平成二十一年六月九日(火)、前回終えたところから旅を再開する。 ここから、三キロ七百メートルの区間、
道の左側に、松並木が続く。 中には赤松も混じるようだが、見事な大木もあり、姫街道の醍醐味が味わえそ
うである。
「 江戸時代には、松並木が道の両側にあったようで、その区間は、東は追分から前回歩いた宇藤坂迄ま
で、北の気賀方面は曲松附近まで、そして、南の浜松道は布橋迄の区間だった。 現在残るのはこれだけだが、それ
でも全国で数少ない松並木である。 」
少し歩くと、松並木の下は、松を保護するため、幅四メートルの歩道(左下)になっていたが、松が一直線に並んで
いないため、自転車や歩行者は歩道の上を松を避けながら歩かなければならない。 多少不便であるが、大事な松を
保護するにはやむをえないだろう。 また、松並木を保護するため、松には一本づつ番号が振られていて、大事に
管理されている様子が分かる。
その先で東名高速道路を陸橋で越えていく。
小学生、自転車を利用する中学生や高校生と歩道の上ですれ違う。 車の通行も多く、信号交差点では車が行列を
つくっていた。 右側には姫街道食堂(中央)という看板を掲げた店があった。
この沿線には食べもの屋やコンビニが多いようで、特に浜松名物のうなぎを扱う店は気賀まで
に十軒位ある。 東名高速から一キロ程の萩野原橋バス停の先の交差
点で、右側の用水に沿った狭い道に入る。
少し歩くと、調剤薬局と病院が二軒あり、その先にこんもりとした木立のにあるのは三方原神社(右)
である。
「 旧浜松城内に祀られていた東照宮を大正十一年にゆかりの地、三方原村へ迎えて、
村社とした。 御祭神は家康公であるが、第二代将軍秀忠、第三代将軍家光も合祀されている。 昭和二十九年に村が
浜松市に併合され村社は解消。 昭和三十二年に東照宮から現在の名前になった。 社殿には、三つ葉葵紋付き茶壷と
勝海舟の東照宮の扁額などが納められている」 とあるのが神社の由緒書である。 社殿の中を覗くと、東照宮
と書かれた扁額が掲げられていたが、これは勝海舟の書であろうか?
社殿の右側にある小さな祠の中には、石仏(左下)が祀られていて、案内板には、
「 お堂に祀られているのは、不動尊であるが、そのお姿の脇に、右はま松道 左いけ田道 と刻まれていること
から、道標であることに間違いはない。 明治三年、士族が三方原に入植した時、野原で発見した
もので、野中の不動様と呼ばれた。 長い間風雨にさらされたが、明治二十六年に小学校北側にお堂を建てて
移し、戦後に現在地に移された。 」 とあった。
太鼓橋の先に、三方原開墾の碑(中央)があるが、これはまさに三方原の歴史を語る碑である。
「 百里園製茶
工場は百二十ヘクタールの茶園を経営していたが、明治三十五年に経営不振で工場閉鎖となった。 帝国林野管理局に買収
されると、当局の方針により、これまで苦心、努力してきた茶畑が松林になることをおそれた篤志家七名が、全園を買収
し、住民全員で分割所有する方針を貫き、村の存亡を防いだ。 その功績をたたえ、昭和二年に碑を建てた。 」
また、鳥居の東側には、気賀林の大きな顕彰碑(右)があった。 案内によると、
「 気賀 林は、気賀村の出身で、明治
二年、三方原開拓係となり、明治で没落した士族八百戸の三方原入植の受入事業を行い、明治六年には前述の茶園百里園長
として、茶園経営を成功させた。 明治十年に、村の生活困窮者を救うために創設した三方原教貧院事業や地域行政に貢献
したので、浜松県令は三富翁という号を贈ったが、明治十六年に七十四才で亡くなった。 」
前述の百里園の倒産は、約二十年後に起きた訳である。
姫街道に戻り、延々と続く松並木をまた歩き始めた。 左側の歩道に、姫街道松並木という案内板があったが、
姫街道の説明ではなく、松並木の一般的な説明だけであった。 右側に遠州鉄道姫街道バスステーションの大きな
看板があるバス停があったので、自動販売機で冷たいお茶を買った。
その先の葵交差点の右側には、三方原教貧院跡の標柱(左下)が建っている。 傍らの案内板には、
「 気賀林が、明治十年に、村の生活困窮者を救うために創設した三方原教貧院の建物は、間口八間、奥行三間半
の木造平屋建、瓦葺きで、常時四家族を収容し、米麦、味噌、醤油、薪炭を現物支給し、貧困者を救助した。 気賀林の
死後、横田保が引き継ぎ、明治三十一年頃まで続いた。 」
と、ある。 当時の家はなく、別の家が建っていたが、家の前には多くのた紫陽花が植えられていて、きれいだっ
た。 歩道は松並木のある左側にしかないので、左側に移って歩いて行く。 ごんひちの看板を掲げた店がある
が、その先に権七店→の標柱(中央)があり、 「 三方原追分から権七店までは家がほとんどなく、寂しいところ
だった。 百年以上続いた権七店は、近隣の人々の寄合所となっていた。 店先には、馬方が牛馬をつないで、
休憩した。 店では駄菓子、だんご、お酒等を売っていた。 」
と、案内板にあったので、この付近に茶屋があったのだろう。
標柱の前に権七バス停があり、少し先の交差点は権七である。
権七交差点を過ぎると、歩道はこれまでの半分の幅に狭くなり、松は歩道の外の斜めに傾斜した土地にある。
一里山南バス停を過ぎると、大山口交差点。
交差点を越えた右側の一里山バス停の奥に、東大山一里塚と書いた案内板(右)が建っているのが、江戸から六十七
番目、姫街道では三番目の東大山一里塚跡である。 木は植えられていたが、一里塚の形状を留めているよう
には思えなかった。 道の反対(左側)には奉納馬頭観世音菩薩の赤い幟が翻る小さな祠があるが、祠の奥に
