下街道(善光寺道)は中山道大井宿の槙ヶ根追分で、中山道と別れて、
竹折、釜戸、高山、池田(現多治見市)を通り、内津峠を越えて、
尾張の名古屋宿に至るというルートだった。
この道は奈良時代には都から地方への官道である東山道として整備されていた道で
ある。
歴史的にはもっと古く、日本武尊が倭への遠征の帰路に通ったと記紀に記されている。
内津峠という名は、日本武尊が、副将軍の死を聞いて、 「 現哉、現哉(うつつかな、うつつかな)」 と嘆き悲しんだことに由来する。
また、内津峠の付近には日本武尊にまつわる話も残っている。
平成二十三年一月二十八日(金)、今日も寒い。 その上、名古屋と違い、郊外ということもあり、風が強く、冷たい。
春日井駅から春日井橋を渡り、中央通北交叉点で、下街道の旅を再開する。
下街道で一番大変であるといわれた内津峠を越えるのが、今日の目標である。
中央通北交叉点を越えるとその先で三叉路になるが、 下街道は直進する一方通行の狭い道である。
篠木町二丁目の両脇は一般住宅が並び、朝の通学児童を送る母親の声が聞こえた。
この道はすぐに県道508号と合流してしまった。
県道を進むと、右側に春日井篠木郵便局があり、篠木町四丁目交叉点は直進し、
次の交叉点も越える。
左側に東部中学校前バス停があり、 その先には真ん中にガソリンスタンドがある三叉路があったが、 下街道は左側の狭い道に入っていく。
下街道はこの先、中部大学の駐車場の先で国道19号にあうまでは、 北東あるいは北北東の方向に進んでいく。
その先の交叉点の角にはお地蔵様が祀られている小祠があった。
交叉点を直進して少し行くと、左側に「木村飲料」の看板があり、
その奥に秋葉山三尺坊のお堂があった。
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交叉点を越えて少し行くと狭い坂道に変わった。
坂を上ったところに交叉点があり、交叉点を越えて進むが、
民家が途切れずに続いていた。
歩いていて困るのは、朝の交通ラッシュからか?、
国道からの車がお構いなく入り込んできくることである。
車同士がすれ違うには困ると程の狭い道なので、歩いている小生も時々、
身構える瞬間があった。
東名高速道路の高架橋が見えるところでは、それに自転車部隊も加わった。
高架橋をくぐると、交叉点先の左側の空地に「大泉寺簡易水道水源跡」の碑が
建っていた。
「 戦後簡易水道を掘ることがはやったが、 上水道の普及により消滅した。 この碑はそれを後世の記憶にとどめるために建立されたものだろう。 」
この先に三叉路があり、左側に春日井商高があるが、
自転車の主はこの学校へ通う生徒達だった。
下街道は三叉路で、右斜めの道に入るが、左側に市養護老人ホームがある。
少し歩くと、右側に退休寺があったが、正式名称は賜恩山無量寿院(しおんざんむりょうじゅいん)退休寺である。
「 尾張藩初代藩主徳川義直の付家老、小野沢五郎兵衛は、
二代光友のお守役を務めたので、
寛永十四年(1637)、下街道沿いのこの地に隠居所が与えられて、屋敷を構えた。
五郎兵衛は、隠居所内に尾張藩菩提寺の建中寺の末寺を建立したが、
義直のお墓のある定光寺が常に拝めるようにと、本堂を東向きにした、
といわれる。 」
境内にある納骨堂の壁に 「 昭和四十三年に県立商業高校が設立された時、
学校用地に野墓地が買収された。
その代わりに建てたのが納骨堂である。 」 と書かれていた。
寺を出ると、道の反対の民家の脇に井戸があり、 「お助け井戸」と書かれた説明板があり、 井戸の枠には、 「 南無阿弥陀仏 慶安五年二月 施主小野沢五郎兵衛 」 と刻まれている。
説明板「お助け井戸」
「 この大泉寺の土地は高地で、水の便が悪く、
日照りには百姓たちが困り果てるだけではなく、
通行の旅人が飲水にもこと欠き、行き倒れも出る程だった。
これを救おうと思いたった五郎兵衛が、今までにない深さ十三尋(ひろ)(約20m)の井戸を掘らせ、皆に使わせた。
その恩を受けた村人達はいつしか諸人助けの井戸と呼ぶようになった。 」
これを読むと、前述の高速道路脇に「大泉寺簡易水道水源跡」の碑が建てた人々の気持が分かった。
大泉寺町交叉点の左手前には消防器具倉庫があり、隣に天王社が祀られていた。
その手前には金毘羅大権現と秋葉山の常夜燈が並んで建っていた。
