稲置街道(いなぎかいどう)は、江戸時代に名古屋と稲置村の犬山城を結んだ脇往還で、終点は中山道の鵜沼宿である。
犬山街道とも呼ばれるこの道は、徳川家康から尾張藩の付家老を任命された成瀬氏が居城である犬山城と名古屋城の往復に使用する目的から、
すでにあった木曽街道と楽田追分と結ぶことで開設されたことから、この部分だけを稲置街道と呼ぶ人もいるが、本編では全てを稲置街道として、紹介したい。
(1) 名古屋城東大手門から小牧宿まで
清水橋東交叉点の左手には名古屋城の外堀にかかる清水橋がある。
橋の奥は名古屋城の三の丸の跡で、現在は愛知県庁や名古屋市役所などが建っている。
名古屋城東大手門跡の表示はないので、清水橋東交叉点をスタート地点として、出発した。
交叉点の左手に明和高校があるが、ここは尾張藩附家老成瀬隼人正中屋敷跡である。
正門の前に「明和高校前街園」という名の小公園があるが、
その一角に愛知県立第一中学校跡の石碑がある。
「 県立第一中学校は、明治に入り陸軍用地になっていたこの地に、 明治四十三年に設立された学校だが、昭和十三年に他の場所に移転。 」
東に向かって進むと、左に入る道に七尾天神社の看板があり、 そこを入ると右に入る三叉路の先、左側に七尾天神社があった。
説明板「七尾天神社」
「 七尾神社 亀尾天満宮、七尾天満、七尾天神とも呼ばれ、菅原道真を祭神とする。
文亀年間(1501〜1504)七尾の亀が道真の木像をここへ運んだという伝えがあり、
社名の由来となっている。
永正年中(1509〜1521)社殿が造営された。
明治四十二年七月の火災で、木像その他宝物が焼失した。
名古屋市教育委員会 」
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先程の道に戻り、直進すると 清水口交叉点に出るが、
その手前の左側の狭い道に入る。
杉薬局の先で下り坂になり、突き当ったところで右折し、国道41号に出て、
国道を越える。
稲置街道はその先、黒川橋まで続いているが、
入ったところの左側には秋葉宮が祀られていた。
なお、国道41号のもうすこし北側の民家には馬頭観音などの石仏を祀った祠があった。
この通りは車の行き来が激しい国道41号と平行しているのに、落ち着いた雰囲気が残っている。
三百メートル先の名鉄瀬戸線の清水駅の脇を通り、
対面の道に入り進むと右側に「白瀧」という看板が書かれた建物があった。
「 嘉永年間(1848〜54)創業の白瀧酒造で、白竜というブランドの銘酒を売っていたが、 平成二十年三月をもって廃業していた。 」
少し行くと、左側にツートーンの建物があり、 植栽の中に 「稲置街道と御成道」 の説明板があった。
「説明板」
「 弘化四年(1847)の村絵図によれば、
ここは江戸時代、稲置街道と御成道が交叉する四つ辻があったと思われる。
稲置街道は、元和元年(1615)尾張藩は幕府から木曽山を拝領し、
名古屋と木曽とを結ぶ街道の整備がはじまりである。
その後、尾張藩付家老成瀬正成が犬山城主となり、名古屋との行き来のため、
中山道(伏見宿)への抜ける道となった。
御成道は、尾張藩主が名古屋城から、
尾張藩二代藩主光友の別邸として運営させた大曾根下屋敷へ往復した道である。 」
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その先の交叉点の左側に八王子神社春日神社があった。
改築記念碑には、 「 八王子神社は、もと、那古野庄市場(現丸の内一丁目)に鎮座し、若宮八幡宮と同じ境内にあり、第四十二代文武天皇の御代の奉斉と言う。
慶長十五年(1610)名古屋城築城の際に神慮により、
名古屋東北の護りとしてこの地に遷宮された。
昭和二十年の戦災で焼け、その後、社殿を建てたが痛みが激しいので、
平成十七年に改築造営した。
春日神社は昭和四十六年から社殿を境内に移して、両社を合併し、
八王子神社春日神社に社名を変えたが、今回の社殿改築の際に合祀した。 」 とある。
鳥居の外に出て、国道の方に向かうと、公園の手前に明治天皇小休所碑が建っている。
そのまま国道に出て、右折して国道を歩き、
右側に寺院が見えるところに入ると「解脱寺」という寺院がある。