南塚があったようである。
奥大谷バス停の先で歩道は無くなり、三方原追分から続いた松並木が終わった。 それにしても、東海道でもこれ程
長い松並木はなかったと思う。 この先までが合併前の浜松市で、そこからは合併で浜松市になった旧細江町で、
その範囲は広く、引佐峠頂上まで続く。
道はやがて下り坂になり、左にカーブすると、右側に歩道が現れたので、右側に移って歩き続ける。
和地大谷川に架かる大谷橋を渡る。 江戸時代は、川幅は六間だったが、橋はなく、川の中の石の上を飛んで渡っ
た、という。
橋を渡ると上り坂になり、民家が増えてくると大谷バス停があり、歩道は左側に変わった。 少し歩くと、湖東交差
点手前の左側の三叉路の角に、大きな石碑と松の木があったが、ここは曲り松(左下)といわれるところである。
『 江戸時代、気賀の領主や街道を通る行列を送迎した場所といわれ、樹齢数百年の枝ぶりのよい松があったこと
から、この名が付いたという。 初代の松は昭和四十八年に枯れ、現代のは二代目。 大きな碑は、明治から大正
にかけて、遠州地方の俳諧のリーダーだった松島十湖の句碑で、 「 別るるは また逢うはしよ 月の友 」 と
書かれている。 右側に、御巡幸記念という石碑があるが、昭和天皇が昭和五年に曲り松を訪れたことを記念し、当時
の中川村十区が建立したものである。 』 と、案内板にあった。
湖東交差点を越えて、少し歩くと湖東西バス停があるが、その先の右カーブ左側の内山木工所看板(中央)がところで、
261号線と別れて、ガードレールで遮断された狭い道に入る。
左側の垣根のところには、姫街道の道標があるのだが、垣根の勢いに負けてよく見えなかった。
二百〜三百メートル歩くと信号交差点があり、六地蔵(右)がある。 これは老ヶ谷の六地蔵と呼ばれるもので、
かつては裏の竹藪に刑場があり、刑死者の霊をなぐさめる為に、正徳二年(1712)に建立された、と伝えられる。
その先の北側には、東海道を歩いた時、静岡県に入るとよく見かけた、夢舞台 六地蔵の道標で、懐か
しいものに久しぶりに出会ったという感じである。
道は西に向う。 老谷に入ると北西に進み、橋を渡ると施設気賀関所に至る二車線の道だが、車の通行は
ほとんどなく、両側にはミカン畑や茶畑があり、その間に民家が点在し、のどかな風景である。 道は右にカーブ、
そして左にカーブすると、右側に文化八年(1811)建立の老ヶ谷秋葉山常夜燈(左下)があった。
この常夜燈が姫街道に入る目印で、奥に姫街道の道標も建っているので、ここで歩いてきた車道と別れて、右側の
道に入る。
先程の道に比べて狭く、農業用の道路という感じであるが、車も人も見えない。
二百メートル行くと、左側の
老ヶ谷第二集出荷場広場の中央に、千日堂と呼ばれるお堂、右手に馬頭観音と思える石仏を祀った祠、左手
には小さな神社(中央)があった。 傍らの案内板によると、
「 寛文十一年(1671)、呉石の気賀の領主、近藤家下屋敷にあった観音像を移して祀った。 宝永年間(1704〜
1710)に、阿弥陀如来を祀って、千日念仏が行なったので、千日堂と呼ばれるようになった。 千日堂前の
苔むした石碑は、宝永四年、浄土宗玄忠寺十四世成譽上人を導師とする南無阿弥陀仏石碑である。 」 とある。
三百メートル先の上り坂の角に、長坂改築記念碑があり、右にカーブする道と直進する
道の三叉路である。
正面にお姫様が描かれたタンクが見える(右)が、姫街道は、その道に入っていく。
少し進むと、左側に民家があり、その前に一里塚の石碑(左下)が建っていて、その脇に老ヶ谷一里塚と
長坂の大きな案内板(左下)があった。
「 ここは江戸から六十八里の老ヶ谷一里塚跡である。 大概帳には、 木立松、但、左之塚ハ気賀村地内、右ハ
中下刑部村地内 の記載がある。 案内板のある所は、左之塚の跡である。 江戸時代には、近くに富士見茶屋と
呼ばれた茶屋があったようである。 老ヶ谷一里塚から新屋までの姫街道を長坂と呼んでいる。 」
というようなことが書かれていた。 姫街道と姫の絵のタンクがある中央配水地を囲う柵のところで、道が二つに
分かれる。 右側の道は大変狭いので、左の道に行ってしまったが、これは間違い。 右側の狭い道に入ると、じめ
じめした茂みで、薮蚊が好物到来とワーと襲ってきた。 この時期に、ここは距離が短いのでよいが、本坂峠を越え
るところは虫除スプレーが必需品である。 右側に服部小平太最後の地の石碑(右下)が建っていた。 案内板には、
「 服部小平太(中保次)は、永禄三年(1560)五月十九日、桶狭間の戦いで、毛利新助らとと
もに今川義元を討った功労者であった。 小平太は、信長の亡き後、家康の家臣として、勲功により当地を治めた。
もとは今川領だったこの地方には、桶狭間に出陣して戦死したものもあり、彼に恨みを持つ者もいた。
天正十五年(1587)六月、このあたりを単身で巡視の折、ここで何者かに討たれた。 彼の墓は、この下の数十メー
トルのところにある。 また、ここから200m北に、小平太を祀ったといわれる宗安寺跡がある。 」 とあった。
坂道を下ると、長坂改築記念碑で分かれた道に出た。 道を横断したところには車止(左下)があり、その先には狭い
道が続いているので、下って行くと、すぐに左右の道に出たので、左折したが、ここにも姫街道の道標があった。
道の両脇には家が建ち並んでいるが、塀は皆槇(まき)の木である。 槇は火災と強風に強いと
いわれるが、浜名湖の風は強いのだろうか? 道の左側には、服部小平