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お助け井戸 |
交叉点越えると左側にいとう幼稚園があり、
次の三叉路には大泉寺温泉の看板もあった。
道は上りになったが、少し歩くと右側に幟が見えてきたが、
これは弘法大師を祀るお堂で、
御立弘法が祀られているというものである。
その先右手には鳥居があるので、くぐって参道をいくと、
八幡社の社殿があったが、新しいものだった。
八幡社を出ると、道の左斜めには御嶽神社もあったが、
御立弘法の手前あたりからは人家が途切れた。
右手二百五十メートルの遠方に中部大学のグランドと校舎などの関連施設の建物群が見えた。
このあたり一帯は中部大学のキャンバスになっているのである。
右側に続くのは中部大学駐車場で、登校時間だったので次から次へと車が入ってきた。
それを見ながら、だらだらした坂を四百メートル程上っていくと、
国道に出られる三叉路がある。
駐車場の金網に「尻冷やし地蔵の道標があったので、道に沿って直進する。
左側に、「尻冷やし地蔵尊」と書かれた幟がはためき、小さなお堂が」あった。
お堂の脇には、文政十年建立の 「南無阿弥陀仏」 と書かれた石碑が建っている。
春日井市教育委員会が建てた説明板
「 高さ一メートル五十センチ余、幅六十センチ余の浮彫石地蔵、
正面の右下には正保四年(1647)と刻まれている。
台石の下から清水がこんこんと湧き出し尻をぬらしていたので、
尻冷やし地蔵と呼ばれるようになった。
建立のいわれは、昔、敵に追われていた手負いの武士が清水で傷を洗いのどをうるおしていたところ、不運にも追手に発見され、討たれてしまった。
この武士の霊をなぐさめるために建てられたのがこの地蔵であるといわれる。 」
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お堂の中の尻冷やし地蔵は花崗岩に浮彫された石像で、 その下の小さな筒から僅かな水が流れ、今も尻を冷やされていた。
安永二年(1773)、名古屋の俳人、横井世有が内津への旅すがら、
ここで駕籠をとめ、
「 尻冷やし地蔵はここにいつまでもしりやけ猿のこころではなし 」 という狂歌を残している。
「 横井世有の狂歌のしりやけ猿とは、何事にも中途半端で、 飽きっぽいことをいったようで、 それに対し尻ひやし地蔵は泰然として霊験あらたかにおさまっているさまを表現したものである。 」
少し行くと、左から国道19号が接近してきて、 坂道を上ると右側に東神明配水場の大きなタンクがあった。
この後、この交叉点を左折し、国道に架かる陸橋を渡り、 山側に出ると右折して坂を下っていく。
下った道の左側下の草むらに馬頭観音像と「天神宮」の石碑があった。
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その先でまた上り坂になったが、上ったところの左側、 奥まったところに西本願寺のモダンな建物があった。
その先は、車は左にカーブする道になるが、歩行者用の階段があるので、
降りて行くと国道の脇の歩道に出られる。
四百メートル程歩くと右側の地下道をくぐって、国道の右側に出た。
高い建物の左側を直進すると、坂下町六丁目南交叉点に出るが、
下街道は右の細い道を進み、道路の下のガードでくぐり進む。
左側にある民家前の貝塚いぶきの塀の中に 「旅籠藤屋跡」 の看板があった 。
ここから先は、江戸時代に坂下宿があったところである。
その先の三叉路を左に入り、次の三叉路を左に入っていくと、 左側に「坂下八幡宮」や「坂下御殿址」の石碑が建っているところに出た。
石段を上り、一番上にいくと井戸があり、隣の案内板には、
「 尾張初代藩主徳川義直が寛永二年(1625)に、
鷹狩りと兵馬の演習を目的に造営された坂下御殿があったところである。
義直の没後、二代藩主、光友が寛文四年(1664)、御殿を取り壊す際、
御礼として村民の願いを聞き入れ、下街道両側の土地の税を免除したといわれる。 」 とあった。
幕末の志士の清河八郎は、安政二年(1855)に善光寺から伊勢神宮まで歩いたことを記した西遊草の中で、
「 坂の下村に至り、米屋半六に宿る。 時七つ頃也。 今日の道は山中なれども見晴らしよく、格別の高下もなく、百姓麦刈り盛り、また山ばたらきの真盛中にて、田畑に多くいでありき。 五十丁道を余程来たりしゆへ、殊のほか疲れたり。 むし暑くありしに、暮れ方に雨となる。 」
