平成二十三年一月十九日、大曾根駅前のうどん屋で、 味噌にこみうどんを昼食でいただいたので、冷えた身体が温まった。
大曾根駅前の東大曾根交叉点に出ると、
この交叉点のJRのガードに近いところから交叉点を横断すると、
対面にBMWの店舗があった。
その脇を北上すると山田2交叉点に出たので、右折して進む。
その先の交叉点を越えると、右側に名古屋山田郵便局があるが、
その先を右折すると左側に真言宗智山派の秋葉山常光院があった。
その先には、 「厄災守護神 きもんさん」の看板がある山田天満宮がある。
「 山田天満宮は、尾張徳川二代目の徳川光友が、寛文十二年(1672)、 名古屋宿の北東の鬼門にあたる下街道のこの地に、 大宰府天満宮から勧請した神社である。 」
国道に戻り、少し行くと右側に山田幼稚園がある。
右の道を入ると、左側の寺と幼稚園の入口に、山田重忠朝臣之碑が建っている。
「 山田重忠は清和源氏の末裔で、
平安末期から鎌倉時代初期の武将である。
祖父の重直が河辺荘(現在のあま市七宝町)から当地に移った際、
源から山田に姓を変えた。
山田一族は尾張、美濃、三河、近江に勢力を伸ばしだが、その中心が重忠である。
鎌倉幕府の誕生により、重忠は尾張国山田荘の地頭に任じられ、御家人になった。
所領の山田荘は、現在の名古屋市北区、東区、守山区と春日井市に及ぶ領地である。
山田一族は朝廷とのつながりがもとから強かったことから悲劇が起きた。
山田重忠は京都御所で後鳥羽上皇に近侍していたが、
その最中に起きた後鳥羽上皇による承久の変で、朝廷側の武将として、
杭瀬川、瀬田川の戦いで奮戦したものの敗れ、京都の嵯峨野の竹藪で自決した。 」
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国道に戻り、北に向かった歩くと、道は上り坂になるが、右側にある細い道の右側には長昌寺がある。
国道を歩くと天神橋南交叉点の先には矢田川があり、 川には天神橋が架かっている。
「 ここは、江戸時代に山田の渡しがあったところで、
徒歩渡しが通常だった。
秋から春の渇水期には有料の仮橋が架けられたが、
矢田川に本格的な橋が架けられるのは明治以降である。 」
この交叉点で左側に移り、天神橋を渡ると、
下街道は国道と別れて左の細い道に入る。
すぐに右のUターンする道を下り、北に向かう。
このあたりは名古屋市守山区瀬古東一丁目である。
「 江戸時代には、街道に沿って旅籠や酒屋、めし屋があり、 煮売り屋坂の口屋は街道を行き交う人々に弁当など販売していたという。 」
左側に「坂口屋」という店があったが、その店と関係はあるのだろうか?
右側には、水害に備えて高く積まれたところに小さな祠が祀られていた。
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その先の信号交叉点を左折して、すぐに左の道に入っていくと、
うっそうとした木立が見えてきて、交叉点の右側に「尾張西国第十三番 石山寺」の大きな標柱があった。
交叉点を越えていくと、右側に石山寺があった。
「 石山寺は、寛元年間(1243-47)に道円により開基されたといわれる天台宗の寺院である。
本尊が大津の石山寺の観音と同じ木で彫ったといわれることから、
石山寺が寺名になった、と伝えられる。 」
尾張藩第二代、徳川光友により、延宝三年(1675)に再建された寺だが、 境内に入った感じでは建物は全て新しかった。
その先に進むと、左手には矢田川の北側堤防が接近してくるが、
森の中にあったのは式内宮の高牟神社である。
境内には熱田社、金毘羅社、靖国社もあった。
「 延喜式神名帳に尾張国春日部郡高牟神社と記され、
養老元年(717)の創建と伝えられる古社である。
神紋が梅で、祭神は菅原道真であるが、その他に高皇産霊神、伊邪那岐命、
素戔嗚命、天照皇大神、大山祇命、菊理媛命も祀られている。
高牟神社には天神様の軸が祀られていて、
神社の祢宜が山田の質屋にこの軸を入質したが、
その後、神社に軸が戻されたが、その後も天神様の軸が橋を行き来したことから天神橋と呼ばれるようになった、という説もあるようである。
この掛け軸は昭和二十年五月の名古屋大空襲により社殿と共に焼失してしまった。 」
