平成二十三年一月二十八日(金)、今日は寒い上に、風が強い。
神屋町で昼食をとるまでは順調だったが、現在二時五分を経過したことを考えると、昼飯をとったのは失敗だったのかもしれない。
内津妙見に別れて告げて、先に向かう。
県道508号は国道19号の旧道で、道は右にカーブ、
続いて左にカーブすると右側に内津工業という砕石場があった。
トラックが頻繁に出入りしていたが、集められた土砂が強風に舞い、
流されてくるので、これには参った。
道は山の姿に沿って、今度は右にカーブすると、 砕石場の下に家が数軒見え、駐車場の前には「旅館栄屋」の看板があったが、誰が宿泊するのだろうか?と思った。
上りが急になり、廻りくねりながら五百メートル歩くと、 北山トンネルをくぐり終えた国道19号が左から接近してきた。
国道に平行して歩くと、三叉路にでたが、
ここには 左折は国道19号名古屋、直進は県道508号多治見という標識があるので、直進して進む。
この道には狭い歩道はあるのだが、雑草が茂って歩けない状態なので、
車道を歩いていく。
三百メートル程歩くと、左下の国道19号の上り線は、
内津トンネルの中に入っていった。
その先で そのトンネル上を通ると、
国道の下り線を跨ぐ高架橋が見えてきた。
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高架橋を渡ると、「←国道19号多治見 多治見市之倉県道508 」 の標識と、 その下に「東海自然歩道」の道標があり、ここで右折する。
右下を見ると、国道19号の下り線で、 車は少し先の内津トンネルに消えていくのが見えた。
内津トンネルの上に出ると、三叉路になっている。
「 直進と右に行く三叉路で、
右折すると、廿原(つづはら)集落を経由し、三之倉へ至る。
この三叉路の看板は民間企業のものが目立ち、
肝心な情報が得られなくなる危険がある。
トンネル側角の愛知県が建てた内津峠(愛知高原国定公園)の紹介看板は、
東海自然歩道側にあり、
下街道側には向いていないので、見落とす危険がある。
赤い看板に纏わされて見落としたのは、看板の下にある、
高さ四十五センチの自然石でできた 「右廿原道 左江戸善光寺道」 と書かれた道標である。 」
下街道は三叉路を直進するが、肝心の内津峠の頂上ははっきりしない。
「 内津峠は標高三百二十メートルで、尾張国と美濃国の国境にあるということから、
行政当局はちゃんとした表示を出すべきである。
昔の下街道は国道工事などにより、姿を変えてしまい、残っているとは思えない。
とはいえ、一番高いと思ったところを過ぎると、「多治見市」の標識が現れたので、ここから岐阜県になる。 」
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七百五十メートル程歩くと、
右側に高さ百四十五センチの大きな馬頭観音が祀られていた。
県道は、国道を右下に見ながら続いていて、前方には恵那山が小さく見えた。
その先の歩道橋があるところで、県道は左にカーブしていくが、 下街道を歩く者は階段を降りる。
「 歩道橋の右手に見える山は池田富士で、標高は三百七十メートルである。 」
階段を降りると、先程の県道から別れた道が左から国道に合流してくるが、国道の左側の歩道を歩いていく。
このあたりは内津トンネルの工事などで、すっかり姿が変わったようにと思われた。
千五百メートル程歩くと、多治見市富士見町4で、左側に金毘羅神社があった。
「 神社は集落とは分断されたようなところに建っている。
歩道橋の右斜めに見える山が金毘羅山で、標高は二百三メートルであるが、この山と関係があるのだろうか? 」
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金毘羅神社から二百五十メートル程歩くと、富士見町の交叉点、 その先の生田鋼材のある交叉点で、国道と別れて、右の狭い道に入る。 ここから下街道が復活する。
ここは多治見市池田町で、
川に沿って歩くと、左側に民家が立ち並び、集落を形成していた。
