平成二十三年一月十九日(水)、今冬は寒い日が続いていて、
今朝も車の窓ガラスを溶かすのに難儀をした。
電車で名古屋地下鉄久屋大通駅までいき、そこから旅は始まった。
「 下街道と呼ばれる道は、全国に何ヶ所かあるが、
今回歩くのは、中山道の大井宿と名古屋宿を結んだ六十数キロの脇往還である。
江戸時代に人は健脚だったので、この区間を二日程で歩いたと思われるが、
小生はゆっくり楽しみながら歩いていきたい。 」
通勤客が行きかう桜通りを西に向かい、 桜通本町交叉点を左折すると、伝馬町本町交叉点に出た。
「 江戸時代、尾張藩の名古屋城の城下には美濃路の名古屋宿があった。
美濃路は、東海道の宮宿の伝馬町追分で、東海道と別れる脇往還で、
大須の門前町を通り、広小路、本町を経由し、大垣に向かう道である。
名古屋宿は、慶長十八年(1613)に美濃路の宿場となったが、尾張藩の城下町だったため、
伝馬会所や御触書を掲げる高札場は置かれたが、本陣や脇本陣は置かれなかった。 」
伝馬町本町交叉点は「本町通り」と「伝馬町通り」が交叉するところにあり、 江戸時代には「札の辻」と呼ばれたところである。
「 左下写真の左側のビルは南西角にあたるが、
慶長十八年に設けられた「伝馬会所」があった跡である。
写真右側の北西角は工事塀で囲まれているが、
ここは寛文五年(1665)に尾張藩の書状や物品を江戸に届ける「飛脚会所」が置かれた跡地である。
高札場は東南角にあったようである。 」
交叉点の北西の工事塀と道路の間の歩道には、それらを示す 「伝馬会所 札の辻」 と書かれた石碑があり、以下の文字とこのあたりの風景が描かれていた。
「石碑に刻まれた文字」
『 尾張図会には「 官道の馬継所なり。 京の方、清須宿へ二里、江戸の方、
熱田宿へ一里半、慶長十八年より宿駅となる。
旅籠屋も玉屋町にあれて、東西南北の岐なれば京大阪より吾妻に下る官人も、
伊勢路より信濃のかたへ通る旅客も公私を論ぜずみな此所を往来せずという事はなく、
又町の中央」 と記してあります。
名古屋からの距離はここを基点として測定しました。 正保元年(1644)には、法度掟書などを記した高札を掲げる高札場も設けられ、
札の辻とよびました。 』
美濃街道は、この後、伝馬町を進み、名古屋城の周囲を通り、大垣宿を経て、
垂井宿追分で中山道に合流していた。
下街道もここが起点で、これより北に向かい、勝川、内津、池田、高山、釜戸を経て、
槙ヶ根追分で中山道に通じていた。
一つ先の桜通本町交叉点を左折すると、ビルに囲まれたところに桜天神社がある。
「 信長の父・織田信秀が、
那古野城の中に祠を設けて菅原道真を祀っていたのが始まりだが、天文七年(1537)になり、現在地に移された。
このあたりは桜の名所だったことから、桜天神の名で呼ばれるようになったのである。 」
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入口に小さな鐘楼の模型のようなものがあり、があった。
説明板「時分鐘」
「 万治四年(1661)三月、藩命により、鐘楼をつくり、
鍋屋町水野太郎左衛門藤原則重が鋳造した鐘を昼夜十二時について時を知らせた。
宝暦十三年の火災で焼失したが、翌年明和元年藤原孝政鐘を新調して、時を知らせた。
この鐘は音色がよく、名古屋城下に鳴りひびいていたが、明治六年(1873)に廃止された。 」
本町通りを進むと京町通に出たが、交叉点手前右側には中日病院がある。
「 江戸時代の文政十一年編纂の名古屋城下図を見ると、
交叉点の南西側には「茶屋長意」が、記載されている。
これは茶屋四郎二郎清次の弟、新四郎長吉が尾張茶屋を営んだところであるが、
ここにはそれを示す石柱などは建っていなかった。 」
中日病院側に戻ると、交叉点角の歩道に道標があるのに気が付いた。
道標の四面には 「南 あつた、西 みの、 北 おしろ、東 ぜんこうじみち 」
と書かれていた。
本町通りを直進すると、本町橋交叉点に出る。
交叉点手前の右側には県産業貿易館、そして西側には同西館があるが、
県産業貿易館は尾張藩の評定所、西館は町方役所があった跡である。
