稲置街道は、名古屋城東大手門と尾張藩附家老の成瀬氏の居城である犬山城を結んだ道で、犬山街道とも呼ばれた。
小牧は織田信長が小牧城を築いたが、徳川家康は城下町を移転して小牧宿を造り、代官を派遣した。
磨墨塚史跡公園は、梶原景時が源頼朝より拝領した名馬磨墨を葬った地と伝えられてきたところである。
小 牧 宿
街道を歩いて行くと、右側の鳥居の先には三十番神社がある。
その先の交叉点の右側に「開運北辰妙見大菩薩」の大きな標柱があり、
日蓮宗独特の髭文字の石柱があるのは、妙見山啓運寺である。
「 江戸時代、ここは小牧宿の南端にあったので、
大木戸と高札場が設けられていた。
中に入ると左側に「小牧宿高札場跡」の碑が建っている。 」
三和通商店街を歩いていくと、 小牧四丁目南交叉点のマンションの左側には脇本陣や庄屋を務めた岸田家がある。
「 岸田家の荒目の平格子、親子付き出格子に屋根神の祠が付いている建物は、 建設時期は不明だが、建設当時の遺構と思われ、弘化三年(1846)と安政三年に改築したという記録が残るという。 」
岸田家は代官所の東に位置し、脇本陣としての役割を果たしていた。
小牧市が建てた説明板がある。
「 岸田家は名古屋と中山道を結ぶ木曽街道(上街道)の旧小牧宿の下之町にあり、
江戸時代には名字帯刀を許された旧家で、脇本陣の役割を果たし、幕末には庄屋を勤めた。
このあたりは文化の大火にも焼け残っており、近世中期の建物の推定される。 」
建物と交叉点の間の広場には「小牧代官所」の説明板がある。
説明板
「 小牧代官所(陣屋)は、天明二年(1782)に小牧御殿の一角に設けられました。
これは尾張藩の財政窮迫に伴う改革策として農政に力を入れるため、
地方に十二ヶ所の代官所を設けたうちの一つです。
代官所は藩の御触れの伝達や各村の庄屋・組頭などの監督、年貢や賦役の徴収を行うほか、治安、警察の仕事や様々な0訴訟を扱ったり、
その職務は多岐に渡っていました。
小牧代官所は尾張国丹羽郡百二十七村、尾張国春日井郡百二十五村、
美濃国可児郡五村という広範囲を管理していました。 」
建物の北側の広場の一角に、石造の福禄寿を祀った祠がある。
説明板「石像」
「 福禄寿の石像は徳川義直が製作させ、
小牧御殿に設置されたと伝えられる石像で、江戸前期のものと推定され、
石像を安置する祠は小牧代官所の建物の一部と伝承されている。 」
説明板「小牧御殿」
「 尾張藩の御殿は、江戸初期、佐屋、津島、熱田など十四ヶ所に設けられました。
小牧御殿は、寛永二年(1625)にこの地の西側にあった江崎善左衛門の蟹清水屋敷に初代尾張藩主徳川義直が鷹狩りの折に訪れ、
北西に小牧山を望む景観と蟹清水の庭園が気に入り、御殿にしたといいます。
以降、義直の別荘として、通行や鷹狩の際に宿泊や休憩所として使われ、
普段は江崎氏が御殿守として管理しておりました。
御殿の敷地は四十六間X五十一間(約二千三百五十坪)で、
十畳以上の部屋が十もありました。 」
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左手の保健センターの方に歩いていくと、右側の民家の前に、 「開運妙見大菩薩」の石碑が祠の中にあった。
その先の民家の前には、「奉納御殿龍神」の白い幟が立っていて、 その奥には祠が祀られていた。
「 小牧宿は、永禄六年頃、小牧山に小牧山城を築いた際、
その南、現在の元町あたりを城下町にしたことに始まる。
尾張藩初代藩主、徳川義直は元和九年(1623)に上街道を開設した時、
城下町の中心をこのあたりに移転した。 」
御殿龍神の祠の右側に 「小牧御殿龍神祠之碑」 と書かれた石碑があった。
その石碑には、「 寛永二年に尾張藩祖徳川義直公がこの地に別荘を営み、小牧御殿として度々来遊されたが、
明治維新後は荒廃し、手植えの槇のみが名残りを留めていた。
その名木も昭和二十五年の台風で倒れ、これを嘆かれた徳川義親候は、
翌年二世の槇を植えられた。
地元の下町御殿町内の総意で、昭和三十三年に神祠を建立した。 」 ということが書かれていた。