お堂の前に、三つの句碑があるが、真ん中にあるのが芭蕉の粟稗塚と呼ばれるものである。
「 粟稗に 貧しくあらず 草の庵 」 という句が書かれている。
「 芭蕉が貞享五年(1688)に当地を訪れ、句会を開いた際、 詠まれた句で、句碑は文政五年(1822)に土地の俳人らにより建立されたものである。 」
解脱寺を街道の方角に向かって歩くと、八王子神社春日神社の裏側に出たので、
街道を進む。
道は右にカーブし、左からくる道と合流するが、ここは三角形の土地になっていて、
清水街園という小公園である。
その中にはこの街道唯一の稲置(いなぎ)街道の道標が建っている。
道標の左面には「 至犬山 」、中央に 「 稲置街道 」 、右面に 「 至志水 」 と刻まれている。
説明板
「 稲置街道は、名古屋城と尾張藩付家老、成瀬氏の居城があった犬山(旧稲置村)
を結んでいた街道で、楽田追分までは上街道(木曽道)と同じルートだった。 」
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清水五交叉点を過ぎると、左側に石挽そばの看板が見えるが、
交叉点の左側に赤い鳥居があり、
鳥居の奥には、最上位経王菩薩が祀られている。
最上位経王大菩薩は、稲荷大明神のことで、法華経の守護神であるという。
たばこのショーケースの上に、
「アナログのレコードのアルプ」という看板の店があり、
その先にはカラオケ喫茶もあった。
このあたりの建物には戦後だが、古そうな家もあり、畳製造の看板も見かけ、
都会の中に個人商店がなくなる現在では貴重な存在である。
清水5北交叉点を越えると、掘川に架かる黒川橋を渡る。
橋を渡ると車道で直進することは出来ないが、道の反対には旧街道は残っている。
旧街道は県道102号と環状線で切断されているので、
右折すると志賀橋交叉点に出る。
交叉点を渡ったところで左折すると、右に入る細い道がある。
これが旧道だが、この道は短いのですぐに環状線に出る
ここも対面には渡れないので、右折して再度志賀橋交叉点に出た。
交叉点を横断して環状線を越えて左折すると、
歩道に 「 ←解脱寺 」 「 八幡宮 安栄寺→ 」 の標識と史跡散策路の地図がある柱が建っていた。
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右に入る狭い道を百五十メートル程歩くと、 左側の森に先程の標識にあった八幡宮がある。
「 標柱には「八幡神社」と書かれていたが、
児子宮とか、児子八幡宮、あるいは児子八幡社とも呼ばれるようである。
かっては志賀公園近くにあった神社だが、明治七年(1874)に当地に遷宮されたという。
末社の児子社(ちごのみや)は古来より虫封じの神として信仰が厚く、
尾張藩主も代々、幼少の時に虫封じを授かったといわれている。 」
隣の安栄寺は曹洞宗の寺院で、名古屋万松寺の末寺である。
「 名古屋城の鬼門除けとして、慶長十九年(1614)に創建された寺で、 その際、名古屋城から大聖不動明王が奉遷されたといわれる。 」
山門の前に元治二年建立の不動明王常夜燈があり、奥に本堂があった。
境内の格子窓の祠の中に、六地蔵石仏が祀られていた。
名古屋市教育委員会が建てた説明板「安栄寺六地蔵石仏」
「 この石像はもと志賀公園北東の共同墓地にあったもので、
上下二段に三体ずつの地蔵菩薩が浮き彫りにしてあり、
像の右に尾州山田庄志賀郷、左に大永七年(1527)十月日と刻まれている。
これは室町時代末期のもので、名古屋市指定文化財・・ (以下省略) 」
お堂の中には、高さ四十三センチ、幅二十六センチの硬質砂岩に、 上下三体の地蔵像が二段に浮彫されていた。
五又路の志賀町2交叉点を直進し、志賀町5交叉点も直進すると、
左側に東志賀小学校がある。
稲置街道は小学校の右側から安井3交叉点に向かって右斜めにあったのだが、
この道は残っていないので、
交叉点からすぐの三叉路を右折し、次の三叉路を左折して、狭い道に入る。
大きな交叉点を幾つか横断して七百メートル程行くと、左側に城北病院があるので、交叉点を右折し、名古屋金田郵便局の道を越えたら、その先の左に入る道をいく。
この道は一方通行で、三百メートル歩くと庄内用水に架かる新安井橋があった。
