平成21年2月18日。 今日は津宿の先にある結城神社まで歩くつもりである。
前回同様、名古屋駅より近鉄急行に乗り、白子で降り、ここで各駅停車に乗り換えて、鼓ヶ浦駅で下車し、今日の旅が始まった。
近鉄鼓ヶ浦駅で下車すると、前回終わった用水に架かる橋まで行き、ここから旅の再開である。
橋を渡ると、堀切川に出たが、前方の橋は渡らず、右折して川に沿って歩く。
その先には近鉄の踏切があったが、朝の通勤時間なので、遮断機が下りて待たされた。
それを越えると国道23号がある。
江戸時代の橋は国道より上流にあったが、その位置ははっきりしないようなので、国道の橋を渡ってもよいのだが、
国道の下のトンネルをくぐり、川に沿って歩き、水を調整する設備手前の橋を渡った。
江戸時代よりやや上流に来てしまったようだが、スーパー山中の駐車場脇にでた。
伊勢街道は、山中の駐車場前を右折して、磯山集落に入っていくが、
この先、国道23号が左右に位置を変えながら、津まで平行して続くのである。
伊勢街道は狭いので、国道からの車が流入してこないのは助かる。
しかし、このあたりには白子のような連子格子の家はない。
少し歩くと、右側に、村社八幡神社があった (左下写真)
その先には連子格子の家が残っていた。
少し歩くと、一時停止の交差点があり、伊勢街道は直進であるが、ここを左折すると信号交差点があり、国道の先に磯山駅がある。
交差点を直進すると、道は左右にカーブするが、連子格子の家が何軒も残っていた。
右手奥に真宗高田派専照寺があり、やがて、コンクリートサイロが前方に見えてきた。
そのまま進むと、国道に合流。 目の前の川は中の川である。
伊勢街道はここから少しの間は国道を歩く。 中の川橋を渡ると、津市だが、合併の前は河芸町である。
国道を歩き、最初の東千里交差点で、国道を横断して左側に渡る (左中写真)
ヤマハボートの看板先の近鉄踏切を渡り、その先の用水に架かる橋を渡ると、右折して南西に向かうのが伊勢街道である。
右側の空地の先にあるお堂は、甕釜冠(かめかまかぶり)地蔵堂と呼ばれるもので、
江戸時代、参宮道を歩く人の無事を祈願し、茶の接待したところである (右中写真)
左側に少し入ったところに、聖徳太子草創と伝えられる信光寺があり、
その先左側の本福寺は、親鸞上人の旧跡とあるが、親鸞の弟子、西念房が創始した寺である。
また、少し先の左側には、尾前(おざき)神社の石碑があった。
四年に一度行われる神社の獅子舞神楽は、平安末期の承安三年(1173)に悪疫が流行した時、朝廷より獅子頭が奉納され、
獅子舞により病魔が終息した、と伝えられるもの。 境内には、街道筋から集められた山の神三基が祀られていた。
街道を進むと、左側の正法寺入口脇に、大きな丹羽君碑があったが、
円応寺組十五ヶ村の大庄屋だった丹羽氏の屋敷がこのあたりにあった、という。
その先の交差点で、街道が二手に分かれる。
そのまま直進するのが巡礼道で、浜街道とも海街道とも呼ばれ、参宮街道よりも古い道である。
伊勢街道は、右にカーブする道で、左側に近鉄千里駅がある。
駅の右側の踏切を越え、千里駅前交差点で国道23号を横切り、突き当たりの床屋で左折して、百メートル程行くと、
右側に田中地蔵堂があった (右下写真)
道は右にカーブし、その先で左右の道に合流するので、左折して大蔵橋を渡り、
突きあたりを右折して、その先で左折し狭い道に入った。
ここからは上野集落で、この通りには古い家が多く残っている。
信号交差点を越えて進むと、左右に連子格子の家があり、道はその先で右に左にカーブした。
上野小学校の先には、黒い連子格子の家があり、その先にも白い壁に連子格子の家があった。
その先の右側には、上野神社の石碑があるが、上野神社は、国司北畠氏の祈願所として創建され、祭神は八幡大神で、
永禄年間(1558〜1570)、織田信長が太刀や鎧を奉納した、といわれる (左下写真)
その先に鳥居と常夜燈が建っていて、神社の建物は小高いところにある。
その先の右側に、真宗高田派の金光山最勝寺の石柱が建ち、その先に寺に上る石段が続いていた。