交叉点から五百メートル程の右側の空地に小さな赤い祠があり、周りにはしめ縄が張られていた。
その先の三叉路に郷土資料館の案内板があり、 その先の左側が「名医小池家跡」とあったので、入っていったが、 表示もなく、その跡の確認は出来なかった。
なお、名医小池家は、豊臣家に仕えていた小池玄芳が、
豊臣家滅亡後、この地に移り住み、寛文三年(1626)に開業したもので、
当時は木曽や犬山から通った患者もあったという。
多治見市は陶磁器以外には関心は薄く、下街道の案内は皆無である。
川を渡ると永泉寺がある。
境内には大イチョウの木があり、本尊の観世音菩薩は重要文化財に指定されている。
「 最初は真言宗の明園寺という寺だったが、
寛文八年(1668)に曹洞宗に改宗し、永泉寺になった。 」
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街道に戻り、百メートル歩くと、三叉路の右側の民家の前に、 池田町屋の常夜燈があった。
「
大変大きな秋葉山常夜燈で、文政九年丙戌八月と刻まれていた。
ここ池田町は、古くから内津峠の谷口集落として栄え、
商業と交通の中心だったところで、
江戸時代には、池田町屋宿と呼ばれた美濃国最南端の宿場である。
新撰美濃志には、 「 池田八郷の親村にて町屋といふ。 下街道の宿場にて常に旅人往来す。
街並みは東西5町半ばかりなり・・・ 」 と当時の様子が描かれている。
下街道を一泊二日で旅した場合の宿泊は、坂下と池田が多かったので、両宿の客の奪い合いはすごかったという。 」
下街道は三叉路を左折するが、そのまま直進してすすむと、 次の三叉路に「池田のお地蔵様」の標示があり、 枝が欠けた樹木が生え、 その奥に地蔵堂が建っていた。
「
ここは最近整備されたところのようで、地蔵堂の建物は新しかった。
お堂の中には沢山の石仏が祀られ、外にもいくつかの石仏が置かれていた。
枝が欠けた樹は、樹高十九メートルのエノキで、かっては廿原方面へ通じる街道の目印だった。 」
三叉路を右折し、数百メートル行くと、
右側の小高いところに住吉神社があった。
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その先の三叉路の左側に入った右側の家の前に地蔵群が祀られていた。
この後、街道まで戻り、下街道を進むと古い家が数軒残っていて、
街道らしい雰囲気が残っていた。
小川に架かる橋を渡ると、国道の信号交叉点から入ってくる道が、 左から交叉する三叉路があり、JAとうとの角地に 明治十二年(1879)に建立された道標と池田村の道路元標があった。
この辺りは上町で、江戸時代には高札場があったようである。
道標には、 「左なごや いせ道 」 「右東京 ぜんこうじ 」 「左きた たにぐみ 」 と刻まれている。 」
左側のきた たにぐみ道は今渡道のことである。
下街道はJAを右折する。
百メートル程いくと、左側に「斎藤透記念館」の看板を掲げた屋敷がある。
「 斎藤家は町屋の地主で、庄屋を務めていた家柄で、永治年間には山庄という屋号で金融業を営んでいたようである。 」
五十メートル歩くと、JRの中央本線の線路に突き当たるが、
その手前の右側に津島神社の小さな祠がある。
江戸時代、このあたりが「池田町屋宿」の東入口だった。
「 池田集落を通って感じたのは、
競争相手の坂下も同じであるが、明治以降の繁栄から取り残されているということである。
鉄道の駅を池田側に誘致していたら、多治見市の中心として、
商業がもっと栄えたと思われるが、
牛馬車で営業していた問屋が反対し、
陶磁器の生産が始まっていた多治見町が積極的に誘致した、ということだろう。
宿場町だった池田町屋は、明治に可児郡池田村町屋となったものの、
発展が遅れて、昭和十九年には多治見市に吸収されていった。
今では地元民でも江戸時代に宿場町だったことを知っている人が少ない。 」
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JRの中央本線は少し先で、太多線と合流して多治見駅に向かっていく。
