平成21年3月7日。 今日は松坂宿から伊勢神宮の内宮まで歩く予定である。
今回は高速道路を使用して松坂に入り、カリオンプラザの駐車場に駐車し、前回終えた愛宕町西交差点までいき、
今日の旅を始めた。 伊勢街道は残り二十五キロ程なので、外宮から内宮までなんとか歩きたいと思う。
駐車場を出ると、前回歩いた日野町交差点、湊町交差点、愛宕町西交差点の順番にあき、今日の旅が始まった。
愛宕町西交差点で、国道42号を横切ると愛宕町だが、
左側の愛宕町公民館の壁に、小津安二郎青春の街と書かれ、隣に監督の撮影風景を描いた大きな看板があった (左下写真)
これは小津安二郎青春館への案内板で、200mとあった。
なだらかな上り坂を進むと、上りきったところの右側に小津安二郎青春館があり、
彼岸花、東京物語、お嬢さん、突貫小僧、懺悔の刃の映画看板が掛かっていて、一見、昔の映画館のような造りである (左中写真)
小津安二郎は青春時代の十年間を松阪で過ごしたことから、小津の青春時代を偲ばせる物や写真、資料などを展示した施設で、
これらの手書きで描かれた看板は、時々描きかえられるようだった。
坂を下っていくと、左に三角公園があり、左からの松阪駅前からの道が垣鼻町交差点で合流するが、
ここまでが愛宕町である (右中写真)
垣鼻町交差点の先に狭い道があるが、伊勢街道は、右側へ広がる道なので、交差点を右折してこの道に入り、南東へと進む。
この道は少し進むと、二車線が突然一車線になり、右側部分にはガードレールが建っている。
広くなっているのはここまでという印のようで、この先は極端に狭くなった道を進むと三叉路に出たが、ここは直進して進む。
一車線の巾しかないのに、一方通行ではないため、両側の溝のブロック部分も道として使用され、当てられ防止のためか、家の外にブロックが置れている家が多かった。
左にカーブする三叉路も道なりに行くと、名古須川に架かる里中橋があり、
渡った左手には、荒神橋稲荷の石碑と鳥居があった。
道の右側には天台宗真盛宗の名刹、信楽寺があり、門前の仏足石は、天明五年(1785)に、広瀬永正寺の名僧、天阿上人が建立したもので、
その右隣には閻魔堂があった。 (右下写真)
境内には面白い形をした旧本堂の鬼瓦もあった。
道の反対側に、大小の常夜燈があったが、これから現在の道はかっての寺の境内を通りぬけているような気がした。
もとの街道はもっと左側だったのではないだろうか。
道を進むと徳和坂で、上り坂になるが、左側の森の中にあるのは御乳母稲荷と神戸神社である (左下写真)
神戸神社は、かっては三宝荒神社と呼ばれた旧垣鼻村の鎮守社で、境内には、常夜燈の隣に皇太神宮遥拝所もあった。
道の右側には、黒い板の上に白い漆喰の塀を張り巡らせている、出格子の窓が玄関の両脇に付いた屋敷があった。
その先の交差点の先は少し左にカーブしている。
徳和坂の頂上付近の左側の小高いところには、小さなお堂の庚申堂があり、お堂の中には青面金剛の石像が祀られていた。
そこを過ぎると、下りになり、金剛川に出て、川に架かる金剛橋を渡ると、これまでの道筋とは違い、両脇には田畑が点在する風景に変わった。
金剛橋から楼門橋までは徳和畷といわれ、直線的な道が続く。
江戸時代には、白酒を名物とする数軒の茶屋が並んで建っていた、といわれるが、今や人家も疎らな田園地帯である。
自転車が近づいてきて、おはようと声を掛けられたが、登校途中の生徒である。
見知らぬ人に声をかける風景は、都会では見かけなくなったので、大変うれしい。
五百メートル程歩くと、加茂川に架かる極門橋があり、橋の袂の右側に燈籠が建っている (左中写真)
永代常夜燈と書かれた燈籠は、文化十二年(1829)に、江戸干鰯問屋等により寄進されたものだが、嘉永二年(1849)に修理されている。
そこを過ぎると、下村町の四ツ又の集落で、道の両脇には、格子造りの家やしっくい壁の古い家が多くある。
こうした家を見ると、街道を歩いているという感じになれる。
信号交差点を越えると、左側に神戸保育園があり、その先の道の左右に用水が流れているが、道の左側に、小さなお堂があり、地蔵尊が祀られていた (右中写真)
その先にJR紀勢本線の踏み切りがあるが、徳和駅脇の踏切を越えると、左側に天保二年(1836)建立という常夜燈が建っている。
その右手の小さな川は加茂川で、川の右岸に片岡山大日如来 是より三丁と刻まれている標柱は大日寺の道標である。
その先のこれ又、小さな真盛川の左岸の堤防の上にあるのが、明治十三年建立の女人の供養塔である (右下写真)
どういういわれがあるものか分からなかったが、お堂の前に数輪の水仙が咲いていた。
上川西交差点を越えると、ふなた外科内科病院の先の右側の民家の一角に、禁酒の神 この夫婦石と書かれた石柱と案内板があった (左下写真)
囲まれた中には、夫婦石が祀られていたが、夫婦石はお酒が好きで、この神様にお酒をかけると、段々お酒を飲まなくなるそうである。
その先の右側に八柱神社があり、鳥居の脇に明和五年(1768)の常夜燈がある。
上川西交差点から車のすれ違いが厳しい狭い道になったが、町並みは、落ち着いた伊勢街道の情緒を残していた。
道の左側のカーサ ル・シエCとある集合住宅の先に、弘化三年(1846)に建立された従是外宮四里と刻まれた道標があった。
外宮まで十二キロなので、伊勢神宮は一歩近づいた気がした (左中写真)