と、内津峠を越えて坂下宿へ到着したことを記し、
「 早朝に宿を出て、次第に開ける平地に出て果てもなき沃野なり。 」
とこの後、濃尾平野に出た様子を記している。
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坂下御殿の遺跡として残ったのは二つの井戸だけだが、 それも八幡宮となったことで残ったような気がした。
「 兵馬を泊めたことから、一つは厩の井戸で、もう一つは厨の井戸で、 二つの井戸が残るのは全国でも珍しい。 」
街道に戻り、その先の交叉点までくると、交叉点の角に江戸時代、 高札が掲示されていた様子が再現されていた。
「 己上坂下新田町居屋敷之儀下候皆御意候間其心得可有候即打幔をも遺申者也・・・・ 」 とあるが、 これは寛永十四年(1637)十二月、尾張藩より 「 坂下新町内一色村庄屋百姓 」 の租免状が下されたことを示し、 これが坂下という地名の始まりである。 」 と解説されていた。
坂下宿は、馬継ぎ、旅籠などが軒を連ねて、
伊勢屋という茶屋本陣には、乗馬のまま通れる高い門と玄関、上段の間があり、
木曽福島代官の山村甚兵衛や久ゝ代官の千村平右衛門などが利用したといわれる。
明治時代に入り街道が廃れると、明治中期以降は養蚕業で栄え、大正時代はその全盛期だった、という。
交叉点を越えると、右側に細かい格子のある家があるが、
永井製糸工場だったところである。
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左側には「万屋新左衛門」の看板を掲げた家があり、 その反対側の右側に古い家が続いて残っていた。
少し行くと、左側の普通の民家の前に、 「旅籠米屋跡」 の看板があった。
「 江戸時代には大きな造り酒屋も営み、 旅籠米屋半六として坂下随一の旅籠だったようである。 」
その先の右側には、「長谷川製糸工場」の看板がかかった家があったが、
この家も製糸工場だったところである。
その先を左に少し入ると曹洞宗の寺の萬寿寺があった。
建物は新しく、右側に「明治天皇行在所跡」の石碑が建っていた。
「 萬寿寺は、明治十三年に明治天皇が名古屋へ巡幸された時、 昼食をとられたところであるが、行在所は大正元年八月に焼失してしまった。 」
その先の左側には 「右江戸ぜんこうじ道 左大山さく道」 と、
書かれた看板の下に、石と小さなお地蔵さんが祀られていて、
その先に秋葉山常夜燈が建っていた。
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下街道は、その先で坂下橋を渡るが、名古屋から歩いてきた中で、
このあたりが下街道の名残が一番あるように思えた。
坂下橋を渡ると、右側には坂下小学校がある。
その先の信号交叉点を渡り、右折すると、
コスモのGSの隣に御手洗(みたらし)の看板があった。
「 日本武尊の伝説は、次のように伝えている。
熱田の社へ駒を進められる途中、この地、神屋で休まれた。
その折、手を洗われたのが御手洗である。
戦前まではこの泉のまわりの杉の大木に注連縄が張られ、
清水が一年中涸れることなくこんこんと湧き出していた。
この水で眼を冷やせば眼病が治り、手を冷やせばひび、
あかぎれは直ちに治るということで、
お詣りする人は絶えず、お礼詣りの手拭がたくさん吊るされていた。 」
竹で作られた鳥居をくぐると、右側の小さな池には、水は一滴の水もなく、 干涸びていた。
その先に地元の人達が祀った小さな祠があった。
信号交叉点に戻り、県道508号を北に二百五十メートル程歩くと、
下神屋バス停の先、戸口橋の左側の三叉路の角に、
コンクリート製の祠の中に数体の石仏が祀られていた。
その隣には常夜燈が数基あったが、かなり修復された跡があった。
更に二百メートル程歩くと、神屋住宅前バス停があるが、 住宅地は右手の高台の上に広がっている。
「 神屋町は「かみや」と「かぎや」の二つの呼び名がある。
神屋町の名の由来は、日本武尊が東国平定後の帰途、この地を通過の際にこの辺りに仮家を建て休息された、という伝承に由来し、
かりや→かぎや→かみやとなったといわれる。
また、山々に挟まれた谷間のような地形が、鍵の形に似ていることから、