「 交叉点の先は名古屋城の外濠跡で、 江戸時代には橋を渡ると城内に入る大手門があり、三の丸へ通じていた。 」
本町橋交叉点の一筋手前の交叉点を左折していくと、 那古野神社の前に出た。
市教育委員会が建てた説明板「那古野神社」
「 延喜十一年(911)の創建といわれ、素盞鳴尊を祭神とする。
もとは天王社又は亀尾天王社ともいい、城内三の丸にあった。
慶長十五年(1610)、名古屋城築城の際、徳川家康が御神籤でもって神意を伺ったところ、遷座は不可と出たため、
そのまま城内に留まり、城の鎮護と名古屋の氏神として祀った。
明治九年(1876)、現在地に移され、明治三十四年に那古野神社と改称された。 」
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鳥居をくぐり進むと、右手に常夜燈が立ち並び、その先に那古野神社の社殿があった。
「 那古野神社は、津島牛頭天王社を総本社とする天王社の一つで、
創建時には若宮八幡社と隣接していた。
織田信秀と今川氏豊との那古野合戦の際に焼失したが、信秀により再建された。
慶長十五年の名古屋城築城の際に、当神社のみ三の丸の郭内に取り込まれ、
若宮八幡社は城外に遷座した。
明治九年に移された現在地は、九代藩主の徳川宗睦が藩士の子弟教育のため開設した藩校・明倫堂の跡地である。 」
参道に戻ると、左側に金山神社が祀られていた。
その先をくぐると、東照宮が建っていた。
「 東照宮は、尾張徳川初代藩主・義直が、 元和五年(1619)に名古屋城内三の丸に父家康の像を祀ったのが始まりだが、 これもまた、明治九年に明倫堂の跡地に移された。 」
中日病院まで戻り、「東 ぜんこうじみち 」と書かれた道標の指示通り、
京町通りを東に向かう。
左側に頭痛薬のノーシンで有名なアラクス(旧荒川長太郎合名会社)がある。
この会社の創業は嘉永六年(1853)とあるので、老舗であるが、
このあたりは薬関係の会社が多い。
その先左側にあった少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)は、 薬や医療、温泉、国土開発、醸造、交易の神であるので、 この地の医薬業に携わる会社や関係者などの信仰を集めているようである。
名城小学校を過ぎると、大津通りと交叉する信号交叉点に出る。
下街道は直進だが、交叉点を左折すると、左側に伊勢久株式会社、
その隣には愛知県庁大津橋分室の建物がある。
「 伊勢久の創業は宝永八年(1758)というから、
二百五十二年も続いていることになる。
この建物は昭和五年(1930)の建築である。
愛知県庁大津橋分室の建物は、昭和八年(1932)の建築で、
丸窓、バルコニーの装飾などがアールデコ調である。
建築当初は愛知県信用組合連合会会館だったが、
昭和三十二年(1957)に愛知県の施設になった。 」
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これらの先には大津橋が見えたが、交叉点まで戻り、
直進すると左に名古屋大津町郵便局があり、
その先左側に歯の博物館、その奥には誓願寺がある。
これらを横目で見ながら過ぎると、久屋大通りに出た。
ここには南北に広がる久屋公園があり、
桜通りと交叉するところにロスアンジェルス広場がある。
信号交叉点を越えて進むと、かっては民家がごみごみと建っていたが、
いつの間にか、ペンシルのように細いマンション群に変わっていたのには驚いた。
この一方通行の道を進み、前方に高架橋が見えてきたと思うと、東片端南交叉点に出た 。
「 高架橋は名古屋高速空港線で、その下にあるのは国道41号である。
ここは尾張藩が独自に設けた脇街道の上街道の起点である。
上街道はここから中山道の伏見宿までの十里八丁(約40km)の道程で、
現在の国道41号に相当する。 」
下街道は、この交叉点も越えてすすむが、右側に鍋屋、左側に洋菓子のボンボンがある。
今はフランスまで修業にいったパティシェが各地にいる時代だが、
子供が幼かった頃は、
名古屋でおいしいケーキを売る店は少なかった。
この店のケーキは小さいが、味がよかったので、しばしば買って帰った。 」
