供養塔が建てられたのである。 」 

御堂の裏には柵に囲った中に石塔群がある。 
これは最盛期に三十六坊とも二十四坊とも伝えられた坊跡に散らばった 五輪塔や苔むした宝笈塔を拾い集めたものである。 
右手は小高くなっているので上って行くと児童館になっているが、 その隣に桜宮神社があった。
なお、供養塔から桜宮神社に上がっていく途中に願い事が叶うといういぼ岩があった。 

桜堂薬師舞楽面
x 賢秀師の供養塔 x 桜宮神社
桜堂薬師舞楽面
賢秀師の供養塔
桜宮神社


最後に桜宮神社にお参りして、先程の三叉路まで戻り、再び、 下街道の旅を再開した。
三叉路から少し行くと道は右にカーブし、小さな橋を渡ると上り坂になり、 木の暮バス停の先の民家にはしだれ桜が植えられていた。 

  このあたりの民家の軒下にはこの時期になっても、注連飾りがそのまま飾られていた。
この地方も伊勢地方と同じように年末まで飾る習慣があるのだろうか? 
それに加え、信光禅寺の御札が必ず貼られていた。 

バス停から二百メートル行くと、 左角に中京学院大学瑞浪キャンバス入口の看板が建っていた。
この角を入り、中央高速道のガードをくぐると、 正面に大学のキャンバスが見えた。
三叉路を右折して側道を歩き、二百五十メートル程行くと、 左側に城の石垣を想像する塀があり、信光禅寺の楼門があった。
小高い場所にあるので、楼門からの眺めはなかなかのもので、 門の脇には馬頭観音をはじめとした石仏が数体祀られていた。 

三叉路
x 瑞浪キャンバス入口 x 信光禅寺の楼門
三叉路
瑞浪キャンバス入口
信光禅寺楼門


信光禅寺の正式名称は瑞巌山信光寺で、臨済宗妙心寺派に属し、 御本尊は十一面観世音菩薩である。 
本堂の前にある石幢は市の指定文化財である。
庭の砂には箒目が入れられていて、清々しかった。 
双体道祖神もあったが、寺院を整備したときに加えられたもののように思えたが、間違いだろうか? 

街道に戻り、少し行くと県道352号に合流した。 
三百メート歩くと県道の左側は切通しになっている。
左側に上っていく細い脇道があるので、そこに入るとすぐに頂上になった。
下っていくと、県道と合流するところの木の祠には馬頭観音が祀られていた。

一旦県道に出ると、正面に喫茶店があり、左に入って行く細い道があるので、 その道を進むと三叉路に突き当たる。
三叉路を左折して高速道路のガードの手前を右折すると、 左側に瑞浪鶴城郵便局がある。
その先右側には蔵のある家や白漆喰の虫籠窓の家があった。

本堂の前の石幢
x 馬頭観音 x 虫籠窓の家
本堂の前の石幢
馬頭観音
虫籠窓の家


左側の民家前にあった常夜燈には 「 神箆村 願主・・ 」 とある。

ここは旧神箆村本郷鶴城で、中世の東山道の時代に、 土岐郡駅家はここにあったと思われる。 
江戸時代の下街道では、上町、中町、下町があり、 旅籠や茶屋、木綿屋などが軒を並べていたという。 

左側に入っていくと、秋葉組集会所がある。
道を隔てて、お堂が建っていたが、 お堂の前には 「 鎮守財徳大黒天由来・・・ 」 と書かれた石碑がある。
お堂の中を覗くと大きな大黒天像が祀られていた。
大黒天像は安政年間に東濃池田に住む名匠により刻まれたもので、 安政五年に当所に安置されたものである。 

郵便局から四百メートル程続いていた道はその先で突き当たる。 
そこには元文五年(1740)の銘がある常夜燈があったが、笠の一部が欠けていた。

ここを右折して二十メートル程へいくと、 左側に民家のような鶴城公民館がある。
下街道はその先の県道に出る道だが、鶴ヶ城城址に寄り道をするため、 公民館の先で左折する。

中央高速のガードをくぐり、左折して高速道沿いに進むと、 右側の山の麓に石段があり、 その上に 「美濃源氏土岐氏古城 鶴ヶ城跡」 の石碑があった。
大手門跡といわれるところのようである。

