下街道は、途中に内津峠の山道があるが、土岐川沿いの平坦地を進み、
付近には人家も多いうえに、
名古屋までの距離が上街道を利用するのに比べ、四里半も近かったため、
一般旅行者に加え、商人や伊勢神宮参拝者も多く、大変にぎわった。
これにより影響を受けた中山道の宿場は江戸幕府に再三抗議と取締りの要請を行った。
これを受けた幕府は、中山道の宿場保護のため、下街道における商人荷の通行を禁止し、尾張藩も中馬を厳しく取り締まったが、
徹底することができず、幾度も訴訟裁定を繰り返したのである。
平成二十三年二月十六日、今日は朝方は氷点下1℃だったが、
日中には10℃近くまで高くなった。
しかし、数日前に降った雪が日影や屋根には残っていて、
それが歩くのにブレーキをかけた感がある。
「 前回の予定は、土岐市駅まで行く予定になっていたが、
多治見駅で終わった。
今回、多治見駅から最終地まで行くことも考えたが、
慌てて歩く旅でもないし、
もう一度歩くことはないと思って、今日は瑞浪駅までにした。
また、多治見までは車で行くことにしたが、
そうしたこともあって出発時間はゆっくりになり、
多治見市営駐車場に着いたのは七時半を過ぎていた。 」
駐車場を出ると、前回訪れた銀座商店に入り、今日の旅を始めた。
前回訪れた商店街は早朝なので、静まり返っていたが、多治見国長公遺址碑は明るく見ることができた。
商店街を進むと、車が激しく行きかう通りに出た。
横断して進むと御幸町で、その先の左側に御幸公園があった。
御幸とあるので、天皇の御幸と関係があるのだろう。
公園の中に入ると、「西浦家別邸庭園跡」という説明板があったが、
文字が消えて読めない状態であった。
公園といっても庭園になっている訳でもなく、ただの広場のようなものだった。
道の反対には「石心参禅蔵」と書かれた蔵のある家があった。
戸は閉まっていたが、その前にあったパンフレットには、
「 西浦家は多治見の庄屋として又燃料商として大きく商いを伸ばした。
二代目から焼物の道に関わり、
三代目円治による手書きの染付け製品(西浦焼)が認められ、
海外でも高い評価を得た。
土蔵は江戸時代西浦家の内蔵として、七棟並んで作られたが、
平成十八年に改修した際も最小限にとどめた。
西蔵には、江戸末期から明治初期の西浦焼を中心に手書きの染付け製品が展示されている。
東蔵には、勝海舟や山岡鉄舟の書に西浦家江戸店の支配人を務めた熊谷東州の掛け軸が展示されている。 」 とあった。
建物の先の三叉路を右折すると、 多治見市が建てた「史蹟西浦庭園」の看板があり、
「 西浦庭園は幕末から明治にかけて活躍した西浦円治に造った造園したもので、ここには離れ座敷があり、 明治十三年(1880)年六月明治天皇の下街道巡行の際、行在所となりました。 離れ座敷と表門は明治中期、京都嵯峨の宝篋院に移築され、 今も書院として残っている。 」 とあった。
門が閉まっていたので、外から覗くと、「明治天皇御行在所址」などの石碑が建っていた。
庭の脇の道を直進すると県道15号に出たが、道を横断して進む。
右側に有我写真館がある交叉点で左の小路に入ると、新羅神社の裏に出た。
この後、正面の車道にある一の鳥居から入り直し、拝殿前に立った。
拝殿の前にある説明板「新羅神社」
「 旧多治見村の産土神とされる神社である。
現在の社殿は嘉永元年(1848)の建立で、
拝殿と本殿の間を幣殿で一列につないだ権現造りである。・・・・ 」 と書かれていた。
なお、新羅神社の歴史に触れると、
「 神社の創建時期は上詳のようだが、
奈良時代前期、「田只見郷」といわれたこの地に新羅系氏族が居住し、
新羅系氏族の祖神を祀ったのが神社の始まりと伝えられる。
また、平安時代の美濃神吊帳には、従五位下田只見明神 と記されている。
鎌倉時代には、地元を支配した多治見氏により八幡神が合祀され、室町時代の応永年間には建速須佐之男命が合祀された。 」
という古社で、焼物も彼らから伝えられたのだろう。
この後、先程の神社の裏道を通り、
写真館の先にある広小路通りで右折して進み、市役所手前で左折して、
小路通りを南下するとオリベストリートに出た。
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御行在所址等碑 |
西浦庭園と新羅神社へ寄ったことで八時二十五分を過ぎていた。
創造館の先、左側二つ目の小路の入口に、