太を祀った宗安寺だったところで、 「 宗安寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になり、現在は石段や
石地蔵が残っているだけである。 」 という案内板(中央)が建っていた。
石段を上り、宗安寺跡を確認したが、
寺の跡の痕跡は見つけられなかった。
道なりに進むと、湖東西バス停の先で別れた県道に出たが、左手に見える信号交差点には向かわず、そのまま道を
横断すると、左手に刑部城跡の説明板があるが、小生は
こんもりとした森の右側にある三叉路の斜め右の白い建物脇の狭い道に入った。
こんもりとした森を左に見ながら
進むと、左手奧に鳥居(右)が見えるのが、刑部城跡に建てられた金山神社である。
刑部城は、阿王山紫城ともよばれるが、永禄十一年(1586)十二月、今川方の内山党と呼ばれたこの地の人々が、この
城にたてこもって、遠州に侵攻してきた徳川家康軍と戦かったところである。 ここは三方を都田川に囲まれた要害
の地だった。 当時の武者走りが残っている、とあるので、金山神社の石段を上っていったが、社殿があるだけだっ
た。
その先で刑部川にかかる橋を渡ると左折して、川沿いに進み三叉路で左折する。 道を右折して、その先の細い道を
進むと、秋葉山常夜燈(左下)が建っている。 鎌倉から戦国時代にかけては、戦いに勝つための秋葉信仰だったが、江戸
時代になると、火防の神として庶民に広まり、秋葉山参りが盛んになった。 各地に秋葉山に向う道ができたが、
細江町には二つの道があった。 この常夜燈は、落合の渡しから都田川に沿って祝田に行き、三方原へ上る道にあっ
たものと思われる。 常夜燈から引き返し、三叉路で左折し、左手にある信号交差点の次の橋を渡る。
橋を渡るとすぐ左側に、金襴の池の案内板(中央)がある。
「 刑部城が徳川軍に敗れて落城した時、刑部城の城主の美しい姫が、敵の
手にかかってはずかしめを受けることを恐れ、この地にあった金襴の池に身を沈め、蛇に姿を変えて住んでいる。
」 、という話が残っている。
金襴池は埋め立てられて、残っていなかった。 その先の信号のある三叉路で、また、
県道に合流する。 都田川と井伊谷川の合流するところを落合といい、ここから下流を落合川といっていた。
江戸時代には、気賀関所の要害川になっていたため、橋はなく、人々は渡し船で渡っていた。
渡しがないので、三叉路で右折し、二百メートル程進むと、都田川(右)に架かる落合橋を渡るる。
都田川にかかる落合橋は、昭和五十一年に完成した橋で、橋からみる都田川(右)は、川幅も広く、水量豊富な川だっ
た。 江戸時代、この川が浜松藩領と気賀近藤旗本領の境だった、という。 橋を渡ると、姫街道二番目の宿場で
ある気賀宿に入った。
落合橋を渡り、交差点は直進し、天竜浜名湖鉄道ガードをくぐると、気賀四ッ角交差点に出る。 交差点の手前左側
には、姫街道 気賀関所の絵看板があった。 また、県が建てた、夢街道の細江町 姫街道 気賀宿の道標(右下)も建ち、
浜松宿 宿境まで三里二十三町(14.3km)、 三ヶ日宿 宿境まで二里二十七町(10.8km) と、あった。 江戸時代には、この西方に要害堀があり、関所東門脇
から宿場の側に沿って七百メートル掘られていた、という。 姫街道は交差点を直進するが、交差点を越えた右側の
駐車スペースに、気賀関屋の案内板(中央)があり、道の脇には、史跡気賀関所址の石碑が建っていた。 案内板には、
「 気賀は、天正十五年(1587)、本多作左衛門によって、街道の宿と定められた。 山手に山塁、
南は堀川、東は関所と葦垣、西は石垣と矢来と枡形があり、その中に本陣、問屋場、旅籠を始め、民家百軒が町並みをつく
っていた。 気賀関所は、気賀宿の東の入口にあり、慶長六年(1601)、徳川家康の創建と伝えられる。 」
その先のノズエ時計店の看板の脇に、気賀関所跡→の看板があるので、狭い路地に入ってみるとと、左に曲がるとこ
ろに、細江町指定建造物 気賀関屋 東海道三大関所 の案内板があり、
「 関所の建物は、当初は茅葺きだったが、寛政元年(1789)に柿葺き、切妻破風作り夷、狐格子、瓦棟に改築
された。 しかし、屋根は嘉永七年(1854)の大地震で葺きかえられたが、昭和三十五年まで残っていた。 この建物
は、関屋の正面に向かって、左の部分の三分の一で、下の間、勝手の間の部分である。 」 と、あった。
現在残る建物(右)は、気賀関所の建物の残る三分の一で、屋根は切妻破風作りで、その下の狐格子が見えた。
江戸時代には、気賀関所の正面に姫街道を挟んで、向番所と二層の望楼があり、周囲は堀と石垣、矢来で囲まれてい
た。 旅人は関所の検問を無事通ると、町木戸門で気賀宿に入った。 気賀宿はこの東の入口から西の獄門畷
まで、五町五十三間(約六百四十メートル)の長さであった。 本陣と問屋場は各一軒、旅籠は八軒だった、という宿
場である。
気賀四ッ角交差点から国道362号線に沿って進み、右側の気賀小学校に通じるゆるい坂道を登ると、小学校の駐車場の
右側に、大きな椎の木(左下)があり、気賀近藤陣屋遺木江戸椎 という案内板があり、
「 気賀小学校とこの辺り一帯を陣中といい、江戸時代、旗本近藤家の陣屋(屋敷)があった
ところです。 近藤家は気賀の領主で、気賀関所も近藤家が治めていました。 この椎の木は、陣屋の庭に植えられて
いたといわれ、現在陣屋の面影を残すものはこの椎の木だけです。 この椎の実はとても大きく、近藤氏が毎年幕府に献上
したところから、江戸椎と呼ばれるようになった。 」 とある。