大黒天像
x 常夜燈 x 鶴ヶ城跡碑
大黒天像
常夜燈
鶴ヶ城跡碑


道は上に続いていたので、登っていくとところどころに樹木が倒れ、 枝が落ちて、行く手をふさいていたが、これは雪の重みによるものだろう。 
今年は例年に比べ、雪が多く、また、大雪だった影響があるのだろう。 

歩いて行くと、「二の木戸跡」、「西出丸野」の標示板があった。 「葵井戸」の標示板を過ぎると、「東出丸跡」の標示があった。
更に上ると平たいところに出たが、ここには「本丸跡」の標示と 「史蹟 鶴ヶ城跡」の説明板が立っていた。 

「 鎌倉時代美濃国守護になった土岐光衛は、土岐邑の一日市場に居館を設け、 神箆のこの地に城を築いて、鶴ヶ城と称し、四周を整えて、 美濃国統治の本拠とした。 
その曽孫で、室町時代初期の守護に任じられ、 土岐氏の繁栄のもとを築いた頼貞もこれに倣いここに美濃府城の地とした。 
このほかに、本城は頼貞の第十子で、 正中の変に殉じた土岐頼兼の城としても有名であり、 以降関ヶ原合戦まで神箆城、土岐城ともよばれ、戦史にその名を載せており、 天正十年(1582)二月の織田対武田合戦時には信長、信忠父子も本城に入城し、 ここから武田氏攻略の軍を発進させている。 」 

土岐氏は、平時は一日市場にある館に住み、非常時にはこの山城に籠り、 身の安泰を守るべく、この城を築いたのだが、 鶴が翼を広げたような形をしていたので、鶴ヶ城と呼ばれたのだろう。 
しかし、中央高速道の工事の際に、両翼の先端部分の曲輪が削り取られてしまった。 

ここは鶴ヶ城の本丸跡で、「本丸」の標示板の右側には赤い鳥居と小祠があった。

正中の変に殉じた土岐頼兼についてふれると、
「 南北朝時代、土岐頼貞は足利尊氏の信任を受け、美濃守護職になり、 その家督をその子の頼遠に渡した。 頼遠は岐阜市の長森城に移り、城郭としての整備をし、その後、 土岐氏代々の城になった。 
頼貞の十男の頼兼は、兄が長森城に移った後に、 この鶴ヶ城の主になったといわれる。 
正中元年(1324)に起きた正中の変で、頼兼は後醍醐天皇の挙兵の誘いにのり、 一族の多治見国長、船木頼春、深沢定氏、尾里国定、萩原国実、猿子国行、 市原国宗らを率いて京に上った。 
しかし、事前にことが漏れて、探題兵の急襲をうけ、日野卿らは捕えられ、 上京した土岐一族は討たれてこの企ては失敗に終った。 
自刃した頼兼の首級は、三条河原に晒されていたが、 家臣の根竹十郎が奪って逃れ帰り、 自分の家がある根竹部落が見える高台に頼兼の首を葬り、 自仭した。 」 と伝えられている。

山を下りて、高速道路のガードまで戻り、 側道に沿っていくと、反対側に行くと左側に諏訪神社があった。

鶴ヶ城本丸跡
x 赤い鳥居と小祠 x 諏訪神社
鶴ヶ城本丸跡
赤い鳥居と小祠
諏訪神社





鶴ヶ城跡から釜戸橋

道を引き返し、ガードをくぐって先程の三叉路まで戻り、下街道の旅を再開。 
鶴城バス停がある県道352号を横切り、瑞浪バイパスの下をくぐり、 東に向かって進むと、土岐川の河岸に突き当たるので、 左折して川に沿って北上を続ける。 

その先に下沢バス停があったが、三叉路から一キロ位の距離だっただろうか?
バス停から四百メートル先のJR中央本線のガードをくぐり、 二百メートル行くと、右側に名滝橋がある。

下街道はこの三叉路を右折し、土岐川に架かる名滝橋を渡っっていくのだが、 昼飯を買ってくるのを忘れたというか、途中に店があるだろうと、 買わないできたので、左折して屏風山PAに向かった。 
国道を横断して。高速道路のガードをくぐり、 右折して高速道路の側道を上っていくと、三叉路の奥に屏風山PAがあった。 <br> いろいろな店があることを期待していったが、 ミニストップとはなまるうどんと吉野家だけだった。
はなまるでうどん定食を食べて引き返したが、国道に和食処あたかもあったので、ここでもよかったかなと思った。 

