『 東海道を歩く  ー 守口宿  』


淀川は、洪水により枚方宿から下流の地区に大きな被害を与えたようである。  古くは、日本書紀の仁徳天皇の項に、淀川に堤を築いたが、どうしても決壊してしまう個所があり、 その対策のため、人柱を立てたという記述があり、絶間という地名が残っている。  守口宿は、東海道五十七次の最後(最初)の宿場である。  そこには今でも豊臣秀吉が築いた文禄堤が約一キロにわたって残っていた。 




枚方宿から守口宿

白い蔵 平成二十二年二月二十四日、名古屋始発の新幹線で来たので、枚方公園駅に着いたのは七時五十分過ぎ。  東海道の旅は今日で終える計画である。 前回終了の西見附へ行き、そこから出発。  西見附の案内板のある交差点を左折し、南東に向かい、次の三叉路で右折すると、右側に白い蔵があり、竹長商店とあった (右写真)
その先に見える高い煙突は桜湯の煙突である。 通勤時間とあって、駅に向かう人達と多く
三叉路 すれ違った。  枚方宿から守口宿は約三里(12km)の距離であるが、江戸時代の東海道(京街道)は、明治十八年の大洪水で流されてしまって現存しないといわれる。  少し先に三叉路があり、その角には桜町と書かれた標石が建っている (右写真)
桜町は明治時代に入り遊郭ができたが、その時期は洪水後のことだろう。  この先、三叉路の狭い直進の道に入り、三叉路で左折して、枚方大橋南詰交差点へでるルートがある
水面廻廊 が、元遊郭に興味があったので、右折して進む。 古い家は少し残っていたが、遊郭風という感じはなかった。  そのまま、進むと頭の上に枚方大橋が架かるところに出て、小さな橋が架かる下には用水を利用した公園見えた (右写真)
橋の手前に戻り、下におりていくと、水面廻廊という看板がある。  温かい季節になれば、子供も水に入り遊ぶのかなあと思ったが、冬の現在はやや寂しい感じがする。  犬を連
三十石舟 れた御婦人とすれ違ったが、朝の散歩なのだろう。 淀川を往来していた三十石舟を復元したと思えるモニュメントもあり、 水と歴史のふれあい広場とも銘打っていた (右写真)
枚方大橋の下をくぐると、前方の右側には高層マンションが林立している。  この公園はここまでのようなので、左折して行くと枚方大橋南詰交差点へ出た。 なお、前述した道は交差点の左側に出てくる。  また、枚方大橋南詰交差点の左右の道は環状線になっているので、交通量が多い。  この交差点は右折して、狭い道に入る。 その先の左側にはいわた
商店が並ぶ 歯科医院があり、道なりに進むと左にカーブして、沢山の店の看板が入口にある棟割り長屋風に商店がが並んで建っていた (右写真)
読売新聞販売所を過ぎると広い通りに出たが、道は対面に続いている。 信号交差点は左手にあるが、 車の通行を確認しながら道を横断して対面の小道に入る。  道は右に左にとカーブし三叉路に出たので、右折すると廃校になった枚方西高に突き当たった。  その隣
段蔵 は伊加賀小学校である。  伊加賀地区はかっての伊加賀村で、古代史に登場する物部氏の基礎を築いた伊香色謎(いかがしこめ)の生まれたところとされ、 地名もそこから生まれたようである。  小学校の先の交差点の正面に道が二つあるが、ブリキの壁の小屋の右側にある細い道に入る。 このあたりは出口二丁目で、細い道を進むと左側に白い漆喰壁と板囲い壁で構成された蔵が、石垣の上に乗っている (右写真)
これは段蔵と呼ばれるもので、度々起こる淀川の洪水の対策のため、家具などを避難させ
光善寺山門 るために、二段、三段の高さを連立させた蔵、あるいは高く積んだ石垣の上に築かれた蔵である。  こうした段蔵は洪水になやんだこの地方では多くみられる。  道を右に入ると光善寺の山門があるが、光善寺は浄土真宗本願寺八世の蓮如上人より開かれた (右写真)
蓮如は室町時代の僧で越前国吉崎に滞在していたが、富樫氏家の内紛をきっかけに、吉崎を退去し、 文明七年(1475)、河内国茨田郡出口村に移った。 淀川河畔の葦原を埋め
親鸞筆とある石碑 立てて造った草庵がこの寺の前身といわれる。  ここを拠点として近畿一円に教化活動を展開したが、山科本願寺再建のため、二年半で山科野村に移住している。  なお、光善寺初代住職は長男の順如である (右写真-光善寺本堂)