小牧御殿は自然の地形を利用した土地に素朴な造の建物で、 庭には蟹清水と呼ばれる小池があり、清水か湧き出ていたといわれるが、 お稲荷さんの背の高い木以外は民家などが立ち並んでいて、 御殿の風情は残っていなかった。
小牧四丁目南交叉点の先は江戸時代の中町で、 通りを歩いていくと左側の櫓の上に屋根神様が祀られていた。
小牧四丁目中交叉点を越えると山正旅館があるが、 江戸時代は道の左側は本町、右側は馬場町だった。
小牧四丁目北交叉点の左手には小牧山があり、その上には小牧城が見えた。
「 織田信長は小牧山の上に小牧城を築き、
永禄六年(1563)、居城を清須から小牧山へ移し、武士だけでなく、
商工業者を清須から移住させ、小牧山の南麓を城下町として整備した。
しかし、信長は、四年後、岐阜へ城を造り移転すると、小牧の城下町は衰微した。
なお、当時の街道は清須から小牧山の西を通り、犬山を経て、中山道の鵜沼宿へ続いていた。
江戸時代に入り尾張藩が誕生すると、
名古屋から中山道に結ぶ上街道(木曽街道)の整備に着手したが、その際、
小牧山の東を通すことになり、
小牧村の庄屋・江崎善左衛門に命じて、小牧山の南にあった小牧の町を移転させ、
寛永五年(1628)に街道沿いの小牧宿が完成した。 」
交叉点先は上街道発展会の看板がある通りで、 少し歩くと、正面に 「南無薬師如来 十一面観世音菩薩 高白山戒蔵院」 の標柱と山門がある三叉路にでた。
「 戒蔵院<(かいぞういん)は、真言宗智山派の寺院で、 小牧山の南側にあったが、江戸時代の上街道の設置の際、 城下町とともに、東のこの地に移転させられた。 」
説明板「木造十一面観音立像」
「 戒蔵院の本尊であるこの観音像は像高162.5cmで、
持物の水瓶の水によって火難を防ぐという火伏観音として、
古くから名高い。
寺伝では鎌倉時代の作と伝えられているが、室町時代の製作と考えられる。 」
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小 牧 宿から犬山楽田追分
戒蔵院山門の前には、「南 名古屋」 「西 一の宮つしま清須」
「東 木曽海道」 「 寛政一戌午年十一月吉日 」 と刻まれた道標が建っている。
ここは清須道の追分にあたり、三叉路を左折して西に向かうと、美濃路の清須宿に至る 。
戒蔵院の左側には西源寺があり、道の西側には宝林寺、道の南には西林寺があり、 西林寺の南には「小牧豊川稲荷」の標示があったので、 中に入ると稲荷堂らしくないお堂があった。
説明板「西町の稲荷堂」
「 天明七年(1787)に、尾張徳川家の菩提寺、建中寺の中に霊廟が、
歴代藩主またはそれに準ずる御位牌を安置する霊屋として四棟造られた。
明治初期に一つの霊屋に合祀された際、
その一棟の本殿を除く拝殿と幣殿が明治八年(1875) 現在地に移築された。
その後、明治三十四年(1901) 小牧宿の人々が集まり、
商売繁盛を願って豊川稲荷の分霊を安置し、奉賛会をつくって例大祭を行ってきた。
一部が改造されているものの、内部の装飾等は当初の華麗な雰囲気を残し、
珍しい権現造の建物で、全て欅材で作られ、
内部は柱等麻布張りの上に漆を何重にも重ね塗りし、
格天井の絵は徳川家お抱えの絵師による鳳凰が描かれ、建具の細工も微に至っている。 」
戒蔵院清須追分道標まで戻り、街道の旅を続ける。
江戸時代にはこのあたりは横町といい、 その先の三叉路で左に斜めに入っていくと上之町で、 このあたりは小牧宿に入る入口にあたるので、 敵が勢いよく侵入してくるのを防止するための「桝形」になっていたようである。
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その先、村瀬薬局のある道に入り、国道155号の交叉点を横断して進むと、
古そうな家が残っている。
小牧原新田陸橋が見えてくると、県道102号に合流したが、
このあたりは車線の拡張工事中。
東名高速道路の下をくぐると、 左側に瓦屋根のお堂の中に馬頭観音などの石仏が祀られていた。
三叉路の右手には小牧原駅があり、その先には小牧原交叉点が見えた。
交叉点を越えて歩くと、左側の民家の前に 「楠公甲子大黒天」 の石柱があったが、これは何を意味するものだろうか?
