平成21年3月5日。 今日は津宿の結城神社から松坂宿まで歩く予定である。
名古屋駅より近鉄特急に乗り、津駅で降り、ここでバスに乗り換えて、結城神社前で下り、
前回終えた八幡神社の道標のある交差点から今日の旅を始めた。
八幡神社の道標のある交差点を越えると、左側に弘法大師の作と伝えられる地蔵を祀っている地蔵堂がある。
「 この奥にある松源寺に立ち寄った後、富士参りに出かけた人が山中で道に迷ったが、
旅僧に姿を変えたお地蔵様に助けられた。 」 と、いう伝説が残っている地蔵堂である (左下写真)
ここ八幡町は、 「 藤堂高次が、八幡神社をここに移した際、神社に奉仕させるため、住民を移して、町を作り、八幡町と名付けた。 」
、と伝えられるところである。
道の右側の新築された家の前に、史跡 明治天皇八幡町御小休所址の石碑が建っていたが、
明治天皇が休憩したところである (左中写真)
その先、鉤型のように少しなっているが、左に入る三叉路で、三叉路の左手前に、県社 八幡神社の標柱があった。
「 八幡神社は、足利尊氏が京都の男山の岩清水八幡宮から勧請したと伝えられ、
寛永九年(1632)、津藩の二代藩主、藤堂高次が、垂水の山から現在の地に移し、同時に藩祖高虎の霊を祀った。
高次は、祭礼を奨励し、移転した翌年に始まったのが、今の津まつりとなった。 」 、と伝えられるが、
ここは八幡神社の表参道の入口である。 八幡神社が現在の津八幡宮に変わったのはいつかは分からないが、
華麗な社殿と多くの山車を誇っていた神社だったという。
標柱を左折して進んで行くと八幡神社の社殿があったが、津の空襲時に建物も山車も全て全焼したので、その後に再建された建物である
(右中写真)
街道に戻ると、道は左にカーブし、その後、右にカーブしていく。 この道は狭いのに車の行き来が激しい。
カーブの先には、小さな川が流れ、思案橋が架かり、川側の欄干の下側面には、松、扇、梅が浮彫されていて、少しこった造りだった (右下写真)
橋の左手に、手作りの香良州(からす)道の道標があるが、三叉路を左折した細い道が香良洲道である。
香良洲道は津市香良洲町にある香良洲神社へ向かう道で、江戸時代、ここが香良洲道との追分になっていたのである。
香良洲神社は、天照大神の妹神の稚日女尊(わかひるめのみこと)を祀った神社なので、
伊勢神宮の参拝客は、香良州神社も参詣しない、と片参りといわれた。
この橋が思案橋といわれたのは、香良洲神社に参拝しようか、そのまま行こうか、思案したことからであり、
思案の末、参詣しない旅人は、ここから遥拝した、といわれる。
今は変哲もない小さな橋だが、江戸時代には有名なところだったのである。
伊勢街道は、直進なので、そのまま進むと、国道23号の垂水南交差点に出たが、
道路は渋滞し、車は並んでいた。
狭い道に車が入ってくるのはこのせいと思った。
伊勢街道は直進なので、交差点を渡り、国道の対面にある道に入り、JR紀勢本線藤枝踏切を渡る。
踏切の先からはもっと細い道となり、その先、三叉路の信号交差点の上の標識に、
「 この信号機は交互通行式です。 約4分間お待ちください。 」 と、書いてあったが、
道が狭いので、信号で交互通行をする方式をとっているのである (左下写真)
右側から合流してくるのは、寛永九年(1632)に、八幡町側に道を変える前の伊勢道で、
次の交差点の右側に、真言宗醍醐派の木造大日如来坐像がある成就寺がある。
成就寺は、織田信長の伊勢進攻で兵火に遭い寺勢が衰えたといわれるが、
この南にある金剛寺(旧成就寺金剛坊)や南昌寺(同南昌坊)は同寺の塔頭だったのである。
石段を上がると成就寺の本堂と鳥居のある社があった (左中写真)
伊勢参宮名所図会には、西行法師と童の歌問答の記述がある。
『 西行法師が、伊勢神宮参拝の途中で、当寺を訪れた時、一人の子供が境内で遊んでいたが、
法師を見ると何を思ったのか、側の桜の木に登り、高い枝に腰をかけた。
余りの見事な木登りだったので、法師は思わず、「 さるちごとみるより早く木にのぼり 」
と、上の句を口ずさむと、木の上の子供は、「 犬のような法師来たれば 」 と、すかさず下の句をかえした。 』
という逸話で、本堂の前にある桜はその孫で、さる稚児さくらと呼ぶ、とあった。
左側の若い桜は咲いていたが、これもその子孫だろうか?