光善寺の前の道を南下すると、狭い道の両脇に昔ながらの建物の並ぶ。 しかも段蔵付きである。  このあたりは出口三丁目で、百数十メートル歩き、用水に架かる小さな橋を渡る
腰掛石 と、左へ行く変形の三叉路がある。 三叉路の正面には板張の段蔵があり、その左側は木が繁っていた。  その中に入っていくと、大きな石碑があり、それには、「 親鸞聖人 蓮如上人 御田地 」 と刻まれていた。  玉垣の中には、 「 文明七乙未歳八月下旬 蓮如上人御遺跡 」 と書かれた石碑があり、隣に丸くうすく平らな小さな石がある (右写真)
これは蓮如上人が腰をかけて説法したといわれる腰掛石で、光善寺のお堂が建てられる
までは、蓮如上人はこの石に腰掛けて、村人達に説法していたといわれるものである。 
さだ神社鳥居 道を南下すると、このあたりも段蔵の古い家が残っていた。  三叉路の先の左側に幼稚園があり、郷社蹉陀(さだ)神社御旅所と書かれた石柱と鳥居が建っていた (右写真)
鳥居の先、右側にある案内板には、  「 蹉陀神社御旅所(境内)ー この地は蹉陀天満宮の御神輿が例大祭にお渡りになる御旅所と呼ばれるところで、本宮を遥拝する神域である。 」  とあったが、蹉陀(陀(だ)は正式には足へん)神社は、ここから南東へ約一キロにある旧中振村の蹉陀天満宮のことである。  蹉だは菅原道真が左遷されたとき、後を追って
遥拝所 きた娘の苅屋姫が悲しみ足摺(蹉だ)したことに由来する。 
奥には常夜燈、その先に狛犬が鎮座し、遥拝所と書かれた石柱が建っていた (右写真)
道を進むと、左側の家と家との間に、鳥が群がっている大きな木がある。  樹齢七百年以上の柿の木で、その下を見ると根元に石碑があり、 「 柿の木が家の傍らに自生していたので 人々は姓を呼ばないで、柿木氏と呼んだ。 」  というようなことが、漢文で書かれていた。 そこを過ぎた交差点あたりが出口三丁目と五丁目の境のようである。  交差点を
松ヶ鼻の地蔵尊 越えると、道はゆるやかに右に左にカーブするが、CITYARK枚方というマンションの先の水路に架かる橋を渡って進むと、淀川の土手に突き当たる。  土手の下にある道を左に進むと、その先に三叉路があり、その角に小さな祠が建っている。  中には四体の石仏が祀られているが、これは松ヶ鼻の地蔵尊と呼ばれているものである (右写真)
東海道(京街道)は、西見附からは前述したように、明治の大洪水で流されて現存しないが、
堤防道 ここへ出てきたようで、ここで江戸時代の旧道(文禄堤)に戻ったことになる。  祠の前の道を進み、堤防の法面下を四百メートルほど上ると、淀川の堤防の上の道に出た (右写真)
堤防道は、車の出入を規制しているので、自転車と人のみで安心して歩くことができる。  堤防の右手は河川敷を利用した淀川河川公園になっていて、その向うには雄大な淀川の流れが見られた。  また、堤防道はウォーキングを楽しむ人が多く、小生の前を通り過ぎていく。  河川敷の公園ではスポーツを楽しむ人達の姿が見られた。 
太間排水機場 四百メートル程歩くと蹉陀ポンプ場の放流渠があり、寝屋川市へ入った。  更に、四百メートル位歩くと、道の左下に大阪府の枚方土木事務所太間排水機場の建物と排水池が見えた。  少し歩くと、右側に、よどがわ 大阪湾まで約21.9kmと書かれた表示板があり、道の左側の一段下がったところに、大きな茨田(まんだ)堤碑が建っていた (右写真)
茨田堤を説明する碑には、「 日本書紀に茨田堤の築造は、仁徳天皇十一年とあり、これは河川堤として本邦最初のものである。  築造は難工事で強頸絶間(こわくびたいま)、衫子
太間天満宮 絶間(ころもこたいま)の伝説がよくこれを語っている。  当時、淀川は水量が多く、平流れに広い土地と河道としていたが、 これを二流に分け、その間に農地を確保したのが茨田堤で、一つは現在と変わらず、西南流し、一は南流して、生駒山の西辺で大和川に合流していた。  その分岐点がこの碑が建つあたりと考えられる。  また、土佐日記でいう 「 わだの泊まりの分れの所 」 もこの地点としてよいだろう。   」 とあった。 このあたりは寝屋川市太間町(たいまちょう)という地名だが、絶間が太間に変わったのだろうか? 