姫街道に戻り、少し進むと道の右側に、郷社細江神社の標柱と鳥居、常夜燈(中央)が建っていて、
道の脇には、浄水井乃跡の石柱もあった。
石段を上り、鳥居をくぐると、細江神社の社殿(右)がある。 細江神社の由緒だが、
「 明応二年(1498)の大地震の際、浜名湖は外海とつながり、その時の津波により、現在の新居町にあった角避
比古(つのさくひこ)神社は流没した。 御神璽は、奇跡的に伊目の十三松に漂着されたので里人は仮宮を建てて祀った。 しかし、十二年後、再び地震による大津波のため、気賀の赤池に
漂着された。 赤池に仮宮を建てた翌年の九月、里人は、現在地に社殿を建てて、牛頭天王(ごずてんのう)社として、気賀
の総氏神として祀った。 現在地に転座されたのは、永正七年(1510)である。 祭神は、すさのうのみことと奇稲田
姫命で、七月の祇園祭では、御神体が都田川から浜名湖を船に乗って渡御される。 」
とあった。 境内には、樹齢は五百年といわれる、樹高二十五メートルもある大きな楠が七本ある
が、転座された頃植えられたものという大変古い樹木である。
(左下)
社殿の右側に藺草神社(左下)がある。
「 気賀近藤家六代、用随は、宝永四年(1707)の大地震で、気賀村の田畑の大半が湖水に浸かり、作物がとれなく
なったのをみて、大阪大番頭勤務の時代、琉球藺(七島藺)が潮が入った田や葦が茂る深田にも適することを
学んだので、豊後国の松平氏からその苗を分けてもらい、領内の米のとれない田に広め、畳表を織る方法を研究し
た。 その後、全国的に遠州表として有名になり、この地方の経済を支える主な産業になった。 藺草神社は
藺草栽培の隆盛の基礎を築いた用随を祀る神社である。 」
細江神社の社殿まで戻り、左側の細い道を進むと、そこには、合祀された熊野神社、その他の社殿が並んで建って
いた。 その先には歴史民俗資料館(中央)があり、浜名湖の漁法と琉球藺の栽培と畳表の生産を一階で、姫街道と
銅鐸を二階で展示していた (150円、9時〜17時、月休)
資料館を出て、道なりに歩くと、犬くぐりの道という表示があり、その先の右側には東林寺(右)がある。
東林寺は、天正五年(1577)の再興と伝えられる寺院で、江戸時代には本陣を営む中村家の御退場寺に指定されて
いた。
犬くぐりの道とは、 気賀に関所が設けられたことで、不便になった住民の為に、領主の近藤氏が設けた裏道で、
道の途中にむしろを一枚たらし、その下をくぐり抜けさせた、という。 犬くぐりの道は、都田川の河岸にある蓮照
寺のあたりから始まり、東林寺の前を通り、西の獄門畷に抜けていた。
犬くぐりの道を歩くのが目的でないので、その先で左折して、姫街道である国道に戻った。
ゆるやかな上り坂を歩くと、右側の旧NTTの建物の一角に、気賀宿中村本陣跡の案内板(左下)が建っていた。
案内板には、
「 気賀は天正十五年(1587)、本多作左衛門重次により宿と定められ、東海道本坂通(姫街道)でもっとも重要な
宿場となり、本陣は中村家がつとめられた。 本家は宇布見村(現雄踏町)の中村家で、徳川家康の次男、結城秀康
が生まれた家である。 作左衛門の世話で、中村家の次男与太夫が気賀代官となり、これが後に気賀宿本陣中村家と
なった。 」 とある。 また、隣の民家の前には、中村本陣之址碑が建っていた。
その反対(南)側は、本陣前公園で、門のような建物の左側にお堂(中央)があり、馬頭観音が祀られていたが、傍らの
説明板には、 「 もとは正明寺の北側の犬くぐり道にあった小さな馬頭観音で、この公園ができた時に移された。 寛政十二年(1800)
十月四日に造られたもので、領主の近藤家のものではないかといわれている。 」 とあった。
道の対面には、正明寺の案内板(右)があり、
「 正明寺は永禄三年(1560)の創建で、江戸時代には、気賀本陣中村家の菩提寺として栄え、
本陣危険な時は逃避する御退場寺に当てられていた。 明治十年、大正三年に火災に遭い、山門のみを残し、烏有に
帰したが、その後、現在の寺に復した。 大正十五年には、廃仏希釈で廃寺になった、隣の妙見寺を合併した。 」
とあった。
なお、本陣前公園の脇の道を南西約三百メートル行くと、細江図書館の脇に、平成元年にふるさと創生資金を基に
して復元した気賀関所がある。
「 江戸時代の関所は、幕府が所在する江戸の防衛を目的に設置された。 一般に「入り鉄砲に出女」といわれた
ように、鉄砲が江戸に持ち込まれることや人質として住まわせていた大名の妻子などが国元へ逃げ帰ることを防ぐた
め、関所で取締まった。 気賀関所の関守は元和元年(1619)から明治二年の関所廃止まで、旗本の近藤家が代々拝命
した。 なお、気賀関所は、慶長六年(1601)に、徳川家康によって創建されたといわれ、敷地は五百四十
七坪(約1805u)、裏に竹藪が百十七坪(約386u)、東側に冠木門かあり、姫街道からはこの門から入る。 左側
(北側)には本番所(左下)があり、旅人を調べた。 反対側(南側)には牢屋がある向番所、その南に遠見番所があ
った。 通行許可がでると、西側の町木戸門を通り、気賀宿へ入っていった。 取り調べ(中央)には、番頭二名、平番四〜
五名であたった。 また、女改めは、手形の発行者や押してある印鑑、記載事項を調べ、もし違っていれば
記載違いなどとし、通過を許可しなかった。 」
ここでは、それらの施設が復元展示されている(入所料200円、9時〜16時30分、年中無休)
国道は下り坂になり、左にカーブし、続いて右にカーブする。 道の左側には古そうな家が数軒あった。 少し歩くと、