寺の山門の横には、 清水不動参詣道コレヨリ三丁 の背の高い木造の案内看板が立つが、その先にある清水不動院への案内である (右中写真)
その下の安永二年(1733)建立の小さな道標には、大日如来出現所香水道 と刻まれている。
寺に伝わる文禄弐年(1593)の縁起によると、
「 行基が伊勢参宮の途中、このあたりの土中から仏像を掘り出し、堂を建てて安置したという。
この仏像が出土した跡地から香水と称する一切の痛みがある病気を治す水が湧き出し、白河上皇に献上したところ、
病気が治ったので、七堂伽藍を建て、寺領を寄付した。 」 、と伝えられる。
街道に戻り、交差点を直進すると、右手に金剛寺と南昌寺がある。
このあたりは垂水であるが、右手は小高い山になっていて、街道と平行して続いている。
交差点を直進すると、道は左にカーブするが、道の右側に、須賀神社の石柱、その奥に常夜灯と石の鳥居がある。
須賀神社は旧垂水村の産土神で、社殿へは、石段で山の上に登っていかなければならない。
その先の三叉路は左の道を行くと右側に明治弐年(1869)建立の式内加良比之神社の石柱があり、
その奥に、明和元年(1764)建立の銅製の常夜燈が建っていた (右下写真)
神社は、ここからニ百メートル程奥の山の中腹にあるが、立ち寄ることにした。
中に入っていくと、延喜式内社という格式のある神社だったので、
今日でも境内は広々としていたが、社殿は燃失したので、最近のものだった (左下写真)
案内板には神社の生い立ちについて、
「 垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が天照大神を奉戴し、御遷座の時、ここに神殿を建設し鎮座したが、
宮中は水利不便であるため、樋を以って通したことから片樋宮と称した。
四年後、天照大神のご神託により、他所に遷座したが、宮跡に御倉板擧神、伊豆能賣神を祀り、加良比乃神社と称した。
以後、土地の御産神として、今日に至る。 」 と書かれていた。
御神木かどうか分からないが、その木の下に片樋宮と書かれて石柱が建っていた。
参道近くの円光寺は、嘉永八年(1631)の創建といわれる寺である。
街道の左側に、ケヤキの一枚の板扉の立派な門を構え、小屋根の軒下におおだれが付いている切妻妻入りの大きな家があった (左中写真)
相川に架かる相川橋を渡り少し行くと、小森上野町のバス停がある交差点で、右に上って行く道は広いが、
直進する狭い道が伊勢街道である。
道の左側には用水が流れ、道の方が左側の土地より高いところにあるので、見晴らしがよいところもあり、地名も高茶屋である。
江戸時代、高茶屋は津宿と雲津宿の中間にあたり、立場茶屋があった所で、昔はここから富士山も見えた、といわれる。
しかし、今日は住宅が海まで続いていた (右中写真)
その先の交差点を直進すると天神川に架かる天神橋に出たが、江戸時代は、板橋だったようである。
橋を渡ると右手の小高いところに浄土宗の称念寺があるが、
石段の手前左側には大きな常夜燈があり、その脇には天満宮や十社の森と刻まれていたが、
燈籠には大正の末期まで当番で灯明をあげていた、という (右下写真)
常夜燈の左側にある瓦屋根のお堂は、昭和五十一年再建の薬師堂で、
その前に南無阿弥陀佛と円光大師準二五霊場第十五番の石柱が建っていた。
少し行くと右側に大きな高茶屋神社の石柱があり、その奥に石の鳥居が建っている。
右側の腰の低い石塀で囲まれた背の高い春日型常夜燈は、十三社 常夜燈と刻まれ、文久三年(1863)の建立で、
昔、この神社は十社の森と称され、伊勢神宮へ参詣する勅使の休息所があったという (左下写真)
先程の称念寺前の常夜燈もこの神社用のものだったのだろうか?
道の両脇には、黒い瓦の重厚な家が建て並び、屋敷町風であった。
そこを過ぎると、最近の建物に替わり、その先には事故多しと赤く書かれた陸橋が見えてきた (左中写真)
これは、国道165号の陸橋で、伊勢街道とJR紀勢本線を跨いでいる。
国道の下をくぐり、JRの高茶屋踏切を渡り、道を左折すると、JR 高茶屋駅があるが、伊勢街道は右折である。
ここまでは住宅が続いていたが、ここから雲出川まではこれまでの風景と一変。
幾つかの集落はあるのだが、自然が美しく残っているので、解放感を感じさせる風景が続く。
道の両側に広がる田畑を見ながら行くと、池田集落に入った。
集落に入ると、右側に新四国八十八ヶ所の石柱があるのは、玉造院である (右写真)
その先の三叉路を右に五百メートル程行くと、西島八兵衛を祀る水分神社があるが、そのまま通り過ぎる。
池田集落が終わると、また、左右に田畑が広がる自然が続く。
殿木の集落に入ると、左側に津市雲出市民館の建物があった。
突然、パカパカという音楽が聞こえてきたので、びっくりしてその方向を見ると、車体にロバのパンとある移動販売車である。
家数の少ないところを走っていて、商売になるのだろうか?
その先の左側には、現在地より北100mより移転したと書かれた石碑と明治三十三年建立の記念碑があり、その左側に
山の神が二基祀られていた (右写真)
そこを越えると雲出島貫町に入るが、江戸時代には、伊勢街道の雲出宿があったところである。
宿場の名前については、雲出宿と雲津宿と二種類の表示があるが、現在の土地名に倣って雲出宿としたが、
江戸時代の表示はどうだったのだろうか?