右側の林の中に天保年間に建立された常夜燈があり、右手にお寺があった。
そのまま進むと、右側に松阪商高の看板があり、高台にグランドが見えたが、ここからは豊原町である。
江戸時代の豊原村は櫛田村から分離した村で、紀州藩と藤堂藩の入組地であった。
また、間の宿で、十九世紀初頭には本陣や伝馬所などが置かれ、旅館や茶屋が軒を連ねていたといい、櫛田宿という名で知られた、という。
上り坂を歩くと、このあたりには連子格子の家が残っていた。
道は左にカーブするが、左側の田畑の向こうには近鉄参宮線を走る電車が見える。
その先もうねりながら、緩やかな上り坂が続いているが、 南豊レンタリースを過ぎると伊賀町公会堂があった。
右側の虫籠窓のある白壁の家はおもん茶屋の跡、その先の二軒並んだ子格子の家がおかん茶屋の跡といわれ、
へんば餅を名物にしていたようである (右中写真)
道は相変わらず緩やかな上り坂が続く。
少し歩くと、豊原南交差点で、県道鳥羽松阪線を横切って進むが、ここから櫛田交差点までは古い家は残っていない。
なお、江戸時代、藤堂藩の豊原本陣はこの交差点付近にあったといわれるが、場所は不明。
奥田清十郎家は、代々藤堂藩の豊原組大庄屋を務めた名家で、豊原三角という学者も出ている。
櫛田交差点は以前は直線だったが、今はカ−ブになっているので、県道に沿って右に回り込むように行くと、
左側に赤い鳥居が並ぶ小さな社があり、鳥居の右側に、式内大櫛神社と櫛田大市の石碑が並んで建っていて、
鳥居の脇に、豊養稲荷大明神の幟がはためいていた。
「 この地は、延喜式神名帳の伊勢国 多気郡に鎮座と記述がある大櫛神社の旧地で、江戸時代には大楠社と称していたようである。
明治四十一年に神山神社に合祀されたが、昭和二十九年旧宇気比神社の地に豊原神社を立て分祀した。 」 、とある。
道の左側に切妻平入り、二階は黒い漆喰壁に虫籠窓、一階は格子造り、幕板が下がった家があるが、このあたりで古い家はこの一軒だけだった (左下写真)
その先の右側には文化二年(1819)建立の背丈ほどの大きな道標があり、左さんぐうみち、右い賀みちとあるが、
正面には石段、右手は工事中だが、道標の位置は以前と変わっているのかも知れない (左下写真)
道標に従い左折し、理容若林の先のT字路で、右折すると堤防に突きあたった。
堤防に上がる石段の脇には、大正三年に建てられた旧櫛田村大字豊原の里程標があり、
松阪 宇治山田 津迄の距離が刻まれていた (左中写真)
石段を上り堤防に出ると、櫛田川が見えた。
川の名の由来は、神宮に向う斎王が櫛を落としてしまい、流されたという故事による。
江戸時代は渇水期には仮の板橋が架けられたが、通常は渡しによったが、渡しも橋も有料だったようである。
右手に県道の櫛田橋が見えるので、堤防の道を歩き、櫛田橋で櫛田川を渡った。
橋を渡ると、櫛田川南詰交差点を左折し、堤防の上を少し行くと、その下に街道が延びているが、
この道は県道428号伊勢小俣松阪線である。
その先の右側には大乗寺という寺があった (右中写真)
大乗寺の地続きの小さな社は早馬瀬神社で、その境内に右けのう 左さんくうの文字が見える道標があったが、
下は土の中で分からない。 道標はもともとは渡し場付近にあったものを移転したものである。
道の右側に、切妻平入りツシ二階、格子造りの家が建っていた (右下写真)
少し歩くと、家がまばらになる。
変則的な交差点を左に行くのが機殿(はたどの)道で、ここはその追分である。
機殿道は井口中町にある神麻續機殿(かんおみはたどの)神社に至る道である。
なお、神麻續機殿神社は、倭姫命が御巡幸の時、飯野の高宮に皇太神を奉祭した時、ここに機殿をたてたとされる神社である。
道の右側には、天保九年の建立された石地蔵が祀られていた (左下写真)
ここは、漕代(こいしろ)のはずれにあたるが、背面にある文字は読めなかった。
田園風景が広がるが、左手に近鉄山田線の線路があり、時々電車が通り過ぎていくのが見えた。
今日は天候に恵まれ、暖かいので、自然にのんびりした気分になり、今日中に伊勢内宮まで行くことを忘れていた。
道はわずかにカーブを描きながら進む。
稲木の集落に入ると、先程見た切妻平入りの二階家が多く残っていた。
江戸時代、小稲木には、茶屋や旅籠が点在していたといわれる。
大稲木交差点を過ぎると、左手の柿畑の角に、梵字が刻まれた六字名号碑があった (左中写真)
ここは大稲木集落の西口にあたり、この石碑は文化四年(1817)に建立されたものである。
道が右にカーブすると、古びた赤い欄干の橋が架かる川があるが、その手前を左に入ると漕代駅で、橋柱にははらいかわばしと書かれていた (右中写真)
祓川は、古代の斎王群行の際、ここでお祓いをして、斎王宮に入ったことからついたといわれ、多気川、稲木川とも呼ばれる。
江戸時代には、渇水期は板橋が架けられたが、その他の時期は舟渡しだった。
赤い欄干の祓川橋を渡ると、明和町になった。
街道の右側に、黒板張り白漆喰の倉があり、隣に洋服 呉服 田所の看板を掲げた、切妻ツシ二階の平入りの家があり、その隣も同じような家だった。
蔵の手前の道の反対側には、従是三里外宮の道標が建っていた (右下写真)
伊勢神宮外宮までは三里とあるので、近いと感じまたのんびりとしてしまった。
実際はこれが最後にあだとなるのだが、この時はそれを知らなかった。
