下街道は、中山道の大井宿と名古屋宿を結んだ脇往還である。
この道は伊勢名古屋道とも善光寺道とも呼ばれたが、尾張藩が参勤交代時に使った上街道に対して、
下街道と呼ばれた。
下街道は明治天皇高山御小休所碑を過ぎると、県道69号の高山交叉点に出る。
交叉点を右折して、県道を進むと、左側に土岐郵便局があり、
その先右側の高山バス停の先に右に入る三叉路がある。
下街道は、県道と別れて、右の細い道に入っていくと、 その先の石の柵で囲まれた中に、「明治天皇観陶聖蹟碑」があった。
「 明治天皇は高山で陶器作りをご覧になったということだろう。
隣には、秋葉山を祀った祠が乗った常夜燈と「秋葉神社」と書かれた石碑が建っていた。 」
ここは南宮神社の境内である。
その右手には、南宮神社の鳥居、常夜燈、狛犬、そして、社殿が建っていた。
「 南宮神社の創建は万治二年二月で、 西濃にある南宮大社から勧請された神社である。 祭神は冶金の神である金山彦命である。 」
境内の小さな小屋に一つだけ形が変わった石造物があった。
「 石造の吽形の狛犬は中国宋代のもので、全国でも珍しいものである。 」 と説明があった。
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左側の小道を上っていくと、右側に池があり、左にはお地蔵様が鎮座していたが、坂道を上っていくと、道は雪で隠れていた。
その先の右側には赤い鳥居が繋がり、古城山稲荷の御堂があった。
その先の左側の山肌に無数の石仏が祀られ、
穴に埋まるようにお堂が建っていた。
これは、「穴弘法」と呼ばれる古城山穴弘法大師堂である。
「 三河の僧侶が大正末期に開いたと伝えられるもので、
山肌に掘られた数十個の穴に八十八体の大師像が祀られている。
比較的柔らかい岩肌なのだろうが、それを鑿いて、
そこに赤いよだれかけをした仏像が祀られている。
左から順に御参りして廻ったが、数が多いので、けっこう時間がかかった。
右側に地元の方が詰めている建物があったが、平日なので誰もいなかった。 」
その奥には高山城址への上り口があり、杖が用意されていたので、
上っていった。
雪でぬかるんでいたが、杖のお陰で転ばないで、「史蹟高山城祉」
の石碑のところまで登ることができた。
「三の丸跡」とあるところに土岐市教育委員会による「城郭の歴史」という説明板があった。
「
高山城は土岐川の氾濫原を見下ろす標高183mの細い丘陵地に立地しています。
麓からの比高差はおよそ57mで、
通称サバといわれる砂岩層の断崖状に築かれています。
現在は水道貯水池が築かれており、当時の構造を知ることはできませんが、
三つの曲輪によって構成されていたといわれ、
北端や南端に曲輪の名残を留めています。
高山城の築城については諸説があり判然としませんが、
高山伊賀守光俊、平井宮内小輔光行らが城主であったと伝えられています。
天正2年(1574)光行の子・平井頼母光村が城主の時、
甲斐の武田勝頼の東美濃攻めによって攻略され、
その後、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの際に、
東軍妻木勢によって攻められ落城したと云われています。 」
現在、城跡の小高い部分に水道貯水池が築かれているが、
丘陵先端部に三つの曲輪が設けられた城だったようである。
土塁などの遺構は残っていなかった。
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この高台から下を見ると、
土岐市内が土岐川を挟んで南北に分断されている様子がはっきりわかった。
しばらく下界を眺めて後、南宮神社の脇まで戻った。
時計を見ると、明治天皇観陶聖蹟碑に着いた時から五十分が経過していた。
県道の手前にある細い道に入るのが下街道である。
右側にある水野勉瓦店の先の交叉点を右折し、次の三叉路で左折して進むと、
バローの裏側にでた。
バローの先の交叉点を直進すると、道は左にカーブするが、道なりに進み、
次の交叉点を直進すると、冷鶴山永松寺に出た。
ここまで来ると行き過ぎなので、交叉点まで引き返し、北側の県道69号線に出た。
県道の対面には、狭い道が続いているので、交叉点を横切って、 この道に入った。
この道を少し歩くと土岐川に突き当たるので、