左側に黒い羽目板の蔵がある信号交差点を越えて進むと、左側の有限会社 タイメックスの先に、
史跡 明治天皇島貫御小休所址と書かれた背の高い石碑があったが、
ここには本陣の柏屋があり、明治期まで営業していたという (左下写真)
このあたりが雲出宿の中心部だったようだが、現在の姿からは宿場があったことを想像するのは難しい。
その先で道は右にカーブし、正面に土手が見えてきたが、
道の左側の塀と民家の間の狭い道の角に、神明社の道標がある。
折れたのを貼り付けたような道標だが、旧雲出長常村にある神明社への道を示す道標である (左中写真)
そこを過ぎると、雲出川の土手に突きあたり、道は右にカーブするが、その先の三叉路で左の道を上ると雲出川の土手道に出た。
雲出川は、奈良県と三重県の県境の三峰山を源流にする川で、県内では櫛田川、宮川と並ぶ大きな川である (右中写真)
雲出川は北伊勢と南伊勢の境をなし、南北朝の時代には南朝と北朝の境界になったため、
橋は架られず、小野古江(おののふるえ)の渡しと呼ばれる船渡しによった。
江戸時代に入ると、板橋が架けられたといい、
この場所には、数年前までは昭和十五年に架けられた軽自動車が一台通れる程の狭い橋が架かっていたが、
取り外されたので、百メートル位上流に新たにできた橋を渡ることになる。
下に見える道には右側に開運 毘沙門天霊場 三十三所観世音分身安置 北畠大納言の守護尊と書かれた石柱があり、
その奥に沢山の小さなお堂が見えた。
堤防道をそのまま進むと、左手に新しい橋があるが、道の反対側の右側は小公園になっていて、
天保五年(1834)建立の常夜燈が建っていた (右下写真)
これは先程の渡し場跡にあったものを移設したものである。
橋を渡る前にここで小休止して、その後、松坂宿に向かって出発した。
雲出川に架かる雲出橋は最近できたので、歩道がしっかり確保されていて歩きやすかった。
天気は良いが風が強いので、帽子を飛ばされないように手で帽子を押さえて歩ききった。
橋を渡り終えたところに常夜燈があったが、この常夜燈は、寛政十二年(1800)に奉納されたもので、
宮立型の高さ四メートル七十センチの花崗岩製で、
燈籠の西面に常夜燈、東面に寛政十二龍集庚申晩春穀旦、北側と南側には京都○講 大阪屋 藤七 などの寄進者の名前が刻まれていた (左下写真)
傍らの案内には 「 常夜燈の奉献の際、建立する土地と献燈用の油代を賄う田が寄進され、これを基に地元で管理されてきた。 」
とあり、昭和十九年の東南海地震で倒壊した際火袋を補修したが、建設当時の姿を留めているといわれる。
常夜燈の前の土手道を左に入り、伊勢街道があった対岸の延長線上の元の橋があったところにでたが、上述の常夜燈はここにあったのである。
階段で下に降りると、狭い道があるが、これが伊勢街道で、この先県道と並行して続いていた。
ある民家の壁に、松阪市小野江町の表示があり、各家に江戸時代の屋号や職業が書かれていた。
ここは江戸時代には須川村、今回の町村合併前は三雲町西小野江だった。
江戸時代、須川村には渡海屋、樽屋など六軒の旅籠があり、雲出川が増水した時には、旅人が多く逗留した、という。
車も通らない静かな通りを歩いて行くと左側に、史跡 松浦武四郎誕生地の標柱が建つ妻入りでがんぎの付いた家屋があったが、
北伊勢では雨除けを幕板といっていたが、南伊勢に入るとがんぎと呼ぶようだった (左中写真)
また、伊勢街道沿いには妻入り(出入口が妻側にある)の家が圧倒的に多いが、
以前訪れた東海道の関宿は、平入り(出入口が平側にある)の家が多い。
同じ三重県なのに場所により建て方が異なるのは驚いた。
案内板には 「 松浦武四郎は、旧須川村の郷士、松浦桂介の四男として生まれ、蝦夷地から択捉島や樺太まで探検した人物で、
幕府の蝦夷御用御雇に任命され、明治政府でも開拓判官となり、蝦夷地を北海道という名前を付けた人物である。
彼はアイヌ人にもやさしく接したといわれ、北海道の地名にアイヌの地名を残す努力をした。
この家は築後百七十年位だろう。
小野江小学校の奥には松浦武四郎記念館がある。 」 、と書かれていた。
道は左右にカーブするが、伊勢特有の妻入りの家が多く建っていた (右中写真)
道の右奥にあるのは貴船神社、更に歩くと、右側に小野江小学校があり、
その先の左側の民家の壁に、南無妙法蓮華経碑があった。
十分程歩くと肥留町で、小さな用水路の手前の交差点の右側に常夜燈が建っていたが、
文政七年(1824)の建立の宮立型と呼ばれる常夜燈の台座には 江戸 乾物問屋中 と、彫られていた (右下写真)
道の反対には、金剛寺があった。
肥留公会所を過ぎ、道は左に折れて進むと、左側に川が流れるところに出たが、交差点を横断して、川に沿って進む。