道が右にカーブすると、左側に蔵と黒く塗られた虫籠窓と連子格子の家があった。
少しカーブした先の左側、四角い建物の中に、弘法堂と弘法井戸がある (左中写真)
井戸は四百年前、元和年間(1615〜1623)の頃からといわれるので、伊勢参拝の人は水の恩恵を受けたことだろう。
地元の共同井戸として大事に管理されてきたが、水道の導入で現在は使用されていないようだった。
この先は、鉤型のように曲がっていた。
江戸時代の上野宿の中心は、この辺りだったようで、この中町の西側に本陣、東側に高札場、問屋、脇本陣があった、という。
少し歩くと、道の右側に上野城跡の道標が建っていたが、奥に見える森が伊勢上野城跡のようだった (右中写真)
「 伊勢上野城は、永禄十一年(1568)、織田信長の伊勢侵攻後、織田氏と長野氏との和睦により、
長野氏の養子となった信長の弟、信包が一時在城し、文禄三年(1594)、信包が近江に移された後、
長野氏の一族、分部氏は豊臣秀吉から加増されて一万石になり、関ケ原の戦いの後の慶長六年(1601)安芸郡で知行されて二万石になり、
元和五年(1619)、近江国大溝に移されて廃城となった。 」 とあり、現在は本城山青少年公園になっている。
その先の道の左側に旧上野村道路元標の復元されたのが建っていた。
この先にも、連子格子の家が残っていて、上野宿の道は昔の面影が残る道である。
右手に臨済宗妙心寺派の光勝禅寺がある(右下写真)
分部光嘉が長子光勝の菩提を弔うため、慶長六年(1601)、西の桂芳の地に創建した寺で、光勝の名を寺号にした。
宝暦元年(1751)に現在地に移転。 本尊は宝冠釈迦如来、観音堂は聖観世音菩薩と馬頭観世音菩薩である。
建物は明治に焼失しているので、その後のものである。
上野宿は国道23号の一色交差点で国道を越えたところで終わる。
伊勢街道は、その先、河芸(かわげ)交番前交差点で、国道23号に突き当たる。
少しごちゃごちゃした交差点だが、反対側に渡って、左側の道に入る。
交番の先に中瀬の表示板があり、両側は畑だが、新しい家が増えつつあるように思えた。
少し歩くと、右側に小さなお堂があり、高山地蔵尊が祀られていた (左下写真)
ここは上野城があった頃、罪人を処刑する場所だったようで、処刑された武士の霊を慰め、菩提を弔うために、地蔵尊が建てられた、と伝えられる。
その先の道の左右には、切妻の家が続くが、左側に、中瀬八幡神社と松林寺がある。
そこから五百メートル歩くと、中瀬交差点で、国道23号に合流するが、
交差点の左側に、痔神大明神の矢印表示があったので、行ってみると、雑木林の中に、痔神神社があった (左中写真)
この神社は、いつから痔神大明神と名乗るようになったのか分からないが、元々は地の神で、伊勢神宮系である。
国道を少し歩くと栗真小川町に入る。
三百メートル先の白塚団地入口交差点で、国道の右側に出て、その先の三叉路で、右側の細い道に入っていくと、
切り妻屋根の妻側が道側に向いた家が数軒並んで、ノコギリのようになっていた。
右手に入ると善行寺があり、境内の裏には、 「 是よりにしい志てん(一身田という意?)道 」 と刻まれた道標がある
(右中写真)
街道に戻ると、その先で近鉄の高田本山第7踏切を渡る。
そこから五百メートル程先の左手に逆川(さかかわ)神社があった。
「 神社の名前は、逆川が流れていることからで、発祥についてははっきりしないが、
第六十八代後一条天皇の時代に創建されたと伝えられ、祭神は伊邪那美命、豊玉毘賣命、大国主命などである。
戦前までは、しもやけの宮として広く知られていたようで、境内の弁天池や逆川の水を汲みに遠くから集まってきたと、いう。
祭日には近鉄が臨時停車をした。 」 ということだが、今の状態からは当時の盛況さは想像できなかった (右下写真)
なお、神社の境内には、山神碑が数基あった。
街道に戻り、小さな橋を渡ると、右手に栗真小学校、左側に保育園がある。
