平成二十一年七月五日(日)、姫街道最後の区間、三ヶ日宿から御油追分を歩く。 東海道二川駅から天竜浜名湖線
に乗り、三ヶ日駅で降り、今日の旅は始まる。 駅を出た先にある国道362号を横断し、その先にある三ヶ日製菓
の前を道なりに北上すると、前回訪れた三ヶ日四辻の交差点(左下)に出た。 その間に梅雨入りしたが、予報は
曇りとあったので、今日もどうだろうと思いながらの旅である。 かえって暑くないかなと思って出かけてきた。
左右の道が姫街道であるが、小生が向かうのは左で、その先には姫街道最大の難所である本坂峠が待っている。
遠州風土記によると、 「 奈良時代、三河東部は穂の国と
呼ばれた。 本坂は、穂の国へ通ずる坂であることから、穂の境と呼ばれた。 」、とあり、それがなまって、本
坂と呼ばれるようになった といわれる。
本陣跡の鈴木病院を過ぎた先から下り坂になり、下りたところの交差点を過ぎ、次の信号交差点を横断して進む。
右側には三ヶ日中央外科がある。 少し先の右側には三ヶ日交番があり、その先の釣橋川橋を渡ると、右側に釣橋川
公園の標示板がある。
姫街道の大きな看板(中央)には宿場と一里塚の名前がイラスト入りで描かれていた。
その先の宇利山川橋も渡り、直進して行くと、左側に静岡県立三ヶ日高校(右)がある。
高校の敷地の角で、直進する道と左側の道に分れるが、姫街道の道標がある左側の道を行く。
上り坂になり、その先で右にカーブしていくが、坂の上の左手に三ヶ日みかん流通センターがある。 それを見ながら
歩いて行くと、右側に火の見櫓(左下)が見えてきた。 火の見櫓の下にはバス停があり、釣という珍しい名前であ
る。 室町時代の文書には、津里あるいは津利の表記があるようだが、伊能忠敬が編纂した地図
には釣村とあるので、江戸後期には現在の名前になっていたようである。
その先は左にカーブする下り坂となるが、右側の小高いところに秋葉灯籠の案内板とお堂(中央)が建っていた。
案内板には、
「 これは釣村の秋葉灯籠で、明治十四年の棟札がある。 石灯籠は大正五年十二月の刻字がある。
」 とあり、鞘堂の方が灯籠より古いということになる。 全く人通りのないのどかな道で、
時々車が通り過ぎていくだけである。
坂を下ると、左側から国道362号線が合流した。 道は左にカーブ、次いで右にカーブするが、左側にみかん
の里日比沢の看板(右)があった。 ここは三ケ日みかんの本場である。
国道に入って九百メートルのところの右側に火の見櫓があり、その下に日比沢集落センターがあった。 道路に面し
たお堂には 秋葉山常夜燈が祀られていた。 鞘堂は床張りで、中の常夜燈は木造だった。 二百メートル程歩くと、右側に
姫街道の道標があり、その先に華厳寺の山門(左下)があった。 曹洞宗の華蔵寺には、鎌倉初期の釈迦如来像や室町
時代の大日如来像、阿弥陀如来像が安置されている。 道はゆるく右にカーブをえがくが、カーブの始まりの左側
に、板築駅跡の案内板(中央)がある。
「 ここは古代の板築(ほうづき)駅(うまや)があった場所で、承和の変(1842)
で伊豆へ流罪となった橘逸勢が、その途中、この駅で病死した。 この官道駅は、 平安時代の天長十年(833の大
地震により、東海道の猪鼻駅が崩壊したため、東海道が復旧される迄の天長十年から承和十年(843)までの十年余だけ
設けられた。 」 とある。
道は左カーブするが、その先はほぼ直線
道路で、七百メートル程歩くと、日比沢川に架かる森川橋を渡る。 橋を渡るとすぐ国道と別れて、右側の坂道に入
る。 上り口に姫街道の道標があり、約百メートル上ると、左側の木が茂っている塚がある。 木立の中に、昭和五
十年に建立された旧姫街道 一里塚の石碑(右)が建っていた。
ここは安間より八里
目、江戸から七十二番目の本坂一里塚で、南塚は残っていなかったが、碑がある北塚は塚の形を残していた。
石碑の脇に姫街道の道標があり、←の方向を示しているので、左側の道に入ると、右側に祠があり、七体の馬頭観音
像が祀られていた。 短い坂道を下ると、先程の国道と合流した。 百メートル歩くと、三叉路があり、国道はゆるや
か上りになるが、左側は道が下っていく。 国道を横切り、左側の道に入る。 この道が姫街道で、左右にあるのが
本坂集落である。 すぐにゆるやかな上り坂に代わり、国道と平行して進む。 古い家が残っている訳ではないのだ
が、集落はどことなく、江戸当時の雰囲気が残っていて、街道を歩く旅人の気分になれた。 集落の中程までくると、
右側の花壇の中に、本坂関所跡の案内板(左下)が建っていた。 案内板には、
「 戦国時代よりこの地に関所が置かれ、後藤氏が管掌していた。 幕府は慶長五年(1600)、新居
関所と共に施設を整備した。 後、元和五年(1619)、後藤氏が紀州に移ってからは気賀近藤氏の管掌となり、さらに、寛永
元年(1624)、気賀関所の設置に伴い廃止された。 」 とある。 その為でもあろうか、引佐峠と本坂峠に挟まれた
三ケ日宿は幕末までは本陣が一軒あるだけで、旅籠もないという状態だった、という。
その先の三叉路を右折し、国道に出ると、国道の向こうに橘逸勢(たちばなのはやなり)を祀る橘
神社がある。
本坂集落が見渡せる国道より一段と高い所にあるので、石段を上っていくと、木で作られた柵の中に、橘神社と書か
れた小さな社殿(中央)があり、その右側の小さな石は橘逸勢の墓と伝えられている。 案内板には、
「 中央の立石が逸勢の墓、西側の祠が逸勢を祀る神社、東側が逸勢の女(むすめ)妙仲尼の旌孝
碑である。 文禄実録によれば、承和九年(842)、皇太子恒貞親王を奉じて叛を謀ったとのことで、伊豆に配流の途中、
遠江国板築駅に於いて病没したと、強いて随行した妙仲尼は墓畔に庵を結び、父の冥福を祈った。 」
とあった。 筆のつかい手とあって、境内には写経納経塔記碑や筆塚など、書道に関するものが納められていた。