左手にCHUSEI TAIHEIYOの大きなコンクリートサイロがあるが、工場や畑が混在し、やや殺伐したところである。
昭和橋の近くの左に向かう三叉路の民家の垣根に、文政四年(1821)建立の道標があり、
旅神社 小舟江是より三丁 右からすみち、とあった。
数百メートル歩くと、松坂市中林町の表示に変わった。
左手に大きなお寺のような建物を見ながら進むと、交差点手前の右側に常夜燈と大きな道標が、
そして、反対の道の左側には、大きな花崗岩製の両宮 常夜燈が建っていた (左下写真)
「 道標は、天保十三年(1842)に建てられた伊勢街道最大の大きさのもので、正面に 右 いかこ江なら道、右横に 右さんぐうみち、左横に 月本おひわけと、刻まれている。
ここは、江戸時代、伊賀越え奈良街道と伊勢街道の追分だったのである。
月本は当時の地名で、ここには役人常駐の立場茶屋があり、また、旅人の休憩所として、茶屋や煮物屋が建ち並び、大変賑わっていた。
隣の常夜燈は、変形宮立形、というもので、小ぶりであるが道標を兼ねていて、右 大和七在所道 ならはせこうやいがごゑ道とあり、
明治十六年に再建されたものである。 」 と案内にあった。
その先、みかど橋北の左側には、右からす道と書かれた小さな道標があった (左中写真)
香良洲(からす)道を少しだけ入ると、天保三年(1832)建立の常夜燈と大正八年建立の勅使塚があるが、
これは勅使大中臣定隆が、壱志駅で亡くなったことにちなんだものである。
御門(みかど)橋の西付近には、江戸時代、曽原茶屋があり、こわめし、田楽、さざえの壷焼を売っていた、という。
右側には、軒に雨除けのがんきを付けた平入りの立派な民家があった (右中写真)
中道町に入り、小さな川<(用水)を渡ると、三叉路のようになっているが、直進の道はその先は畑になりなくなっていた。
伊勢街道は左にカーブする道を川に沿ってすすむが、
このカーブのところの民家前の三角形の土地に、常夜燈と左さんぐう道の道標と石橋の親柱が並んで建っていた (右下写真)
これらは、伊勢神宮の第61回遷宮を記念して、地元の人々が建てたもので、石橋の親柱は山の神を意味するもののようである。
幾らか広くなった道を進むと、交差点の正面の中道公会所の前には天白村青年団の石柱と常夜燈と小さな道標があった。
四角に穴があいた道標には、右さんぐう道とあるが、これはからす道への道標である (左下写真)
この建物の左奥には金毘羅大権現碑と山の神が二基祀られていた。
伊勢街道はここを右折して進み、三雲中学校の先で国道23号のガードをくぐる。
手前の用水の脇のよく見ないとわからないところに、小津一里塚跡の小さな碑があったが、伊勢街道で一里塚跡の碑は珍しい。
少し先の変則交差点の左側には伊勢神宮式の小津(おづ)常夜燈が建っていて、
その足元には、大正になって建てられたからす道の小さな道標があった (左中写真)
道標には、右松阪及山田、 左津及香良洲など、と刻まれているが、下部は地中に埋まっている。
曲り角の右側の細い道を行くと、紀勢本線の六軒駅がある。
明治の終わりに鉄道の参宮線が開通したが、参宮者は鉄道で直接行かずにこの駅で降りて伊勢まで歩いて参宮したと伝えられる。
常夜燈も明治期のものなので、道標もその人達の為に建てられたのかも知れないと思った。
その先で道は左、右に少しカーブし、信号交差点に出るが、交差点を横断すると、六軒郵便局があり、道は右になだらかにカーブしていく。
途中に三雲南幼稚園があり、道なりに進むと、三渡(みわたり)川に架かる三渡橋に出た。
三渡川は、涙川とも呼ばれた川だが、中世の伊勢参宮古道の時代には渡し場が三ヶ所あったので、三渡の名が付いた、といわれる。
橋を渡った右側に、初瀬街道との追分を示す大きな六軒追分道標が建っている (右中写真)
道標には、いがこえ追分の下に、小さく 六けん茶や 、その右側には、 やまとめぐりかうや道 、左に 右いせみち 六軒茶屋 と、ある。
伊勢音頭に歌われた六軒茶屋は、文政六年(1823)に市場庄村から独立して、三渡村と称した。
この道も前述の月本の道と同じ、伊賀越えの道だったが、
六軒茶屋は、江戸時代後期には茶屋や旅館が立ち並び、参宮街道と初瀬街道を利用する旅人で賑わったのである。
道の反対側(左側)には、大阪の人が二反半の田を付けて寄進したといわれる、文政元年(1818)建立の常夜燈がある (右下写真)
常夜燈の反対側の空き地のところに伊勢講の常宿として繁盛した旅籠磯部屋があったようである。
その先右側の六軒町 池田屋と表示された格子戸の家はすばらしい (左下写真)
一、二階とも格子がはまっていて、一階の格子戸の左右は出格子で、