「かぎや」となったという説もある。 」
現在も、神屋町にある公園や施設では、二つの呼び名が併用されていると聞いた。
その先の三叉路の左側に、「神屋小学校」の標識があるので、 左折して進むと宮南橋がある。
橋を渡り小学校と保育園の前を通り過ぎて、その先の交叉点を右折すると八幡神社の鳥居があった。
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参道を進むと、二の鳥居あたりから木立が多くなり、薄暗くなってきたが、
石段の先には舞殿が見えた。
上って行くと、舞殿の奥には幾つかの社殿があり、
神馬像のある八幡神社を中心として、
座牛像のある神屋天神社、北側に金刀比羅社、天王社の祠が祀られていた。
これらは明治の神社統合令により、当地にあった神社がここに集められたものである。
「 神社の周囲に竹林があるが、
江戸時代に尾張藩の「御留め藪」になっていたことの名残りである。
尾張藩は、神屋村に十四の御留め藪を設置し、旗指物などに使用するため、
坂下庄屋に管理させていた、といわれる。 」
街道の元の場所には戻らず、神社の左の鳥居をぬけて道に出て、 右折するとその先には国道19号が通っているが、 そこまでは行かないで、秋葉山常夜燈の建っている「神屋公園」の角を右折した。>
この後、右手に八幡神社の社殿を見ながら進み、 右から道が合流すると、土岐川を右手に見ながら進む。
三叉路があり、右側の道で土岐川に架かる橋を渡ろうとして左を見ると、
松の枝にはさみを入れている人を見付けた。
そこには、大きな常夜燈と小さな常夜燈があり、
その間にちっぽけな祠が祀られていた。
男性に 「 この小さな祠にはなにが祀られているのですか? 」 と伺うと、 「 それがはっきりしないのです。 」 という返事が返ってきた。
話を総合すると、「 八幡神社の周囲には十の宮が祀られているが、古老の話ではそれに入っていない。
もとは下街道の川にあったものを改良工事の際、ここに移転したものであるが、
道祖神のような役割を果たしていたという説もあるのだが、
定かではない。 松が茂ってみっともなくなったので、隣人として手入れしようと鋏を入れていたところだった。 」 という次第である。
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橋を渡り、二百メートル近く歩くと右側に観音寺があった。
観音寺の先には用水が流れていた。
直進すると坂下中学校の左側にでるが、右折して用水に沿った道を進み、神屋町交叉点に出た。
なお、八幡神社に迂回したため、通らなかった県道区間の右側には
長く急な石段があり、その先には森下の如来様の祠がある筈である。
神屋町交叉点から下街道の県道508号に復帰すると、 坂下中学校の反対側の竹藪の一角に馬頭観音が祀られていた。
「 このあたりは険しい坂が多かったので、 街道を行き来する旅人が利用した馬が犠牲になることが多かったため、 それを供養するため、馬頭観音が建立されたのであろう。 」
坂下中学には利水碑が建っている筈だが、学校の警戒が厳重なので、
さっと見たがそれらしいものはなかった。
神屋町海道交叉点を越えて橋を渡ると、春日井市明知町になる。
地名の由来は、日本武尊が東征の帰途、この辺りで夜明けになったことによるとされる。
右側のカーランド協和の道の反対側に、小さな祠と常夜燈が二基祀られていた。
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その先左側には身障者療養施設夢の家の看板があった。
三叉路の明知町西厚金交叉点の右側には丸く盛り上がった塚の上に、
名は分らないが、大きな樹木が茂っていた。
木の下には、地蔵尊が祀られているが、
右側の 「南無大悲観世音菩薩」 の石柱の隣に斜めに傾いた石碑があり、
摩耗しているが仏の姿が描かれていた。
交叉点を越えると、東春モーターズがあり、
その先に「うどん・信州そばの大俵」 という店があった。
時計を見ると、十一時四十分、この先に飲食店があるとは限らないので、
昼食兼休憩をとることにした。
入るとこの時間なのにほぼ満席なのには驚いたが、お客の話に聞き耳をたてると、
周囲の会社に出帳してきた客を案内してきたことが分かった。
寒いので、卵入りみそ煮込みを注文し、その間にトイレをすます。