やがて集落に入り、道は上り坂になってきたが、道の左側は竹川地区、右側は金剛坂と表示されている。
切妻ツシ二階の平入り、格子造りで、軒に幕板が下がっている家が多く残っていると思うと、
左側に切妻妻入りで、一階部分は出格子、庇屋根が付き、幕板が下がっている家がある。
妻入りの家は、伊勢地方独特の建築様式である。
交差点の左側に斎宮歴史博物館の←道標があったが、そのまま直進すると、その先も妻入りと平入りの家が混在して建っていた。
斎宮小学校を越えた先の交差点を左折し、線路を越えると、正面に斎宮と書かれた大きな看板があり、広い土地が広がっていた。
右側にいつきのみや歴史体験館があるが、その左側にある空間は全て斎宮跡の敷地で、その一部に1/10模型でその建物群が再現されている (左下写真)
斎宮はいつきのみやとも呼ばれ、斎王の宮殿と斎宮寮という役所のあったところである。
天皇が即位するたびに伊勢神宮に天皇の名代として奉仕する未婚の皇女のことを斎王というが、
この制度は平安時代から南北朝時代まで六百六十年間も続き、その間、記録では六十人余の斎王がいた、という。
都から五百人の行列と共に百四十キロの道を旅して斎宮に入り、ここを拠点として伊勢神宮奉祀に年三回通った、とされる。
いつきのみや歴史体験館では、平安時代の貴族の住まい、寝殿造を模したガイダンス棟と
古代の役所の建物をモデルとした体験学習棟があり、十二単衣や直衣の試着体験などが出来る (左中写真)
建物の右側に斎王御館之遺跡の碑があり、碑の後方には休憩施設があった。
街道に戻ると、左側の牛葉公民館を奥に入っていったところに秋葉神社と庚申堂が祀られていた。
この場所は、かって観音寺という寺があったところで、地元の人が建てた観音寺跡の木柱が建っていた。
傍らの解説によると、 「 天正四年(1576)、斎宮の乾源休が菩提寺として創建し、その後、この地に移されて観音寺とされたが、
明治元年に廃寺になった。 本堂は現在佐田清光寺の本堂になっている。 」 とあった。
なお、ここへくる途中の右側に、乾という標札がかかった立派な門構えの家があり、
塀には瓦屋根が乗り、上半分が黒漆喰壁、下は黒い腰板、所々に連子窓がある屋敷である (右中写真)
少し進むと、道の左手に林があるが、石垣の一角に斎宮城跡の標柱があり、傍らの解説には、
「 室町時代、斎宮の住人野呂三郎がここに城砦を築き、勝手に徳政を敷き、狼藉を働いた。
国司北畠材親はこれを討伐した。 」 と、ある。
その先の鳥居の右側に、延喜式内竹神社の石柱が建っていたので、中に入っていくと、竹神社の拝殿があった (右下写真)
「 竹神社は、垂仁天皇の御代に、竹連(竹氏)という豪族が天照大神の奉行に供奉してこの地に留まり、
孝徳天王の御代に竹郡が創建された時、その末裔が当社を創祀したと、伝えられる。
また、竹連(連は姓の祖)は、宇迦之日子の子、吉日子で、
斎王制度が確立されるともに、地名も竹の都から斎宮に変わっていった、と思われる。
竹神社は、以前は斎宮歴史博物館の南隣接の中垣内の地にあったといわれ、郷社竹神社御址の石碑が建っているが、
もともとは斎宮内に祀られた十七社の一つである。
この地は、古来、野々宮と呼ばれ、斎宮があったとも伝わる地であるが、
明治の神社合祀令により、明治四十四年、江戸時代には八王子祠と俗称される社を合祀移転し、竹神社となったもので、
その際、観音寺にあった八王子と称した宇志葉神社など近隣の二十社がこの神社に合祀された。
斎王の森の前の道を東に進み、エンマ川との交じわるから更に二百メートル東に行くと、丑寅(艮)神社跡という碑がある。
この神社はここにあったと思われるが、斎宮の鬼門鎮めと見られる神社だったようである。
竹神社では、毎年六月、斎王行列を復元した斎王まつりが行われる。 」 というのが、竹神社の歴史である。
境内の大きな石灯籠は、池村の氏神だった饗庭の森八王子の宮の常夜灯として嘉永七年に建立されたとあるので、
これも又移転したものだろう。 他に、丑寅神社の常夜燈もあった。
街道に戻ると、竹神社前交差点で、伊勢街道の標識があったので、道に沿って歩き始めた (左下写真)
竹神社の拝殿前に竹神社と謡曲絵馬の説明板があった。
「 かって絵馬堂がこのあたりの四辻にあり、参宮街道を通る人が立ち寄ったが、
絵馬堂は朽ちてなくなり、神社に絵馬が収納されている。 」 とある。
中町にも、切妻ツシ二階の平入り、格子造りで、軒に幕板が下がっている家が多く残っていた。
道の左側に、天満宮云々の道標があるが、北野天満宮への道標で最近建てなおしたもので、 昔はここに黒木の鳥居があったとある。
このあたりは笹笛川(旧名笛川)の川沿いであるが、河川改修で流れが大きく変わったことで、古い姿は分からなくなっている、という。
二軒先の左側に、有明六地蔵の看板があり、左に入ると奥に中町公民館が見えるが、
ここは古には有明池があったところで、明治初年まで笛川の中町地蔵堂があったようである。
斎宮は神領だったため、明治の神仏分離により、この地の寺院は全て壊されたとあるが、
ここに残る有明六地蔵石幢はそういう意味で、歴史を語る貴重な遺産である (左中写真)
六地蔵石幢は、灯籠の六角形の火袋部分に六体の地蔵を刻んだもので、
この石幢は室町時代の永正十年(1513)に造られたもので、均整の取れた美しさは県下一といわれる。
石幢を跨いて三つの建物があるが、全て庚申堂で、石幢の隣に、五基の山の神があった。