小牧原交叉点の右側には神明社があり、左側には黒塀に囲まれた秦野家があった。
味岡交叉点を過ぎ、百メートル先の左側の空地には、 「上街道と藤塚の一里塚」
と書かれた説明板があった。
説明板
「 上街道(木曽街道)は、元和九年(1623)、
尾張藩主徳川義直の命により開設されたとされる藩営の街道で、
東海道、中山道といった五街道に準じる機能を備え、
政治的にも経済的にも重要な繁華な街道だった。
名古屋城東御門を出た道は、名古屋市東区清水から味鋺の渡しで庄内川を越え、
味美、春日井原、小牧宿、楽田、善師野宿、土田宿を経て、伏見宿で中山道に合流する。
途中、楽田追分で犬山に向かう稲置街道と分岐する。
上街道の道幅は三間二尺(約6m)で、両側には松の柳が並木として植えられ、
一里毎に一里塚が設けられた。
街道沿いにまんじゅう型の土盛りした塚が築かれ、
塚の上に檜が目印として植えられていたとされる。
名古屋城から安井の一里塚、味美の一里塚等を経て、
四番目の一里塚が、この辺の上街道に築かれ、
近年まで旧道端に灌木の生えた小さな塚が道の西側に残っていたが、
土地の区画整理事業に伴う県道名古屋犬山線道路改良工事によって取りこわされた。 」
JA尾張中央味岡支店の構内には、
「左岩崎山御野立所跡 右犬山」 の道標があった。
その先で新木津(こっつ)用水に架かる橋を渡るが、
その先左側に藤で有名な料亭清流亭があった。
清流亭のふじは樹齢四百年といわれる三尺ふじで、県の天然記念物に指定されている。
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稲置街道は清流亭の脇の狭い道に入り、その先の三叉路で県道179号に出て、
左手の味岡市民センターの脇に入り、
突き当たりの三叉路で右折し久保本町交叉点にでる。
ここから再び県道を歩くと、
次の交叉点の右側には「新四国八十八所」の石碑と馬頭観音などの石仏群があった。
東北の方角に太閤山の呼ばれるところがあるので、立ち寄ることにした。
石仏群の道に入り、川と名鉄小牧線を越え、その先を左折すると上り坂になり、
右正面の山が目標である。
突き当たりの三叉路を右に上ると、左側に熊野神社の鳥居があり、
水野前公園、その先に久保寺(きゅうほじ)があった。
「 天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いの際、
熊野神社と久保寺のあるこの久保山には、
丹羽長秀が東西二十三間、南北十六間の砦を築き、陣としたといわれる。
また、長久手合戦後、羽柴秀吉がこの久保山砦で全軍の指揮をとったので、
久保山は太閤山とも呼ばれるようである。 」
県道に戻ると、左側に田縣(たがた)神社がある。
「 弥生時代からあったと伝わる古社で、
神社の祭神は、五穀豊穣と万物育成の神である御歳神(みとしのかみ)と
子宝、安産の神である玉姫命(たまひめのみこと)である。
この神社は古代神道の影響を色濃く残していて、
古代より男茎形を伝える風習が残っていて、毎年三月十五日に行われる豊年祭では、
厄男逹が二メートル五十センチの大男茎形を御輿に担き、
旅所より御神前に供えるという神事が行われる。 」
県道に戻ると、道の左側に小さな祠がいくつか祀られているが、 その脇の細い道に入っていくと、三叉路に突き当たり、 右折すると楽田本町交叉点にでる。
その手前から犬山市に変わる。
旧街道は、楽田本町交叉点の先、左側にある天神社の小さな祠のところで、県道と分かれて狭い道に入る。
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二百五十メートル位で右手を見ると県道を越える陸橋があり、
その先、小牧線の踏切を越えて少し行くと、左手に楽田小学校がある。
楽田小学校は日本初の天守閣があったといわれる楽田城の跡である。
学校の入口には楽田城址の石碑が建っていたが、
城の痕跡を残すものはないようである。
教育員会の説明板
「 楽田城は、織田久長により永正年間(1504〜1521)に築城されたと伝えられます。
戦国時代末の儒学者小瀬甫庵の書いた遺老物語には、楽田城が奇襲を受けた永禄元年(1558)の様子が書かれています。