コンビニでいなり寿司を買ってきていたので、みそ煮込みと一緒に食べた。
十二時五分、旅を再会したので、この店にいたのは二十五分である。
その先の右側の小高い所に石段で上ると、「将軍地蔵尊」の標柱があり、 お堂があった。
光明院という無住の寺のようで、本尊は馬に乗った地蔵尊で、
「将軍地蔵」といわれるものである。
お堂の右側には廿二夜碑や御嶽講碑、庚申塔などの石碑があったが、
これらは道路改良などにより集められたものと思ったが、
間違えているだろうか。
コーヒーテラス花みずきの先の右側に藁ぶき屋根を合金板で囲った家があった。
下街道は、市立坂下北保育院の先で、尾張明知バス停の先の左斜めの細い道に入る 。
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この先には半円形にカーブする道が続くが、直進すると、 右側に明照寺があるので、立ち寄ることにした。
入口には、「慈眼山明照寺」と「聖観世音菩薩」の標柱があったが、中に入ると赤い鳥居が林立していた。
この鳥居群は、白翁稲荷神社の奉納鳥居である。
白翁稲荷神社はこの山頂にあったが、春日井球場建設のため、
ここに遷宮されたのである。
明照寺への参道を進むと、 道の両脇に七十六体の三十三所観音と地蔵尊が祀られていて、 その先に明照寺の本堂があったが、新しいものだった。
この後、尾張明知バス停まで戻り、下街道を歩く。
街道を進むと、右側に二体の石仏が祀られていた。
手前は馬頭観音像だが、その先のは頭に頭巾をかぶっているので確認できないが、お地蔵様ではないだろうか?
「 江戸時代、明知からこの先の西尾、内津にかけては、 牛車・馬車による賃稼ぎが盛んだったところで、 明知は街道に沿って牛馬宿が点在していたといわれている。 馬頭観音が多いのもそのせいだろう。 」
なお、二体の石仏の間の細い道を行くと、先程の明照寺の入口の正面にでる。
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街道は右にカーブし、市民球場前交叉点の左側にでるが、 交叉点を越えると上り坂になり、県道508号に出た。
県道を横切って反対側の道に入っていくと、道は半円形にカーブし、 道の両脇には明知の集落が続いていたが、古い家はなかった。
ゼネラルのGSのところで、県道に合流したが、
GSの県道の反対側には小さな祠があり、お地蔵様が祀られていた。
ここから春日井市西尾町になる。
西尾は「にしお」と思っていたが、この地では「さいお」と
読ませるのである。
全国を旅していると、こうした珍しい地名の呼び方に出逢うので楽しい。
県道を二百メートル程行くと、信号交叉点の先の左側に「安祥寺」の標柱が建っていた。
石段の両脇には沢山の石仏が散らばって鎮座しているが、これは三十三所観音なのだろう。
石段を上ると「御嶽山大権現」の石碑の奥に本堂が見えた。
「 安祥寺は、名古屋市大須の万松寺の末寺で、曹洞宗の寺である。
最初は志賀村(現在の名古屋市北区)にあったが、
享保五年(1755)に現在地に移転したという歴史を持つ。 」
「御嶽山大権現」の石碑は嘉永二年(1851)の建立で、 その右側に建つ石碑は明治三十年に建てられた佐倉宗吾郎の碑である。
下街道に旅人が行き来した頃は訪れた人が多かっただろうが、
本堂も突っかけ棒で支えられ、無住の寺は孤高を楽しんでいるように思えた。
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下に降りると、安祥寺の境内のはずれに、「馬蹄石」と書かれた説明板があり、 その下に岩盤が見えた。
説明板「馬蹄石」
「 日本武尊の伝説では、尊が東征された折、
尾張速視建稲種命が、副将軍として従軍され、
その帰途、駿河の海に落ち、急死されたことを聞き、尾張速視建稲種命を祀ったのが、内津神社である。
内津神社に尾張速視建稲種命が祀られているのは、この地に今一度駒を返して振りかえった。
その折に馬の日ずめの跡がしっかり岩盤の上に付いたと伝えられる。
その名を馬蹄石とも、駒返りと呼び、このあたりの地名を駒返という。
西尾の地名は、駒の尾が西を向いたので、こう呼ぶようになった、という古老の話である。 」
下を見ると、看板に棒が刺さっていたが、これが蹄の跡なのだろうか?