「ギャラリー&喫茶 おもと(万年青)」 の看板のある家がある。
そこを左折するのが下街道である。
その先の突き当たりを右折すると、左側に大河内古美術館、
右側には蔵がある家がある。
それらを見ながら進むと、記念橋へ続く左右の道に出た。
下街道はこの交叉点は横断して進む。
交叉点の先、右側の陶器会社の一角に、 文化九年建立の秋葉常夜燈と二つの小祠が祀られていた。
交叉点から先は上町である。
左側の三叉路に「日蓮宗唱行寺」と書かれた石標が建っていて、
その右側の屋根の下の石組台の上には小祠が祀られていた。
唱行寺は三叉路の狭い道に入っていくとあった。 この寺は多治見市で唯一の日蓮宗の寺院という。
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街道に戻るとすぐ、
左側にしっかりとした石組の上に小さな祠の津島神社があった。
両脇の常夜燈も立派であり、この地方の人々の信仰心は深いなあと感心した。
その先の左側には懐かしい赤い郵便ポストがあり、現役で活躍していた。
左にカーブするあたりからゆるい上り坂になる。
その先の交叉点は直進したが、左側に公園のようなものが現れ、
その先に「神明社」の標石と石段があり、神明社への参道になっていた。
神明社までは百メートル程の距離だった。
常夜燈が並んで建っている先に鳥居があり、
鳥居と社殿の間にものっぽで巾の狭い常夜燈が建っていたので、
常夜燈の数は多かった。
参道の左側には巨石の上に「御嶽山神」と書かれた大きな石碑が建っていた。
神明社の誕生時期を示すような案内はなかったが、伊勢神宮系の神社である。
社殿は比較的新しく思えた。
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街道に戻り、少し歩くと生田バス停がある大通りに出た。
対面に狭い道が続いていた。
その道が下街道だが、すぐに左にカーブし、その先からは下り坂になった。
少し歩くと左側に白ぽい建物があり、軒下に「生田クラブ」の看板があった。
生田クラブとはレストランか?と思っていたが、公民館だった。
生田クラブの建物脇の道を下っていくと県道421号に出た。
右折して県道に入ったが、車の通行が多く、歩道がないので危険な感じ。
幸いに、右側に下る細い道があったので、この道に入り、
県道に沿って歩いて行くと、狭い川が流れていて、
左側には県道の生田橋が見えた。
生田橋と平行した橋を渡ると、その先は上り坂になり、
上っていくと「多治見市生田町」と書かれた横断歩道橋のある交叉点に出た。
陸橋は使わず、道を横切り向う側に渡った。
交叉点には大型トラックがひしめくように行き来していた。
この道は県道421号だが、現在の国道17号のバイパスができる前は国道だった筈だが、歩道がない。
交叉点の先の坂道を上っていくと、左側に稲垣鉱業の敷地が広がっていて、
道脇の社有地が駐車場のように空いているところがあった。
歩くのには適していたので利用されていただいたが、すぐに終り、
その後は車道の端を歩くことになった。
道はかなりの急勾配の上に右側の路肩には雪が残り凍っているので、
利用できなかった。
しかたがなく、車道の左側に移り歩いていったが、
背中から大型トラックがやってくるので、気持のよいものではない。
後ろに目がないので、いざという時に避けることができないから、やばい。
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カーブを描きながら上っていく道の正面にTOJIKOの看板が見えてきた。
ここは三叉路で、右側の道を道なりに進んでいくと、岐阜県陶磁資料館がある。
( 営業時間 9時30分〜17時 但し入館は16.30まで、 300円、月休)
県道は左に大きくカーブするが、その道を進んでいくと、 あっという間に高度は増したが、樹木が邪魔をして、 見晴らしがよくないのは残念である。
右にUターンするようにカーブする道を上っていくと、
突然 「名古屋32q 中津川44q 国道19号 」 の道路標識が現れた。
ここで左にカーブするので、見通しが悪い上に急坂が終わり、
百メートル先には国道19号の東野交叉点があるので、
追突防止も兼ねて、標識があるのだと思った。
上ってきた坂は生田坂で、生田橋からここまで千八百メートル位あっただろうか?