この時、城中に高さ二間余の垣を築き、その上に五間七間の矢倉を作り、中央に矢を立て並べた八畳敷きの二階座敷を設けたとあります。
天守は館の上に設けた望楼から始まったとされ、楽田城がその起源といわれています。
天正十二年(1584)の小牧長久手合戦時には小牧山の徳川家康に対峙する羽柴秀吉の本陣とされましたが、合戦終結の講和条約により取り壊しとなりました。 」
街道に戻り、五百メートル程歩き、県道177号と交叉する交叉点を越えて進むと、 右手の県道側には若宮神社がある。
道はそのまま直進すると、県道102号の交叉点に出るが、
旧街道は 対面の斜めの県道165号である。
右手の陸橋を渡り、道を進むと右からの道と合流し、
正面にクリーム色の建物が見えてきた。
この三叉路は、上街道(木曽街道)と稲置街道の分岐点で、 楽田追分といわれたところで、上街道は県道165号で北上、 稲置街道は左の道を進む。
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楽田追分から犬山城
この十字架が付いた建物は「チャペル犬山」で、
三叉路には道標があるはずなので探した。
すると、左側のフェンスと椿の間に、「右名古屋 左犬山」 、「右 きそみち 左 犬山みち」 、そして、
「左 三光神社 右 善光寺」 と書かれた石柱が邪魔のように置かれていた。
チャペル犬山を左に入ると、すぐの左側に御日塚神社があった。
その先で道は右にカーブするが、
その先の左側には御嶽山を開いた覚明行者の像や御嶽大神碑や祠に入った石仏群などが、集められて祀られていた。
その先の右側には羽黒中学があり、
左にカーブする手前の右側に「常夜燈」と書かれた石碑が建っていた。
更に進むと右側の祠にお地蔵さん(?)が祀られていたが、
そこを過ぎると県道27号に合流した。
「羽黒商工発展会」の看板が掲げられていて、
羽黒小学校交叉点の先には古そうな家があり、
正面には酒屋を意味する杉玉が吊り下げられていて、
暖簾に 「清酒 東洋自慢 蔵元 」 と書かれていた。
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五条川の桜の蕾は固いので、満開には一週間以上かかりそうに思えた。
五条川の橋のところには「犬山市羽黒神明町」の横断歩道橋があった。
小さな祠が祀られているところを過ぎると、羽黒交叉点がある。
なお、一つ手前の交叉点を右折すると、名鉄小牧線羽黒駅に行ける。
羽黒交叉点を越えると、左側に 「するすみふれあい公園 磨墨塚史跡公園」 の大きな看板があったので、
左折すると、大きな馬のような遊具のある公園があった。
ここは「名馬磨墨を葬った地」と伝えられてきたところである。
公園の中に「磨墨塚」と呼ばれる石碑が建ち、
「 梶原景季 この地に住みし愛馬なりし 磨墨殞し ここに埋めて塚とす 」 とある。
「 磨墨は源頼朝の愛馬で、頼朝から梶原景時へ与えられたが、
その馬に景時の子、景季(かげすえ)がまたがり、
池月にまたがる佐々木高綱と、宇治川の先陣争いをしたことは有名である。
頼朝の死後、幕府の内紛から、梶原景時は鎌倉から追放され、京に逃れる途中で、景時と
息子の景季、景高等、一族郎党は殺された。
乳母お隅の方は孫の景親(豊丸)を守り、総勢十余人で磨墨をともなって、
この地に落ちのびてきた。
その後、お隅の方が亡くなった時、磨墨も時を同じくして死んだと伝えられている。 」
磨墨塚史跡公園を越えて進み、左折していくと、
「羽黒城」の標識があったので、中に入っていく。
犬山教育委員会が建てた「羽黒城址」の説明板があったが、
周囲は丘状の土地に樹木が生えていて、城の遺構は確認できなかった。
説明板「羽黒城」
「 羽黒城は建仁元年(1261年) 梶原景親(梶原景時の孫)によって築城されたといわれる。
景親17代の末孫、梶原茂助景義は織田信長に仕え、羽黒村三千石の領主になったが、
天正10年(1582年) 本能寺の変で信長に殉じ、梶原家は断絶した。
鎌倉時代、梶原景親の創築による梶原館があったと伝えられるところで、
景親から十七代の末孫、梶原茂助景義は織田信長に仕え、羽黒村三千石の領主になった。
しかし、本能寺の変で信長等と一緒に亡くなり、梶原家は絶えた。