太間天満宮 そこから二百メートル余り歩くと、堤防の左下に段蔵がある大きな屋敷が見える。  少し先に石段があるので下りていくと、西正寺があり、その先に太間天満宮があった (右写真)
日本書紀の茨田堤の故事により、衫子の断間である当地に昔から小社を建てて祀っていた、という神社で、創建年代は不詳だが、 祭神は菅原道真と茨田連衫子である。  最初は、三井の若山に壮麗な天満宮が造営されたが、慶長三年(1598)に焼失、再建に当たって
主導権争いが起こり、太間村では天満宮を分社して、衫子社に合祀した。 その後も紆余曲折
段蔵のある屋敷 を繰り返し、昭和四十二年に現在の形になったようである。  その先の小さな川には絶間橋という名の橋が架かっていた。  道に戻る途中にある段蔵のある屋敷は道からかなり高いところにあり、自然への備えは今も続くのだなあ、と思った (右写真)
なお、日本書紀の故事とは、 「 仁徳天皇は人柱を建てると決壊が収まるという夢を見た。  その命により選ばれたのが武蔵国の強頸と河内国の茨田連衫子である。  強頸はそのまま入水し、堤の犠牲となったが、衫子は、本当の神なら、ヒサゴを沈めてうかばないように
茨田樋之跡の石碑 せよ。 沈まなければ偽りの神と思うぞ!!といって、ヒサゴを水に投げ入れたら、沈まなかったので、その身は助かった。 」 という話である。  二百メートル先の淀川新橋は橋の下をくぐって進むと、堤防の下、左手にマンションがある。  堤道の石段を降りていくと用水のようなものがあり、茨田樋之跡の石碑があった (右写真)
茨田樋遺蹟水辺公園と表示された案内板には、 「  茨田樋は、昔、淀川から農業用水、生活用水を引き込んでいた用水の樋門で、淀川左岸の枚方から毛馬まで八ヶ所あった。 
鳥飼仁和寺大橋 台風などの大水時に堤防が決壊するおそれがあるとして、すべてが廃止され、その跡が残っているのはここだけである。 」 とあった。 
その先には両手を広げたような鳥飼仁和寺大橋があり、橋の先から仁和寺という地名になるが、京都の仁和寺領があったことに由来する (右写真)
堤防道の右下の河川敷では、大人達がパターゴルフに熱中していた。 十八ホールあるのか、コースは長かった。  八百メートル程歩くと、左手に続いていた団地が途切れるところで、
渡し場の跡 堤の下の道路の先に鳥居を見えた。 佐太天神宮の鳥居である。  階段を降りると立ち並ぶ民家の先に用水があるが、用水路の手前の右側に、淀川筋佐太渡船場の石碑が建っていた。  ここは河内国佐太と摂津国鳥飼を結ぶ渡し場の跡である (右写真)
用水路に架かる橋を渡ると、国道1号の佐太中町7の交差点である。  交差点を渡ったところにある佐太天神宮の鳥居の右側には、万延元年(1860)建立の道標があり、もり口一里
佐太天神宮 などと書かれていた。  長い参道を歩くと両脇には常夜燈が続いて建っていた。 
佐太天神宮は、菅原道真が太宰府へ左遷された時、暫くの間滞在し、自身の木像を残したといわれ、 死後の五十年後、菅原公を祀って創建されたのがこの神社とされる。  天神様には梅がつきものであるが、この神社もご多聞にもれず、梅の木が多く、また、梅のシーズンとあって、梅の香がほのかにした (右写真ー佐太天神宮本殿)
神社の右側の門を出ると、参道があり、右側の塀に石清水八幡宮本地天筆如来の石柱
来迎寺勅使門 があり、その先に来迎寺がある。  菊の御紋がついた勅使門があるのは創建当時、後村上天皇の勅願所だったことと関係があるのだろう (右写真)