東野交叉点のあたりが生田峠である。
陸橋の上から多治見方面を見ると、右手に開発中の台地が見えたが、
その先にある虎渓山は見えなかった。
「 この峠が虎渓峠とも呼ばれたのは、
虎渓山永保寺に由来すると思われる。
「 鎌倉時代末、夢窓疎石達が虎渓山の深山幽谷に魅せられて、
麓に庵を結んだ。
これが虎渓山永保寺の始まりで、開山は疎石の法弟仏徳禅師で、
開基は土岐頼氏である。
室町時代には三十余の僧坊があったといわれるが、火災などに遭い、
当時の建物はほとんど残っていないが、観音堂と開山堂は国宝指定を受けている。 庭園は夢窓疎石の作庭といわれ、土岐川の清流、奇岩を借景としていて、
國名勝に指定されている。 」
歩いた県道も国道17号もこれまで車で何度も利用した坂道だが、
歩いてみると傾斜の厳しさを実感できた。
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陸橋を渡り、国道の左側を歩くと、東野交叉点の先に、 「 セラミックパークMINO 」 「岐阜県現代陶芸美術館 1.1km 」「岐阜県陶磁器資料館 0.5km 」 の標識があった。
「 岐阜県現代陶芸美術館は、 同じようなものが茨城県笠間市や滋賀県信楽町にもあるが、 ここは日本を代表する陶芸美術館といえよう。 」
このあたりが多治見市と土岐市の境界である。
次の東野1交叉点で国道と別れて、左側の道を下っていくと、
道の右側の木立の中に津島神社の小さな祠がある。
道の反対側には蔵春寺があったが、平成に入り、
瀬戸から移転してきたということで、前述の虎渓山永保寺の別院のようである。
敷地が広く、新しい建物が並び、
夢窓疎石に関係するという大きな中国風の塔が見えた。
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国道に戻ると、ここから土岐市に変わった。
国道の右側に移り、国道を恵那方面に向かって少し歩くと、
右に下る狭い道があり、右手にはパーラーベガスが見えた。
この細道は歩くに比例して国道より低くなり、右側の石材店を過ぎると、
道は雪凍結して滑りやすくなっていたので、注意しながらおずおずと歩いた。
道は左右に曲がりながら続き、小さな橋を渡ると上り坂になった。
坂の途中には車が多く停まっていて、工場か解体屋のような建物があり、
そこから出てきた放し飼いの犬は、番犬の仕事といわんばかりに、
小生を見て吠えた。
坂道を上り切ると国道に出たが、この間は五百メートル程だったろうか?
国道の反対側に出たかったのであるが、横断歩道も信号もないので、
あきらめて国道の右側を歩いた。
少し行くと、道脇にタイルが帯状に貼られたモニュメントがあり、
その先には休憩所らしいものと高台に塔が建っていた。
この道が完成した頃、塔が建てられたと推測したが、これが何なのか、
案内もないので分らなかった。
道はその先から下りになると、歩道は車道と分かれて右手にあったが、
日影のため、雪がまったく解けていなかった。
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歩道は神明交叉点の上に出たが、下に降りるには歩道橋を渡りその先に出て、右側の階段を下りる。
神明交叉点は国道のガードをくぐり、その先に信号交叉点を越えると、
右側に歩道橋のある道がある。 左折すると、神明峠バス停がある。
右側のカーブする道を上って行くと、
左側に「中山神明神社」の標柱が三つも建っていた。
その方角を見ると、しめ縄が張られた鳥居と森が見えてきたので、
それに向かって歩いていった。
鳥居をくぐると、その先の右側に二の鳥居があり、
左側の車道は土岐自動車学校へ向かうものだった。
二の鳥居から先に常夜燈があり、その先右側には水神の小さな祠が祀られていた。 その隣には、「神明水神斎祀」の碑があった。
広い境内を歩いていくと、鳥居の先に常夜燈があり、
その奥に社殿があった。
その前に大きな「中山神明神社由来記」という石碑が建っていた。
石碑の碑文
「 この神社は天照大神をお祀りしています。
いつお祀りしたのかは上詳ですが、天正十一発未(1583)三月に再建の記録があります。
古くからの伝えによりますと、
昔、日本武尊が東夷の帰途、信濃神坂を経て、
尾張宮へ御帰りの途中に腹が痛くなって、
麓の日暮の宮(熊野神社)でお寝みになりました。
夢の中で 「 老杉や老桧の森がある山の中の磐境にこもり湧泉の水を呑むがよい 」 の神のお告げがあしました。
探しにいった侍者から、 「 坂の上に泉が湧いていて、
その奥に神が祀るところがありました。 」 という報告を受けて、山に登り、神明を祭祀し、泉の水を?み、お神明を祭祀して、
水を呑むとお寝みになりました。
明方には腹痛が治り、尾張の宮簀姫の許にお帰りになりました。
後世、郷々の人々は祠を建てて霊石を祀り、神明神社と称して、
腹痛に霊験顕かであるといって、今でも郷中の氏子が護持に務めています。 」
この後、先程の中山神明神社の標柱が建っていた入口まで戻り、
左折して進むと左側の高い所にエコハウスなかやまがあった。
道の左側は地区の鉱山区とあるが、鉱山とはセラミックのことだろうか?