その店の脇を通るとは思わなかったが、
この通りの入口には「鍋屋町通」と表示されていた。
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現在のこのあたりの地名は「泉二丁目」という味もそっけもないものだが、 江戸時代は鍋屋町だった。
「 名古屋城を築城した時、
尾張藩は清洲にいた多くの鋳物師を強制的この土地に移住させた。
鋳物師(いもじ)の町なので、鍋屋町という町名になった。 」
少し歩くと左側に「紫金堂」の看板を掲げた家があり、 その前に「加藤忠三郎家之略記」という説明板があった。
「 永禄の頃より守山村に住し、慶長六年藩主に召され、清須に移る。 更に、同十六年には名古屋城築城がなり、御城本丸より約1kmほど隔てた当地に、 尾張藩鋳物師棟梁水野太郎左衛門一家とともに、 藩許の鋳物師として藩の御用を努め、五代目の折、 御釜師として苗字帯刀上下着用を許され、丸の中に八、下に一と書いた定紋、 纏と提灯等を賜り、お城が大事の時は本丸に参じる事の御下命を受ける。 これより代々当地にて茶の湯釜等を製作し、現在に至る。 十二代目 」
紫金堂の当主は、加藤忠三郎第十二代目で、 尾張藩の御釜師時代の伝統的な技法で茶釜を作り続けているという。
更に進むと、左側に松山神社がある。
鳥居の脇に「鍋屋町」と町名が書かれた石柱があった。
お清め水の井戸には、 「 古来いかなるかんばつの時にも涸れたことがなく、 天恵の井戸と珍重される井戸水で、 往昔の武将はこの井戸を賞賛して、愛用し精気を養った。 」 とあった。
境内の大銀杏は大き、くかなり古いもののようである。
松山神社の隣には円明寺があった。
道の右側の舎人公園の東には十一面観音を本尊とする浄土宗の室寺観音院がある。
「 戦前まではかなり広い寺域を持つていた寺であるが、
今はかなり減ったようである。
境内には、江戸時代に盛んだった西国三十三観音信仰の石仏群が並んで建っているが、
これらは江戸末期の文化文政年間から天保年間までのものである。 」
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このあたりは、江戸時代には「九十軒町」といわれたところであるが、 当時は九十軒の家があったのだろうか?
少し歩くと代官町交叉点に出た。
その手前の右側には明治十年(1877)に建てられた道標が建っていた。
「 片面に善光寺道、反対面に京大阪道と刻まれたこの道標は、
最初は鍋屋町通の江戸時代に佐野屋の辻とよばれた場所にあったのだが、
市の区画整理により、現在地に移転させられたのである。
なお、佐野屋の辻とは、名古屋築城の頃、丹羽郡千秋村(現一宮市)の佐野から、
この地に移り住んだ二軒の店に由来する。
一軒は鍋屋町通の北西角の酒屋佐野屋、
もう一軒は東南角の味噌屋佐野屋という富商である。 」
下街道は代官町交叉点を左折して、国道19号を進むのだが、少し寄り道する。
交叉点を直進し、次の信号交叉点を左折すると右側に東警察署があり、
その先の信号交叉点の先には東区役所があるが、
交叉点を右折すると建中寺の門がある。
「 建中寺は、第二代尾張藩主・徳川光友が、
慶安四年(1651)に父の初代藩主徳川義直の菩提を弔うために建立した寺で、
代々の尾張藩主の廟が置かれていたところである。
創建した頃の境内は四万八千坪もあり、周囲を石垣と堀で囲い、
多数の御堂が立ち並ぶ規模を誇っていた。
境内の東側には大きな松林があり、
鬼門の方角は京都御所の「猿が辻」のようにへこませていた。
天明五年(1785)の大火で、総門と三門などを除く多数の建物が焼失したが、
翌年の天明六年とその翌年で再建された。 」
先程の区役所、東警察、愛知商業高校や筒井小学校、そして、 三門前の建中寺公園などは建中寺の敷地だったところで、 境内の規模は創建当時よりもかなり小さくなっている。
代官町交叉点まで戻って、国道19号を少しだけ歩くと、
次の平田町交叉点では交叉点の左側の細い道に入り、国道と平行して歩いていく。
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ここは相生町で、少し先の左側には 「 あかなべはらぐすり 」 などと書かれた道標が建っていた。