街道に戻り、歩いていくと右側の民家の手前に、文化四年(1807)建立の秋葉山常夜燈(右)が建っていた。
手前には、秋葉山常夜燈の案内板があったが、その下の石積は、江戸時代の高札場の土台ということだが、なかなか
立派なものだった。
道は右に、左に、また、右にカーブしながら、上って行く。 本坂集落は千メートル足らずの短い集落なので、あっと
いう間に終わってしまった。 坂を上って行くと、右は上っていく道(左下)、直進する道は下り坂である。
右の道を上って行ったが、左側に姫街道の道標があったので安心した。
左側を見るとみかん畑が一面に広がっていて、その先に山並(中央)が展望できた。
坂の頂上の手前に、また、姫街道の道標が建っていたが、その先は国道である。 国道を斜めに横断し、国道の右側
の舗装された狭い道に入ると、右側に
二体の石仏を祀った小さな弘法堂(右)があった。 傍らの案内板には、
「 金銅製の小さな弘法大師像と御影石製の大きな弘法像が祀られている。 大正三年の本坂道改修工事時には、
既にここにあったと伝えられるので、明治時代のものであろうが、本坂峠越の無事を祈ったものだろう。 」
と、あった。 お堂の中を覗くと、金銅製の仏像は安置されていない
ように思えたが、石仏に手を合わせてこれから歩く本坂越えの無事を祈った。
道はその先に車止めで、国道に合流するが、すぐ右側に奥浜名湖自然歩道案内板(左下)があり、その下に本坂登山
口、姫街道入口の標示がある。
字が薄れて読みずらい姫街道案内図の先に、本坂峠への細い登り口があったが、本坂峠に向かう前に、この
時期、やるべきことは薮蚊対策である。 完璧な方法はないと思うが、顔、手、足と外に触れるところには、虫除け
スプレーを吹きかけた。 また、靴下でズボンの裾を蔽った。
準備が終えたので、国道の右側の道(中央)を上っていくが、展望できるみかん畑の道はつかの間で、すぐに林の中に
入ってしまった。 すると、薄暗くなるのに比例して、待っていましたといわんばかりに虫の数が増えてきた。
五分位歩いたところで、旧本坂トンネルへ向かう旧国道(右)に出たが、ここは車道を横断して対面の狭い道
を進む。 道には、姫街道の道標が建っているので、迷うことはない。
道は先程より急な坂で、石畳道だが、道の半分が川となり、流れ落ちてくる。 ここ数日は雨が少ないからとやってきた
が、梅雨の真っ最中である。 杖を持ってきたのが役にたった。 コンクリ石畳が滑るのだが、杖のお陰で身を保持で
きる。 水の少ないところを選びながら、慎重に進む。 石畳が途絶えると坂が急になり、山裾を右にカーブしていく。 その先は苔が生えた階段で、それを
越えると、左右の方が高い谷状の道になり、道の中央に倒れた幹や枝が無数に散らばっているので、大変歩きにくい。
やがて、左側に苔に覆われた大きな岩石(左下)があった。
傍らの案内板には、 「 岩は鏡岩と呼ばれるもので、高さ四メートル、巾十メートルのチャートの断層である。
昔は光っていたので、旅の女性がこれを鏡にして、身づくろいをした、といわれる。 このあたりは、太古は海で、
放散虫や海綿動物などの動物の殻や骨片が海底に堆積してできた岩石である。 」
とあるが、チャートとは、堆積岩の一種で、主成分は二酸化ケイ素(SiO2、石英)であるので、磨けばぴかぴかするだ
ろう。
瓦礫まじりの道を上って行き、その先でガードレールに沿って上ると、先程横断した旧国道(中央)に出た。 この道を
左斜めに横断したところに、狭い坂道があるが、これが姫街道の入口で、左側に、姫街道と椿の原生林の丸い看板が
あった。 坂を上っていくと、枝ぶりが曲がった椿(右)もあるが、この一帯が椿の原生林なのだろう。 案内板には、
「 この道に沿って百数十メートルにわたって椿の原生林が見られ、樹齢二百年のものもある。 旅人は花の隧道を
歩いていった。 」 、とあるので、 花の季節には、美しい花の道になるだろう。
ひっそり静まりかえった石畳を登り続けると、高度が高くなるに連れて、林の中が明るくなってきた。 石畳に
砕石が混じった道に出ると、正面に十一段の石段があり、上ると緑の林に入った。 その先は更に険しい坂道である。
道の右側に姫街道の道標があったが、その先は尾根道に変わったので、峠はそれほど遠くない気がした。
少し傾斜のある道(左下)を上ると、本坂峠があった。
本坂峠(中央)は、数十坪程の狭い土地で、右側に、本坂峠 327M、その下に、姫街道とある道標があり、その左に
四角の石積みがあった。 本坂峠は、遠江国と三河国との国境だった。 三河国、現在の愛知県側には、豊橋自然道
石巻山多米県立自然公園の馬鹿でっかい案内板(右)が建っていた。 ここには姫街道に関係するものは一つもない。
ハイキング用の富士見岩ー本坂峠ー中山峠への道標や上浅間社0.5k石巻分岐点3kの道標があるだけである。
これまで歩いてきた静岡県側は、姫街道の紹介に熱心であるが、これから歩く愛知県側は姫街道に冷淡であることを
この案内板が語っていた。
峠は、四方は樹木に囲まれて、景色が良いという訳ではないが、適当に風もあり、涼しい。 江戸時代、お姫様などが
通過する際には領主による茶菓の接待が行われたようだが、コンビニで買ってきたあんパンとお茶を飲み、しばしの
休憩をとった。 国道の姫街道入口からここまで五十分くらいで上れたということを確認。 また、姫街道の旅も、この
峠で大半が終わったという感じかした。
下山にかかる。 、本坂峠の坂を下り始めたが、かなり急な所もあり、また、梅雨のため、岩が滑りやすくなってい
るので、ころばないように、杖でホールドしながら下りた。 杉が檜か分からないが、整然と植えられているのを
見ながら下ると、左側に弘法水(左下)があり、苔が生えた小さな岩の下に、小さなくぼみがあり、水が溜まって
いた。 傍らの案内板には、 「 昔、弘法大師が当地を訪れた際、喉を潤したという伝えが残っている。 」
とあるが、梅雨時でも流れている様子はないので、飲用には適しないのではないか?