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新安井橋を渡ると、道は突き当たるので、右折して安井3交叉点に出る。
江戸時代の稲置街道はここに斜めに出ていたのである。
城北病院交叉点を直進すると、左側のお福市場の先に 「 山神社 お福神社 白龍大神 」 の標柱と赤い鳥居などがある。
ここは安井将監が築いた安井城の跡である。
安井城は、浅野長勝が尾張中島郡大里村に移った時に廃城になっている。
ここには、現在、白龍神社、山神社、お福稲荷がある。
説明板「山神社」
「 祭神は大山祇神。
社伝によれば、天正年間(1573〜1592)に安井将監・浅野長勝(ねねの養父)が、
安井城を築く際、鬼門の守護神として勧請したという。
この神社の西南に位置した安井城は東西約百五十メートル、南北百五十メートル規模で、当時としては相当な館であったと伝えられる。
この辺りは矢田川の推積地で、
昭和初期に耕地整理がされるまでは、松・榎・椿・竹などが鬱そうと繁っていたという。
現在、境内にはお福稲荷社(稲荷大明神)と白龍社(竜神)が祀られている。
例祭は十一月七日
名古屋市教育委員会 」
交叉点を左折し、広い道を進むと左側に公園があち、小高いところに六所社がある。
六所社由緒
「 昭和六年の矢田川切替工事のため、六所社は現在地に遷座されたが、昭和二十年五月の大空襲により、全ての建物が焼失してしまう。
周囲の協力により、昭和四十年に社殿を再建した。 」
この先、道は左にカーブするが、正面の民家の間には細い道をあり、 石段を上っていくと矢田川の堤防に出た。
「 稲置街道(上街道)は尾張藩の藩道だが、 東海道などの五街道と同様、大きな川には橋を架けなかったので、徒歩渡しだった。 味鋺の渡しは米ヶ瀬の西側にあったようである。 」
左にカーブした道を行くと、左側に成願寺がある。
「
成願寺の前身は、天平十七年(745)に行基により創建された常観寺といわれ、
土豪山田・安良一族の菩提寺である。
現在の成願寺は天台宗聖徳寺の末寺で、昭和八年に矢田川が改修された時、
矢田川の南側に移転した。 」
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ここでは成願寺の右手の土手にある歩行者専用橋のふれあい橋を渡る。
河川敷が多い矢田川を渡り、続いて、水量が多い庄内川を渡ったが、
川巾をけっこうあったので、渡り終えるのに五分以上かかった。
橋を渡りきったところは川に沿って車道になっているが、
この道を横断し、石段で下に降り、
右折して堤に沿った道を少し行くと西八竜社があった。
鳥居の先の細い道を六百メートル程行くと、左奥に繁みと鳥居のようなものが見えたので、左折すると 「式内郷社 味鋺神社」 の標柱と鳥居の前にでた。
隣に「味鋺山天永寺護国院」の石柱がある立派な門構えをした寺院がある。
説明板「護国院」
「 護国院は真言宗智山派の寺院で、天平年間(729〜749)に、
僧行基が創建したといわれ、薬師寺といった。
天暦二年(948)に大洪水により衰微したが、天永二年(1111)西弥上人がに再興し、
今の寺号に改めた。
本尊の薬師如来座像は行基の作と伝えられる。 」
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味鋺神社の鳥居をくぐると、右側に石橋があった。
説明板「清正橋」
「 この橋は味鋺神社より南西百メートルの溝に架けてあった石橋を、
土地改良事業のために昭和五十三年(1978)に移築されたものである。
名古屋城築城の折りに加藤清正の命により架けられたと伝えられているので、
「清正橋」と呼ばれているが、地元の人々は「石橋」と呼んでいた。
往時、稲置街道は、この橋を渡り、庄内川の堤防に出て、味鋺の渡しを経て、
成願寺村ー名古屋へと通じていた。
稲置街道とは、東大手門−清水の坂−杉村−東志賀−安井−矢田川の渡し−成願寺−
味鋺の渡し − 味鋺清正橋を渡り護国院の西北を通り −小牧−犬山−中山道へ、
稲置と名古屋を結ぶ重要な街道。
尾張藩が開いた藩道で、参勤交代の際利用し、中山道を経て、江戸に至った 」
味鋺(あじま)神社の創建された時期は不詳だが、延喜式神名帳にある尾張国春日郡味鋺神社がこの神社としており、