右側に陶都自動車のある三叉路があり、
道の向こうには市の給食センターがあった。
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本来ならばこの三叉路で右折して行くのだが、 手持ちの地図には給食センターや造成された土地はなかったので、そのまま直進してしまった。
その先にあったのは陶土や陶器などを造る工場団地だった。
右折して進めば高速道路の下がくぐれる場所があると探したが、民家の庭に出て、番犬に吠えられるなどの目に遭い、結局、給食センターまで戻り、
そこを左折することになったが、その間の無駄は二十五分である。
そこから少し歩くと、右側に 「みのやきラスタータイル OK 」 の看板の建物があり、その先には東海環状道路の高架橋があり、下には車が走っていた。
この道は四ツ谷跨道で、橋を渡ると、左にカーブし、
その先の三叉路を右折して、集落に向かって下りて行く。
古い家があることを期待したが、どれも最近の家だった。
坂を下って行くと県道421号線に出るが、その手前で左に入り、
上っていくと正面の高い所に御幸十王堂があった。
「 お堂に祀られている十王尊像は、
江戸時代初期の作と伝えられ、十王は高さ五十センチの寄木造りで彫造され、
朱や藍などの顔料による彩色が施されている。
十王は冥府で亡者の罪を決める裁判官である。
十王思想は、古代インドのマヤ神にはじまり、中国の道教と習合して成立したといわれ、わが国には禅宗と共に平安時代に伝来した。 」
十王堂の上には、南無阿弥陀仏碑が多くあり、 その右側には三十三観音が安置されていて、 西国三十三観音霊場巡りが盛んだったことが分かった。
県道に出て、右折して少し行くと、右側に明治大帝駐蹕碑(ちゅうひつひ)が建っていた。
石碑は、明治天皇が明治十三年に岐阜県を御行幸された際、
当地に立ち寄ったことを記念して建てたものである。
なお、漢和辞典には 「 駐蹕とは、天子が行幸の途中、一時乗物をとめること、また、一時その土地に滞在すること。 駐輦(ちゅうれん)と同じ意味。 」 と、あった。
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県道を引き返して進むと、その先左に入る三叉路には、
秋葉山常夜燈が建っている。
裏面は、摩耗しているので自信はないが、 「嘉永五壬子歳八月」 と刻まれているように思えた。
細い道に入り歩いていくと、二百メートル位で道は突き当たり、
右折して百メートルも進むと、国道17号の要壁が見えてきた。
国道をくぐる左側に「郷社熊野神社」の標柱と常夜燈その先に鳥居が建っていた。
ここから百メートル程の距離で、石段を上っていくと国道の脇に出て、
熊野神社の社殿は左側にあった。
街道に戻り、国道19号のガードをくぐると、
先程別れた県道が右から合流してきた。
その先にある明治天皇が来られたことを記念して名付けられたと思われる御幸橋を渡ると、土岐口北町交叉点で出た。
交叉点はどの方向も車で渋滞していた。
交叉点を越えたが、歩道がない上、渋滞している車の列があるので、
歩くのに難儀する。
民家の軒先を歩く羽目になったが、北側に向いていたので、
屋根から雪が落ちてきたりした。
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その先の津路町交叉点を越えると、右側に土岐津小学校があり、
小学校を越えた先に三叉路があある。
県道を合流したところからここまで八百メートルというところだろうか?