その先の左側には、旧姫街道 ←本坂峠嵩山宿→ の道標が建っている。 更に下ると、旧本沢トンネル
に至るという道標(中央)が現れた。 その先でも、旧本沢トンネルの道標があった。
「 旧本沢トンネルは旧国道362号線の愛知県と静岡県の県境に掘られた、大正四年に竣工した本坂隧道のこ
とである。 現在の本沢トンネルは数年前までは有料だったので、旧道が利用されたが、今はこのトンネルを利用
するものは稀である。 」
道は左右に曲がりながら下って行く。 立ち止まってよく見ると、大きな木の間に小さな木が多くあり、
下草も伸び放題になっている感じである。 道の真ん中に大きな石があるが、その上に小石が積み重ねられていた
(右下写真)
この先でも、大きな石があると、同じようになっていた。 登山すると、山の頂でよく見る風景であるが、街道でこうした
風景を見たことはほとんどない。
ところどころに山あじさいがあり、かれんな花が咲いていた。 更に下っていくと、水音が聞こえてくる。 右に
カーブするところに、鉄管のようなものが見え、水が流れていた。 左手の
山際には、旧姫街道の道標の下に水場→の表示があり、その脇に、嵩山七曲りの標木(左下)があった。 ここ
まで左右くねくねと道が曲がっていたが、これは嵩山七曲りというようである。 その先の右側に、旧姫街道の
道標があり、そのあたりに茶屋場があったようである。 一段下がった右側に、座禅岩と書いた標木があった。
更に、少し下り、小橋を渡る手前の左側に腰掛岩(中央)がある。 先程と同じタイプの標木とその脇に小さな石標
が建っているが、しだや下草に覆われれているので、注意しないと通り過ぎてしまう。 ここを過ぎると三叉路で、
三叉路の左には、姫街道の道標と浅間神社の道標が建っている。 直進するのが姫街道である。 浅間神社の歴史は
古い (右下写真ー腹浅間の原川社)
「 浅間神社は、奈良中期(750年)に、駿河国の富士浅間神社から勧請されたと伝えられる。 古来、浅間神社
は、大山社(頭浅間)と原川社(腹浅間)、そして、富士社(足浅間)の三社三神よりなっていた。 明治維新の時、
神社の廃却が命じられたのに対し、地元は存続運動を起こし、明治二年(1869)に据置の許可を得た。
その後、明治四十一年(1908)の神社合祀令により、大山浅間神社祭神と大山祇神を原川社に合祀し、二社三神を
浅間様と呼んだ、と社伝にある。 説明板に、富士社の祭神は秋津姫命、原川社の祭神は木花咲耶姫命、大山社の
祭神は大山祇命とあるので、戦後、三社三神に戻ったように思われる。 」
三叉路を直進し、橋を渡ると石畳の道に変わった。 少し先の左側には石造りの姫街道の道標(左下)が建っていた。
そのまま下ると旧国道362号線に出た。
車道を右斜めに横断し、旧姫街道の道標に従い、ガードレールの
外れから階段状になった石畳を下っていくと、少しじめじめした石畳に変わった。
歩いていくと石畳が壊れて砂利道に変わったが、木立も少なく明るいところに出た。 左側に、嵩山
一里塚の木柱(中央)があり、脇に江戸ヨリ七十三里と書かれていた。 左側は塚のようにこんもりしていたが、
一里塚なのだろうか?
その先に旧姫街道の道標があり、少し歩くとぱっと明るくなった。 わずかな空間であるが、空が見えるところで、
道の左側には姫街道の大きな説明板(右)がある。 説明板には、嵩山宿や本坂峠から嵩山宿までの案内ではなく、
姫街道の一般的な説明があるだけで、参考にはならなかった。 お金をかけて設置するのなら、本坂峠から御油追分
までの案内板にしてもらえるとありがたい。 その先には、数人
が座れるベンチがあり、一服するのに好都合である。 先程の姫街道の看板に、姫街道が平成八年に
文化庁により歴史の道百選の選定されたとあったが、今回歩いて見て選ばれる道だと思った。
坂を下って行くと、右側に嵩山不動滝方面と書かれた道標が建っていた。 コンクリートで固められた石畳を
下りていくと、舗装された車道になり、左手に老人看護施設が見えてきた。 更に進むと、とたん屋根の民家が現れ
たが、この家はかっては茅葺きか藁葺きだったのだろう。 ここからは、道の両脇に民家が建ち並んでいる。
坂を下りきると、右側に民家のような藤上公会堂があり、道の反対側には、 姫街道 西嵩山宿 東本坂峠と書かれ
た大きな石標(左下)が建っていた。 石標の側面には、
「 ましらなく 杉のむらたち 幾重にのぼりぬ すせの大ざか 景樹 」 という句が刻まれている。
香川景樹は、江戸時代天保期の歌人であるが、裏面の解説文によると、 「 文政元年(1818)に東下りした際詠んだ
句で、彼と随行した高弟の菅沼斐雄の随行紀行袖くらべによれば、姫街道の名勝どんがめを過ぎて、
七曲がり付近でこの歌を詠んだ。 」 と、あった。
石標の先は変則的な交差点で、車はここから姫街道には入れず、左に抜けていくようになっている。 角には姫街
道の矢印道標(中央)があり、西から来た人が本坂峠に向かう道案内をしている。 このあたりが、江戸時代の嵩山
宿の東入口だったのだろうか?