ここからは、栗真中山町で、分部光嘉が中山城を築いたところで、今でもそれに関係する地名が残るという。
右手には大円寺があるが、江戸時代には入口より少し南に高札場があったようである。
道なりに歩いて行くと、三叉路の突き当たりに幕末に鉄砲や大砲を作っていたという旧家の屋敷があった (左下写真)
その家の右側を通り、大通りに出て、道の対面の細い道へ渡り進むと、右側に餃子の王将がある。
伊勢街道は、王将前の国道の先に残っているので、栗真中山交差点を渡り、細い道を進む。
ここは、栗真町屋町で、連子格子の家はないが、屋敷町のような落ち着きがあるところである。
町屋という地名は、松林が続く海辺の土地に伊勢街道沿いに家屋が増えた行き、生まれたという。
その先で左側からの道と合流する三叉路になっていて、その角地には松が植えられ、両宮常夜燈と道標があった。
勢陽雑記に、 「 根尺七尺もありて、根のまたを人々がくぐり侍るほどありしが・・ 」 とある名残松で、
江戸時代、このあたりは、根上り村ともいわれたという。
左側からの道は白子の甕釜冠地蔵堂で別れた巡礼道である。
道標には、左 上野白子神戸四日市 道、右 白塚豊津 道 とあり、伊勢街道と巡礼道の追分であることを示している。
両宮常夜燈は、武蔵国の木綿業者が寄進したもので、高さ四メートル二十センチと大きく、天保十年(1839)巳亥の建立である (左中写真)
四百五十メートル程歩くと、左側に小さな地蔵堂があり、その先の柵の奥に、大きな常夜燈が建っている。
荒い彫りの山燈籠は二メートル八十センチで
銘文に、両宮常夜燈 嘉永四年(1851)辛亥孟夏 五穀成就 津領 と刻まれていて、
ながく続いた飢饉から一息ついた感謝の気持で建てたと伝わるものである (右中写真)
伊勢街道は銀行の先で、また、国道に合流したので、陸橋を渡り、国道の右側に出て、国道を七百メートル歩く。
江戸橋北側の変則交差点で国道と別れて、右斜めの道に入ると、その先にあったのは志登茂川に架かる朱色の木造橋である。
この橋は江戸橋というが、津宿の境にあったことから、江戸に向かう藩主の見送りもここまでということから、命名された、といわれる (右下写真)
江戸橋を渡ると、いよいよ津宿である。
津の古称は安濃津で、伊勢平氏の支配したところで、平安時代より伊勢国の政治経済の中心地であった。
慶長十三年(1608)、藤堂高虎が藩主となり、津城を大改修、併せて城下町を整備し、
海岸近くを通っていた伊勢街道を城下に引き込んで、宿場町として発展させた。
その結果、伊勢音頭で、「 伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ 」 と、謡われるほど伊勢参宮の人々で大いに賑わうところになった。
橋を渡ると下り坂で、その先に交差点があった。 ここは、江戸時代には伊勢街道(参宮街道)と伊勢別街道の追分(分岐点)になっていた。
直進すると、近鉄江戸橋駅に出るが、伊勢街道は、ここを左折する。
また、右側からの道が伊勢別街道で、東海道の関宿の大鳥居で東海道と別れてきた道である。
江戸時代に編纂された伊勢参宮名所図会の江戸橋には、江戸橋西詰に常夜燈が描かれているが、
その常夜燈は交差点手前の右側に移され残っている (左下写真)
常夜燈は安永六年(1777)建立の春日型で、高さは五メートル四十センチと大きいものである。
その左下には、左 高田本山道と書かれた道標があるが、高田本山とは、北へ二キロ半の真宗高田派本山専修寺のことである。
伊勢街道は交差点を左折するが、このあたりは大浜町。
その先の右側に黒板塀に黒の漆喰壁で、門の内からマツの木が飛び出している。
家の軒には雨除けの幕板がある屋敷があった (左中写真)
この屋敷の先を右に入ると、両脇に卯立つを置き、その上に黒い瓦屋根という立派な門があり、
それを黒い瓦屋根に白壁の塀が取り囲んでいる。 また、二つの蔵の金具は緑青を吹いていて、なかなか風情がある。
どういう家か分らなかったが、立派な屋敷だった。
少し歩くと、右側に卯建の上がった商家で、味噌醤油醸造元 阿部喜兵衛商店の看板を掲げた店がある。