先程の信号交叉点に戻り、進むと左側に朽始めた赤い鳥居があり、
その先右側には名古屋瀬古郵便局があった。
その先で、正面に瀬古小学校のグラントが見える三叉路に出たが、
瀬古小学校の右脇にある道に入り、北上を続ける。
右側に工場があるので、何かなと思ったら、
「酒は東龍」 という看板が屋上にあった。
その先の交叉点の左側には東春酒造の販売所があり、
東龍は東春酒造の商標だった。
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交叉点を越えると、道は右斜めに進んでいくが、
三叉路の左手を覗くと、石垣を積み上げた上に土蔵のようなものが見えた。
中に入っていくと、東春酒造の蔵式水屋があった。
「 城郭のように石積した上に蔵式水屋が残る。
これは佐藤藤兵衛が元治二年(1865)に名古屋城の櫓を建造する予定の材木を
譲り受けて、酒蔵を造ったことに由来するものといわれる。 」
このあたりは庄内川と矢田川にはさまれた低地のため、 少しの雨でも道は冠水したといい、当時の人々の難渋が偲ばれる。
そのまま進むと、交叉点の左側に地蔵堂と天王社が建っていた。
「 江戸時代の下街道は瀬古村から幸心村へ、
やがて勝川の渡しへ至った。
渡し場の南の坂は喜一坂といわれた急坂で、
馬が倒れた程の難所だったといわれ、
馬方達が供養のために建てた馬頭観音はこの急坂に祀られていたが、
現在は石山寺の門脇に移されている。 」
現在の荘内川には勝川橋が架かっているが、
江戸時代の渡しは橋より右手に出ていたようである。
渡しの跡は確認できなかった。
「 江戸時代の勝川の渡しは、
季節により仮橋と船を交互に使用していた。
尾張藩管理の上街道は船や橋材を藩から支給されたのに対し、
下街道の渡しは私設なので船や橋材は村の負担なので、
渡し賃は上街道より高めで、渡船の場合、馬一駄荷十文、人六文だった。
尾張藩は、享保八年(1723)、渡し場に運上金を定め、
尾張藩の味碗の渡しを含む関係六ヶ村 (山田、守山、大野木、安井、勝川、
味鋺の各村) から、上納金を徴収した。
この制度は過剰な渡し賃を取ったことから、トラブルが起きたため、
天明年間(1781〜)に廃止になるまで、続けられた。 」
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地蔵堂の交叉点を右折して、坂を上ると国道に出たので、
右折するとまだ坂は続いていて、勝川橋に出た。
これらも見ても、喜一坂が急であったことが想像できた。
「 荘内川は水が流れている部分は少なく、 橋の上から下を見下ろすと、右側にゴルフ練習場、左側に野球場がある。 しかし、この川の下流は海抜零メーター地帯で、 大雨が降ると海への排水が間に合わず、 床上浸水の被害を受けることが時々起きている。 」
荘内川が流れている部分のほぼ中央まで行くと、春日井市の花として桜が、 名古屋市の花として百合が橋の欄干に浮彫されていたが、 これはどうやら市の境界を示すものと思われた。
勝川橋を渡ると勝川橋北交叉点。
江戸時代は勝川の渡しを渡ると勝川村となったが、現在は春日井市勝川町である。
交叉点を右折して川縁を歩き、
左下の名古屋自動車学校が過ぎたと思われるところで、左に降りていく。
学校の脇を通ると突き当たるので、左折して、続いて右折、
右の板金工場の前を過ぎると地蔵川に突き当る。
江戸時代にはここから対岸には徒歩渡りで歩いていったが、
今は左手に地蔵橋がある。
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寄り道をする為、橋の左側に行き、南下すると国道の西側に地蔵ヶ池公園がある。
中に入っていくと区画整理記念碑と地藏池懐古碑が建っていた。
昭和四十二年建立の地藏池懐古碑には、
「 地蔵川は、昔は幅が広く地蔵沼ともいわれた。
今を去る七百年以上の文永年中に、この池から地蔵尊の霊佛が現れたので、
お祀りして地藏寺を建てた。
明治維新後は、一般の人もここで釣りをすることができるようになり、
池の周囲には天神社や地蔵寺もあった。 」 ということと、
「 池も寺も所を変えてそのかみの葦の葉ずれを聴くよしもなし 」 という安藤直太郎の句が書かれていた。