これで本坂峠越えは終わったので、この先御油宿までは、平坦な道である。 梅雨の中の本坂越えてだったが、
無事越すことが出来てよかった。 昔の旅人からは、本坂峠は道が細くて険しいので箱根より大変だ
といわれていた、という。 姫街道は脇往還ではあるが、道幅は狭かったはずで、東海道の宇津ノ谷峠に似ている
ように思われた。
少し行くと、左に白い蔵、
右手に養蚕用の屋根をした小屋(右下)があり、その先に挟石(さぼうし)川が流れていた。
このあたりは、豊橋市嵩山町であるが、嵩山をすせと読める人はほとんどいないといえる難解な地名である。
「 江戸時代、嵩山宿の人口は五百八十人程度だったが、 天保年間には本陣が一軒あっただけで、脇本陣も旅籠
もなかったが、人の往来が激しくなった幕末になると、本陣と脇本陣が各一軒、旅籠も十軒を越える宿場に発展し、
賑わった。 」 という。
川に
架かる重玉橋を渡ると、右側に藤下公会堂がある。 このあたりは宿場だった通りであるが、道には車も人もいな
い。
嵩山川沿って、黙々歩いていくと、右側に大きな案内板(左下)があるが、その手前の夏目邸が本陣だったところ
で、 案内板には、建替前の写真が載っていた。
今も子孫がお住まいのようすであるが、今は新しい建物が建ち、石垣と蔵が一部残っているだけである。
その先の三叉路で左折して、寄り道をする。 国道の下をくぐると、嵩山校区市民館、その先に嵩山小学校があり、
その反対側に白土神社(中央)がある。 市の教育委員会が建てた案内には、
「 白土神社の創建は、嘉暦年間(1326〜29)と伝えられ、また、天正六年(1578)の勧請軒札には、 地頭西郷孫九郎
家員 同 隠居左右衛門吉員 とあり、当社がこの地に勢力を持った西郷氏の崇敬を受け、社殿が修復されていた
ことが分かる。 白土社の鰐口は豊橋市の指定文化財になっている。 」 と、あった。
道なりに歩いていくと、長孫天神社の石標(右)があり、脇に常夜燈、鳥居があり、その奥に社殿がある。
「 長孫天神社の創建は、神社の社伝によると、養老三年(719)と伝えられ、慶長六年(1601)の伊奈備前守の
神領寄進状には、長彦大明神神立とある。 社殿の内陣は二社づくりとなっていて、社伝では左の方が石巻大
明神、右の方が栄宮大明神となっている。 なお、伊奈備前守とは、伊奈備前守忠次のこ
とで、家康が江戸に移封されたのちは関東代官頭として家康の関東支配に貢献し、利根川水系の河川改修工事で有名で
ある。 」
この後、南東に向い、三叉路を左折し、続いて右折する。 その先の左側に鉱山に入る交差点を直進すると、
十輪寺(左下)がある。 十四世紀半ばに創建と伝わる寺院で、入口に東三河四郡弘法大師霊場第二番とあり、
境内には石仏が数体と庚申塔があった。 裏山には、石灰岩の岩陰遺跡である立岩遺跡があり、そこからは、渥美
窯の小皿と懸仏の残欠と考えられる銅片が採集されている、という。 街道に戻り、旅を再開すると、右側の煉瓦
造りの囲いの中に村中安全と書かれた、文政十年(1827)建立の秋葉山常夜燈(中左)が建っている。
川を越えて、そのまま進むと嵩山交差点で、左からくる国道に合流してしまった 。
嵩山交差点で、国道362号線に合流するが、右手には臨済宗妙心寺派の正宗禅寺がある。 少し歩くと、道の右側に、ここは
姫街道 筆の里の看板(中右)があった。
筆の里工房嵩山の広告であるが、 江戸時代、豊橋市の前身、吉田藩の城下町では、武士の副業として筆作りが行なわれてい
た。 豊橋の北部一帯の丘陵地帯で筆の原料となるタヌキ、イタチなどが容易に捕獲でき、また、東海道を往来する行商人
の手で全国に販売され、今でも奈良の墨、豊橋の筆ということで有名である。
先程の姫街道の大看板の地図によると、姫街道は、天神川で左折していたように書かれていた。 嵩山交差点から
四百メートル程歩くと、左側に嵩山市場のバス停があり、少し行くと川が流れていた。
この川(右)が天神川であるとすると、江戸時代には、このあたりに嵩山村の高札場や阿弥陀堂、観音堂があったと
いうことになり、ここが嵩山宿の西の入口だったのだろう。
川の向うの左側にある細い道に入り、百メートル程先の三叉路で右折し、車道歩くと、二軒屋交差点で、再び国道
263号線に合流した。 姫街道はここからしばらくの間は残っていない。
国道を歩くと、右側に長樂鉱山入口の
表示があり、その奥には山肌が無残にも削り取られた山(左下)があった。 真直ぐに延びる道を歩いて行くと、道の
左側に、文政三年(1820)に建立された秋葉山常夜燈(中央)が建っていた。 この場所は最近整備されたものだが、
江戸時代には、長楽(ちょうらく)追分だったところで、姫街道はここで
豊橋に向かう道は別れていたが、当時の地名は豊橋ではなく吉田だった。 手前にある石造の道標には、 右豊川