江戸時代から、味噌、醤油の醸造販売を営んできた阿部家である (右中写真)
軒先の案内板によると、
「 主屋は間口七間半の切妻造りで、桟瓦葺きの大屋根の両袖に卯建を上げ、軒先には雨除けの幕板、おおだれを付けている。
入口の二間と南側一間には荒格子を入れ、その内側に板戸を上からおろして戸締まりする形式が残されている。
この建物は江戸時代後期の建築と推定され、典型的な大店の商家建築として市内で唯一のものである。 」 、とあった。
その先の右側に、鳥居と小さな社殿があった (右下写真)
鳥居の社名が朽ち落ちているので、確認できなかったが、式内小丹神社の拝殿である。
小丹神社は、江戸時代には江戸橋北詰にあったが、水害で度々移転し、現在はこの西方にある兵丹池の近くにあるという。
その先右に入った所に積善寺があるはずで右折したが、区画整理が行われた結果、様変わりしていて、位置も建物も変わっていた (左下写真)
訪問目的は積善寺の反対側にある鶴之宮遺跡碑だったのだが、これはなくなっていた。
鶴之宮は、第二代藩主、藤堂高次が鶴を射止めて社殿としたところであるが、現在は小丹神社に合祀されている、という。
このあたりの再開発事業は続いていて、道の右側は更地になり、右手前方に十八階建てのアクト津が見えたが、
この建物は津駅前開発を象徴する建物である。
整備中の道路の左側にある古い家は、いつまでここに残っていられるだろうか? (左中写真)
数百メートル歩くと、栄町3丁目で、津駅前交差点の隣の信号交差点を通りぬけるが、
右折すると津総合駅で、JR紀勢本線、伊勢鉄道と近鉄名古屋線の駅である。
左手の国道23号沿いには、銀行や保険会社の建物が立ち並んでいた。
駅前の信号交差点を越えると、右角に寺があり、そこを右折すると魚藍観音の赤い幟がひらめく寺院がある。
聖徳太子厄除け祈願所とある真言宗御室派の馬宝山蓮光院初馬寺で、重要文化財の大日如来と阿弥陀如来を安置している (右中写真)
駅前から五百メートル位進むと、左側にホテルルートインがあり、更に進むと、右手が小高くなっていて、その奥に三重県庁がある。
この先も再開発で古い家は壊され、左右は駐車場になっていた。
信号交差点を越えて進むと、右に一筋は行ったところに四天王寺があり、門前には右側に塔世山、左側に四天王寺の石柱が建っていた (右下写真)
門をくぐると、山門、そして、本堂と続く。
山門は寛永十八年(1646)、津藩主二代目藤堂高次の時、再建されたもので、幅三メートル八十センチ、奥行三メートル十センチの均整のとれた美しい門である (左下写真)
本堂は、昭和二十年の戦災に遭い、その後に建てたものである。
所蔵されている承保四年(1077)、仏師定朝により造られた薬師如来坐像や聖徳太子画像や藤堂高虎と夫人画像は、
戦災を免れたもので、国の重要文化財である。
また、右側にある幼稚園は、戦災で焼けた四天王寺の伽藍の跡という。
その左側の鐘楼の前には、小さなお堂があり、北向地蔵尊と周りに沢山の石仏が祀られていた (左中写真)
その近くに、二日坊杖塚と芭蕉翁文塚があるが、芭蕉翁文塚は、元文弐年、津の俳人、菊池二日坊が翁を偲んで建てたもので、裏に芭蕉の略歴と由来が記されている。
道路に面して、稲荷堂と目洗地蔵堂があった。
街道に戻ると、その先は安濃川で、もとは塔世川と呼ばれ、当初は橋がなかったが、延宝二年(1675)に土橋が架けられた。
しかし、橋を渡るには、一度河原に下りて行かねばならなかったようである。
木橋になったのは幕末のことであるが、今はないので伊勢街道はここで途切れる。
国道に出て、塔世橋を渡る (右中写真)
国道を歩き、万町交差点を過ぎたところにある津市北丸の内と書かれた歩道橋で、
左の小路に入り、一筋目を右折して、南下する。 この道が伊勢街道である。
大きな道を横切り、南下すると、タイル張りの道にでるが、ここに旧町名 立町 現町名 大門 の石柱が建っている。