右折して左に川を見ながら進むと、左手に三共橋があった。
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三共橋を横目で見ながら、車道を横断し、川沿いの道を歩き続けると、 道は右にカーブして、県道に合流する。
県道の名前が421号の戻っていたが、県道を歩き、肥田橋を渡る。
しばらく間は県道を歩き、左側のパチンコ夢屋まで来ると、
正面に下肥田消防会館がある。
下街道はこの三叉路で県道と別れて、左の狭い道に入っていく。
この道はミニストップの駐車場脇を過ぎると、下り坂になり、
曲がりながら千二百メートル位続いていた。
左側に大東亜窯業の工場と事務所があった。
そこを過ぎると、道は大きく右にカーブし、その先から上りになり、
右側の山麓の雪の中に馬頭観音どうか確認できなかったが石碑があった。
右にカーブすると民家が復活したが、この先が土岐市と瑞浪市の境である。
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右側の小高い山(丘?)に登っていくと、小さな祠が祀られていたが、
古くから祀られていたものだろう。
ここは瑞浪市肥田町。
「 瑞浪市は、昭和二十九年に土岐郡の瑞浪土岐町、稲津村、
釜戸村、大湫村、日吉村と明世村の一部、そして、恵那郡の陶町が合併してできた市である。
瑞浪の地名は、瑞浪土岐町の前身である瑞浪村ができるとき、
土岐川の南という意味と瑞穂の浪打つ町という意味から、
瑞浪という名がつくられたというが、なかなか良い名前である。 」
その先の和合町交叉点で左折して、 百メートル程歩くと和合橋に出る。
「
和合橋が本格橋として架けられたのは明治三年のことである。
土岐川の右側は川幅が広いが、橋の左側の山のあたりは極端に狭くなっている。
和合橋が架けられる以前は、岩盤が両岸を狭めている場所に割木橋を架けていたというから、なるほどなあと思った。 」
橋の向こうには、国道19号とJR中央本線、そして、
山の上を中央高速道路が通っているのが見える。
和合橋を渡ると、右側の道路脇に宝暦年間(1751〜1763)の銘がある二つの石の祠に挟まれて、
天明五年(1785)の銘がある役行者の石像が祀られていた。
「 役行者(えんのぎょうじゃ)は通称で、役小角(えんのおづぬ)というのが正式名で、は、 飛鳥から鎌倉時代に実在した人物で、修験道の祖と言われている。 」
その右側にある小さな祠は津島神社だろう。
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JRの線路の上を越えていくと、国道19号の交叉点に出る。
左側に陸橋と地下道がある。
地下道の手前には、大正十三年に建てられた「山野内追分」道標があった。
これには、 「左高山へ凡一里 多治見へ凡三里 名古屋へ凡十里 」、
「右 定林寺ヲ経テ御嶽へ凡四里岐阜へ凡十三里 」 と刻まれている。
陸橋で国道を越えて山側に出る。
ここは山野内交叉点で、直進し山に向かって上っていくと、
日吉町の平岩辻で中山道に出られるが、下街道は右折して、国道19号を進む。
道は下り坂になり、明世温泉口バス停を過ぎると、
左側の民家に入るところに道標が建っていた。
片面に 「江戸屋 伊東」 もう一面に 「 左土岐・名古屋方面 右恵那・長野方面 道 」 とあるもので、内容からして比較的新しいものだろう。
陸橋があるところから、国道は右にカーブして分かれていく。
「 国道17号は、瑞浪バイパスという名称で南東に向かい、
瑞浪市の南部をくるーっと迂回するルートをとっている。
直進する県道352号はバイパスが開通する前の国道19号で、
地元の人は今でも利用するので、通行量は多かった。 」
県道352号を歩いて行くと、左にカーブするところに、
「奉祝皇孫殿下御誕生」の石柵があり、
石段の上に「郷社吉備神社」の標柱と鳥居が見えた。
ここは神社の入口で、吉備神社は百メートル程上ったところにある。
参道を数十メートル歩くと、小高い山があり、麓に二の鳥居と常夜燈がある。
大きい鳥居の奥には御大典記念碑に並んで、庚申塔が祀られていた。
急勾配の石段を上ると吉備神社の社殿があったが、
神社の由来を記すものはなかった。
吉備神社といえば、岡山の吉備神社や吉備彦神社が浮かぶが、
平安時代の土岐氏と関連があるのだろうか?