その先には西尾上バス停があるが、安祥寺から七百五十メートル程歩くと、
内津交叉点に出た。
交叉点を左折すると、国道17号に出るが、上街道は交叉点を右折して、
道なりに進む。
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この先の内津神社までは、家が断続して、建っている。
「 江戸時代の内津は、勝川、坂下のように宿場機能を持った村で、
街道に沿って、上町、中町、下町の三つの町からなり、
延宝四年(1676)には五十軒ほどの家並になっていた。
ここは中山道の大井宿と東海道の宮宿の二日の行程の旅の場合、
旅の中間にあたるところで、手前の坂下村とこの先の池田村との間で、
馬継や宿泊での権利争いもあったといわれる。
山稼ぎが本業だったが、副業の宿場機能の宿泊や人足賃稼ぎの他、
内津名産のお茶や美濃や近村で集めた農産物、炭などを近隣の村や名古屋、
江戸へ送るなどの行商をしていたという。 」
道は左右にカーブしながら上っていく。
内津バス停までは内津交叉点から900m位。
左側の民家の脇には秋葉山常夜燈が建っていた。
内津バス停から200m歩くと、右側の山肌の下に水洞山見性寺(けんしょうじ)がある。
本堂の前の「説明板」
「 見性禅寺は、曹洞宗の寺で、大草福厳寺の末寺で、安永年間に大須万松寺の十九世綱國玄提大和尚が寺を再建した。
安永二年(1733)八月、尾張俳人の横井也有が寺に訪れて、鶉衣(内津草)を記した。 」
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左側に大般若経の経蔵がある。
そのの前に、横井也有の句碑があった。
俳句をたしなむ人は一度訪れられるとよいだろう。
道の左側の立派な屋敷は、鵜飼家五代目が元治元年(1864)に建てたもので、 庵看板が印象的である。
春日井市が建てた「説明板」
「 この道は昔下街道と呼ばれ、名古屋から信州・飛騨へ通じる街道でした。
明治の初めころまでの内津には旅籠10戸、問屋13戸を含む人家がおよそ130戸あり、
尾張の東部、東濃地方にまたがる取り引きの中心として栄えました。
当鵜飼家は、江戸中期からこの地に居住し、
幕末から大正初期までは正生丸(解毒剤)、金勢丸(腹薬)などの薬を中心に、
みそ、たまりなどを製造していた歴史を持っています。
街道に面して今も古風な薬の看板が残り、かって栄えた宿場町の面影をしのぶことができます。 」
道の右側の小高くなったところには明治天皇御小休所址の石碑が建っていた。
説明がないので推測であるが、ここに立場茶屋があったのだろう。
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二百メートル歩くと三叉路に出る。
左手前は駐車場と内々神社バス停、
道を越すと内々神社(うつつ神社)の鳥居があった。
内々神社は、日本武尊とゆかりのある神社である。
内々神社社伝
『 日本武尊は熱田の宮で、尾張の祖といわれる建稲種命と会い、副将軍にして、
その妹宮簀姫命と婚約、東国の平定に出かけた。
武尊は東征の帰途、信州から美濃を経て、尾張国境の内津峠を下るころ、
建稲種命の家来、久米八腹が早馬でかけつけて、
東海道を帰る途中の建稲種命が駿河の海で水死したことを知らせてきた。
これを聞いた日本武尊は、「 あの元気な稲種が… 」 と絶句、しばらくして 「 現哉、現哉(うつつかな、うつつかな)」 と嘆き悲しんだ。 そして、内々神社に建稲種命の霊を祀った、とされる。
神社の祭神は建稲種命、日本武尊、宮簀媛命である。
景行天皇四十一年に尾張の連祖、建稲種命を祀ったのがはじまりで、
中世までは篠木荘三十三村の総鎮守として、毎年村毎に湯立神樂が奉納され、
尾張、美濃の農民は雨乞いを祈願していた。
武将の崇敬も厚く、慶長二年(1597)、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際には戦勝祈願を行い、社頭の大杉七本を伐採して、