片方は細く細かいが、もう一方は太く粗い格子になっていて、部屋への光の入れ方を格子の粗さで微妙に調節していた。
これまでいろいろ見てきたが、これはすごいと思った。
市場庄町に入ると、ここでも天満屋、藤音、ふろ屋など昔の屋号が付けられていた。
右側には、屋号大清とある妻入りで雁木の付いた連子格子の重厚な家があった (左中写真)
その先には白壁に黒板貼りの塀を巡らし、塀の中に何軒かの建物が建っている屋敷がある。
更に切妻の家が続き、平入りの家も一部あった。
この集落は堂々とした構えの古い家が多いが、それに手を加えて使用しているのは素晴らしい。
右側にいちのやという切妻造りの無料休憩所があったが、休館日で中には入れなかった (右中写真)
傍らの案内板には、 「 いちのや(宇野家住宅)は、大正三年(1914)に宇野家の別宅として建てられたもので、
建物は切妻造り妻入り形式で、そこに庇屋根を付け、通りに面した側には大きな出格子を付けている。
内部は、北側に店、中間、仏間、屋敷が一列に並んでいる。
明治以前、この地区の町屋で見られた摺り上げ戸から出格子戸への過渡期の建物である。
この変化は宿場町から農村集落へと市場庄町が性格を変えてきた明治中期から大正初期ともほぼ一致している。 」
と、書かれていた。
これにより、市場庄町は江戸時代には商家もあった町だったが、街道が寂れた明治時代になり、農村に変わったことが分かった。
また、そういうことから伊勢街道時代の面影が残る建物が多く残っているのだなあと思った。
その先の三叉路左側にある蔵の下に、宝暦三年(1751)に建立された忘井之道の道標がある。
ここは米之庄神社への分岐点で、左の小道を百メートル程行くと、左側の木立の下に屋根の付いた井戸跡があり、
井戸の右側の石の柵の中には、小さな社と山の神碑が祀られていた (右下写真)
傍らの説明板には、 『 これが忘井という井戸である。
その昔、斎王の一人、恂子内親王が、一志頓宮のあたりにさしかかった際、おつきの女官、斎宮甲斐が、遠く都を離れて、
はるばると伊勢の地に来た望郷の念を詠んだ歌が、
「 別れゆく 都のかたの恋しきに いざ結び見む 忘れ井の水 」 である。
この歌は千載和歌集に載せられて、後世に残っている。 』 と書かれていた。
街道に戻り、先に進むと左側に大正七年(1918)に建てられ、昭和三十年(1955)まで米ノ庄村役場として利用され、
現在は市場庄公会堂として利用されている建物があった。
また、左にカーブする道の両側には、妻入りの家がノコギリのように連なって建っていた。
このような集落は後世に残るといいなあ、と思う。
近鉄山田線のガードをくぐると、左側に格子戸の町並み案内があり、市場庄の道すじと家の屋号が表示されていたが、
ここが市場庄の南のはずれで、家並みも途切れ、田畑が顔を出した。
久米集落に入ると、道は左側にカーブし、その先も少しくねくねしている。
両脇には定番になった感のある妻入りの家が続くが、三叉路に突き当たると、
消防格納箱の隣に左さんぐう道の道標があり、その隣に役の行者を祀る行者堂、
嘉永五年(1853)に江戸日本橋室町の人により建立された常夜燈と文字庚申を祀る庚申堂が並んで建っていた。
少し離れて、山の神二基が祀られ、その右に松坂市岩内への近道を示す、いおちかんのんの道標がある。
伊勢街道でこれだけまとまってあるのは珍しい (左下写真)
伊勢街道はここで左折し、次の変則的な交差点を右折し、道なりに進むが、このあたりは畑と家が混在していた。
左手の樹木の先に白壁の家が見え、立派な塀が現れたので、小路に入ると立派な長屋門があった (左中写真)
この家は、南北朝時代から続く舟木家の武家屋敷で、
長屋門は、文政年間(1818〜1830)に作られたといわれ、門の入口には家紋が二つ彫られていて、左右に出格子の窓があ
り、そこには注連縄がかけられ、笑門の木札が付けられていた。
その両脇はなまこ壁で塗られていて、屋敷全体は黒と白の塀で囲まれていて、堂々たる屋敷である。
ここを過ぎると民家が多くなってきた。
川の両側には慶應三年(1868)に建てたという石柱が残っているが、これは幟を立てるものである。
石柱はこれから先伊勢神宮に到着するまでところどころで見かけた。
その先の三叉路の突き当りには庚申堂が建っていた (右中写真)
伊勢街道は左に、続いて右に、そして、左にカーブし、まさに鉤型のようになっている。
その先の交差点の左手に、近鉄松が崎駅があるが、交差点を直進すると、左側に古川水神常夜燈と書かれた石柱が建ち、
その奥の右側にずんぐりした万延弐年(1861)建立の古川水神常夜燈、その左に小さな祠と古川水神遥拝所碑が建っていた。
その左手に、山の神が二基祀られていて、その他にも、火防御神碑ともう一つの碑が祀られていた (右下写真)