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吉備神社の鳥居 |
県道に戻り、少し行くと、左に入る小道のところに蔦で覆われた常夜燈が建っていた。
この道は短くすぐに県道に出た。
明白寺前バス停の近くの右に入る道に入り、JRのガードをくぐると、
右側に「田中泥薬師」の幟が立っていた。
右側にあるのは四反田公園で、
山野内第二公民館の隣に高さ三メートルの小さなお堂が建っている。
説明板「田中薬師如来由来」
「 今から四百年前、戦国時代の末期、甲斐の武将武田信玄が、
信奉する天台宗教により、村民は薬師如来を信仰するようになった。
ところが、武田信玄の勢力を駆逐するため、
織田信長の命を受けた美濃兼山城主・森長可が東濃各地に兵を進め、
神社、仏閣の焼き払いを命じた。
村民たちはお薬師を難から守ろうと土中に穴を掘り隠しておき、
世の平和を見定め、田中の里にお祭りすると、
薬師さまの安泰を喜び、それ以来、村人たちは香華を供え、
病のあるところに泥をつけてお祈りをするようになった。
」
お堂の中には、「田中泥薬師」と呼ばれる薬師如来が祀られていたが、
泥で覆われて、姿はすっかり見えなくなっていた。
お堂の脇の燈籠には「寛延三年(1750)」の年号が刻まれているが、
薬師像はそれより古いようである。
「 病の箇所に泥を塗ると治るという信仰が起こり、
平成二十年十月までの四百年間、泥が付いたまま祀られてきた。
この習慣は今日まで絶えることなく続いている。
医学が発達しない江戸時代には、美濃の寒村で病を得たら、
神仏にたよるしかすべはなかったのだろう。 」
街道に戻ると、県道の左側の「佛日山明白寺」の標柱があるところで、
左に入っていくと三叉路があり、その角に庚申塔が祀られていた。
直進するのは明白寺への細い参道である。
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参道を五百メートル程歩くと明白寺だが、 そこまではけっこう険しい坂道だった。
「 明白寺は、室町後期に虎渓山の修行僧が創建した明白庵が前身。
その庵は戦国時代末期の永禄年間に、織田軍との戦いで武田氏によって、
焼失してしまう。
江戸時代延宝三年(1675)に、江州正宗寺の住職、梅嶺の法弟、雲峰元沖によって、黄檗宗明白寺として開山されたのが現在の寺で、
瑞浪市内唯一の黄檗宗の寺院である。 」
本堂は天明五年(1785)の建立だが、 黄檗宗の建築様式を残している建物といわれる。
本堂の前に、燈籠の下半分だけの台があり、「享保八年(1723) 癸卯霜月吉月 泉州石工半兵衛喜附」の刻があるのは、生飯台(さばだい)で、 食事に際し、最上位者から飯を分けてこの台にのせるもので、 生飯とは、鬼界の衆生に施すめしのことをいう。
本堂の右側に「閑唱真順阿闍利寄進」、 万治三年(1660)建立の延命地蔵尊が祀られていた。
境内にある五輪塔は、高さが百三十七センチの花崗岩で、 造られたもので、明白庵が創立された際に建立されたものとされる。
庚申塔のところまで戻り、三叉路に残る細い道を歩いていくと、 左側の民家の一角に小さな石祠が二基祀られていた。
少し歩くと、また県道に合流したが、 左側にはミュージアム中山道があった。
「 ミュージアム中山道は私設美術館で、 美濃地方に古くから伝承された地歌舞伎や江戸歌舞伎、上方歌舞伎の資料、 中国の古陶磁・陶磁器(漢〜明時代)、絵画(主に室町、桃山、 江戸時代から近代にいたる日本画)、刀剣、甲冑など武具が収蔵、展示している。 (200円、月休) 」
ミュージアム中山道手前の県道の左側に馬頭観音像と小祠が祀られていた。
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ミュージアム中山道を過ぎると、自動車道が県道の上を横切っていく。
そこを過ぎると瑞浪IC口交叉点で、左折すると車道は左にカーブするが、
その手前の右手に小高いところがあり、説明板のようなものが見える。
これは戸狩荒神塚古墳である。