天正12年(1584年) 小牧山合戦の時、秀吉はこの城を修復させ、
堀尾茂助(金助の父)や母方の法秀院が梶原家の出生と伝えられる山内猪右衛門(一豊)に守らせたが、焼けてのちに廃城となった。
現在地は羽黒城の中核部分があったと考えられ、
前方後円墳である羽黒古墳の前方部を利用したものと推定される。
なお、この古墳は古墳時代後期のものと思われる。 」
説明板の上に、山内一豊の妻を主人公としたNHK大河ドラマ「功名が辻」が放映された年に建立された、と思われる説明板がある。
「 山内一豊ゆかりの地 羽黒城跡
一豊は家康軍に焼かれた羽黒城を修復した。
秀吉と家康が戦った1586年、小牧長久手の戦いで秀吉軍の武将として参戦した。
一豊は母方の出生地をなんとかしたいという思いから羽黒城を修復し、羽黒地帯を守った。 」
道はその先の民家の間を通り抜けると少し広い道に出たので、
右折して少し進むと興禅寺の山門があった。
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境内に入ると目立たないところに、 昭和五十六年に市の教育委員会が作成した「羽黒城城址」の説明板があった。
「 羽黒城は、建仁元年(1261) 梶原景親(梶原景時の孫)によって築城された。 景時は頼朝に信望のあった御家人で、侍所の別当として権勢を誇っていたが、 頼朝が死ぬとしばらくして滅ぼされた。 一部の遺族たちは、景時の孫豊丸(のちの景親)をかこんで、 豊丸の乳母隅の方ゆかりの羽黒の地にのがれ、代々住みついた。 (以下略) 」
興禅寺の境内には桜が咲いていた。
「 興禅寺は、承安四年 梶原平三景時の開基により、
真言宗光善寺として開山したが、梶原氏の没落とともに寺も衰徹した。
文明十一年(1479) 臨済宗妙心寺派になり、寺も復興に向かった。
梶原茂助景義が織田信長に仕え、羽黒三千石の領主となり、寺を再興したが
、小牧長久手の戦いの兵火に遭い焼失し、
慶長元年(1596)に梶原屋敷内に再興された。 」
本堂の前に大きな岩があり、その脇に「入鹿池切れ流石」の石碑があり、
石碑には、 「 慶応四年五月十四日暁天入鹿池決壊の折流れて来た大岩。
重さ約十五屯 死者千有余名 鎮魂の為安置するものなり 」 とあった。
このような大岩がどこから流れてついたのか、自然の脅威に驚いた。
羽黒稲葉交叉点を過ぎると合瀬川に架かる橋を渡るが、正面にモンキーパーク、
明治村などの案内表示が見えてくる。
五郎丸南交叉点手前の左側に常夜燈と小さな祠がいくつが祀られている。
その前に 「史蹟五郎丸初生地」 の石碑が建っていた。
江戸時代の編纂された尾張国地名考によると、
「 丸は曲輪を意味し、五郎丸は五郎という豪族の屋敷があった一画が地名になった。 」 と推理しているが、どうなのだろうか?
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国道41号の高架をくぐり、少し行くと万満寺交叉点がある。
稲置街道は、ここで県道27号と別れて、左の道に入り、すぐの三叉路を右へ行く。
この道は県道と平行して続いているが、県道には津嶋神社とうっそうとした森の中に、
熊野神社がある。
これらは地元の鎮守社である。
街道を進むと、名鉄犬山線の踏切を越えた右側に犬山口駅があり、
その先には清水屋の駐車場の入口がある。
その先の左側に 「秋葉三尺坊大・・・ 」 と書かれた石柱が建っていて、
その奥には秋葉大社が祀られていた。
その先の出来町交叉点の左右の道は岩倉街道(県道64号)である。
直進すると江戸時代の外町になる。
「 外町は犬山城下町の外堀の外に出来た町で、
当初は八幡町、九軒町、天神町などといっていた。
犬山城主成瀬正虎の時に名古屋街道(稲置街道)が開設され、
その先の下本町との境に木戸が設けられた。
犬山城には外堀の出口に六ヵ所の木戸が設けられていたが、
西側の急坂(鵜飼坂、専念坂)以外は外敵を防ぐため、
道は鈎型に折り曲げられていたという。 」
右側に 「了義山徳授禅寺」 の石柱があり、その奥に徳授寺がある。
入口の右側の祠の中に「明和五年戌子」の銘がある馬頭観音が祀られていた。
その奥には 「陶工兼松所助の墓」、「村瀬大乙の墓」 の石柱が建っていたが、
二人はどういう人物なのだろうか?