帆柱とし、凱旋後は社殿を造営し、寄進した、とされる。 」
清河八郎が記した西遊草には、内津峠を越えて、内々神社に到着した印象を、
「 二里少しく山間を越え、うつつという駅にいづる。 妙見大菩薩の宮あり。 いたって人の信心する神にて、宮は小なれども誠に上手なる彫ものあり。 念をこめたる作にて、近頃見あたらぬ立派な普請なり。 裏に山水の庭あり。 岩石そばだち、池に鯉鮒多く清らかな境地なり。 七丁ばかり奥に不動尊の岩やその他見処もあるとぞ。 」
と綴っているが、清河八郎が記したうつつという駅とは内津のことである。
内々神社は、延喜式神名帳に、「春日部郡 内々神社」
と記載され、尾張国神明帳には、「正三位内々天神」 と記されている由緒ある神社である。
主祭神は、尾張氏の祖、建稲種命(たけいなだねのみこと)で、
配神は日本武尊と宮簀姫命(みやずひめのみこと)である。
戦国時代に社殿は荒廃したが、
現在の社殿は文化十二年(1815)から十年の歳月をかけて、
信州立川流の立川富棟、冨之、冨方親子が建築したものである。 」
社殿は本殿と拝殿の中間に幣殿をもつ権現造りで、
本殿は桁行三間、梁行二間、前に庇のある三間社流造り、
拝殿は一間の向拝付きの入母屋造りである。
これを建てた棟梁は、「諏訪の和四郎」とよばれた、
諏訪の立川流棟梁の立川和四郎富棟で、諏訪大社の社殿などを手掛けた名工である。
清河八郎の西遊草に、 「 誠に上手なる彫ものあり。
念をこめたる作にて、近頃見あたらぬ立派な普請なり。 」 とあるが、
拝殿上部を見ても、見事な彫刻が施されていた。
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奥にある庭は、南北朝時代の名僧、夢窓国師(1275-1351)の手によるもので、 回遊式林泉型の庭園である。
清河八郎は 「 裏に山水の庭あり。 岩石そばだち、 池に鯉鮒多く清らかな境地なり。 」 と書いているが、 冬という気候のせいか、手入れのせいか、分らないが、 名園という風情に欠けるように思えたのは審美眼がないせいだろうか?!
幣殿の右側に上るところがあり、東海自然歩道のルートにもなっているが、上るとすみれ塚がある。
「 すみれ塚は、内津の俳人・長谷川三止が、
明和年(1769)に芭蕉の句碑を横井也有の筆で建てたものである。
句碑には、芭蕉が逢坂山あたりで吟じた
「 山路きて なにやらゆかし すみれ塚 」
の句が刻まれているが、
内津がそこに似ているとのことで建てたものといわれる。 」
世有の句碑 「 鹿啼くや 山にうつふく 人心 」 など合計六つの句碑があったが、案内板に位置が図示されていないのと 雑草が茂っていること、最大の理由は文字が摩耗していることで、句と句碑が特定できなかったのは残念だった。
内々神社の右側には、「北辰妙見尊」と「内津妙見寺」と書かれた標柱があり、 その先にお堂が建っていた。
「
内々神社は、中世に入ると神仏混淆の時代をむかえ、妙見尊王を本地とし、
建稲種命を垂迹とした、妙見信仰の拠点となり、妙見宮と称した。
現在の内津妙見寺は、嘉暦年間(1326〜29)に、密蔵院開山慈妙上人によって、
妙見宮の神宮寺として建立された寺である。 」
清河八郎は 「 妙見大菩薩の宮あり。 いたって人の信心する神にて、 」 と書いているが、 当時は、内々神社と内津妙見寺が一体となり、「妙見大菩薩の宮」と呼ばれていたことが分かった。
時計を見ると十四時五分、予定していたより、一時間以上余分にかかったということで、
当初は土岐市駅までを予定していたのを変更せざるをえないだろう。
それにしても、無人の内津は寂しい。
江戸時代、多くの旅人が行きかった街道は、鉄道の開通で今日の姿に変えてしまった。
今日ここに来る人のほとんどは東海自然歩道を歩く途中で寄るだけである。
春日井市と多治見市が連携して、下街道をもっとPRしたらよいように思えたが・・・・
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旅をした日 平成23年(2011)1月28日(金)