名滝橋に戻り、土岐川を渡ると、突き当たりの三叉路で県道421号線に再会した。 ここで寄り道。 
右折して、中央本線のガードをくぐると左側の高台に弘法堂があった。
お堂の前には 「夜念仏 供養塔」 と書かれた石仏が祀られていた。 

名滝橋
x 屏風山PA x 弘法堂
名滝橋
屏風山PA
弘法堂


三叉路まで戻り、直進すると名滝橋バス停のところに名滝公民館があるが、 ここは名滝集落である。 
右にわずかにカーブするところから上り坂になるが、左側には秋葉山常夜燈が建っていた。

数百メートル先で右に大きくカーブすると、 その先左側石垣の上の畑の先に青銅色の社殿が見えた。
右側の坂を上り、境内に入ると舞台のような建物があり、 その奥に拝殿と青銅の屋根の本殿があった。 

その先で、道は右に大きくカーブするが、 このあたりが、旧神箆村と釜戸村との境だったようである。 
左側には土岐川が流れ、右側は樹木が茂り、湿気が多い感じがした。 

そのまま通り過ぎようとすると、右側の薮の中の小高いところに大石があり、その上に大きな石碑が建っているのが見えた。
枯れ草をかき分けて、そこまで登って行く。

碑の裏側には 「万治元甲子四月日」 と摩耗した文字がなんとか読めた。 
正面の碑面は、 「 いざさらば 雪見にころぶ ところまで 」  という芭蕉の句が刻まれていたが、こちらははっきり読めた。 
この句は、貞享四年に松尾芭蕉が名古屋に訪れたときに詠んだものだが、 句碑を建立したのは村の有志で、碑文は花月坊の書による。 

その奥の山肌に六十六部日本廻国碑が建っているはずなので、 奥を見ると杉の幹に隠れるようにした石碑があった。
そこに行くには藪こぎをしなければならないので、確認することはあきらめた。 

武田建具店の右側に白い鳥居があり、その奥の石に津島神社の神札が祀られていた。

秋葉山常夜燈 x 青銅色の本殿 x 芭蕉句碑 x 白い鳥居
秋葉山常夜燈
青銅色の本殿
芭蕉句碑
白い鳥居


このあたりから下り坂になった。 

道は左に、そして、右に大きくカーブして下ると、 白狐温泉バス停の左側には新白狐温泉があった。
なお、バス停にある白狐温泉は、左手にある白狐橋を渡った向こう側である。 

下街道はここからしばらくは田畑に囲まれた直線の道を進むと、 公文垣内集落に入った。 
白狐温泉バス停から七百五十メートル先には中切集落に入る釜戸橋があるが、 その手前左側の果樹が植えられている奥には 稲里天神と書かれた石碑が祀られていた。

釜戸橋を渡ると、その先の交叉点の左側のガードレールの中に、 大小二基の道標が建っていた。 

「 これは中切辻道標と呼ばれるの道標である。
  左側の 「左伊勢道」 と書かれた道標は寛政十年(1798)戊の建立で、 右側の 「右 中街道 中仙道 御嶽之道」 と書かれた道標は、 明治十五年六月に建てられたものである。 」

交叉点を直進するのが下街道であるが、この交叉点を左折して進み、 その先で左折して進むと左側に竹薮があり、 その前に「馬場(陣屋跡)」の説明板がある。
ここは江戸時代の馬場氏陣屋跡である。

説明板
「 天正十年(1582)本能寺で織田信長が討たれるとたちまち世は乱れ始めました。 
兼山の城主、森長可は急いで東濃各氏を攻め、自分の支配下に納めると、 ここに陣屋を置きました。 
彼は関ヶ原の戦いで手柄をたて、釜戸などの領地をもらいました。 
旗本馬場氏もここに陣屋を置きました。 」 

新白狐温泉 x 稲里天神碑 x 大小二基の道標 x </p>
<p class=">
新白狐温泉
稲里天神碑
大小二基の道標

馬場氏陣屋跡



旅をした日 平成23年(2011)2月23日


下街道(善光寺道)目次                         続 き (釜戸橋〜槙ヶ根追分)



かうんたぁ。