三叉路で、
県道を進むと右側には土岐市役所がある。
「 土岐市が誕生したのは昭和三十年のことで、
土岐郡の駄知町、土岐津町、下石(おろし)町、妻木泉町、肥田村、鶴里村、曽木村の八町村の合併により誕生した。
市の誕生では、ここ土岐津町とこの北東の愛知県との境の山稜部にある駄知町が指導権を争い、一時は土岐津町を中心に南部だけでの合併も検討されたが、
すったもんだのあげく、合併が実現した。
そのようなこともあって、合併後二年間は駄知町役場が市役所となった。
その後、土岐郡役所だった現在地に市役所が新設されて、
駄知町役場は市役所駄知支所になった。
数年前の町村合併では多治見市は土岐市、瑞浪市と笠原町と合併し、
五十万人の中核市を目指したが、土岐市を中心に住民から反対運動が起きて、
計画は頓挫、多治見市と笠原町との合併で終わった。
駄知町と下石町は豊田市猿投町と同じ位、焼き物では古い歴史をもっているところなので、自負が高いのだろう。 」
それはともかく、下街道は左の道に入っていく。
三叉路左側の狭い道に入ると、かっては農地だったところが住宅地に変わっているが、一、二軒の家が当時の姿をかいま見せてくれていた。
交叉点に出る手前の右側に、「馬除場 文化辛丙 施主 」 と書かれた石碑が建っていた。
「 馬除場(うまよけば)>は、
道幅が狭く、馬や人のすれちがいができないところに、
数メートルの空地を設けてものである。
碑に施主とあり、その下が欠けているが、
中馬業者が馬の供養に建立したものだろうか? 」
交叉点を右折すると市役所、左折すると中央橋南交叉点を経て、
JR土岐市駅へ行ける。
下街道は交叉点の対面の狭い道に入る。
久野製陶所の先には立派な塀の家が二軒あった。
その先の用水のような小さな川が流れる三叉路は直進だが、
小さな祠が祀られていた。
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左側にうだつをあげた家があり、その先は岩崎酒店だが、
きれいに整備された家である。
その先にも蔵を持つ家が続き、このあたりは土岐口町だが、
街道時代の雰囲気を残す町並みだと思った。
二百五十メートル位歩くと、車が行き来する交叉点に出た。
ここを左折した先に中央橋南交叉点があり、
ここから土岐市駅までは四百メートル程の距離である。
下街道は、交叉点を直進し、その先の橋を渡って進むと、高山町に入り、
その先の三叉路に突き当たる。
正面にあるのが高山公園だが、樹木があるわけでもなく、全面は広場で、
奥には整備された高山池があった。
江戸時代には公園一円が高山池で、
それを埋め立てたのが高山公園と思ったが、間違っているだろうか?
三叉路の右側にある民家に沿って石仏群があった。
右端は、 「奉秩父坂東紊墓」 続いて、 「南無阿弥陀仏」碑 、宝輪塔、
馬頭観音像、 「南無阿弥陀仏」碑 、「奉八大龍王」碑があり、その他、 「奉地之神」碑があった。
また、台座に乗っているのは、摩耗が激しいが、庚申塔かと思ったが、
違っているだろうか?
これらは高山池整備に伴い、ここに祀られたものだろう。
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三叉路を左折すると、右側に高山区民会館、その奥に土岐津児童館があるが、交叉点を越えてすぐに右に入ると、土岐津保育園を経営する慈徳院があった。
「 慈徳院は戦国時代の武将、妻木氏の菩提寺、
崇禅寺(土岐市妻木町)の末寺である。
妻木氏は美濃土岐氏の一族で、土岐郡妻木に住み、妻木氏となった。
妻木頼利の時におおいに興り、父祖の武功に自らの功も積んで、
大坂の役後には七千五百余石の旗本寄合となった。
彼の死後、子の妻木頼次が跡を継ぎ、土岐郡内七千五百石の領主だったが、
跡継ぎがいなかったため、万治元年(1658)に頼次が死去すると、
妻木氏は三代で廃絶した。 」
寺の境内には馬頭観音像が祀られていた。
街道に戻り、その先を歩いていくと、百五十メートル前方で、
道は四十五度左折するが、そこの右側にある細い道に入り、
交叉点を越えた先の高いところに高野山大師教会弘法堂があった。
街道に戻ると、道は下り坂になり、北に向かっているが、 この一帯は江戸時代に高山宿があったところである。
「 高山宿は、塩、木綿、藍などが名古屋商人により持ち込まれ、また、塩尻や木曽方面からは木製品や塩ぶりなど、そして、
地元の美濃で生産される焼物が集まる中継地(継立場)として栄えたところである。
土地も狭く、農業に頼ることのできない寒村だったので、
「 美濃じゃ高山、尾張じゃ小牧、人に情けの無いとこじゃ 」
と俗謡にうたわれる位、継立ての権利を守るため、
周辺の村々と争ってきたという歴史がある。 」
しかし、国道がJRの北側の泉町地区を通るようになってしまい、 当時のような活気溢れる雰囲気は消え、今は住宅地になっている。
左側に 「明治天皇高山御休所」の石碑が建っている。
説明板
「 明治天皇は、明治十三年中仙道を通り、京都までの巡幸の際、
同年六月二十九日午後二時半頃、
御小休所と定められていたここ深○栄次宅に到着され、
天皇は建物奥の庭に面した十二畳の間に、
皇族、太政大臣、供奉員らは隣接した四室に入り、小休されました。 」
この石碑は高山宿の華やかだった時代を象徴する唯一の記念碑のように思えた。
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旅をした日 平成23年(2011)2月16日