その先の左右の道をガードでくぐると、三叉路に出て、右折すると道は左にカーブし、続いて右にカーブする。
百々川は塚本と船江の境をなしているが、川に架かる塚本橋の手前、右側の水門奥に、富士大権現の石碑が建っている。
この富士大権現碑により旧塚本村で富士講が行われていたことがわかった。
橋を渡ると、左側に嘉永五年(1852)建立の両宮 奉納常夜燈があり、江戸日本橋室町 紅林氏 と刻まれていた (左下写真)
その先にはJRの船江踏切があり、左が松阪へ、右はすぐ先で名松線と紀勢本線に線路は別れていく。
踏切を渡ると、右側に天台宗の利生山延命院薬師寺があり、本堂は唐様式に和様式を取り入れた造りで、承応弐年(1653)の建立である。
また、仁王門も本堂と同じ唐様式に和様式を取り入れた造りになっていた (左中写真)
本尊の薬師如来坐像は平安後期の作で、県の重要文化財である。
なお、境内に入ると小さなお堂の脇に、伊勢街道に多い山の神が数基祀られていた。
街道に戻ると、この先の伊勢街道は右折して、信号交差点を越えると三叉路に突き当たるが、
ここには、街道の雰囲気を残す連子格子の家が建っていた (右中写真)
このあたりは江戸時代の鉤型の跡で、三叉路を左折、続いて、右折し、次の交差点では左折するという風に進む。
この後の約一キロはほぼ直線の道で、道の左右に、一階が格子で二階が虫籠窓の家があり、
また、二階が低く袖壁を持った家が何軒か並び、宿場らしくなってきた。
このあたりは川井町だが、昔は松阪宿の北の入口にあたり、
「 酒楼妓院軒を並べ 弦歌湧くが如く 遊客群集す 」 といわれたほど、多くの茶屋や娼家があって、賑わったところのようである。
信号交差点の左右の道は、県道53号線で、伊勢街道は横断して狭い道を進むが、道に車の姿はなく、右手の奥に、お寺が見えた。
左側に、なまこ壁の蔵と袖壁、虫籠窓のある金物店があった (右写真)
その先には朱塗りの手摺と欄干に擬宝珠のある松阪大橋が見えてきて、いよいよ松阪宿に入る。
阪内川に架かる松阪大橋は、松阪築城の頃、蒲生氏郷が三度川に架かる笹尾橋を移したのが最初の橋といわれる。
江戸時代に入ると長さ約四十四メートル、幅六メートルの木製の橋が架けられ、
文政九年(1826)に欄干の柱頭に擬宝珠が付けられた (左下写真)
この橋を渡ると、松阪宿である。 橋を渡るとすぐ左側にある商家は、
江戸時代、松阪の御三家の一つに数えられた紙問屋の小津清左衛門家の邸宅だったところである (左下写真)
小津家は江戸で紙や木綿を手広く商いしていた豪商で、現在も東京の創業地で、紙卸業を中心として活躍しているとあった。
その松坂の屋敷が松阪商人の館として有料で公開されている。
この家は千本格子と虫籠窓の卯建が上がった家で、中の見世の間には季節柄か、御所型のひな飾りと吊るし雛が展示されていた。
間口に比べ、奥行は長い感じで、部屋の数は多く、土蔵が二つ残っていた。
外観は質素に見えたが、庭や広々とした敷地には、江戸店持伊勢商人の暮らしぶりを感じるものがあった。
その隣は正円寺で、ここの矢下小路は嬉野矢下町からつけられた、という。
その先の左側に白い壁に囲まれた立派な門があるが、この場所は越後屋、三越と発展を遂げ、
三井家全盛の基礎を築いた三井高利の生まれ育ったところで、
邸内には、初代三井高安と二代高俊の墓碑、創業の祖三代高利の産湯の井戸、高利の長兄らの供養碑が残っている、
といい、三井家発祥の地である (右中写真)
このあたりは本町で、標柱には、 「 天正十六年(1588)に松ケ島城下より移られてできた町で、
北は阪内川、南は神道川までの参宮街道二百八十メートルの町筋である。
江戸時代には、三井、小津、伊豆蔵等の江戸店を持つ大店が立ち並び、木綿商人が多かった。 」 と、あった。
本町交差点で道の右側に渡り、少し行ったところに松阪もめん手織りセンターがある (右下写真)
手織りセンターは、江戸時代、江戸っ子に好まれた松阪木綿の手織り技術の復活と伝承を目的に開設された施設で、手織り体験ができる。
この場所は隣の産業振興センターを含め、三井家創業の祖、三井高利(1622-94)が最初に店を構えたところである。
その先の交差点の左右の道は魚町通で、右折すると、左側に江戸木綿問屋の長谷川邸がある。
長谷川本家は、丹波屋治郎兵衛と称した松阪木綿商で、現在も東京の創業以来の地で、会社経営を続けている、といい、
千本格子、虫籠窓、妻入りの蔵や卯建が上がった屋根など、落ち着いたただづまいの中に、当時の松阪商人の繁栄ぶりがうかがえる (左下写真)
隣の見庵は、魚町一丁目のまちづくりやおもてなしの拠点だが、