「 戸狩荒神塚古墳は直径六十メートル、高さ八メートルの円墳で、中期の竪穴式と推定される。
このあたりは露出した凝灰岩を利用した横穴式古墳が多数ある。 」
瑞浪IC入口交叉点に戻り、
県道352号線を歩くと三百メートル程で戸狩交叉点がある。
ICの出入口があることもあろうが、県道の通行量は多い。
戸狩交叉点から先は道の左側に家が立ち並んでいるが、右側は少し下がっていて、JRの線路が続いていたが、家はまばらだった。
戸狩バス停を過ぎて、数百メートルいくと、
道の左側に庚申塔と地蔵尊が祀られている祠があった。
時計を見ると、十六時を過ぎていた。
小学校帰りの学童が三人口喧嘩をしながら、帰宅する姿をみかけた。
五百メートル程歩くと、左に入る狭い道があったので、
百メートル程上ると左側に「中野楚渓先生頌徳碑」があった。
「 中野楚渓は古美術研究家で作庭なども行っていたようで、 京都美術大観の編者を務めている。 」
中に入ると右側は民家のような建物、左側には石仏群が祀られていた。
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その奥にあるのが、戸狩薬師が祀られている東仙寺である。
規模的にはお寺というより、庵といった方がよい感じである。
県道に戻り、少し先の酒屋の前に薬師前のバス停があったので、 「 バス停にある薬師とはあの上の小さな寺ですか? 」 と聞くと、 「 ああそうだよ!! 寺にはみえないだろう。 」 といわれた。
「 この後、訪れた寺もそうだが、
春日井市を過ぎたあたりから墓地を持たない寺院が多い。
これらの地区は、一昔前は土葬で集落毎にあるいは個人の敷地に埋めていたようである。 」
バス停から二百メートル先の左側に「一乗院」の標柱が建っていたが、 一乗院はこちら側にはなく、中央高速道を越えた向う側にあるようなので、 そのまま通過する。
左側に入る道があり、「村社白山神社」の標柱、その奥に鳥居が見えた。
白山神社には寄らず直進すると、
左に入る道の角に「岩屋不動」の標柱と津島神社の小祠が並んで建っていた。
その右側には塚ノ越地蔵堂が祀られていた。
この道に入ると左側に「岩屋不動尊」の大きな標柱がある。
中央高速道路の下をくぐると、その先は行き止まりになるが、
左に上っていく道があったので、
上っていくと中央高速道路より高いところに出た。
急な山道だったが、車が通れる道に出ると左右に石仏群が祀られていた。
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「美濃瑞浪三十三番霊場第二十六番札所」の標柱がある。
石段を上ると民家のような「巌谷山清来寺」があり、
入っていくと犬に吠えられた。
その声が合図だったように女性が出てきたが、
小生が霊場巡りの人と勘違いしたので、引っ込んだ。
先程の明白寺ではセンサーにより、鐘がなって人が出てきたので、
これらのちいさな寺は、
三十三番霊場の奉納金で生活をしているのかもしれないと思った。
「清来寺の由来」
「 観応二年(1351)の記録が残る土岐氏の守護寺だった天徳院は、
土岐氏が岐阜に移った以降は荒廃してしまう。
永徳年間にここ岩屋に移り、清来寺となったという寺で、
天台寺門宗三井寺の末寺である。
本尊は不動明王なことから、地元では岩屋不動で知られて、
正月には賑わっている。 」
ぐるーと廻っていくと、 岸壁の先にお堂があり、これが岩屋不動堂のようだった。
第二十六番札所の標柱のところに戻り、 左側へ歩いていくと、突き当たりに、先程大きな標柱にあった白山神社があった
お参り後、滑りやすそうな参道を下り、中央道をくぐり、 先程の「岩屋不動」の標柱がある県道まで戻った。
今日の旅はここで終えようと思っていたので、県道を歩き、 その先の水の木交叉点を右折して進む。
左側に線路に沿って細長い有料駐車場があったので、
その中を歩くと駅に通じる地下道があったので、
そこをくぐって瑞浪駅に出て、今日の旅は終えた。
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旅をした日 平成23年(2011)2月16日