街道に戻ると、道の左側に蔵と門の建物の本格的な屋敷があったが、黒い板を張り、白い漆喰の蔵は緑の緑青がアクセントになる。
その隣は、中に入る入口で、屋根が付いた高塀になっていて、植え込みの木々のみどりを覗かせていた。
右側には切妻平入り二階建ての格子造りの建物があり、軒に幕板が下がっている。
手入れが整っていることもあるが、まさに立派な日本建築である (右中写真)
少し歩くと、左側の小道に 、二つの道標が並んで建っているが、
斎宮旧蹟蛭沢之花園とあるのは、天然記念物の地元でどんど花と呼ぶ、野花しょうぶ群落地への案内である (右下写真)
その奥にある大きな石柱は、斎王隆子女王御墓従是拾五丁、とある道標で、
これは、病気で亡くなった斎王、隆子女王の墓への案内である。
そこを過ぎると、道は右にカーブしていき、勝見交差点を過ぎると、古い家が多く残っている斎宮集落は終わりになった。
伊勢地方は伊勢神宮系の神社と浄土真宗高田派の寺院と山の神の碑が多い。
勝見交差点の左手前の石積の上には山の神が三基が祀られていた (左下写真)
小さな笹笛川に架かる新笹笛橋を渡ると、道の両側に家が建っているが、このあたりは上野集落である。
道は左にカーブするが、その手前右側に斎王参向古道と書かれた矢印道標があり、わずかな区間だが小さな道が残っていた。
「 斎王が、斎宮より伊勢神宮に赴くための官道が斎王参向道で、この地を横断して作られた。
この道は年三回の斎王参向時だけでなく、朝廷の儀式や政情によって、随時、神宮に祈願や報告に派遣された勅使や奉幣使らさまざまな使者が往還した。 」
と案内にあるが、古道らしい雰囲気の道だった。
街道に戻ると、道は右にカーブ、その先も少しくにゃ々しながら上って行く。
両側の家は、平入りと妻入りが混在しているが、これまで平入りが多かったのに対し、妻入りが増えたという感じである。
道の左側に、安養寺の標柱が建ち、右手の木柱には明星水(井戸)とあったが、
安養寺は、永仁五年(1297)の創建で、天正十六年(1588)に当地に移転したと伝えられる寺である。
また、明星水の木柱の脇に、 「 清水の湧き出る井戸水で、江戸時代、寺では明星水を汲みあげ、参宮道者にお茶の接待をした。
江戸時代、参宮客に浄めの茶の接待をしたのが人気を呼び、門前が大いに賑わい、明星茶屋とも呼ばれた。 」 と
書かれているが、境内の奥にある明星井は、日本三霊水の一つと呼ばれたようである。
山門の左側に庚申堂があり、石仏などが二基祀られていた (左中写真)
その左手には、五輪塔と元禄十五年(1702)の地蔵尊などが建っていた。
上野交差点のあたりはなだらかな下り坂で、その先の小さな川を過ぎると、道は緩やかな上り坂になった。
右側の垣根の一角にそうめん坂という標柱があるが、江戸時代から明治の初めまで、
この坂周辺で参宮客を相手にそうめんを出す店があったことから名が付いた、とある。
道は緩やかな上りとなって続く。
道の頭上の標識に、水池土器製作遺跡→0.2km とあり、 少し行くと、今度は←近鉄明星駅0.2km とあった。
街道の右手、少し奥まったところにある轉輪寺は天台宗から真宗高田派に改宗した寺で、
本山門主が伊勢参宮の時には宿泊、休憩したと言われる格式のある寺で、明和町の説明板によると、
「 表門はもと玉城町田丸城内の門、銅鐘は延宝八年(1680)の作、庫裏はこの寺の前身の本教寺の本堂で、明暦年間の建築である。 」 とあった (右中写真)
表門を入ると、本堂の手前の右手に大きな鬼瓦が展示されていたが、
「 本堂は天保九年(1838)の建立で、昭和五十九年に屋根瓦を取り換えた際、古い鬼瓦を残して展示した。 」 、とある。
このあたりは明星集落で、切妻、連子格子の家が多く残っているが、平入りや妻入りの家が混在し、蔵が付いている家が多かった。
左側の明星郵便局を過ぎると民家は少なくなり、道はだらだらした上り坂になった。
右側の近代的建物の隣に屋根瓦の乗った黒い高板塀と門がある家の前に伊勢街道の道標があるが、
この家は、三忠という屋号で、江戸時代から昭和初期にかけて擬革紙製の煙草入を販売していたとある (右下写真)
煙草入はお伊勢参りの土産として人気があった、というが、今は営業していない。
小川を渡ると、新茶屋集落になるが、左側のブロック塀の脇に、嘉永六年(1853)建立の従是二里外宮の道標があった。
ここは明野への追分でもある (左下写真)
江戸時代、参宮客が増えるようになると、明星茶屋だけではさばききれなくなり、この辺りにも茶屋が出来て、新茶屋と呼ばれるようになった。
坂田藤十郎の恋の事件があった秋田屋をはじめ何軒かの茶屋があったが、今はそうした雰囲気はない。
細くなった道の両脇には、マキの垣根の民家と田畑が混在している。
しばらく歩くと、左側に名古屋プロパン瓦斯の営業所があり、
その隣にコンクリート製の弘法大師堂があり、中には二体の弘法大師が祀られていた。
江戸時代には参宮客の信仰を集めたといわれるものである (左中写真)
少し歩くと、伊勢市の標識が現れたが、この辺りは旧小俣町明野で、今回の町村合併で伊勢市に併合された。
更に行くと、道の右側に一メートル程の高さの台座の上に、南無阿弥陀仏と彫られた石塔が建っていた (右中写真)
この大きな石塔は徳浄上人千日祈願の塔と呼ばれるもので、その脇の小さな石碑の前には花が供えられていた。