祭神の宇麻志麻治命は物部氏の祖神とされ、江戸時代には六所明神とも呼ばれた。
社殿の前に流鏑馬の銅像があるが、 「 寛治七年(1093)に流鏑馬の神事が催されたと伝えられ、
例祭では流鏑馬神事が行われてきたが、昭和十三年を最後に絶えた。 」 とある。
江戸時代からの旧街道は、護国院の西側から右斜めに道が続いていたのだが、 その道は残っていないので、味美神社の入口の細い道を左折し、 車道の三叉路を左折すると、右側の狭い道に入る。
道は右回りに大きく回るように進み、 味鋺天神通りのアーケードがある交叉点を直進すると、右側に木製の忍び返しが塀の上に付いている家があった。
この屋敷は清酒「曲水宴」を醸造していた双葉酒造であるが、既に廃業していた。
その先の交叉点の左側に屋根付きの祠が二つ建っているが、 右の大きなお堂に祀られているのは、二分された胴体が接着された首切り地蔵である。
「説明板」
「 この地蔵菩薩像は、文政(1818〜1830)の銘がある一メートルほどの石像で、
摩耗がひどく、胴体がやや斜めに二つに分かれている。
昔、一ノ曽五左衛門が同家に仕えていた女中に過失があったので、
手打にしようとしたところ、この地蔵が身代わりとなったと伝えられている。 」
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交叉点を直進し、新地蔵川に架かる伊勢山橋を渡ると、春日井市に変わった。
四百メートル程行くと五又路に出た。
江戸時代の旧街道はここから右斜めに進むのだが、道は残っていないので、交叉点を右折して中新町交叉点に出て、
交叉点を左折して、旧国道41号、現在の県道102号に入るコースをとる。
中新町交叉点の右手の森のようになっているところは、味美古墳群である。
中新町交叉点を右折して、二百五十メートル程行くと、
「国史跡 二子山古墳」 という看板の先には緑に覆われた丘が広がっている。
「 二子山古墳は六世紀初頭の築造で、全長九十四メートル、 後円部の径が四十五メートル半、前方部の巾は六十メートル、高さは七メートルの前方後円墳で、 墳丘の周囲には濠が掘られている。 」
その先の左側の丸い小山のようなものは、 「御旅所古墳」と呼ばれる直径六十メートルの円墳である。
右側の白山神社の鳥居の脇の石段を上ると、白山神社の社殿がある。
社殿が建っている小山が白山神社古墳なのである。
「 白山神社古墳は、全長八十六メートル、後円部径が四十八メートル、前方部巾は四十八メートル、高さは六メートル半の前方後円墳である。 」
県道の左手三百メートルにある春日山古墳は、全長七十四メートルの前方後円墳で、築造時期は六世紀後半と推定されている。
かっては白山神社の御旅所があったが、
寛永年間に犬山街道(稲置街道)の通行の妨げになるとして、
現在の御旅所古墳に移されたといわれる。
史蹟に指定されなかったことから、春日公園となっていて、
古墳の形は損なわれている。
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県道102号を進み、東海交通事業の城北線と名古屋第環状線の高架をくぐり、 更に国道302号を越える。
県道の表示が県道27号に変えるが、県道102号との併行区間である。
味美白山町1交叉点、味美ふれあいセンター交叉点、西本町1交叉点を過ぎると、
右側の白山バス停のところに、延命地蔵尊のお堂があった。
味美駅西交叉点の手前三十メートルの左側の民家の塀に、
「旧稲置街道 味鋺原新田一里塚跡」 の小さな石碑があるが、
気をつけないと見落とすものである。
味美駅西交叉点の左側には「御小休み所、丹羽家」 があったといわれるが、 そこには小公園があった。
「 尾張藩主が犬山城などに出掛けた際、 名古屋城から小牧までは距離が長いので、途中に休憩所が幾つか設置されていて、 丹羽家もその一つだった。 」
味美上ノ町交叉点あたりから左手の空はにぎやかになり、 ヘリコプターなどが降りてくるが、ここには県営名古屋空港があるからである。
味美上ノ交叉点を過ぎると、右側に右に折れる三叉路があり、 その角に椎樫地蔵が祀られていた。
「 この石仏は、宝暦八年(1758) 春日井原新田の旧家小川庄佐衛門が、