境内の石造案内板によると、 「 来迎寺は、実尊誠阿上人が正平二年(1347)に現在の守口市来迎町 (河内国茨田郡下仁和寺庄守口村)に来迎堂を建立したのが始まり。  その後、二十六回もの移転を繰り返し、延宝六年(1678)よりこの地に定着した。  現在は浄土宗であるが、かっては摂河和城四ヶ国に末寺六十余寺を擁する大念仏宗佐太派の本山
来迎寺本堂 だった。 」 とある。  寺の本尊は天筆如来(阿弥陀三尊来迎図)だが、これは石清水八幡宮を創建した僧、行教が貞観元年(859)に感得したとされる阿弥陀三尊の絵像で、 それを表示したのが前述の石清水八幡宮本地天筆如来の石柱である。  
本堂の前の松の枝ぶりは見事の一言につきると思った (右写真)
本堂の裏の庭園には嘉元二年(1304)の建立の石造十三重塔が建っていた。  山門を出て、右折していくと右側に市立老人福祉センターがあるが、その手前、来迎寺の鐘楼の裏
佐太陣屋跡 側にあたるところに小さな竹林があり、その中に佐太陣屋跡の案内板があるが、気をつけないと分からない。  佐太陣屋跡の案内板には、次のようにあった  (右写真)
「 この佐太地区は京都、大阪間の交通、軍事の要地であったことから、美濃加納藩(32000石)の永井氏が貞享年間(1684〜1688)に渚(現枚方市御殿山)から この地に陣屋を移し、摂津、河内の一万二千石を領有支配し、約五千uの敷地に屋敷、蔵、牢屋などを次々に整備していきました。  この陣屋は加納藩の大阪における蔵屋敷の役目を果たし、年貢米の納入はもちろん加納藩の特産物である提灯、傘等もここにいったん集積し、 大阪の商人に売りさばき、金融、物資の調達など、加納藩の台所の役割を担っていきました。 」 
八坂瓊神社 この後、淀川筋佐太渡船場の石碑の前を通って街道に戻った。  このあたりは佐太西町で、既に守口市に入っている。  二キロ弱歩いたところに鳥飼大橋があるが、橋の下はくぐれないので、左下にある道を通り、堤防道を四百メートル程歩くと三叉路で、 堤防道は直進するが、京街道は左斜めの坂道を下っていくが、左下にあるのは八坂瓊神社 (右写真)
このあたりは大庭二丁目で、坂道を降りると右に入る道に入ると右側に守口市浄水場の入口がある。  その前を通過すると、道は左にカーブする。 その先の交差点を通過し、八雲
正迎寺 北公園の中ほどの三叉路を右折して進むと、突き当たりに正迎寺(しょうごうじ)がある。 
正迎寺は、観応元年(1350)、南朝方の同基善正が存覚上人に帰依した建立された寺だが、元和元年(1615)の大阪夏の陣の兵火によって焼失してしまった。  その後、再建された寺院は、元禄十五年(1702)に正迎寺として認められたという寺である (右写真)
正迎寺で左折する交差点があり、右側に八雲北町3丁目自治会館がある。  その前には、 左旧守口方面 右旧大庭方面 京街道 と書かれた道標があり、京街道を歩いていること
道標 が確認できた。 その先の交差点の先には阪神高速12号守口線の高架があり、高架の下には、八雲樋遺蹟  京街道 、旧南十番村 八雲公園 時空の道 と書かれた石柱が建っていた (右写真)
細い道に入っていくと、左側に八雲小学校と八雲公園がある。  交差点を二つ横断すると、その先は三叉路で左から来る京阪北本通と合流した。  右折してこの道に入ると、左側に守口東高校がある。 当日は高校の卒業式だったようで、小さな花束を持った生徒が校門前で群がっていた。  学校のはずれの右側に高垣商店があり、その角を右斜めに