左豊橋と書かれていたので、それほど古いものではないだろう。
なお、手前の長楽駐在所西の狭い道を左折して約五十メートル行くと右側に長楽寺がある。
長楽追分から少し進むと、道の左側の竹林の一角に、姫街道長樂一里塚 左江戸より七十四里 右京より五十三里と
書かれた石碑(右)が建っていたが、ここは姫街道の追分の安間からは十番目の一里塚である。
一里塚から真直ぐな国道を約五百メートル歩くと、和田辻東バス停があり、その先は県道と交差する和田辻交差点
(左下)があり、交差点を左折した先にある和田辻バス停からは、豊橋駅行が二十時過ぎまである。
交差点を直進すると、道は右にカーブし、両側が緑の木立になると、下り坂になった。 左に、右にとカーブが
続く。 カーブが終わった右側の坂道入口に石碑が二つ建っていて、一つは大正十三年に運輸関係者によって建立さ
れた馬の顔が浮彫され、水難除と書かれた馬頭観世音(中左)である。 隣にある石碑は、松の図の下に、漢文でぎっ
しりと埋め尽くされていて、全ては読めない。
「 ここに弁慶首塚松とあり、径七尺の二本の松の大木があった。 一本は明治二十六年四月に、もう一本は明治
三十二年九月に倒れてしまった。 それを惜しんで、地元の有志が碑を建てた。 」 と書かれているように思えた
。
その先は三叉路の小倉橋交差点(中右)で、交差点の下には牟呂用水が流れている。 交差点の左側の牟呂用水
の左手にある丘(右)は、南北朝時代の南朝の忠臣、高井主膳正が築城した高井城址である。
「 高井城は石巻山城の出城のような存在だったが、豊川の河岸段丘を利用して築かれた城である。 高井主膳正
は、北朝方の高師兼に攻められ、石巻山城で抗戦したが、敗れて自刃した。 その後の開墾などにより、城の痕跡は
ほとんど残っていない。 」
交差点の先には真直ぐ続いく道があり、左右には緑一面の田圃が広がり、風はさわやかに吹いていた。 車の通行は
多いが、歩道もキチンとあるので、気持よく歩けた。 五百メートル程歩くと、道は左にカーブするが、カーブが
始まる右側に中協運輸とおしゃれ貴族の赤い看板がある。 この間の細い道を直進していくと、豊川の
堤防の手前で、道は右カーブし、堤防の上に出る。 堤防の道を左折し、少し先の右に下る道(左下)に入る。
姫街道は豊川(当時の名は吉田川)を当古の渡し場といわれた船渡しで渡った。 坂を下った先の右側の森のあたり
に渡し場があったとようで、昭和九年に当古橋ができるまで続いていた、というが、その場所は確認できなかった。
堤防道に戻り、当古橋に出て、橋を渡る。 橋の上から見た豊川(中央)は水が豊富だった。 当古橋を渡ると、豊川
市である。
橋を渡り終えるとすぐ右折して、堤防の道を約六十メートル歩いたあたりに、西側の渡し場があったようだが、
場所は特定できなかった。 当古の渡しは、徳川家康を助けたことにより、中山家に渡船の朱印状が与えられた
結果、幕末直前の安政六年(1859)に当古村に権利が譲渡させるまで続いた、という。
その先、左へ下る坂道を進み、坂の途中の三叉路を右折して、西船渡の集落に入る。 集落に入った左側に
連子格子がある二階建ての家(右)があった。 姫街道はこの家の前の狭い道で、国道と平行して続いている。
紫陽花が植えられている家やのうぜんかずらの橙色の花が屋根まで届きそうになっている家もあり、落ち着いた
雰囲気があった。 その先の交差点で県道380号線を横断すると、東本郷の集落に入った。 少し進むと、右側の空
地の先の柵の中に、文政二年(1819)建立の常夜燈(左下)があり、奥に小さな社殿があった。 神社の先の交差点を
越えると本郷の集落である。 道なりに進むと、信号のない交差点(中央)で、国道362号線に出た。
姫街道は、交差点の対面右角の辺りから西の寿命院の方向へ四十五度の角度に進むのだが、現在は道が消滅して
ない。
右折して国道に入り、国道を歩いていく。 道はタイヤ専門店の先から左にカーブ、睦美地区市民
館の標識を過ぎると右側に、こんもりとした森が見えた。 そこまで行くと、三谷原(みやはら)
神社と書いた大きな標柱が建っていた。 境内はかなり広いが、建物は最近のものだろう。 神社の由緒には、
「 創建の時期は明らかでないが、三河国内神名帳にある従五位上温谷天神はこの社で、昔は雨谷天神といわ
れた。 長徳年中(995−999)には牛頭天王と称した。 明治に入り、村社素盞嗚神社となり、大正二年に天神社を
合祀して、現在の名前になった。 八剱社も合祀しているので、祭神は健速須佐之男命、菅原道真と八千矛命であ
る。 」 とあった。
三谷原信号交差点で、道の反対の左側に移動すると、三河新四国霊場の幟の立っている寿命院(左下)があった。