ここを左折すると、正面に、Pure DAITATE と書かれたアーケードが見えるので、アーケードの中に入り、商店街を行く。
この通りは短いが、江戸時代、津を代表する豪商が住んでいた、という。
交差点の左側の家の前に、明治二十五年建立の参宮道標があった (右下写真)
左面に 右さんぐうみち 左こうのあみだ 、右面に すぐこうのあみだ 左さんぐう道 と刻まれていた。
指示された通り、歩いていくと、如意輪観音堂の仁王門がある (左下写真)
如意輪観音堂は津の観音さんと親しまれるが、正式には恵日山観音寺という寺で、仁王門前にある案内板には、
「 恵日山観音寺は、真言宗の古刹で 日本3観音の一つ。 本尊は阿漕浦の漁夫の網にかかったといわれる聖観世音菩薩で、
奈良時代初め、和銅二年(709)の開山以来、全国の人々から海上安全、五穀豊穣、所願成就の観音様として深く信仰を集めている。
将軍足利義教が三重塔を建立し、豊臣秀吉が出陣の際に祈願を怠らなかったのが津の観音寺で、
津藩主藤堂高虎や徳川家康の側室清雲院お夏の方は、特に津観音に縁が深いと言われている。 ・・・
元は阿漕津奥にあった寺だが、織田信包が領主の時に移され、藤堂高虎を始め、藤堂家の祈願寺になった。
隆盛を極めた寺院だったが、昭和二十年七月の津大空襲により、四十一棟あった堂宇は全て焼失し、
現在の建物はその後の建築である。 」 と、あった。
観音堂の前の銅燈籠は、寛永十五年(1628)の建立、観音堂の鉄製樋受は嘉永六年(1853)の作である (左中写真-観音堂)
また、手洗い場の銅製水盤は天保七年(1836)、銅鐘は元和三年(1617)に建立された。
なお、前述のこうのあみだについてであるが、これは国府の阿弥陀のことで、こちらも拝まないと、片詣りといわれた。
昔は大宝院の西にあったが、現在は観音寺にある、という。
伊勢街道に戻り、先程の道標を右折し、旅を続けるが、ここからは、南に向かう。
アーケードのある商店街は続き、からくり時計がある。
旧中之番町の石柱もあったが、 江戸時代の中之番町は、津宿の中心で、店舗や旅籠、問屋、本陣、脇本陣があった、という。
信号交差点を横切ると、旧宿屋(しゅくや)町の石柱があった。
津宿の旅籠は、北町から地頭領町までの参宮街道のみに開設が許され、最盛期には八十軒の旅籠があった、といわれる。
ここを右折して、三重会館前交差点に出て、交差点を越えると右手に津中央郵便局があるが、その反対側を左折すると、
津商工会議所ビル前の広場には、お城前公園の標石と紺の藤堂高虎公入府四百年記念の幟がある。
その奥にあるのは津城の二の丸跡に建つ模造の三重櫓である (右中写真)
津城の歴史にふれると、
「 津城は、戦国時代の永禄年間(1558〜1569)に、細野藤敦が安濃川と岩田川にはさまれた三角州に小さな城を築いたことに始まる。
織田信長の伊勢侵攻により、永禄十二年(1569)、織田信包が城郭を拡充し、本丸、二の丸、三の丸を整備し、堀をめぐらせた。
また、天正五年(1577)に、五重の天守閣と小天守を建設している。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、東軍についた富田信高の軍は千三百人、
それに対し、西軍の毛利秀元、長宗我部盛親の軍は三万人で、城は落城、建物の大半は焼失。
慶長十三年(1608)、藤堂高虎が伊勢、伊賀国を併せて二十二万石をもって入城、城を大改修し、輪郭式の城に変えた。
藤堂氏は、その後の加増により、三十二万三千石の大大名になり、伊勢街道を移して、城下町を整備し、
伊勢神宮参拝の宿場町として、 伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ と、うたわれるまでになった。
明治の廃藩置県で廃城になった。 」
模造の三重櫓の間を入っていくと、南西隅に一段と高い石垣があったが、これは五層の天守閣があったところだが、
現在でも残るのは、これらの一部の石垣と本丸と西之丸のまわりの内堀のみのようであった (右下写真)
なお、城内に祀られていた高山神社は移設して残っている。