江戸時代には、本居宣長の親友で、代々医者の家だった小泉見庵が住んでいたところである (左中写真)
彼は明和九年(1772)に本居宣長を含めた親友五人で吉野山の桜と飛鳥を巡る旅をしている。
道の対面には特別史跡 本居宣長宅趾の石柱があるが、そこが本居宣長の家跡である (右中写真)
案内板には、 「 本居宣長は、十二才から七十二才で生涯を閉じるまで、その家で過ごした。
宣長は、ここで医者を営む傍ら、日本の古典を研究し、古事記伝や源氏物語玉の小櫛などを著した。
宣長の居宅は、明治四十二年に保存のため、松阪公園に移されたので、
現在あるのは居宅の礎石と宣長の長男、春庭の旧宅と本居家の土蔵である。 」 とあった。
先程の交差点に戻り、右折して四百メートル程行くと、突きあたりに松阪公園がある (右下写真)
そこには、松阪城の石垣と松阪城跡と書かれた石碑が建っていた。
松坂城の歴史に触れると、 「 松阪城は、蒲生氏郷が天正十六年(1588)に、この北の松ヶ島城からこの四五百森(よいほのもり)に構築した平山城である。
その際、松ヶ島城を壊し、領民を全てこの地に移住させた。
氏郷はこれまで海より通っていた参宮古道を町の中央に通るようにし、商人の保護育成や町の治安維持に努めた。
氏郷が会津若松に移封になると、服部一忠、古田重勝が城主になったが、
元和五年(1619)八月紀州藩領になり、勢州領十八万石を統括する代官が派遣された。
紀州藩時代の松阪城は、一国一城令による規制もあって、荒廃の一途をたどる。
天守閣は、正保元年(1644)七月二十九日の大風で倒壊したが、再建されず、築城当時にあった櫓や建物も姿を消していった。
寛政六年(1794)に、二の丸御殿が築造され、徳川陣屋として使用された位で、城門、石垣、堀などの防御施設が最少限度の修復が施された。
明治十四年(1881)に城址公園になった。 」 というものである。
明治二十三年、藤田藤助が二の丸跡に料亭、亀甲亭を開き、料亭の南庭に愛知県の旧鍋田村から樹齢二百年の老藤を移植した。
その藤棚は今も健在である。 ここからは松坂市内が一望でき、また、いくつかの石碑も建っている。
その先を右手に上ったところが本丸跡だが、本丸は上下二段からなっていて、
上段には一段高い天主台に三層の天守閣を築造し、敵見櫓や金の間櫓を配していた。
また、下段には、太鼓櫓や月見櫓と遠見櫓を構え、これらの櫓間は多聞を配していた、という。
樹木の下に天守閣跡の石標があった(左下写真)
もと来た道を戻り、中御門跡を過ぎると、小高いところに門があり、本居宣長の旧宅の標石が建っていたので、
中に入ると桜松閣があり、その先右側の塀の中に本居宣長の旧宅鈴屋が移転されて保存されている (左中写真)
この一帯は、松坂城の隠居丸の跡で、江戸時代には宝蔵や道具蔵、米蔵がいてあったようであるが、
塀の左手には鈴屋遺蹟之碑があり、また、山室山神社魚町旧宅趾 花岡対山室奥墓 省線松阪停車場 と書かれた道標が建っていた。
裏門跡の標柱がある石段を下ると、城の石垣が切れたところの右手に、常夜燈が二基建っていた (右中写真)
一つは文政六年(1823)発来とある常夜燈で、津の新玉講より寄進されたもので、最初は、津の藤枝町にあったが、昭和初期にここに移された。
もう一つの常夜燈は、江戸干鰯問屋仲間が安永九年(1780)に寄進した旧櫛田川渡し場常夜燈といわれるもので、
書家三井親和の揮ごうによるものである。
最初は伊勢街道筋の早馬瀬河原にあったが、昭和二十九年(1954)に現在地に移設された。
坂を下ったら、右折して進むと、右手の小高いところに、本居宣長記念館があり、
宣長及び一族、門人の遺稿、遺品類が一万六千点を収蔵、展示している。
そのまま車道を進むと、本居宣長の宮があった (右下写真)
「 この神社の祭神は本居宣長で、相殿に平田篤胤を祀る。
もとは宣長の奥墓付近にあり、山室山神社と呼ばれていたが、昭和六年に本居神社、平成七年に現在の名前に改称した。 」
とあった。
裏門跡を下りた道の右側を下りると、御城番屋敷があるが、以前に訪れているので、そのまま本町交差点まで戻った。
本町交差点を越えると、松阪宿の中心だった中町になり、道幅も広がる。
その先の肘折橋はめでたい時は渡らない方が良いという迷信があった、という。
現在は、川が暗渠になり、肘折橋跡を示す小さな石柱だけが建っている。
江戸時代、肘折橋の先から先の左側に柳屋奉善、その向かいに米屋、少し先に脇本陣、本陣、馬問屋、新上屋が並んでいた、という。
和田金の隣の柳屋奉善は、天正三年(1575)の創業という老舗で、
四百年の歴史を持つ和菓子、老伴(おいのとも)は、最中の皮を半分にした中に、餡を入れ、固めたものである (左下写真)