京街道のレリーフ 入る。 この道は左に半円を描くようにカーブしているので、道なりに二百メートル程歩くと、また、京阪北本通に出た。  信号交差点を斜めに横断し、少し進むと左側のマンションの前の繁みに、京街道 一里塚 大名行列 と書かれたレリーフがあったが、 大名行列と一里塚の碑が描かれていたので、これは京街道を表しているのだと思った (右写真)
その先は右カーブする変則四差路で、右側には山本金属守口工場がある。 
守口一里塚跡 少し進むと、右側の家と家の間に細長い土地があり、その奥に守口一里塚の案内板の守口一里塚跡の石碑が建っていた (右写真)
ここは守口宿の出入口にあたるところだったようで、江戸時代、大名が宿泊や通過する時には、 宿場の宿場役人や庄屋などの村役人が、麻上下などを着てこの一里塚で送迎したとあるので、ここが守口宿の東見附だったのだろう。  十二時五十三分、守口宿の入口まで到達した。  

守口宿

浜町交差点 守口宿は江戸から五十七番目の宿場で、秀吉が造った文禄堤に沿って、南北は約十町(1km)、東西は約一町(110m)の範囲である。  一里塚跡を過ぎると、国道1号線と交差する浜町(はままち)交差点に出るので、交差点を斜めに横断し、対面の道に入る (右写真)
宿場ができたのは大坂夏の陣の翌年、元和二年(1616)のことなので、東海道の他の宿場に比べると、十年以上遅い。  また、大坂から二里という近さのため、宿泊者が少なく、
瓶橋旧親柱 時代が経過すると淀川舟運が発展し、歩行者の交通量が少なくなっていった。  しかし一方では、米、菜種、綿花などの農産物の集散地として重要な機能をはたし、商業活動は活発だったといわれる。  最初の交差点はかっては橋が架かっていたようで、左側の家の一角に瓶橋旧親柱、交差点を渡った先には かめはしの旧親柱があった (右写真)
また、交差点右側の民家の壁には、 京街道 陸路官道第一の驛 守口 と書かれた表示板が張られていた。  浜町1丁目の通りには古い家がほとんどなく、最近になって建築された
盛泉寺 と思える二世代住宅と貸マンションを兼ねた住宅が多い。 
その先の左側には、東本願寺の末寺の盛泉寺(じょうせんじ)がある (右写真)
案内板には、「 本尊は阿弥陀如来で、慶長十一年(1606)教如上人の創建、 同十六年東本願寺別院となり、元和元年火災で焼失、今の堂宇は天保十一年の建立で在る 」 とある。  また、 「 慶応四年三月二十二日、明治天皇大阪行幸されたおり、当坊本堂前に賢所を奉安された由緒がある」 とも書かれていた。  この時の行幸は幻の大阪遷都とも
難宗寺 いわれるもので、三種の神器の一、天照大神御霊代の八咫の鏡を持参したといわれる。 
寺院を過ぎると左右は広い竜田通りに出るが、交差点を越えた左側は難宗寺(なんしゅうじ)である。  難宗寺は、蓮如上人が開創したと伝えられる寺である (右写真)
この地は実尊上人が創建された来迎寺の跡地で、来迎衆と呼ばれた人達により小さな御堂が護持されていた。  文明七年、出口の光善寺を本拠として、河内、大和、和泉、摂津の布教に明け暮れていた蓮如上人は、 堺への途中、守口に立ち寄られて、この御堂で教えを
四つの碑 説かれ、文明九年、その教えに感動した来迎衆は全員揃って真宗に帰依した、と いわれる。 今も難宗寺の西側に来迎町の地名が残っている。 
交差点の左角、難宗寺の塀の一角に四つ石碑が建っている (右写真)