干拓事業の結果が国道の両側の現在の土地と公園なのだと思うと、
かなり広かっただろうと思えた。
奥に勝川天神社の鳥居や社殿、狛犬が祀られていたが、それらは新しかった。
社殿前にある石碑には、
「 当神社は正和2年(1313) 無盡禅師によって創建されたと伝えられている。
もとは高山という処にあったが後世今の地に移し、
神仏混淆の時代には地蔵寺の僧が祭祀を掌ったという。
尾張地名考に陸奥國二本松城主丹羽加賀守の屋敷の鎮守であったとも伝承されている。 」 とある。
「
勝川天神社の創建は正和二年(1312)とあるが、それは定かではないようである。
東入口の常夜燈に「嘉永七寅年十一月」と記されていることから、
この頃には地蔵池の傍らに社殿が建ち、勝川村の氏神として、
人々の厚い信仰を得ていたことは間違いないだろう。
明治四十二年の神社統合令により、勝川地内にあった神明社、洲原神社、山神社、神明社を合祀して、今日に至っている。 」
街道に戻り、地蔵橋を渡ると右折して、二つ目の道を左折する。
右側に山門と「龍源山太清寺」の大きな石柱があった。
山門をくぐると、左側に屋根を葺き替え中の本堂があり、
右の手前に寺の歴史が記されていた。
「 当寺は、昔醍醐山龍源寺といったが、草創の時期は不詳。
山号からして山城国醍醐寺との深い関わりを持ち、
この一帯が醍醐寺領の荘園だったことや醍醐塚という古い地名が残ることから、
この寺は千年を経過していると思われる。
その後、荒廃したが、名古屋の宝林寺の住職の弟子、宗悦により、
慶安四年(1651)に宝林寺の末寺として再興し、寛文三年(1663)に現在の寺名に改め、享保十一年に妙心寺の直属の禅寺となった。 」
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正面にあるお堂は薬師堂である。
前述の「太清寺の歴史」の説明板には、
「 本堂は天保八年(1837)の台風で大破したが、
嘉永三年(1850)に再建。 」 、
薬師堂に関しては、 「 慶安四年(1651)に薬師如来の御開帳を村中をあげて行った。
明治二十四年(1891)の濃尾大地震で倒壊した薬師堂は、大正十年(1911)に再建され、御開帳は三十三年毎に行われる。 」 と書かれていた。
石段を降りると、左手にある大きな建物の二階の四十五坪のお堂の奥に、 金箔の厨子に収まった阿弥陀如来と十王尊が安置されていることから、 この建物を十王堂とか阿弥陀堂と呼んでいる。
「 十王堂では、普通は十王尊のみが祀られている。
人は死後、生前の善悪により、裁かれて冥府に送られるといわれるが、
それを裁く裁判官が十王尊である。
当寺の十王堂では、
阿弥陀如来の両側に五人ずつの恐ろしい顔の十王尊が並んで祀られている。
「十王堂は他に土地にあったのが大水に流されて、地蔵池にたどりついた。
その十王尊をこの寺の阿弥陀堂に祀った。 」
と伝えられることから、当地では十王堂を阿弥陀堂とも呼んでいる。 」
前述の「太清寺の歴史」の説明板には
「 天正十二年(1584)、徳川家康は小牧山から長久手に向かう途中で、当地で小休し、 勝川の名を吉慶と喜び、阿弥陀堂で必勝祈願をして出陣し、勝利を収めた。 」
とあるが、他の文献には 「 小牧・長久手の戦いの際、 徳川家康は小牧山から長久手に向かう途中この寺の十王堂で休憩したが、 その際に十王堂は狼煙代わりに焼かれた。 」 とあったり、 尾張徇行記には、 「 徳川家康軍により、焼き払われた。 」 とあり、内容が違う。
寺の歴史の案内板には書かれていなかったが、戦国時代には敵軍の攻撃に備えて、 そうした行為は多かったので、 龍源寺の堂宇はこれで焼失したことは否定できない。
家康はこの戦で、庄屋の甚助を呼び出し、庄内川の深さと土地の名を尋ねたところ、「 徒歩(かち)にて渡れるかち川にございます 」 と答えた。
家康は戦を前にして勝ち川とは縁起がよいと喜び、
甚助の妻が差し出した牡丹餅を食べた。
家康は、その後、道案内などの功を認め、名字帯刀を許し、
代々長谷川甚助と名乗るようになった。
初代甚助の墓は太清寺境内にある。
阿弥陀堂は、江戸時代の承応二年(1653)に下街道沿いの勝川札の辻の愛宕社の西側に再建されたが、 その際、焼失した時の余木で彫刻された阿弥陀如来が安置された。