下街道はJRの線路に突き当たるので、左折して線路に沿って少しいくと、
右側に地下道があるので、それをくぐると駐車場の前に出る。
正面には多治見看護専門学校と県立多治見病院があった。
駐車場の脇を左折して、あさひ薬局前を通り、交叉点は直進すると、
前畑町集会所の先で川に突き当った。
三叉路を左折すると県道421号線に出たので、右折して県道に入り、大原橋を渡り、すぐに右折して狭い道に入っる。
川に沿って進むと行き止まりになるので、左折して西に向かうが、
この道は土岐川に沿った遊歩道である。
道の左側に台座に乗った祠があった。
少し歩くと交叉点に出た。
右折すると国長橋だが、そのまま直進する。
道の左側には市民病院の建物が見える。
道は右にカーブし、土岐川の堤防に出たが、左下には小さな祠が祀られていた。
「
その先の橋の向うには白い雪をかぶった山が見えた。
前にいた中学生やすれ違った小学生に山の名前を聞いたが、
異句同音で知らないと答えた。
中には山の存在に始めて気が付いた子もいた。
その後、三人連れの御婦人に恵那山と教えられた。
五十キロ離れているので、知らないとも当然なのかもしれない。 」
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次の交叉点は左折するとJRの多治見駅、右折すると陶都大橋がある。
下街道は陶都大橋の脇の交叉点を直進するが、右側に昭和橋、そして、
左側に市営駐車場があった。
約一キロ歩くと多治見橋に出たので、土岐川に架かる橋を渡る。
「 現在の橋は昭和十一年の築橋されたものである。
土岐川に本格的な橋が架けられたのは明治十三年のことで、
長さ百十メートル、巾四メートルの板橋だった。
それまでは渇水期は仮橋をかけ、雨期は船渡しだった。
その橋が流れた後、明治十九年に西浦円治が自己資金で造っている。
なお、西浦円治は自ら西浦焼きと呼ばれる陶磁器の生産するなど、
美濃焼の品質向上、
そして、販売を通じて美濃焼の名を世に広めることに尽力した人物である。 」
渡り終えると、多治見橋南交叉点で、 その先の道は「本町オリベストリート」と名付けられていて、 たじみ創造館の隣にある交番もそれに合わせたデザインになっていた。
「 本町オリベストリートは、昭和の初め頃までこの地方の陶磁器問屋街だったところなので、 明治初期から昭和初期に建てられた商家や蔵が残っている。 」
オリベとは織部焼のことで、美濃焼を代表するもので、多治見は美濃焼の集散地として発展してきた町である。
「
桃山時代には、京から訪れた陶工や茶人との交流が美濃焼をより洗練させ、志野焼や織部焼をはじめとする美濃焼の名を全国に知られるようになった。
更に、幕末には九州の有田から磁器の製法を取り入れると、
磁器原料に恵まれたことと相乗効果で、生産量を伸ばし、
生産の中心を陶器から磁器へ転換させた。
陶器と磁器を合わせた多治見を中心とした美濃焼の生産量は、
洋食器で全国生産の約半分、和食器では六割、タイルは約四割のシエアを持つ。
しかし、最近の円高や中国産の低価額製品の台頭により、厳しい環境に晒されているようである。 」
交叉点を右斜めに入って行くと銀座通りに出る。
その中をくぐり抜けていくと、右側に「県史蹟・多治見國長邸址」の碑が
ある。
「 多治見國長は、美濃守護・土岐頼貞の同族で、
美濃国土岐郡多治見を本拠に活動していた武将である。
後醍醐天皇の俗に「正中の変」と呼ばれる鎌倉幕府討伐計画に参加し、
日野資朝の招きにより正中元年(1324)に京都に入ったが、
土岐頼員が計画を妻(六波羅探題の奉行の娘)に漏らしたことで、
夜中に六波羅探題軍の急襲を受け、一族郎党とともに自害して果てた。 」
という悲劇の人物である。
当初の予定は土岐市駅までだったが、
薄暗くなったのでここで旅を終えることにして、多治見駅へ行き、
中央線で名古屋に戻り、今日の旅は終えた。
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本町オリベストリート(交番) |
旅をした日 平成23年(2011)1月28日(金)