案内板には、「 むかし、一人の僧が、勢州明野の庚申堂を霊場として、修行していた。
天保の頃、村が大飢饉にみまわれ、悪疫大流行、世情騒然となったとき、
この僧が村民の窮状を救わんものと伊勢両神宮に千日の間、村民の無事息災祈願のため素足で日参された。
その後、明野村は疫病も無く、盗難、火災もなく、平安に暮らすことが出来た。
この僧の名を徳浄光我上人といい、千日祈願の徳を称え、明野や宇治山田の人々が世話人となって建立したもの。
裏面に満行、天保七年(1836)丙申年三月二十九日 とある。
横の小さな石碑は、寛保元年(1741)建立の廻国供養碑である。 」 と、あった。
傍にある庚申堂は、寛政年間(1789〜1801)の建立と伝えられるものである (右下写真)
街道は右から左へと大きくカーブして、近鉄山田線明野駅前からの県道713号に突き当たり、ここを右折して、南下していく。
この道は狭いのに車が多いのには驚くが、情緒ある建物が建っているし、背が高いしいの木も印象深い。
左側には切妻妻入りの大きな屋敷があり、庭にはケヤキの大木が茂っている (左下写真)
江戸時代、この辺りには街道名物の紙煙草入屋があったという。
左側の情緒ある古い建物の看板にはへんばやとあるが、
名物へんば餅の下げ看板と暖簾の下がったこの店は安永四年(1775)から続く老舗である (左中写真)
へんばやとは不思議な屋号であるが、へんばは返馬である。
伊勢街道は櫛田川を越えたあたりから坂道が続くので、馬や駕籠を利用する旅人が少なからずいた。
馬に乗った客は宮川で馬を返し、茶屋で一休みしたので、一休みした茶屋を返馬茶屋と呼んだようである。
店の案内文によると、この店は 「 最初は、参宮街道の宮川のほとりで、船を待つ旅人のため茶店を設け、餅を商い初めた。
当時、駕籠や馬上に三つの鞍を置いた三宝荒神で参宮する人が馬を返し、この店で休憩したため、何時の頃か、へんば餅と名づけられた。
安永四年二月、七代前の先祖がこの地に移り、今日に及んでいる。 」 と、ある。
店には、名物のへんば餅とさわ餅が並び、本物の三宝荒神も飾られていた。
へんば餅は大福を手で潰し、焼き鏝をあてた感じのもので、さわ餅は伊雑宮御田植祭の竹取り神事にちなんで名づけられ、
縦に並べた姿が竹笹に似ていることから、笹餅がさわ餅になったといわれる。
両方とも買って食べたが、さわ餅の方が美味だった。
このあたりから道幅が広くなり、左右に田畑が広がっていて、何ともいえない開放感があった。
外城田(ときた)川の支流を相合(そうごう)橋で渡るが、
このあたりは、道が一直線に伸びている畷 (なわて)と呼ばれるところである。
伊勢街道はその先の庚申堂前交差点で、広い県道と別れ、斜め右に伸びる細い道を行くが、これが小俣宿への道である。
天正十六年(1588)に蒲生氏郷により伊勢街道が改修されたが、現在の集落は、それと相前後して構築された、と思われる。
交差点には伊勢街道の道標があり、相合橋から0.2km、惣之橋まで0.9kmとあった。
道は狭くなり、カーブするが、その手前の左側に、安永年間(1772〜1781)に建立された庚申堂が建っていた (右中写真)
先程の明野、この相合そしてこの先の元町集落は、伊勢(参宮)街道沿いに発達した宿場町としての性格を持ち、参宮客相手の宿屋や土産物屋があったところである。
新出集落の道の両側には、切妻妻入りや入母屋妻入りの町屋が並び、伊勢地方独特の景観である (右下写真)
津あたりに多かった平入りの家は少なくなった感じがする。
外城田(ときた)川に架かる惣之橋を渡ると、元町集落だが、この橋は小俣宿の江戸寄りにあるので、江戸橋とも呼ばれた。
旧小俣町は、江戸時代の始めは鳥羽藩領と田丸藩領で、元和三年(1617)に田丸藩領は津藩領となり、同五年紀州藩田丸領となった。
以後、鳥羽藩領と紀州藩領の相給地だった。
伊勢街道は、小俣小学校の前を通り、妻入り切妻造りの軒の下に幕板のある家の先の、時計、眼鏡の中川という看板の店の角を左折する (左下写真)
ここは江戸時代、宿場特有の鍵型になっていたところで、札の辻と呼ばれ、小俣宿の西町と法楽町の境だった。
真っ直ぐ行く道は離宮道と呼ばれ、斎王が伊勢へ向かう際に宿泊する離宮として造営され、一時は斎宮となったところだが、今は残っていない。
法楽町に入ると、左側に古い町家の奥山家があるが、昔の屋号は丸吉、紙煙草入れや薬などを商っていたという。
背の低い二階は、黒い漆喰壁に虫籠窓、一階は、粗い格子に覆われた、当時の雰囲気が今でも感じられた (左中写真)
その先右折して横町に入るが、その角の左手に、浄土宗の寺の浄土寺があり、
中世から近世の初期にかけて、熊野を本拠として全国に活躍した熊野比丘尼が、地獄、極楽など六道を絵解きするため、
持ち歩いていた曼荼羅が二巻保管されている、とあったが、本尊は鎌倉時代の阿弥陀如来である (右中写真)
境内には不動堂と子安地蔵堂が建ち、庚申塔も残されている。
その先には切妻の家が建ち並ぶ。
伊勢神宮に近づくほど切妻造りに妻入の家が多くなるが、これは、伊勢神宮が平入なので、遠慮して妻入にしたからだという。
妻入の家は二階部分に庇屋根を付けている家が多いのは平入りの家に比べ、外壁に雨が当たるのを防ぐためだろう (右下写真)
二階の屋根の下の板壁上部だけが二重になっている家もあるが、これは化粧庇といって、化粧のほかに日除けや雨除けの意味があるようである。