先程消滅した姫街道は、寿命院の裏あたりを通っていて、そのあたりに安間より十一里、日本橋から
七十五番目になる一里塚があった、というが、寺の裏に行ってみても、案内板の類はないので、確認はできなかった
。 二百メートル程歩くと馬場町交差点で、消滅していた姫街道はここから復活する。
交差点で交差する国道151号線を横断して進むと、交差点を越えた右角に村社 熊野神社の大きな標柱と常夜燈と鳥居
があり、鳥居をくぐり木立の中を行くと社殿(中央)があった。 傍らの馬場熊野神社由緒略記によると、
「 当神社は本坂街道に沿いたるこの地に弘治二年(1556)、紀伊の国熊野より新宮大明神を奉斎創始す。 以後、
吉田城主久世氏の崇敬を受けたり。 久世氏の寄進により宝永元年(1704)社殿を造営す。 明治以後、当社の社格
は村社である。 (中 略) 当社にある万治二年(1659)若宮八幡の棟札は新宮にある若宮なり 」
と、あった。
嵩山から大部分の区間歩いてきた国道263号線は馬場町交差点までで終わり、ここからは県道5号線となり、真直ぐ
に西へ伸びている。 二百メートル程先の左側にタイヤ館がある交差点があるが、この交差点の右側の狭い道に入
ると、豊川弁財天 三明寺の入口に出る。 豊川弁財天 三明寺の看板の先には天保十一年(1840)に建立された
常夜燈(右)が二基並んで建っていた。
鳥居をくぐると、左側に享禄四年(1531)に建造された三重塔がある。 豊川市教育委員会の案内板には、
「 お寺の諸堂の中で最も古く、国指定重要文化財になっている。 塔の高さは十四メートル五十センチで、
柿(こけら)葺き、一層、二層は和様に、三層は禅宗様式にしたのが全国的にも珍しく、三層の軒の
反り、扇垂木、鎬(しのぎ)のある尾垂木などに禅宗様式の意匠が認められる。 」 と、あっ
た。 禅宗様式(唐様)と和様の違いは、軒下の垂木が四隅に向かって、唐様は扇状に斜めになっており、和様は
屋根の縁に対して垂直になっている、ということらしい。
太鼓橋を渡ると、正徳二年(1712)に再建された、豊川弁財天 三明寺の本堂(中央)があった。
「 天宝二年(702)、文武天皇が三河国に御行幸のみぎり、宝飯池のほとりに弁財天の御霊験を得られ、大和国
橘寺の僧、覚渕阿閣梨に命じて、堂宇を建立し、呉(中国)の国の僧、知蔵法師が、教、律、論の三部経
文を納めたことから三明寺と寺号した。 平安時代のこと。 三河国司に赴任した大江定基は、
愛人の力寿姫の死を悲しみ、剃髪して寂照と改め、力寿姫の面影を弁財天に刻み安置したと、伝えられる。 平安
時代の末、一度、戦火に遭い焼失したが、十四世紀末の南北朝時代に後醍醐天皇の皇子、無文元遷が遠州方広寺に
行く途中、ここに立ち寄り、その荒廃ぶりを嘆いて再建したと、伝えられている。 」 と三明寺の由来が書かれて
いた。
本堂の中には、弁財天の赤い提灯(右)が大きいのや小さいものなど、沢山つり下げられていた。
「 三明寺の本尊は、大江定基が刻んだといわれる弁財天像で、本堂内にある
室町時代作の弁財天宮殿(国重要文化財)の中に納められ、十二年に一度開帳される。 」 、とあった。
本堂の左手の赤い鳥居が並ぶ先には三徳稲荷社(左下)があり、鳥居の脇に、神社のいわれが書かれた木札があった
が、文字が一部読めなくなっていた。
「 大古の頃、穂の国に倭姫の命あり。 稲を作り伊勢神宮に報徳感謝をこひて奉納せられた。 その後倭姫の
命は正一位稲生大明神の位を賜り、三州西島の地に稲荷として祀られ、多くの人々に信仰せられた。 宝暦年間、
七世鎮山和尚は当山へ西島稲荷社よりその分身を祀ることになった。 明治時代より三徳稲荷と称し、三つの願い
が成就していただけるとして崇敬されています。 」 (一部推定)
なお、ここから南西方向にある古宿町は鎌倉街道の豊川宿があったところである。
室町以前の旅人は、御油の追分で東海道と分かれた二見の道を通り、豊川宿へとまり、当古を通って本坂峠を越え
ていた、という。 西島稲荷は古宿町から南に五百メートル程のところにある。
本堂の右手奥には江戸時代に建造された山門(薬医門)(中央)があった。
また、入口近くにある塚は、弁財天宮殿を建立した本願光悦が、弘治二年(1655)に入定した塚で、松を植えて後世
の人々に伝えられているものである。 本願光悦は塚の中で七日間読経を唱えて入定(死亡)したという。
姫街道に戻り、県道5号線を西へ向って五百メートル進むと、姫街道踏切(右)という標識が付いた踏切を渡った。
この踏切には、JR東海の飯田線と名鉄豊川線が通っている。
踏切を渡るとすぐ先に、中央通り1丁目交差点がある。 姫街道は直進であるが、江戸時代の旅人も訪れたという
豊川稲荷に参拝するため、交差点を右折して、北へ四百メートル程歩くと、豊川稲荷前交差点に出た。