我が子の冥福を祈って建立したもので、「右 志ミ州道 左 かち川道」 と刻まれている。
ここは稲置街道と勝川道の追分であり、右に入る道は勝川街道で、
その先で上街道に合流する。 」
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この先右側の三菱電機エンジニアリングの脇を入ると、突き当った線路の左側に、 御小休み所、安藤家がある。
春日井市作成の説明板
「 市内を通る本街道と下街道は、東海道と中山道を結ぶ街道として、
古くから利用されてきました。
本街道は上街道または木曽街道とも呼ばれ、
江戸時代初期には尾張藩の公道として利用され、中山道の伏見につながり、
小牧と善知野に宿場がありました。
当安藤家は尾張藩主のお休み所として、控えの間の付いたお成りの間と茶室があります。
その母屋のただすまいには風格が感じられ、往時の面影をよく残し、
街道筋の歴史をしのぶことができます。
なお、個人宅ですので、ご迷惑のかからないようにご配慮ください。 」
街道に戻ると、春日井町交叉点があり、 これを過ぎると穂麦坂と呼ばれる緩やかな登り坂に変わるが、 右側の家の前には 「今上天皇御駐蹕處」 の石碑が建っている。
少し先左側の正念寺の一角に、
「史蹟芭蕉句碑」 と書かれた大きな標柱と句碑がある。
句碑にあるのは 「 いざともに 穂麦喰わん 草枕 芭蕉 」 という句である。
傍らの説明板
「 芭蕉が貞亨二年(1685)に詠んだ野ざらし紀行の中にある句で、
正念寺の近くの農家に一宿した折の吟であると伝えられている。
時は旧暦の四月、田舎のこととて差し上げるものもなく、婆やが思いつくまま、
新麦の穂をとってきて、青ざしをこしらえ差しだしたところ、芭蕉は喜んで、
この句を詠んだという。
すぐ東の坂を穂麦坂、またの名をへそ坂ともいう。
南の味鋺原、北の小牧原、東の下原に対し、ここは原(腹)の中心、すなわち、へそにあたるというのだろう。
これも芭蕉の即興と伝えられている。 」
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春日井上ノ町交叉点を越えると、左側に神明社の標柱の鳥居があったが、 このあたりから小牧市になる。
春日寺交叉点の左側一帯は航空自衛隊小牧基地で、 自衛隊南官舎を越えると塀の隙間から見学者用という戦闘機やヘリコプターが見えた。
自衛隊前の交叉点を横断して、道の右側に出て、西行堂川に架かる橋を渡り、 航空局や自衛隊の官舎が建ち並ぶところを過ぎると、 南外山交叉点に出たが、交叉点の右側には南外山天神社があった。
天神社の右側の小路の奥には妙蔵寺がある。
妙蔵寺の脇の道に入り、三叉路を右折すると、左側に八幡社の標柱と鳥居がある。
その奥には赤い鳥居が建っているが、両部鳥居形式で、この種の鳥居は珍しい。
隣の妙楽寺は日蓮宗の寺院で、建物は新しかったが、 八幡社と妙楽寺のあるところは南外山城の跡といわれる。
「 南外山城は堀尾孫助の居城(館)とされ、 正中年間(1324〜1326)に廃城となったが、 小牧、長久手の戦いの時には織田信雄、家康連合軍の砦として利用された。 」
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このあたりは建設ラッシュで元の道は分りずらい。
八幡社を左に進み、その先の道を右折して、
カーブを進むと県道脇の外山神社に出た。
小牧市教育委員会の建てた説明板
「 外山神社の祭神は天照大神、天児屋根命 誉田別命 が合祀されていています。
大正四年には近くの畑から県下最古の銅鐸が出土した。
珍しい袈裟襷(けさだすき)文の銅鐸の発掘地です。 」
県道を歩き、北外山交叉点を過ると、道の左側に馬頭観音を祀るお堂がある。
若草交叉点で左の狭い道に入ると、その先には小牧南小学校があり、
その道を北上すると県道25号線に出る。
桜井本町交叉点を横断して、対面の道に入ると、
江戸時代の小牧宿である。
旧宿場町である下町あたりは、市街地から少し離れているので、
昔の雰囲気が感じられるところである。
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旅をした日 平成23年(2008)03月28日