その先で大きな道に出るが、消防団車庫前の三叉路を左に折れると、元町の町並みとなる。
左側の最近建て替えたらしい切妻造りの家はもと旅籠の川端屋である。
鳥羽藩本陣は、真っ白くペンキで塗られたブロック塀の前に鳥羽藩本陣跡の石柱があるだけだった (左下写真)
小俣村は、紀州藩領と鳥羽藩領に分かれていたことは既に述べたが、
明治四年の廃藩置県により、度会県誕生後は一つの行政区となったが、村の行政は元紀州藩領と元鳥羽藩領に別れたまま、差配され、
この影響は小俣町が誕生する昭和四年まで続いたという。
右に曲がって、左に曲がる道の手前、右側に坂田の橋跡という石柱があり、側面には、名木 坂田の薄紅葉跡 と書かれている (左中写真)
以前は坂田の橋があり、紅葉の大木があったらしいが、その面影はない。
その先の右側に鳥羽藩高札場跡の石柱が建っていたが、道はここを左に曲がる。
宮川の西を流れる汁谷(しるたに)川に架かる宮古橋のたもとの左側に、参宮人見附の石柱がある。
左側面に、永代常夜燈とあるので、竿部分だったのだろうが、縦に半分に切られている。
宮古橋を渡る車が行き来する丁字路に出ると、道の向こうには石段があり、その先には宮川の土手が広がっていた (右中写真)
土手に上がると、右側に宮川橋があり、下には広い宮川の河原が拡がっていた。
河川敷に下りていくと、宮川の渡し場の案内板があり、 「 宮川は必ず渡し舟で渡らなければならなかった。
上の渡し、下の渡し、磯の渡しと三箇所あり、下の渡し(桜の渡し)が一番よく利用された。 」 とあり、
石を敷いて再現された桜(宮川)の渡し場があった (右下写真)
現在は宮川の渡しはないので、宮川橋を渡ることになるが、
江戸時代には、宮川の渡しを乗るため、駕籠や馬に乗ってきた人も下りて、休憩するなり、宿泊するなりした後、
船で向こう岸まで送られたのである。 そのため、小俣宿の中でも元町には旅籠も茶屋も多くあったようである。
渡し跡から戻り、宮川に沿って歩き、JR参宮線の鉄橋の下をくぐり少し行くと宮川橋があった (左下写真)
何時架設されたものかは分からないが、歩道が付いていない道路に一本の白線すら引かれていないので、歩くのは大変こわい。
やっとの思いで宮川を渡り終えると、土手の左側の桜並木の下に、安藤廣重の宮川桜の渡しの絵とその解説があった (左中写真)
「 宮川は、東国から来ても西国から来ても神都伊勢に入る者はかならず渡らなければならぬ、伊勢最大の河川だった。
江戸時代のもっと昔から対岸小俣とこちら山田宮川町を結んだのが桜の渡しであり、関東あるいは京からの人々は参宮客も勅使もみなこの渡しによった。
春には桜花が美しく咲く堤に沿って茶屋が並び、御師の出迎え看板が林立し、また、めでたく参宮を終えて帰える伊勢講を送る道中歌がひびいた。
人、かご、あるいは長持一棹は何文と定めて、参宮の歴史のすべてを運んできた桜の渡しは、明治三十年、参宮鉄道の開通まで生き続けた。 」 と、あり、
安藤広重の浮世絵には、長い旅のはてに辿りついた旅人の道中の苦労と達成感が破裂したように賑わった風景が描かれていた。
伊勢(参宮)街道は、一車線余の幅しかない道がくねくねと曲がっているが、車は平気で走り抜けていく。
狭い街道には家屋が建て込み、これまで歩いてきたの集落とは、かなり違う雰囲気である。
JR参宮線の右側をくねくねと曲がりながら、少し雑多な町を歩くと、
道の左側に右宮川渡場、左二見浦、すぐ外宮江十三丁半とある道標が建っていた (右中写真)
文政五年(1822)の建立で、すく外宮江 十三丁半、内宮江 壱里三十三丁半、左 二見浦 二里十五丁、右宮川渉場 六丁三十九間 と、刻まれている。
このすくは真っ直ぐ行くということで、一丁は百九メートルである。
その先左折して、道なりにすすむが、民家の玄関には三月に入っても、正月飾りが残されている (右下写真)
笑門とか蘇民将来子孫と書かれた立派な正月飾りが目に付くが、この地方の風習で一年中掛けられているのである。
蘇民将来とは、一種の厄除けで、 『 牛頭天王が旅をしたとき、裕福そうな家を訪れ、一夜の宿を頼んだら断られた。
その弟の蘇民将来の家は貧しかったが、こころよく引き受け、粗末ながらももてなしてくれた。
牛頭天王はその好意に感謝し、「 その子孫が蘇民将来の子孫です!! と、名乗れば疫病から守られる。 」 と、約束された。 」 という言い伝えによる。
浦口一丁目で旧道は途絶えて広い道に出た。
県道37号鳥羽松阪線で、伊勢神宮(外宮)1.4km の標識が歩道にあるが、そこには横断歩道はないので、
次の浦口交差点まで歩き、ここを右折する。
なお、交差点を左折すると、JR参宮線の山田上口駅である。
道を進むと、左側の海野デイサービスセンターの前に、外宮(豊受大神宮)1.2km の標識があるので、その先の交差点を左折する。
少し歩くと、筋向橋バス停があり、その先にY字型の太い道の五差路交差点があり、
百五銀行の前には小さな筋向橋の欄干が残っていた (左下写真)
傍らの案内板には、 「 関西方面からの伊勢本街道と関東、中部方面からの伊勢街道とが、ともに筋向橋で
一つになり、ここからは整然と市内に入っていったもと道筋と橋の板がすじかいになっていたことからこの名がある。
古く反り橋だったが、大正四年(1915)から平橋になり、昭和三年(1928)からコンクリートになった。