スクランブル交差点になっていて、右に行くと豊川駅で、豊川稲荷は直進である。 少し行くと、左側に豊川稲荷
の大きな標柱と総門がある。 道をはさんだ反対側は、豊川いなり表参道(左下)と書かれたアーケードのある
門前町になっていて、門前そばとか宝珠まんじょうの看板が目立ち、客の呼び込みに余念がない。
お店には帰りに寄ることにして、総門(中央)をくぐった。 総門の案内板には、
「 総門は明暦二年(1656)に一度改築されたが、現在の門は明治十七年(1884)に上棟改築されたもので、門扉と
両袖の扉は、高さ4.5m、幅1.8m、厚さ15センチの樹齢千年以上の檜の一枚板である。 」 とあっ
た。
「 豊川稲荷は稲荷神社ではなく、寺院である。 つまり、嘉吉元年(1441)に開創された曹洞宗の円福山妙厳寺
という寺である。 豊川稲荷は、寺を創建した東海義易が、叱枳尼天(だきにてん)を寺の鎮守
として、境内に祀ったもので、今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの武将の信仰を集めた。 」
総門からまっすぐ進むと、大きな献燈の先に山門(右)があり、案内板があった。
「 山門は天文五年(1536)今川義元が寄進した建物で、当寺の現建物中最古の建物である。 また、唯一の丸瓦葺
造りの屋根の形をしている。 寛政五年(1792)と昭和二十九年に修理が行われた。 左右の阿吽の仁王像は
昭和四十一年に寄進を受けたもの。 」 とあった。
山門をくぐり、参道を歩くと、妙厳寺本堂(左下)があった。 案内板には、
「 天保時代(1830-43)の二十四世の住職の時に建設された建物で、総桧二重屋根瓦葺きで、重厚な外観である。
内部は禅宗寺院特有の簡素な構造である。 ここには寒巌禅師が自ら刻んだ千手、千眼観世音菩薩が本尊佛として
奉祀されている。 」 と、あった。
本堂の左手にある鳥居をくぐり広い参道を進むと、昭和五年竣工の豊川稲荷大本殿(中央)がある。
「 豊川いなり大本殿には、叱枳尼真天本体が祀られている。 豊川稲荷が全国的な信仰を集めるようになった
のは、大岡越前守忠相が、寛延元年(1748)十月、三千石の加増を受け、三河国大平藩一万石の大名となり、豊川村を
知行地とし、妙厳寺の万牛和尚に帰依したことに始まるが、その後は、伏見、笠間と共に日本三大稲荷に数えられ、
現在の敷地面積は十一万u余り、百余棟の伽藍があるという規模に成長した。 」
豊川稲荷の総門を出て、道の反対にある門前そばの看板がある店に入った。 時計を見ると十四時少し前。 門前
そばを注文すると、お茶の入ったきゅうすと茶碗、そして、いなりずし二個とのり巻(右)が出てきた。
しばらく待たされた後、野菜のてんぷらがついたざるそばが出てきた。 それを平らげるとお腹が満腹になった。
後は御油追分を目指すだけである。 県道5号線に戻り、西へ進む。 中央通3丁目の信号交差点を越え、少し歩く
と、金屋公会堂の建物があり、その先の左側に金屋食堂の看板が架かっている古そうな家(左下)があった。 佐那川に
架かる金屋橋の手前には中央通り公園がある。 金屋橋を渡ると、中央通5丁目で、左側のビル(中左)の屋上には、
おにぎりの形をしたおにぎりかのうの看板があったが、馬鹿でかい看板を出しただけの効果はあったのだろ
うか?
少し歩くと右手は豊川市役所(中右)である。
「 豊川市には、戦前、豊川海軍工廠があった。 軍需工場として
昭和十四年十二月に開所したが、その後拡張を続け、昭和十八年には六万人規模の工場になった。 豊川市の人口
も昭和十九年には九万二千人に膨れ上がった。 東洋一の武器工場と言われた豊川海軍工廠は昭和二十年八月七
日、米空軍の戦略爆撃により、三十分足らずの間に三千三百発の五百ポンド爆弾が投下され、女子挺身隊員を含む
二千七百人の尊い命が奪われた。 」
その跡地は、豊川市役所の北方にある名古屋大学太陽地球環境研究所の敷地になっている。 市役所の反対側にある
めん処さがみの奥に三重塔が見えた。 しばらく歩くと、体育館前交差点で、交差点の左奥にはクオリティホテル
豊川と市民プラザなどが入るビルがある。 交差点を渡ると、右手奥にスマートな三角形の体育館があった。
消防署西交差点を過ぎるころから、空の様子がおかしくなった。 梅雨の最中なので、雨は覚悟しているが・・・・
体育館前から約一キロ歩いた諏訪橋西交差点では県道21号と交差するが、姫街道は直進。 交差点を越えると、
右側に長栄寺があり、その先に諏訪神社(左下)がある。 なお、諏訪神社は昭和二十年八月七日海軍工廠の空襲で、
社殿が焼滅したのを鎮守の森とともに再建したものである。 この集落の人にも犠牲者がでたのではないだろうか?