道の左側の空地に、安政四年(1857)に、地元の若者が四十両で建立した常夜燈(左下)があり、傍に、「気賀宿の枡型と
とうろう」の案内板があった。
「 江戸時代、ここが気賀宿の西入口で、一対のL字形の石垣の上に土を盛り、矢来を組み、
門が設けられていた。 外敵の勢いを鈍らせるため、道を折り曲げたものだが、道路拡張のため、向い側の石垣は
取り去られた、という。 石組の中に瓢箪の型をした石がはめこまれている。 」
、とあった。 湿度が高いのか、石組と常夜燈も黒
褐色に変わり、苔も付いていたが、歴史的に貴重なものである。 道の反対の呉石バス停脇の小路(中央)は、犬くぐ
り道である。
「 気賀関所は、地元の人も通行手形が必要なため、不便だったので、領主の近藤氏が犬くぐりと呼ばれる、
むしろを一枚たらし、犬がくぐり抜ける要領でくぐり抜ける関所の抜け道を作った。
蓮照寺が東の入口で、正明寺の裏側を通り、この宿場の西の入口に出てきていたのである。
なお、犬くぐり道は、民俗資料館からここまでは表示もあり通行可能だが、蓮照寺のある東側は一部しか残って
いないようである。 」
気賀宿はここで終わる。
そのまま街道を進むと、左側の石積の上に堀川城将士最期之地の石碑と獄門畷の案内板(右)が建っていた。
「 桶狭間の戦い後、永禄十二年(1569)、堀川城に立て籠った今川勢の男女二千人は、徳川家康軍に攻めら
れ落城し、男女ともなで切りにされてしまった。 捕らえられた約七百人も、この付近で首を討た
れ、この小川に沿った土手に晒らしたので、獄門なわてといわれるようになった。 」 と案内板にあった。
堀川城は約一キロ南にあったが、城というより、砦だったようで、当時は満潮となると湖水が回り込み島と
なった、という。 城主は浪人の新田友作、土豪の尾藤主膳、山村修理、竹田高正、新田四郎義一が村人二千人を結
集してこの城に籠もり応戦した訳だが、素人集団では家康軍には勝てる訳はない。 気賀の村民は今川氏の領地だっ
た遠州という土地柄から、今川氏真が逃げ込んだ掛川城を落そうとする徳川家康に刃むかったのである。
この先左側に遠鉄呉石バス停があり、その先に三叉路(左下)が見える。 姫街道はここで国道と別れて、右側の狭い
道に入って行く。 道の両側には比較的新しい家が建ち並ぶ。 少し歩くと、右側に活民院殿参道の石柱(中央)が
あるが、活民院殿とは、江戸時代中期の大地震で被害を受けた気賀の復興に功績を残した領主、近藤用随の法名で、
街道から外れた山手に近藤家の墓がある。 近くには、天和二年(1682)建立された姫地蔵と呼ばれる石地蔵
がある。 右手の山の中腹に建っているのが、永禄年間に堀川城将の一人、竹田十郎高正が創建し、一族の菩提寺
とした全得寺(右)で、その先に寺へ登る参道があり、知足山全得寺の標石が建っていた。
続いて、右側に諏訪神社の鳥居(左下)があり、その前に秋葉山常夜燈のようなお堂があった。 道はやがて下り坂と
なった。 呉石川手前の右側に、呉石田園公園の看板が
あり、奥に公衆トイレと休憩スペースがあった。 傍らには、奥浜名湖地域の藺草栽培を紹介した大きな案内板
が建っていた。 気賀にとっては、領主の近藤用随と藺草が一番印象に残ることなのかも知れない。
街道との一角には、呉石学校の跡の碑と人物坐像(中央)があり、蜜柑が添えられていたのは愛嬌だろうか?
坐像の下に、二宮尊徳翁の記載があるので、公園は呉石小学校の跡地だったのだろう。
その先の小さな呉石川の橋の上には右は長楽寺、左姫街道の表示があった。
「 長楽寺は、大同年間に弘法大師が創建したと伝えられる古刹で、梵鐘には嘉元三年(1305)四月十日と刻まれて
いる。 また、小堀遠州の作と伝えられるどうだんつつじの庭がある。 」
長楽寺には寄らずに直進すると、右側に計測機のアマノの建物(右)があった。
その先の三叉路は右側の直線の道を進む。 道はゆるい上り坂となるが、左側に是より金地
院道五百・と書かれた道標があり、その下に↑金地院の看板がある。 金地院については、以下の話が伝わる。
「 彦根藩井伊家の祖先は井伊谷の豪族だった。 井伊道政の娘、駿河姫は宗良親王の側室だったが、延元三年
(1338)三月、親王の出陣を見送る途中、急病で亡くなった。 姫の葬送を金地院で行い、その後は姫を開基(法名・
金地院殿慶岩寿永大禅定尼)として祀っている。 」
坂を登っていくと、三叉路の角に人のような形をした自然石(左下)があり、→金地院の看板があった。 地元では
自然石は、道祖神と伝えられている。 その先に南無妙法蓮華経と書かれた石碑と小さな祠があった。
金地院には寄らず、左側の姫街道を進むと、やや急な上りになった。 左にカーブした後、直線になった先に
交差点があり、左側の畑のところに細い道があるので入って行くと、二つの社殿(中央)が建っていた。
ここは、後醍醐
天皇の皇子、宗良親王の御座所があったところで、案内板には、
「 宗良親王は、南朝勢力の増強をはかるため、井伊道政のもとに滞在していたが、奥州からの北畠顕家の軍と
浜名の橋本で合流し、京に上るため、ここを出陣した。 妃の駿河姫は、親王を見送るたため、この地にきたが急病で
亡くなったので、ここに社殿を建てて、駿河姫を祭神として、姫愛用の鏡を祀ったのが二宮神社である。 その隣に
ある若宮神社は、二人の子、尹良親王を祀っている。 」 とあった。
左側の擁壁にある二宮神社案内板あたりから下り坂になった。 坂を下りきると、ガードレールの付いた橋があり、
その下に流れるのは小森川で、変則的な交差点(右)になっている。