中町交差点から先は近代化された商店街で、昔を彷彿させるものは残っていない (左中写真)
大和屋与兵衛が務めた脇本陣は右側のビル、日本料理の快楽亭付近にあったようで、
本陣を務めた美濃屋庄右衛門家は、松崎屋食堂から山作餅店のあたりにあったようである。
その脇の小路には美濃屋小路という名が付けられ、当時の歴史をかすかに残していた。
左側のよいほモールバス停前には、本居宣長のからくり人形があった。
その先の鯛屋旅館は和風のしっとりした良い感じだが、
道の反対には、カリオンプラザという大きな有料駐車場があり、そのビルには飲食店が何軒が入っている。
このビルあたりに、宣長が三十四才の時、伊勢参りに来ていた賀茂真淵と逢った新上屋があったようで、
この松阪の一夜が宣長の古事記研究のきっかけとなった、といわれる。
その先の日野町交差点で、左折すると松阪駅にでるが、そのまま交差点を越えると、
右側のヒシナカ薬局の前に大きな道標があり、 右わかやま道、 左さんぐう道 八雲神社 と、刻まれていた (右中写真)
ここは日野の追分で、直進するのが伊勢参宮街道、右に行くのが和歌山街道だった。
江戸時代の松阪宿は、縦断する参宮街道と和歌山街道が分岐する宿場町として栄え、
このあたりは旅館や遊郭が軒を連ねていた、という。
日野は、蒲生氏郷が、近江国日野から移転してきた際、日野から連れてきた商人や住民がいたことから、町名になったといわれる。
明和六年(1769)の頃、問屋役を務めたのは、日野町の舟橋屋新右衛門で、現在の江戸屋結納店の付近にあったという。
交差点の先の右手には、浄土宗の樹敬寺という寺がある (右下写真)
代々、本居一族の菩提寺で、本居宣長夫妻とその息子、春庭夫婦の墓が背中合わせに立っていた。
その先の交差点を過ぎると、湊町で、湊町の道標には、
「 城下町建設の際、伊勢大湊から商人を誘致して成立した町であり、移住した商人の中に、角谷七郎次郎がおり、
その次男、七郎兵衛は、寛永八年81631)に安南国(現在のミャンマー)に渡り、海外貿易にあったが、
鎖国令により鎖国になり、故国に帰ることなく、生涯を終えた。 」 と、あった (左下写真)
その先には、愛宕川と書かれた橋のように造られたものに、ゆめの樹通りとあるが、
道の下は暗渠になっていて、愛宕川が流れているのだろう。
その先の愛宕町西交差点で、国道42号を横切ると愛宕町。
愛宕町は西の川井町と共に紅灯を競ったといわれるが、松阪宿の東の出口でもあり、ここで松坂宿も終わるので、駅に向かう。
交差点を左折すると、その先の愛宕町交差点の左側に、愛宕山竜泉寺の赤い鳥居と山門が見えた。
山門は、松阪で一番古い建物で、松ヶ島城の裏門だったといわれる切妻造り、本瓦葺きの一間一戸の薬医門で、
桃山時代の風格を示す建造物である (左中写真)
赤い鳥居の右側には、正親町天皇天正九年勅願所の石柱が建っている。
案内によると、 「 竜泉寺は真言宗に属し、本尊は火防の神、愛宕大権現(愛染明王)であるが、この寺の前身は、嬉野滝之川町にあった滝川寺の下之坊である。
滝川寺は、永禄十二年(1569)の信長による伊勢攻め、阿坂合戦の時に全焼したが、下之坊の本尊、愛染明王と愛宕権現を保持して松ヶ島城に逃れ、上福院になった。
その後、松ヶ島城の城主になった蒲生氏郷が松坂城を築城し、町を移転したが、寺はそれより以前の天正八、九年に当地に移転した。
天正九年に正親町天皇の勅願所となり、嵯峨御所大覚寺の命で松ヶ島より移転した、という説もあるようである。
江戸時代には愛宕神社の別当寺だったが、参宮街道の要路にあったので、このあたりは愛宕神社の門前町として賑わった。
明治の神仏分離の際、神殿を仏殿本堂として、竜泉寺となった。 ここには松阪藩初代藩主の古田重勝の墓がある。 」 とある。
左手の小高いところにある竜泉寺本堂には、本尊の愛染明王、不動明王と毘沙門天が祀られている (右中写真)
また、境内の左側の建物には滝川五社稲荷が祀られていた。
入口に鳥居と山門があることや愛宕権現社と稲荷神社が混在していることなど、今なお、神仏混合の影響が色濃く感じられる寺院である。
寺を出て、松坂駅に向かう。 突き当たった三叉路で右折し、次の三叉路を左折して、京町にはいると、
右側に八雲神社、そしてその先に善福寺がある。
八雲神社は、蒲生氏郷によって、松ヶ島城から遷社された産土神四天王社の一つである (右下写真)
宝暦十二年(1762)、宝殿、拝殿の建て替えの際、本居宣長と門人達が奉納した、二巻の百首歌が近年になって発見された。
善福寺は、かっては松ヶ島の弥勒屋敷にあり、隣の八雲神社の別当寺だった、という寺である。
時計を見ると、十七時過ぎなので、周りは薄暗い。 拝殿で参拝後、松阪駅に行き、近鉄特急で名古屋に帰った。