白川に架かる白川橋は架け替え工事中で、仮設橋を渡る。
その先の右に入る細い道の角に、 「 國内神名帳 郡明神 是ヨリ十五丁 」 と刻まれた大きな石碑(中央)が
建っているが、細い道を千七百メートル行ったところにある伊知多神社への道標である。
なお、社伝には、
「 養老二戌午年(718) この地に天児屋根命を祀り、郡明神という。 三河国内神名帳に明神二十二座の内、
従四位下、凍(氷)明神とあり、明和年間以降は春日大明神と称した。 嘉暦二年(1327)、五頭天王を春日明神の西に
創祀する。 ・・・ 」 とある。
姫街道は長く真っ直ぐに続いている。 八幡町交差点を左折して行くと、名鉄豊川線八幡駅がある。 その先は
八幡町横道西交差点で県道31号と交差する。 交差点を渡ると、回転寿司源の先に永昌寺がある。
亀ヶ坪交差点の手前には、 「 三河国分寺跡1.1km 八幡宮1km 三河国分尼寺跡0.8km 」 と
書かれた道標が建っているが、これは史跡である三河国分寺、国分尼寺へのものである。 今回は寄らなかったが、
以前東海道を歩いた時、訪れたので、参考までに記してみる。
右側の細い道に入り、車道のある交差点を直進すると、三河国分尼寺跡史跡公園(左下)に出る。
史跡公園は、三河国分尼寺跡を発掘調査後、豊川市により平成11年度から17年度にかけて
保存整備が行われ、大伽藍を備えた三河国分尼寺の当時の姿を現代によみがえらせるよう、
中門及び回廊の一部を遺構の真上に実物大の建物として、また、
屋根瓦は出土品にならい復元、木部はヤリガンナ仕上げ、柱等の部材は朱塗りとするなど、奈良時代の建築様式を再現した
形で、復元したものである。
近くに駐車場がある他、三河天平の里資料館(無料、9.00〜17.00、火休)があり、出土品の
瓦(中央)などが展示されている。
三河国分寺跡へは道を少し戻り、左折して大きな道に出ると、赤い幟がはためく国分寺(右)がある。
「 国分寺は、天平十三年(741)、 聖武天皇の詔勅によって全国の国府に建てられた寺である。 三河国分寺の
寺域は約百八十メートル四方で、南大門、中門、金堂、講堂を一直線に並べ、
鐘楼、七重塔などを左右に配した大伽藍だったが、平安時代の末には荒廃してしまった。 現在の寺は、永正三年
(1506)に再興されたものである。 」
姫街道である県道5号線をしばらく進むと、西古瀬川に架かる筋違橋は架け替え工事中だった。 東海道を歩いた時
も工事していたので、かなり時間をかけている。 筋違橋交差点は変則五差路で左折すると、国道1号線を横断し、
蒲郡に抜ける県道31号である。 姫街道は直進するが、その先右側の細い道の入口に、文化八年(1811)建立され
た常夜燈(左下)があった。 反対側には、県社 八幡宮の大きな標柱がある。 八幡宮は、先程の亀ヶ坪交差点に
案内があった神社で、細い道を行った先のうっそうとした森の中にある。 本殿(中左)は、文明九年(1477)の建立
で、国の重要文化財に指定されている。
「 県社八幡宮は、七世紀半ばの白鳳年中(672〜685)に、豊前国宇佐八幡宮から勧請された、三河国神明帳に、
八幡三所大明神とある神社である。 」
ゆるいカーブをしばらく進むと、三叉路の佃交差点にでる。 姫街道は、まっすぐ進む上り坂である。 なお、
左側の細い道を入ると、白鳥の集落で、右側の森の中に、県社総社の石柱と常夜燈、鳥居が建っていて、その奥に
社殿(中右)がある。
「 総社(そうじゃ)は、国司が、赴任地のすべての神社に参拝するのはたいへんなので、
国府の近くに国内の神社を一つにまとめた神社を造ったもの。 三河国府の跡は、はっきりしない部分もあるよう
であるが、この総社神社の右側一帯にあったというのが定説である。 」
姫街道(県道)を上って行くと、右側にある三河新四国法巌寺の案内看板の先、右手に小山があり、その下に締め縄
がかかった上宿神社の鳥居(右)が見えた。
このこんもり茂った小山は、三河で最大といわれる船山古墳で、九十三メートル、高さ七メートル六十センチの前方
後円墳である。
その先は上宿交差点で、県道5号線はこの先で名鉄名古屋本線を跨ぐ自動車専用陸橋となっていた。 交差点を
横断して進むと、右側の小高いところ(左下)に、西明寺の文字が見えた。 ここは西明寺の参道入口で、寺はここ
から数百メートルのところにあるようである。
「 西明寺は、三河国守、大江定基が愛妾力寿姫を失い、世の無常を感じて仏門に入り、比叡山で源信僧都の教
を受けた後、大宝山の山麓に草庵を結び、六光寺としたのが始まりといわれる。 その
後、北條時頼が最明寺と改め、徳川家康が永禄七年(1564)の今川氏との八幡砦の戦いの際、空腹の家康が本寺で
受けた恩顧を深く感じ、西明寺と改名した、と伝えられる。 」
入った所には西明寺の石碑や薫酒禁止を指す文字を記した石柱があり、屋根の付いた柱の中に松尾芭蕉の句碑(右下)
があった。
この句碑には、
「 かげろふの 我が肩に立つ 紙子哉 ばせを翁 」 と刻まれ、側面には
「 従是凡六丁西名所二見別 」 と刻まれている。 句碑は、国府の俳人、光林下が寛保
三年(1743)十月、芭蕉の第五十回忌に際し建てたものである。 なお、二見別とは、姫街道の終点、東海道
との追分のことである。
街道に戻り直進すると、姫街道は名鉄の線路に突き当たり、なくなっている。 駐車場の柵の切れるところで左折
して、県道の陸橋を潜ると名鉄名古屋本線を横断する陸橋(左下)があるので、階段を登っていく。
雨がぱらぱら降りだしたので、あわてて陸橋を下り、道を右手にとり、その先で左折して国道1号線に出た。
姫街道は追分交差点の左側の小路なのだが、国道に横断歩道はないので、右折して追分交差点に出て、
国道を渡り左折して、この道に入る。 スパーヤマナカがあるので、車で混んでいたが、そのまま進み、広い車道
に出た。 追分交差点を直進してきた道であるが、左折してこの道を進むと行力交差点(中央)に出た。 すると、
突然、どしゃ降りになり、雷が鳴り出した。 折りたたみ傘で顔を覆い、交差点を越えて、必死に直進
すると、すぐ先の信号のない交差点が、東海道と姫街道の御油追分だった。 これまで時間をかけて歩いてきたのに
、夕立のせいで心の余裕もないままあっけないフイナーレだった。
交差点の右角には、東海道の旅の時にも見た常夜燈、秋葉山三尺坊大権現道の碑などが建っていた。
「 常夜燈(右)は御油宿の人達が建てた秋葉山永代常夜燈である。 秋葉三尺坊は、剣難、火難、水難に効くという信仰で、江戸
中期に大流行し、 一に大神宮、二に秋葉、三に春日大社と言われ、各地で勧請した秋葉神社や常夜燈が造られた。
」
東海道の見附宿追分から始まった姫街道の旅は、ここ御油宿追分で終った。 最後は雷と豪雨に脅かされたが、
街道の途中は思った以上に変化があり、楽しかったというのが旅を終えての感想である。