写真で見ると正面だが、姫街道は橋を渡るとすぐ、左側の狭い道に入る。
道はカーブしながら続いているが、百五十メートル程歩くと三叉路に突き当たる。 そこには姫街道の道標が建って
いるので、その指示に従い右折する。 その先の左に登る細い道が姫街道である。
ここからは山道のような道で、道なりに進むと右側の林の入口に、 「 ここには巨大松があったが心なしの人の
ため枯れ果ててしまった。 ついてはこの森の幹や枝を切る悪質な行為は、絶対にしないで欲しい。 」 という
看板が建っていた。
「 永禄十二年(1569)三月二十七日、堀川城が徳川家康軍によって攻め落されたとき、城将の一人、山村修理は
ここで切腹し、里人がその霊を慰めるため、松を植えたと伝えられ、修理殿の松と呼ばれていた。 」
、という歴史があるようで、山村氏の子孫と思われる方のお願い看板が建ったということらしい。
その先の右側の小さな土地に、山村修理の墓の案内板(左下)と堀川城戦死者之墓、そして、自然石に刻まれていた山村
修理之墓が建っていた。
ここからはかなり急な上り坂になるが、その区間は短い。 上りきったあたり右側の小高くなっているところに、
一里塚の石碑(中央)と山田一里塚跡の案内板が建っていた。
『 天保十四年(1843)に編纂された、本坂通宿村大概帳には、 「 木立無之、但、左右之塚気賀村地内 」
とある一里塚で、江戸から六十九番目、姫街道では五番目の一里塚である。 』
その先の三叉路の辺りから急な下り坂道で、右にカーブし、続いて左にカーブする。
坂を下ると、左側の車道と合流したので、右折して車道を進むと、
右側の道脇のガードレールがあり、その先には民家の小池がある。 この小池は、琵琶湖を掘った土で富士山を作っ
たという伝説の巨人、ダイダラボッチの足跡といわれている。
その先の三叉路に右角に馬頭観音と道祖神(右)が祀られている。 もとは数メートル離れたところにあったようで
あるが、仲良く並んで建っていた。 馬頭観音は風化がすすみ、道祖神は
文字で道祖神と書かれた文字碑で、豊川みちと刻まれていたらしい。 馬頭観音と道祖神の左側の道を進み、ミカン畑
の中、再び坂道を上って行く。
坂の頂上付近まで行くと、左手一面に奥浜名湖が一望出来る地点に到着した。 小引佐(こいなさ)と呼ばれる姫街道の中でも最も景色
のよい所である。 引佐細江、東名浜名湖橋、舘山寺遊園地が見渡せた(左下写真)
道脇に、清水みのる氏の詩碑が建っていた。 清水みのるは森の水車や田端義夫の帰り船の作詞で有名である。 すぐ先
の三叉路は、右側が上り、左側の道は下るようになっているが、
姫街道は左の下る道である。 分岐点には、小引佐の大きな案内板と姫街道の道標(中央)が建っている。
その先右側に、塞神と四体の石仏が祀られていたが、このあたりから、坂道は石畳道に替った。
江戸時代のものなら価値があるが、最近整備したものである。
石畳は街道気分になるようにと設置したものだろうが、でこぼこした割り石を並べ、コンクリートで固めた道は、誠に歩き
にくい道だった。 寒冷紗の架かるみかん畑を過ぎると、林の中に入り、右にカーブすると、岩根集落に出た。
下りたところの道は車道のような道だが、その先で、道の幅が半分になり、
左側はガードレールでふさがれている。 この合流点を左折して進むと、二百メートルのところに天竜浜名湖鉄道
西気賀駅がある。
道の右側に薬師堂と常夜燈(右)が建っている。
「 薬師堂の創建の時期ははっきりしないが、本尊の薬師如来像の台座裏銘文から天保六年(1835)に再建されたと
される。 もとは辻堂で、引佐峠越えの旅人の休息所にもなっていた。 」という。 横の常夜燈は、文化二年(1805)に
建てられた秋葉山常夜燈である。
案内板には、「 この西の道を北へ五百メートル谷に沿って登ると阿弥陀如来坐像を祀る阿弥陀堂が
ある。 」 とあった。
道は岩根川にかかる橋の先で突当るが、姫街道の道標(左下)があるので、左折して進む。
民家の石垣のある急な坂を上ると三叉路で、姫街道の道標に従って右折し、百メートルほど舗装道路を進むと、右に
カーブするところの左側にしっかり石を敷き詰めた石畳の道がある。
姫街道の道標があることを確認して、石畳の道を上って行く。 薄暗い林の中を通る。 岩根から引佐峠までの間で、
古い石畳が残るのは姫岩のすぐ下と、引佐峠の下の二ヶ所のみという。 道幅はともに一メートル程であり、両側に
雑木が茂り、昼間でも薄暗い。 赤い着物を着せられた石仏があるので、なんなのだろうかと思ったいる内に姫岩
に着いた。
屋根付きの休息所では数人の人が休憩していたが、手前にある平らな岩(中央)が姫岩である。
「 江戸時代の文書
に平岩御休憩所とある十畳位の広さの平らな巨石である。 姫街道を通る大名や姫君に近藤家の家臣が出向き、湯茶
の接待をした。 その為、当時は茶屋場とかまどがあった。 」 という。 また、少し離れているが、南東には
姫岩の湯茶のために使われた姫様井戸がある。 姫岩の案内板(右)によると、
「 この辺は眼下に浜名湖が展望できる街道一眺めのよい所で、姫君も駕籠を降りて歩いた。 」 とあるが、
木が茂っているためか、今はそれ程見晴らしは良くない。 その先の舗装されている細い道を登っていく。 途中に何度か分かれ道があるが、右側の道をいく。 姫街道の道標
が整備されているので、迷子になることはない。
やがて、巾の狭い山道のようになってきたが、道は舗装されて
いた。 かなり高いところにくると、浜名湖の一部がちらと見えた。 更に進むと左側に視界は広がり、みかん畑の