少し歩くと、道は突き当たりになるが、 斜め右前方の「フジセイ」の看板のある家の前の道に入り、進んでいく。
ここは「相生町枡形」と呼ばれるところで、 名古屋宿への出入りを複雑するために枡形になっていた。
右側には手作り和ろうそくの有賀商店があるが、 今はもう和ろうそく作りはしていないそうで、 名古屋に二軒残っている製造元の一軒、柳橋にあるお店から分けてもらっているという。
そのまま進むと、大通りに出る手前の左側に、享保年間創業の熊野屋があった。
現在は自然食品などを扱っているようだが、「あぶら」と書かれていたので、 江戸時代にはあぶら屋だったのだろう。
大通りに出ると右側に赤塚交叉点がある。
下街道は対面に続くが、横断歩道はないので、交叉点まで行って、対面の道に入った。
二百メートルも歩かないところで、店と駐車場に突き当たる。
江戸時代には、もう少し先まで道が続いていて、
そこには下街道(善光寺街道)の大木戸があり、
番人が名古屋宿に入る旅人を監視していた という。
三叉路を右折して国道にでると、Uターンをして、赤塚交叉点まで戻り、 国道を横断して反対側に出ると、正面に赤塚神明社の鳥居があった。
社伝
「 創建は詳かではないが、元和二年(1616)に古来からの神明社をこの一帯の総氏神として祀る。
寛永五年(1628)社殿再建
現在の建物は、平成二十年に、再建三百八十周年記念として造営したもので、
祭神は天照大神である。
境内社は須左之男神社、山神社、天神社、秋葉社、金刀羅神社、湊川神社があった。 」
江戸時代の城下地図には、赤塚神明社の東に大きな敷地を持つ相応寺が描かれている。
「 相応寺は、宝亀山公安院相応寺という寺で、尾張藩初代藩主徳川義直は、寛永二十年九月、
母、相応院殿の菩提のために
一万二千坪の敷地と寺領三百石を賜り、眼誉呑屋を開山として創建した寺である。
慶安三年五月、義直が逝去すると遺体を当寺に入れて供養し、後に定光寺に葬っている。
明治維新までは、尾張徳川家の尊崇が篤く、山内塔頭に東月院、玉相院などがあった。
しかし、昭和九年に、名古屋市千種区城山町に移転したため、その痕跡は残っていない。 」
相応寺の東には尾張藩目付家老の成瀬隼人正下屋敷があった。
「 成瀬隼人正下屋敷は、西北の徳川町交叉点から西南は山口町交叉点、
東は徳川園の北東にある信号交叉点から新出来町交叉点を結ぶ範囲とその敷地は広く、
その跡地に旭丘小学校、中京法律学校、徳川園、徳川美術館、蓬左文庫などが建っている。 」
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店と駐車場に突き当たる |
神明社の脇を国道に沿って進み、最初の道を右折し、 入って最初の三叉路を左折して、狭い道を進むと、右側に善行寺がある。
「 江戸時代の享保十四年(1729)に編纂された名古屋絵図には、
善行寺は、大木戸の東付近にあったように描かれている。
江戸時代、下街道は大木戸から東に進み、現在の善行寺と赤塚神明の中間あたりに出て、ここで左折して北に向かっていた。
道幅は二間(3.6m)だったと記録にある。
なお、善行寺が大木戸から北東のこの場所に移動したのは何時かは確認できなかった。 」
その先、国道の徳川二丁目交叉点の右手に出たが、右側の一方通行の道を進むと、
右に入る三叉路がある。
左に本覚寺、 右折すると左側に名古屋で最初の日蓮宗の寺といわれる了義院があったが、この寺にはなぜか鳥居があった。
鳥居の右側に芭蕉の句碑・三日月塚があった。
名古屋市教育委員会が建てた説明板「三日月塚」
「 芭蕉五十回忌の寛保三年(1743)十月に五条坊木児が建てたもので、
碑面に 「 有とあるたとへにも似ず三日の月 」 と笈日記の句形が刻してある。
この句には 「 大曾根成就院(了義院の前身)の帰るさに 」 という前書きがある。
昭和二十四年十月戦災で破損した原碑を原型に復し、別に新碑が建てられた。 」
芭蕉は、元禄元年(1688)七月、名古屋の円頓寺を訪れ、 「 有とある たとえにも似ず 三日の月 」 の俳句を詠んだことにちなみ、円頓寺商店街では、のれんにして飾っている。