また、藤堂高虎の威風堂々とした銅像もあった。
先程の交差点に戻り、道を直進し、右側のりそな、中京銀行の裏側を過ぎたところで右折し、次の通りを左折し、岩田川に出た。
これが伊勢街道であるが、これらの城下町の縄張りも藤堂高虎が行ったのである。
岩田川に架かる橋は、もとは土橋だったが、のちに板橋となった。
藤堂高次が橋を架け替えた際、当時では珍しい銅製の擬宝珠が付けられ、街道の名所の一つになった、とある。
国道に出て、岩田橋を渡るが、渡った先は伊予町で、国道左側の歩道部分が江戸時代の伊勢街道である。
河井病院の先に岩田山浄安寺があり、その先の右手に津信用金庫が見えてくると岩田交差点で、
伊勢街道は、交差点を渡ったらすぐ、左斜めの小道を入って行く。
道端に、旧町名立会町の石柱が建っていた。
道はここから先は、南東に進んでいくが、町並みから見ると斜めに横断する感じで、途中広い道を越えながら進む。
県道114号に出ると、交差点の右手に倉本内科病院が見えるが、道の反対に細い道が見えるので、県道を横断して、細い道を進む。
すると、幾つかの道が合わさる交差点に出た。
交差点の左側には、南無地蔵菩薩と書いた赤い幟を立てた三体の石仏を祀った小さなお堂があり、
祀られているのは延命子安地蔵尊で、その右側にあるのが閻魔堂である (左下写真)
正式には真教寺で、江戸時代には、このあたりが津のはずれで、
角町の守護として、第二代津藩主の藤堂高次がこの寺を建立したようであるが、
本尊が閻魔大王坐像なので、このように呼ばれているようである。
堂中央にある閻魔王座像は、天和弐年(1682)の作で、高さ約二メートル。
両脇に倶生神半跏像と暗黒童子半跏像がある。
この周辺は、江戸時代にはえんま前と呼ばれ、旅人、人足、馬などの休息場の立場になっていて、
蕎麦屋や茶店が出来て賑わった、といわれる。
閻魔堂の右側に、市杵島姫神社の石柱が建っていたので、中に入っていった。
「 社は太古は庚申塚であった。 市杵島姫命は、伊勢国司だった北畠氏の守護神として、
北畠氏の滅亡まで多気の城内に鎮座されていたが、その後、当地の産土神になった。 」 、と書かれていて、
境内には、文化十年(1813)に、阿漕町産子中が寄進した常夜燈が建っていた (左中写真)
御神木のイチョウは樹齢四百年とも五百年ともいわれ、この神社の呼び名の弁財天に習い、上弁財町、下上弁財町の町名ができた、といわれる。
このあたりは道路が複雑に交差してどの方向に進むか不安となるが、対面の教園寺の方角は東なので、交差点を南下して進む。
交差点を越えると、阿漕町の表示があり、道は狭いが、両脇に、格子や軒の低い二階づくりの家が多く残っていて、昔の街道と思える風景が展開していた (右中写真)
左側の民家の間に神明神社があり、次の交差点を越えた左側に瓦の乗った黒板塀に囲まれた一角があり、薬師堂があった。
この交差点が、安濃郡と一志郡の境で、町名も八幡町津になった。
その先の交差点の左側の縣社 八幡神社の石柱は明治二十八年(1895)に建立されたもので、
ここは八幡神社の裏口にあたるので、中に入っていくと、結城(ゆうき)神社の案内板が建っていて、
結城神社→ の案内に従い右折して進むと、結城神社の石柱と太平記ゆかりの結城宗広公終焉の地と書かれた石碑が建っていたが、
結城神社は南朝の臣、結城宗広を祀っている神社である。
「 結城宗広は、後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動に参加し、南朝方として北畠親房、顕家親子に従い、
親房らが伊勢国から義良親王を奉じて陸奥国へ航行途中に難破し、伊勢国で没した。 」 と伝えられる人物で、
ここは、古えから結城の森と伝えられ、結城明神と呼ばれて崇められてきた神社である (右下写真)
ここで夕方になったので、八幡神社は、次回訪れることにして、今回の旅はここで終わることにした。
結城神社前バス停から三交バスで津駅に行き、そこから近鉄特急に乗り、名古屋へ帰った。