この橋は、宮川の支流の清川に架かっていたが、昭和四十五年に暗渠になった。
古くから造替のときは地元からの寄金でまかなった。
嘉永二年(1849)には飾りの擬宝珠もつけ、それに主な寄付者十四名の名が刻みこまれた。 」 と、あった。
百五銀行の正月飾り(注連縄)には、千客萬来とあり、客商売の注連縄は民家と違っていた。
伊勢街道はここから広くなったが、その道を進むと、右側に、 →阿弥陀世古 とある真新しい道標があった。
伊勢ではたくさんの路地があるが、路地を世古と呼ぶのである。
その先には今は珍しくなった結納屋があり、さらに進むと楼門のある常照寺があり、
少し進むと、道の右側の屋敷門の前に、御師福島みさき大夫邸跡の石柱が建っていた。
福島みさき大夫は、徳川将軍家の祈祷所もつとめたほど格式の高い御師で、ここに広大な屋敷を構えていたようである (左中写真)
案内板には、 「 御師は、伊勢参宮が最盛期の江戸中期にはこの八日市場かいわいに約八百軒の御師邸があった、といわれる。
御師は、全国の神宮信徒とつながりをもち、はるばる伊勢を訪れた参拝客を桜川で出迎え、邸内に宿泊させ、参詣の面倒をみてきた。
現在、福島みさき大夫邸の正門は、神宮文庫の門になっている。 」 と、あった。
その向かいには、このあたりでは珍しくなった伊勢独特の建物、切妻の古い家があったが、
これは漢方薬 万金丹 で有名な小西万金丹薬舗である (右中写真)
延宝四年(1676年)の創業で、四日市と草津にも出店があったそうで、通りに面した店の間は開け放たれ、古い看板
や屏風が飾られている。
万金丹は伊勢みやげの代表であり、業者も多かったが明治以降ほとんど廃業し、現在は野間家と小西家の二軒が残るのみ、といい、
大きな鬼瓦にむくり屋根、切妻の建築様式を今にも伝える立派な建物である。
NTTの手前の交差点の左側に、大世古の新しい道標があり、NTTビルの前には、お木曳き行事の写真とお木曳き行事と山田の関係を記した説明板が
あった (右下写真-お木曳き風景)
伊勢街道はNTTの辺りから現在の道より一本南の道を通っていたが、今はその道がないので、少し先の信号交差点まで歩き、そこで右折して入っていくことになる。
この交差点を左折し、道の反対を入っていくと、明治二十六年建立の月よみの宮さんけい道の道標が建っている。
この道を進むと月夜見宮へいたるが、参道名は、神路通(かみじどおり)といい、月夜見宮の神様が、石垣の一部を白馬に変え、
それに乗って外宮に通われるので、人が夜通る時には真中を避けて、道の端を歩かなければならない、と伝えられている。
また、月夜見宮は外宮の別宮で、月夜見尊(ツキヨミノミコト)と月夜見尊荒御魂(ツキヨミノミコトノアラミタマ)の二神を祀る。
境内はそれほど広くはないがが、荘厳な雰囲気が漂っている。
御参りを済ますと、引き返して外宮に向かった。
先程の交差点を直進し、外宮の北御門に入ると、左側に手水舎があり、正面に火除橋、右側に裏見張所がある。
玉砂利を歩いていくと、伊勢に到着できたという実感が湧いてきた (左下写真)
江戸時代も、外宮の北御門は、伊勢参りに訪れた多くの人々が神宮にたどりついたと感じる終着点だった。
それと同時に、全国各地への旅立つ場所でもあり、熊野古道に向かう人々もここから三山を目指して新たな旅を始めたのである。
手水舎で身を清め、火除橋を渡り、森閑とした森に入り、苔が生えた鳥居をくぐると、忌火屋敷と御酒蔵がある。
外宮は、正式には豊受大神宮といい。祭神の豊受大御神はお米をはじめ衣食住の恵みを与る産業の守護神である。
内宮(皇大神宮)の創始より四百八十一年後に創建された神社で、豊受大御神を丹波の国から天照大御神に食事を司どる神(御饌都神)として、当地(山田)に迎えたものである。
その先には、斎館があり、それを過ぎたところに、御正宮があった (左中写真)
鳥居の前には多くの人がいて、携帯電話で写真を撮り合っているのは鳥居の中には守衛がいて、写真撮影は禁止されているからである。
御正宮は四重の垣に囲まれていて、一番高く見えるのが御正宮だが、
我々が入れるのは、二番目の外玉垣南御門までなので、そこにある純白の綾の御幌(みとばり)ごしに参拝を済ませた。
別宮の土宮(つちのみや)には、土地の守り神の大土乃御祖神(おおつちのみおやのかみ))が祀られている (右中写真)
その東にあるのは風宮(かぜのみや)で、
級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)が祀られている。
もともとは、風雨の災害なく、農作物が順調に成育するようにと祈りが捧げられる小さな社であったが、
弘安四年(128)の元冦の際、風宮の神様と内宮の風日祈宮
(かざひのみのみや)の神様がカを合わせ、侵攻してきた蒙古軍に神風を吹かせて、敵軍を全滅し、日本国を守ったこと
から、別宮に昇格したといわれる (右下写真)
少し高いところにある多賀宮は、豊受大御神の荒御魂(あらみたま)をお祀りしている。
神様の魂には、穏やかで優しい和御魂(にぎみたま)と行動的で激しい荒御魂がある。
外宮の御正宮には豊受大御神の和御魂を、多賀宮には豊受大御神の荒御魂と分けて、お祀りしているのである。
帰りは表側の鳥居をくぐり、日除橋を渡り、表見張所に出たが、これで外宮の参拝は終わった。
時計を見ると、十六時三十分、これから内宮まで行くが、閉門時間までに着くことができるだろうか?