了義院の隣は大曾根公園で、その先に関貞寺があった。
このあたりは、江戸時代には大曾根坂上と呼ばれた高台で、
御嶽山が見える景勝の地として知られていたようだが、
廻りは立て込んでいるので、その面影はなかった。
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三日月塚 |
右側には瑞忍寺祖母薬師があった。
関貞寺や瑞忍寺らの寺院は江戸時代にはすでにあった古い寺だが、
第二次大戦で大曾根地区は戦災にあっているので、建物は新しい。
「 寺院が善光寺街道沿いのこの地にあったのは、 名古屋城の鬼門にあたるため、市中に厄を入れないために設けたといわれる。 」
更に東に向かうと、通りの手前南側に片山八幡神社があった。
神社の由緒書
「 第二十六代継体天皇五年(1171)、尾張国山田郡片山郷即ち現在の地に御鎮座になったと云う。
室町時代中期までは押領地を有して本地御堂が備わっていたが、
戦国時代に入ると度々の兵火に遭ったため荒廃し、一時は熱田神宮預けとなった。
江戸時代の元禄年間、尾張二代藩主徳川光友より、
東照宮の神主だった吉見民部大輔とその子、左京大夫に命じて、
元禄八年十一月に厳荘なる社殿を建てさせ、御遷宮の祭儀が行うとともに、
境内に祀られていた天照皇大神、菊理媛神の二神も同殿に合祀した。
造営の際には、江戸の高田穴八幡宮を模した。
尾張徳川家の氏神であるとともに名古屋の鬼門にあたることから、
鬼門除けの御祈祷を勤しむべきと仰付けられた。
江戸時代には徳川家の庇護が厚かった。
昭和二十年の戦災により、境内にあった老樹を始め、建造物は全て焼失し、
現在の本殿、幣殿、拝殿、透塀などは昭和三十四年に、
神楽殿は昭和四十四年に建設されたものである。
旧社名を大曽根八幡社と云ったことが大曽根の地名の源なり。 」
片山八幡神社の境内に立つと、南に向かって開けるので、高台にあることが実感できた。
なお、江戸時代、関貞寺と片山八幡神社の北側には御先手同心の長屋があった。
街道に戻り、北に向かうと国道に出たが、その先は名鉄瀬戸線の高架橋が国道を横切る。
高架の下右側には森下駅があったが、
その先の大曾根南交叉点で国道は右斜めに曲がる。
江戸時代、七軒町だったのは、この左手の東区の区域のところだろうか?
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大曾根は戦災で焼け野原になり、その跡に簡易的な建物が立ち並んでいたが、
駅前の区画整理や地下鉄の進出などで、
オズモールやオゾンアベニューが出来て、かっての庶民的な雰囲気はなくなっている。
下街道だった道はどこかはっきりしないが、オズモール商店街を歩き、
交叉点の右角にある大誠堂の角を南に行く。
次の交叉点を左折すると、名古屋ケーブルビジョン駐車場の西角に、
「五ッ角堂」と書かれた小祠があり、
「南無大師遍照金剛」の赤いのぼりが建っていた。
「 ここは名古屋から瀬戸に通じる矢田道と善光寺に通じる山田道(下街道)が交叉する追分で、以前は六又路になっていたといわれる。
以前は四面に、 「右 いゐたみち(飯田道) 」 「左 江戸みち せんく已うじみち(善光寺道)」 「延享元甲子二月」 「念仏講」 と書かれた道標が建っていたが、
今は、地下鉄大曾根駅E6出入口北に移転して残されてしている。
出来ればここに移転してもらいたいものである。 」
五ッ角堂を東に進むと、信号交叉点がある大通りに出た。
交叉点を渡り左折して、次の角で右の道に入る。
この道が最近できたオゾンアベニューである。
この道を歩いて行くと、すぐに大曽根駅前に出た。
時計を見るとまだ十一時だったが、この後のことを考えて、うどんやに入り、
味噌煮込みを注文して、休憩となった。
看板に「手打ち」とあったが、小生だけの注文なのに時間がかかり、
食事を終えた時は十一時三十分を過ぎていた。
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旅をした日 平成23年(2011)1月19日(水)