下に浜名湖と集落が見えた。 三叉路で、右の道をとると、林の中の暗い石畳に変わった。 この辺りの石畳は幅一
メートル程である。 敷かれた石も、場所によっては古いので、その部分は当時の石畳の一部なのかもしれない、
と思った。 石畳の道を十分位歩いたか? 周りが明るくなったかと思うと、石畳の先に石段
が現われた。 石段の先には、姫街道の道標があり、その先には七号支線農道の標識がある舗装道路に出る(左下写真)
舗装道路を横断した先は、広場のようになっていて、東屋と公衆トイレがあった。 東屋を利用させていただいて、
持参したおにぎりを食べ、お茶で咽喉を潤し、しばしの休憩となった。 広場は奥浜
名湖展望公園だが、浜名湖の展望はよくない。 なお、東屋の脇の木の階段を登り、アップダウンのある道を行く
と、片道十五分でみはらしの丘にいけ、ここからだと浜名湖の展望が良いようである。
時間の関係があるので、みはらしの丘には行かず、姫街道を進む。 森の中に続く石畳の道をに登っていくと、十分
足らずで引佐峠(中央)に到着した。 頂上には、大きな木柱に 姫街道 引佐峠と書かれたものが建っていた。
「 岩根から約二キロの道のりにある引佐峠は、海抜二百メートルの高さで、旧細江町と旧三ケ日町の境になっ
ていた。 姫街道では本坂峠に次ぐ難所であり、また、景勝地でもあったので、ここには茶屋があったようで
ある。 」
峠は奥浜名自然歩道 佐久米コースの通過点になっているので、浜名湖佐久米駅3.0km 尉ケ峰
2.7kmと記された自然歩道の道標(右)が建っていた。 ここまでが旧細江町である。
峠を越えると、旧三ケ日町の領域。 明るい林の中の石畳道を進むが、石畳の上には枯葉が積もっているので、体重
をかけると少し滑り、足場が悪い。 坂も急であるので、細心の注意で歩く。 その先は道幅も狭くなり、一層急に
なったと思ったら、象鳴き坂(左下)である。 左側にある案内板には、
「 象鳴き坂 1729年(享保14年)広南国(現ベトナム)より献上された象が、将軍お目見えのため、京都から
江戸へ下る途次、船で渡る今切(浜名湖)を避けて、姫街道を通った。 象は引佐峠の急な坂道で悲鳴をあげたので、
村人はここを象鳴き坂と付けた。 当時の書物によると、象は牡である。 」 という説明があったが、
象でなくても、雨の日にここを歩けば辛いと思うよ。
象鳴き坂の先も、左から右にと、くにゃくにゃしな
がら、道は林の中を下っていく。
周りの景色は次々と変わり、その先、右側に分岐して行く道があるが、姫街道の道標(中央)の通りに道を進める。
直線になったところで石畳の道幅も広くなったような気がした。
薄暗い雑木林の中の左側の木の間に、石投げ岩の看板(右)があり、看板には、
「 引佐峠を登り下りする旅人がこの岩に石を投げて旅の無事を占った。 」 といわれ
るとある。 その奥に、緑にこけむし、赤茶色になった落葉のようなものかぶさっている岩が、どうやら、
石投げ岩のようである。 周りに石は落ちていないし、投げるには道幅が狭い。 どこから投げるのかなど、
吉凶を占う方法が書いていないので、岩を見ただけでは今一つ、ピンとこなかった。
先程までの石畳と違い、割り石をコンクリートでしっかり固めたものなので、車道を歩くの
と一緒だが、滑りそうになる分歩きずらかった。 左手の木々の間からは、視界が開け、遠くの山
々が見え、眼下にはみかん畑が広がり、麓までは近い(左下写真)
途中からは農道として利用されている道になる。 三ケ日みかんの生産農家の生活道路なのだなあ、と思いながら、
どんどん高度を下げた。 その先、下り切りったと思えるところで、左側からの道と合流し、平坦の道を進む。
左側のみかん畑の一角に、姫街道 一里塚跡の石碑(中央)が建っている。
大谷一里塚があったところで、姫街道の追分の安間から六番目の一里塚で、江戸日本橋から七十里目である。
平坦な下り坂を歩くと、左手に和田牧場があり、牛舎のような建物が見える。 そのまま直進すると、右側の民家の
生垣に消えそうな文字で、大谷茶屋跡の看板があり、 「 この茶屋では大名や姫君のも茶湯の接待をしたようで、
一般の旅人も休憩したり、草鞋を補給した。 」 とある。 引佐峠へ登るひとも下ってきた人もここで一服し、
英気を養っただろう。 坂を下って行くと、正面に白い建物がある三叉路に出るが、ここは
左折して進む。 カーブしながら下ると、三叉路にでるが、その手前、左側の樹木が茂っているところが
黒坂の森(右)といわれるところで、道脇に六部様の矢印標示があった。
案内の矢印に従い、林の中を登っていくと、六部様の墓とされる石で組まれた祠(左下)があり、その右側には、
二体の石仏も祀られていた。 脇の六部様(修行僧円心の墓)の案内板には、
「 1767(明和4)12月29日、大谷村と都筑村との村境で、生き倒れになった六部の忠道円心を
祀ったところである。 背負っていた厨子と中の仏像は大谷の高栖寺に子授観音として祀られている。 六部は六十六部の略で、六十六部廻国聖のことを指す。 聖は日本全国六十六ヵ国を
厨子を背負って読経しながら巡礼し、一国一ヵ所の霊場に法華経を一部ずつ納める宗教者のことである。 」
と、あった。
江戸時代以前の旅は、死を覚悟して出立し、行き倒れになったらそのまま放置されることが常だった。 それは修行
僧であったも同じだろう。 このように手厚く祀られたのは、大谷村の人々の心の優しさ以外なにもないだろう。
その先の三叉路は直進し、道は突き当った三叉路で道幅の広い県道に出た。 姫街道の道標に従って左折し、県道を