岡本1交差点を左折し、次の交差点を右折し、小田橋を渡ったが、その先は長く続く尾部(おべ)坂である。
倭町に入ると、倭姫宮(やまとひめのみや)に立ち寄った。
倭姫宮は、第十一代垂仁天皇の皇女で、豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)に代わり、
御杖代(みつえしろ)として、天照皇大神を祀る宮地を求めて、諸国を巡幸した倭姫を祀る神社で、
皇大神宮の別宮になったのは、大正年間なので、伊勢神宮の別宮の中では一番新しい (左下写真)
近いと思っていたのだが、入口から社殿までが遠く、予想した以上に時間を食ってしまった。
街道に戻り、必死になって坂を上ると、
古市郵便局の道の反対に、「 近畿自然歩道、お伊勢さんを感じる道 古市 」 と書かれた道標が建っていた (左中写真)
江戸時代、伊勢の古市は全盛期には、妓楼七十軒、遊女約千人を数えたといわれた程の歓楽街で、
江戸の吉原、京都の島原と並ぶ三大遊郭だったというが、 今は住宅地になっていた。
道がなだらかになると近鉄鳥羽線の陸橋があるが、
陸橋の手前の右側にあるお店の前に、「 油屋跡 旧古市を代表する妓楼 歌舞伎伊勢音頭恋寝刃の舞台 」 と、書かれた石柱が建っていた (右中写真)
伊勢まで苦労を重ねて旅して結果の反動から、旅人達は解放感に浸り、妓楼では舞台付の大広間で連夜、伊勢音頭を唄い踊る声が絶えなかったと伝わる。
妓楼油屋で起きた嫉妬殺傷事件は、当時人気のあった歌舞伎の題材となり、盛んに上演されたという。
陸橋を渡ると、長峰神社があるが、祭神は天岩戸で舞をまったとされる天綱女命で、伊勢音頭の遊女や古市歌舞伎役者の祖先として祀られた、といわれる (右下写真)
道の左側には旅館 麻吉の案内看板があり、左に入ると、駐車場とその先に旅館の建物があった (左下写真)
旅館麻吉は、江戸時代には、花月楼 麻吉(あさきち)という名の多くの芸妓を抱えたお茶屋である。
1782年の古市街並図に、麻吉の名があること、また、東海道中膝栗毛にも「 麻吉へお供しよかいな 」 と、登場することから、
二百年以上の歴史があるといわれる。
旅館 麻吉の建物はこちらから見ると、二階建てだが、清水寺のように斜面に建っていて、木造六階建てなのである。
古市で江戸時代から続く唯一の楼閣として、今も昔の面影を残したまま営業を続けているのは貴重な存在で、
機会があれば泊りたいと思った。
その先の左側には徳川家康の孫、千姫の菩提を弔うため創建された寂照寺がある。
伊勢自動車道を渡る手前の大きな交差点角には、古市参宮街道資料館があるが、その前の道標には、内宮まで2.1kmとあった (左中写真)
また、三条バス停前には、月よみ宮さんけい道の道標が建っていたが、
これは左の方角に1.2km行ったところにある月読宮のことである。
境内には、月讀宮、月讀荒御魂宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈彌宮の四つの宮があるが、
四宮はそれぞれ皇大神宮(伊勢神宮内宮)の別宮である。
その先は桜木町で、
右側の大きな木の先には、奉献両宮常夜燈と書かれた石碑と大正三年建立の二基の大きな常夜燈が建っていた (右中写真)
牛谷坂を下ると、左側に猿田彦神社境内地の石柱や両宮参拝碑が立っているが、
更に下ると右側に宇治惣門跡の標柱があり、
「 宇治惣門は旧参宮街道の牛谷坂と宇治の町並みの間に設けられ、俗に黒門と呼ばれました。
明治維新までここに番屋があった。 」 と、記されていた。
黒門橋の先の三叉路にある信号交差点を左折すると、左側に猿田彦大神を祭神とする猿田彦神社があり、
鳥居の先に本殿の建物が見えた。
なお、本殿は、さだひこ造りと称する欄干、鳥居に八角の柱を使っている特殊な妻入造で、
祭神は猿田彦大神である (右下写真)
この神社の創祀は、 「 瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと)の天孫降臨を先導をした猿田彦大神が、
その後、伊勢の五十鈴川の川上に鎮まり、その子孫が宇治土公 (うじつちぎみ)として伊勢神宮の要職を務め、
猿田彦大神を私邸内に祀ったのが始まり。 」 とある。
神社の前には、近畿自然歩道 猿田彦神社の道標があり、おはらい町0.3kmと表示されていたが、
営業時間は十七時までなので、万事窮すで、途中少しのんびりしたため、間に合わなかった。
宇治浦田町交差点を渡り、国道23号に入り、内宮に向かって歩く。 御神燈が建ち並ぶ道を急ぎ足で歩き、神宮会館
を過ぎると、もう少しである。 十七時四十五分、とうとう内宮の大鳥居まで辿りついた (左下写真)
二十年毎に行われる遷宮では、社殿だけではなく、鳥居も橋も取り替えられるとあり、
宇治橋は、三日前から取り壊し工事ですでに壊されていて、左側の仮橋に迂回させられた。
薄暗い中を歩くのは小生だけかと思ったが、カップルなど何組かは、本宮に向かって歩いていたので、一安心。
内宮の敷地は広く、深く、真黒の闇の中を街燈だけが頼りで歩くと、一の鳥居にきた (左中写真)
伊勢神宮の誕生については、日本書紀に垂仁天皇の御代に皇女倭姫命を使って、各地を訪れ、この伊勢の五十鈴川の畔に移したという時に始まる、とある。
参道の右手に目を向けると、奥に黒ずんだ川があり、うっすら白く見えるのが御手洗い場である (右中写真)
左手に滝祭神が祀られているが、この祭神は五十鈴川の水の神の弥都波能売神 (みづはのめのかみ) で、
内宮の中でもここだけは社殿がない古来の姿をとどめている。
ここを過ぎると二の鳥居で、その先には明かりがついた齋殿があり、人の姿が見えた。
その先左側の立派な門がある建物は神楽殿だが、洩れる明かりでわずかに見える程度。
そこから先はすっかり暗くなった。
まだかなりの距離があるかなと思いながら進むと、街燈の中に突然現れたのが目指していた内宮の正宮だった。
早速中に入り、追分から歩いてきた報告と旅の無事に感謝し、参拝は終えた (右下写真)
時計を見ると、十七時五十六分で、参拝終了時間にかろうじて間にあったという感じである。
その後、暗闇を出口に向かって歩き、十八時十分、四回に分けて歩いた伊勢街道の旅は終わった。
おはらい町の店は全て閉まって暗闇の中に沈んでいたので、しばらく待ってきたバスに乗り、近鉄五十鈴川駅に行った。
そこから各駅停車で松阪駅まで行きり、駐車していた愛車で名古屋へ帰った。