「
延宝四年(1676)の大水で、熊野町牛毛から流された十王堂が、
地蔵沼に流れ着いたので、十王堂を阿弥陀堂に合祀したといわれる。
そうしたことから、阿弥陀堂は十王堂と呼ばれるようになったと思われる。
街道筋に建てられた阿弥陀堂は、
間口二間半、奥行三間のお堂に十六坪の庫裏があったようで、
天保八年(1837)の台風で大破したが、明治五年(1872)に再建された。
しかし、昭和五十五年(1980)の国道の拡張工事により、この建物は壊され、
阿弥陀堂は天正時代にあった太清寺の境内に移転された。 」
十王堂の入口脇に、江戸時代の俳人、横井也有が勝川を詠んだ句碑が建っていた
「 かち人の けあげや駕に 露時雨 」
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太清寺を出ると、その三叉路で左折して、国道に出て、北に向かって進む。
「 下街道は幕府承認の街道ではないため、宿駅制度はなく、
宿場は正式に設けられなかったが、
勝川村は上街道への追分でもあったので、宿場に匹敵する賑わいを見せていた。
文化年間(1804-1817)の勝川村の家数は百六十五軒、宿場の人口は八百人ほどで、
旅籠も十軒以上あったといわれる。 」
交叉点を越えると、右側の空き地の先に立派な屋敷が見えた。
屋敷の門前には 「都市景観形成建物物等 長谷川邸(屋号住吉屋)」 の説明板があった。
「 当長谷川邸は屋号を住吉屋とし、
下街道沿いの十数軒の旅籠の中でも規模が大きいもので、
文政期における宿屋営業の記録が残る。 現存する建物は往時の姿をよく伝えている。
文政四年(1821)の宿泊記録によると、
年間の宿泊者は七百九十人で、武士も宿泊した。
国道の拡幅工事により、南へ約二十メートル、東へ約三十メートル移動したが、
母屋と蔵の造りは当時のままである。 」
その先右側に二段の石組の上に祀られている社は愛宕社である。
こんもりしているのは古墳で、その上に愛宕社が建っている。
「 正和二年(1313)の創建と伝えられ、祭神は火具都知命である。
古墳時代後期の横穴式石室墳と推測されるもので、
勝川古墳群では唯一現存するものである。 」
下街道は愛宕社の三叉路を右に入り、国道と別れる。
次の交叉点を左折し、次の道を右折し、また、左折し、右折する枡形を東に進む。
三叉路で左に曲がって進むと、東名阪自動車道路の高架下に出る。
ガードをくぐると、左側の上屋敷公園の中に、「勝川廃寺跡」の説明板が立っていた。
「 勝川廃寺は、白鳳時代の寺院で、発掘調査により東西二百二十七メートル、
南北百四十八メートルの大きな敷地と確認され、
その跡からは軒丸瓦、軒平瓦、鬼瓦、平瓦、須恵器等が出土した。
ここは地蔵川の右岸、洪積台地(鳥居松面)の南縁近くに位置するが、
出土した瓦は市東部の高蔵寺瓦窯でつくられたものと考えられている。 」
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東海交通事業鉄道の高架橋をくぐると、勝川町五丁目交叉点に出たので、
左折して進むと大和公園の隣に「瑞雲山地蔵寺」の標柱があり、
中に入っていくと、地蔵寺の山門と鐘楼があった。
山門の右側には百観音巡礼碑や石仏群を安置した祠があった。
「 地蔵寺は、文永二年(1264)、山田重忠の弟、幸心城主の山田左衛門明長が
創建した臨済宗東福寺派の寺である。
最初は勝川天神社に隣接した地蔵ヶ池付近にあったが、度重なる洪水から、昭和二年に現在地に移った。
現在の本堂は平成二年に建てられたものである。 」
街道に戻ると、勝川町六丁目交叉点の右手には勝川駅があった。
その先の信号交叉点を左折すると、勝川駅前商店街になっている。
商店街に入って行くと 「勝川大弘法入口」 の看板がある。
中に入ると、お堂に「高野山真言宗持明院別院崇彦寺」とあり、
屋根に金色で大きな弘法大師像があった。
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街道に戻り、北に向かう。
柏井町一丁目交叉点を越えると、右側に茅葺きの家が残っていた。
最近は茅葺き屋根を合金製の金属で覆っているのが普通だから、
愛知県で茅葺の民家を見たのは初めてではないだろうか?