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道の左奥には「唐寺」といわれた先聖寺と外山天満宮がある。
「 先聖寺は禅宗黄檗宗の末寺で、延宝四丙辰年(1676) 、
上州黒龍山不動寺潮音道海大和尚の弟子、玉堂大和尚が開基となり、
熊野山先聖寺と称した。
正徳五乙未年(1715) 来鳳和尚が現在の外町天神庵に移転し、神護山先聖寺に改め、
諸堂を西向きに建立したが、
享保十三戊申年(1728)頃、密傳和尚が仏殿を東向きにし、
山門の入口を現在のように街道側に変えた。
昭和三十四年(1959)の伊勢湾台風で、仏殿、鐘楼等全てが倒壊。
現在の本堂は平成十六年二月に建立されたもので、黄檗風の二層平屋建で、
屋根には摩伽羅を乗せ、登り口、柱、天井に三段の龍を配している。 」
道の両脇には古い家が残り、昔の雰囲気が漂う懐かしい町並みである。
左側の山車蔵には「梅梢戯」と書かれているが、犬山祭に使われるからくり山車で、
玉屋庄兵衛の名作といわれるものである。
その先の交叉点は直進の道幅が急に狭くなり、右側も同じように狭く、左側は細い道なので、江戸時代には鈎型になっていたように思われるが・・・
左側の細い道には「金剛山祥雲禅寺」の標柱があり、その奥には祥雲寺があり、
その北側には北向庚申堂がある。
道を直進すると、左側に「 犬山 おどき 」と書かれた青銅色のランプがある家があり、赤い毛氈の上に 「カフェと串とーすと」 と書かれた紙が置かれていた。
「 築百年以上の町屋にカフェと犬山提灯の工房が同居している。
このコンセプトは愛知まちなみ建築賞を受賞している。
串トーストというネーミングもしゃれている。 」
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その先は本町交叉点で、稲置街道は直進だが、右折していくと名鉄犬山駅に突き当たる。
本町交叉点を東に行くと熊野神社があるが、江戸時代、熊野町といわれたところである。
「 寛永の頃(1624〜1644)は魚屋町に所属していたが、
熊野神社があったことから、熊野町が町名になった。
江戸時代には町の南端には木戸があり、城下町と外山との境になっていた。
以前、神社の境内に現在外山にある熊野山先聖寺があったことは前述した通りである。 」
本町交叉点を直進し、百メートル行くと右側に 旧磯部邸がある。
「 この家は呉服商を営んでいた磯部家が江戸末期に建てた町家で、
国の登録有形文化財に指定されている。
緩やかでふくらみのある起り屋根(むくりやね)は市内の町家で唯一だけ残っている。
道から見ると二階建てだが、裏は平屋という 「バンコ二階」 と呼ばれる造りである。
敷地は間口が狭く、奥行きが広い形式で、主屋に中庭、裏座敷、土蔵などがある。 」
その先の交叉点を左に行くと専念坂で、
江戸時代には坂下の木戸があったという。
交叉点を右に行くと浄誓寺、円明寺など寺が多くあり、江戸時代には城を守る役割を担っていた。
その先、「中本町」の標示があるところに高木邸があり、
立札に
「 昭和十年頃まで酒造業を営んでいた家で、大正初年の建築という。
南側洋館の建物を含め、間口十二間半の大きな町屋である。 」 とあった。
その先の三叉路の右側に五平餅を商っている店があり、 その前に 「高札場・問屋場・火見櫓跡」 の石碑と犬山市が建てた「札の辻」の説明板がある。
その奥の本町の説明板には
「 上本町、中本町、下本町とある。 本町通りは犬山城の中心とした上本町には問屋場、高札場があって、享保十七年(1732)に火の見櫓ができた。 この付近がそのか所と思われる。 」 とあった。
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その先の右側には大手門いこいの広場があった。
「 江戸時代にはここに犬山城の大手門があった。 」
ここから先は城内で、犬山焼の店前に 「史蹟敬道館跡」 の石碑が建っている。
「 敬道館は天保十一年(1840)に成瀬家八代目成瀬正住が建てた藩校である。