西南へ進み、都築大谷川に架かる大谷橋(中央)を渡る。
右側の屋敷門がある家の生垣に、大谷代官屋敷(右)と書かれた案内板があり、 「 ここは、江
戸にいる大谷近藤家に代わって支配した代官の大野家の屋敷である。 今も子孫が居住している。 」 とあった。
県道を西南へ少し進むと、右に入る道があるので、姫街道の道標(左下)に従って、この道に入った。
このあたりは駒場集落であるが、古い家は見渡らない。 また、家を囲む生垣は風に強いといわれる槇が多かった。
二百メートル先に交差点があり、そこから道が狭くなった。 右側に
火の見櫓があり、右に入る道があるので入って行くと、慈眼寺(中央)がある。
「 明治初年の駒場の大火で古い寺は消失したが、後に佐久米の阿弥陀堂を購入し、移築した。
庚申堂は、三間四面の建物で、青面金剛像が祀られているが、格天井には弘化四年(1847)に地元の画家が描いた花鳥
画がある。 境内の一対の常夜燈のうち、左側が秋葉山常夜燈で、文化二年(1802)の建立である。
その奥にある小さな建物の棟瓦には秋葉山とあり、昭和五十三年に地元民により建立された常夜燈で、毎夜火が
灯される。 」
街道に戻り、二百メートル程歩くと、東名高速道路に突き当たり、姫街道は消えている。 以前の姫街道は高速道路
を横断して、その後、右折して進む道だった。 ここには分断されたことを記す姫街道の案内板(右)と姫街道の道標
が建っていた。
案内板の通り、右折して高速道路沿いに進むと、道幅の広い三叉路に出たので左折し、高速道路のガードをくぐる。
ガードから二百メートル先の右カーブする辺り、さきほど消滅した姫街道が合流してきたが、カーブの右側に、
姫街道の道標(左下)が建っていた。
姫街道は右側の山沿いに道なりに進み、その先の交差点で正面の車が走れない細い道に入り、約百五十メートル先の
三叉路で、直進するのだが、道はこの先も消滅している。 三叉路を右折して、高速道路の下をくぐり、道なりに
Uターンして上り、右へカーブして高速道路沿いの道を進み、五百メートル先で左折、高速道路の大里歩道橋を渡ると、
先程消滅した姫街道がここで合流する。
農道のような道を七百メートルいき、宇志川に架かる橋を渡り、百五十メートル程歩くと
交差点で、右側には瓦塔遺跡の道標(中央)が建っていた。
「 瓦塔は、奈良時代から平安前期にかけて、経済的などの理由から木造の代わりに、瓦で建立された小塔である。 建立
された瓦塔はすべて破壊し、東京都の東村山と当地で発見された破片で復元されたものが存在するだけである。 遺跡跡には、奈良博物館に保管されている復元瓦塔のコピーが置かれて
いる。 」
交差点の先の細い坂道には姫街道の道標があったので、登るとすぐ下り坂になった。 ここは宇志集落で、左側の
畑の角には、茶屋跡案内板と片山竹茂の墓の標示板、少し先には高札場跡の案内板(右)も建っていた.
「 片山竹茂は、江戸後期の宇志八幡宮宮司で、俳諧の指導者として尊敬されていたという人物である。 江戸
時代、ここには茶屋があり、大名や姫君への接待は勿論、旅人の休憩の場になっていた。 」
、と案内板にあったので、この辺りは間の宿のようだったのかも知れない。
左右に家が増えてきたと思ったら、姫街道の道標がある車が通る広い道(左下)に出た。
右折して広い道を進み、左手には三ヶ日地域自治センターがある三叉路は直進し、坂道を上っていく。 六百メート
ル程いくと、左側に消防署の分署があり、火の見櫓が建っていた。
火の見櫓脇の植栽の中に、旧姫街道 一里塚址の石碑(中央)が建っていて、案内板には、
「 三ヶ日一里塚は、安間より七里目、江戸から七十一番目の一里塚である。 昔は両脇に五間
四方の土盛りがあった。 」 とあった。
道は二つに分れ、右側は上りの道、左側は下りであるが、姫街道は左の道である。
坂を下って行くと、右側に三ヶ日郵便局があり、その前には、夢街道東海道 三ヶ日町 姫街道三ヶ日宿 という道標(右)が建っていた。
その先の左側に萬屋旅館があり、更に進むと豊文堂書店手前の交差点(左下)には信号機がないのだが、一時停止に
なっているので、車が必ず止まって進んでいた。 その先左側の日野酒店には、吟醸酒三ヶ日宿姫街道の看板が
あったが、
「 三ヶ日宿は、姫街道一番の難所、本坂峠と引佐峠に挟まれた宿場で、峠を越える旅人で賑わった、といわれる
が、旅籠の数はそれほど多くなかった。 」 という。
静岡銀行を過ぎると、三ヶ日四辻の信号交差点があるが、手前右側の石川接骨院の前に、三ヶ日宿伝馬問屋跡の
案内板があり、 「 問屋石川家は、幕末・明治の画家、石川昌斎の生家である。 」 、と書かれていた。
交差点を越えた左側の
岡田医院(中央)の前に、三ヶ日本陣跡と書かれた案内板が建っている。
『 ここには姫街道三ヶ日宿の本陣、小池家があった。 (中略) 江戸末期の文化二年(1805)に測量のため、
本陣へ泊まった伊能忠敬は、「 家作よし酒造をなす 」 と日記に記している。 小池家の末裔は梅原家である。
』
なお、本陣には、享保三年(1718)、八代将軍吉宗の生母浄円院も泊まっている。
道の右側には古い由緒ありそうな重厚な建物(右)があり、裏には倉や幾つかの建物が続いている。 このあたりが
石川脇本陣だったところのようである。
岡田医院の隣は西町公民館で、その先には古そうな家が何軒か残っていたが、坂を下ったあたりで三ヶ日宿は終わる。
この後、天竜浜名湖線東都筑駅から一キロ程にある奥浜名湖温泉 かんぽの宿浜名湖三ヶ日(下写真)に寄り、
汗を流した後、帰宅の途についた。