その先、横断歩道橋があるが、左側に八幡社の鳥居が建っていたので、
木立の中に入っていった。
右側にその他の境内社があり、左側に本殿があった。
「 八幡社は、古くは下条村に鎮座していた。
柏井の荘(下条村、上条村、松河戸村、中切村)の総鎮守だったが、
寛文十一年(1671)にこの柏井の地に遷座されたと記されている。
元禄十二年(1699)に社殿を再建。 大正三年に宇前田八幡と宇北神明社を合祀した。
合祀された宇北神明社は、享保十二年(1727)に八田与吉新田が開拓された時、
八田与吉が野辺にあった神社を再建したものである。 」
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街道に戻ると、その先右斜めに入る道を行くが、
このあたりは柏井町二丁目である。
交叉点を直進し、次の三叉路で左の道に入り、次の交叉点で右折して、
この後は道なりに進むと、「千本桜」の石碑がある広域緑道が現れた。
広域緑道を横断すると、柏井町五丁目になるが、 三百メートル余り行くと左側に庚申寺がある。
「 民家のような構造の上に車が多く駐車していたので、
集会所と思って通り過ぎたが、江戸時代には休憩所としても利用されたといわれる。
本尊が青面金剛童子であることから、「庚申寺」という寺名になったのだろう。
左側には石像がずらーと並び、左端に秋葉大権現の小祠が祀られていた。 」
庚申寺の先の交叉点を右折すると、左側に臨済宗妙心寺派の桂林寺がある。
「 本尊は観世音菩薩で、
寛文十一年寂の達禅和尚が建立したといわれる寺だが、
この地は尾張藩竹腰山城守の知行地だったので、
寺に竹腰家の位牌が残っているという。 」
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下街道は交叉点を左折して、次の三叉路を右折して、 その後は北東に進む道であるが、県道沿いにある慈眼寺へ寄り道する。
その先の広い道に出ると、交叉点を左折し、県道に出た。
交叉点を直進すると春日井高校であるが、
道の左斜めに黄檗宗紫金山慈眼寺の楼門があったので、楼門をくぐり、
本堂に着いた。
「本堂の脇の説明板」
「 本寺は黄檗宗を中国から伝えた隠元の孫弟子、越伝が小牧に開いた寺だった。
越伝の弟子、単伝により、宝永六年(1709)、当地に同名の寺を復興した。
木造の聖観音菩薩坐像は平安時代の作で、江戸時代に当寺に来た。 」
慈眼寺楼門の左側には「柏井稲荷神社」の標柱と鳥居が建っていた。
街道に戻ると、秋葉社があった。
真ん中にある「秋葉山」と書かれた石柱には、
その下に鎌の形の中に藤(?)という字が記されていた。
その先で広い道が横ぎる信号のない交叉点に出た。
交叉点を越えると左の家の外壁に木柱をブロックに囲んだ装飾がある家が あった。 ここは鳥居松二丁目である。
下街道はここからしばらくは北東に向かって進んでいく。
右側の白鳥町内会集会所の前には、
秋葉山を祀る祠と文化年間建立の馬頭観音など四体を祀った祠があった。
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四百メートル程歩くと、塀で囲まれた中に蔵や大きな建物がある屋敷が続いていた。
その先の交叉点を越えると、色タイル舗装の道になった。
交叉点の左側には鳥居松公園、その先には鳥居松三丁目交叉点がある。
カラー舗装の道をいくと、
左側に江戸時代に油屋を営んでいたという老舗の油茂商店があった。
この通りには古そうな家が多くあったので、
今日歩いた中では一番街道らしい雰囲気だった。
その先の左側に常夜燈と屋根の下に小さな祠が三つ祀られたところがあった。
常夜燈には文久二年の表示があった。
江戸時代にはこのあたりに巡見道があったはずだが、どれなのかは確認できなかった。
鳥居松南交叉点を越えると、カラー舗装の道で、
右側には「ブラリモール」の看板があり、
その先左側には「蔦屋本家」の古い建物があった。
二百五十メートル程歩くと、左側に郷土館があり、
建物の前には「明治天皇御小休所」の石碑が建っていた。
「 この建物は、幕末の安政三年(1856)に、
酒造家飯田重蔵氏の離れ座敷として建てられたもので、
一部改築されているが、当時の形をとどめているといわれ、
国の史跡に指定されている。
明治十三年の明治天皇御巡幸の際には御小休所になった。
その後、尾三銀行、大垣共立銀行の所有となり、昭和十三年に当時の篠木村が買取った。 」
百メートル程歩くと左側に鳥居松観音堂があった。
お堂の中には馬頭観音石像、三十三観音を彫った石碑があり、
お堂の横には飯田重蔵碑が二基あった。
時計を見ると十五時四十分である。
まだまだ歩ける時間だが、年寄りには寒さは禁物。
その先の中央通北交叉点を右折し、下街道とは別れる。
十分ほど歩き、春日井橋を渡るとJR春日井駅に到着。
今日の旅はここで終了した。
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旅をした日 平成23年(2011)1月19日(水)