犬山成瀬家は、慶応四年(1868)一月の明治新政府により、犬山藩として認められ藩主になったが、
江戸幕府のもとでは、尾張徳川家を補佐する重臣という立場であり、
独立した大名として見られることはなかった。 」
その先のからくり展示館の前には 「三之丸武術稽古場跡」 の石碑が建っている。
その先には針綱神社の鳥居がある。
「 犬山城の下にある針綱神社、三光稲荷神社、猿田彦神社は、
江戸時代にはここになかった。
針綱神社は、延喜式神明帳に針綱明神とある古社で、太古より犬山の峯にあり、
濃尾の総鎮守だった。
犬山城主となった織田信康は、天文六年(1587)に白山平に遷座したが、
江戸時代に入り、城主になった成瀬氏は慶長十一年に名栗町へ遷座し、祈願所にした。
城が廃止された明治十五年に、針綱神社は天文六年以前にあった現在地に遷座されたという。
三光稲荷神社は、犬山城南西の三光山に鎮座し、城主の織田信康の保護を受けていたが、江戸時代には成瀬氏の庇護を受け、神仏習合で三光寺と称した。
明治の神仏分離で、三光稲荷神社となったが、
昭和三十九年に針綱神社の隣に遷座された。
隣の猿田彦神社は三光稲荷神社の境内社という位置付けだが、独立した神社として扱われている。 」
稲置街道は札の辻を右折すると、余坂口木戸があり、
その外から城下町の外になった。
稲置街道は余坂交叉点で左折するが、その先の左側に天神社がある。
「 中世の田中の森にあった稲置神社は、
天正の頃(1573〜1592)天満宮と合併して、
明治四年(1867)に現在地の余坂に移されたという。 」
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道の反対にフランス料理の旧奥村邸がある。
「 天保十三年(1842)の犬山大火直後に建てられたといわれる、 呉服商の奥村家の屋敷で、国の重要文化財に指定されている。 建物は土蔵造りで、信長がのどを潤したという銀名水がある。 」
稲置街道は余坂交叉点を左折すると、陸橋のある郷瀬川のこじま橋に出る。
郷瀬川の両側には桜並木があり、左折していくと右側に名鉄犬山ホテルがあり、
その先を左に行くと、犬山城天守閣がある。
「 犬山城は、織田信康が砦を改修し築いたものを石川光吉が現在のような形に改修したといわれる。
慶長十二年(1607) 平岩親吉が入城し、
元和三年(1617) 尾張藩の付家老・成瀬正成が城主になり、
天守に唐破風出窓が増築される。
以来、成瀬氏九代が明治まで城主として居城としたが、
明治維新により天守閣以外は解体された。 」
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木曽川の支流である郷瀬川の橋を渡るが、
ここは犬山から太田の渡しに通じる犬山街道の追分で、
犬山街道は川沿いの堤防の道を東に向かう。
稲置街道はその先右にカーブするが、桜並木は丁度見頃で美しかった。
稲置街道は、この後、名鉄線に沿って北進するが、 右手の山裾にはたくさんの寺院がある。
犬山遊園駅近くには弘法堂があり、木曽川を渡る犬山橋に進む。
橋は二つあり、左側は平成十二年(2000)に架橋された犬山橋で、
右側は大正十四年(1925)に架設された旧犬山橋である。
「 旧犬山橋は名鉄電車と道路との併用橋として利用されていたが、
平成十二年からは名鉄の専用鉄道橋となった。
江戸時代には舟渡しだった。 」
ここは東山道や中山道の木曽川渡河地点として、内田の渡しがあったところで、鉄道線路の脇にそれを示す常夜燈が残っている。
稲置街道は犬山橋を渡ると左折して行くが、 そこから見た木曽川と犬山城 は夕日で輝いていた。
「 このあたりは鵜沼南町で、木曽川沿いには弘法堂と本郷神社がある。 」
街道は川沿いの道から旧道へ入り、右折して細い道を行き、権現橋を渡り右折し、 堤防沿いの道を北進すると、鵜沼西町の大安寺橋に出る。
ここは中山道の鵜沼宿で、名古屋城東大手門を出た稲置街道はここでゴールとなった。
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木曽川と犬山城 |
旅をした日 平成23年(2008)04月06日