左から順に「左京 すぐ京」、「すぐ守口街道」と刻まれた二つの小さな道標と、その隣には「御假宿所」、 「御行在所」の二つの大きな石碑がある。 「御仮泊所」とあるのは、大正天皇が皇太子時代に、明治 天皇が泊まられた行在所に宿泊されたことを指す。 
難宗寺山門 「御行在所」は、前述した大阪行幸の際、当寺の行在所に宿泊されたことを指す。 難宗寺山門の 左側には明治天皇行在所の大きな石柱があり、その左には高さ約二十五メートル、樹齢四百年の大イチョ ウがあり、大坂府指定天然記念物になっている。 江戸時代に入り、本願寺が分裂した結果、この地の本願寺 門徒は東本願寺と西本願寺の二つに分断されたが、お寺も難宗寺は浄土真宗本願寺派、盛泉寺は真宗大谷派 となり、それぞれ西御坊と東御坊と呼ばれるようになった。 お寺を出ると、竜田通りを西に向かう。  この通り
守口宿本陣跡 は江戸時代から広かったようで、当時定められていた二間半(約4.6m)より大巾に広い十五メートルもあったのは この場所が枚方や大坂への人馬継立てや荷物の受け渡しをする場所(問屋場)だったため、という。  道の左側に南大門という焼肉屋があるが、その手前の駐輪場と書かれている ところが吉田八郎兵衛が務めた守口宿本陣跡である (右写真)
なお、守口宿には本陣が一軒、問屋が二軒、問屋場が一軒のみで、脇本陣はなかった。 
白井家 国道1号線と合流する八島交差点の右側手前に白い蔵を持つ古い家がある。 
この家は白井家で、祖先の白井孝右衛門は、大塩平八郎の乱で有名な大塩 平八郎を信奉し、経済的援助もした協力者である (右写真)
大塩平八郎は、白井家の書院で近郷の郷士や農民に出張教授をしていたという。  白井家のある交差点のあたりに、江戸時代、高札場があったらしい。 八島交差点は五差路だが、交差点 では国道1号線には入らないで、すぐ左側の斜めの道に入る。 ゆるい坂道を
案内板 登るとすぐ右側にあるのは川東提灯店である。 うだつがあがった蔵造りの家で、屋根には鐘馗様が祀られ ていた。  道の左側には、京街道と文禄堤の案内板があった (右写真)
文禄堤は、豊臣秀吉が文禄五年(1596)、毛利輝元、小早川隆景、 吉川広家などの毛利一族に命じて淀川左岸に堤を築かせたもので、京街道のうち二十七キロにも及ぶが、 八島交差点からこの先の義天寺までの約一キロの間だけ残っている。 京街道案内板には東海道
道標 の五十七番目の宿場である守口宿が栄えたことや京都からは大坂街道と呼ばれたことなどが書かれていた。  この通りには、宿場跡の情緒がする連子格子、虫籠窓、うだつのある家が残っている。  少し歩くと、左に下りる石段があり、下り口に奈良街道との追分と示す 「 右なら  のざきみち 」 と刻まれた小さな道標がある (右写真)
この細い石段の道は来迎坂と呼ばれ、この道は難宗寺の南側を経て、旧奈良街道(後の守口街道)に通じ、 宿場が出来る以前からある守口では一番古い街道である。 先程、難宗寺の塀の一角にあった道標に 「 すく守口街道 」 とあったが、そこに通じているのである。 
文禄堤碑 石段を下りて、上を見上げると、石段が急勾配なのには驚いた。 道の両側は静かで落ち着いた雰囲気はあるが、飲食店 もあり、京阪守口市駅から近いので、変貌しつつあるように思えた。 その先の本町橋を渡ると橋の たもとに文禄堤の石碑が建っていた (右写真)
左手に守口市駅を眺めながら進む。  この文禄堤の京街道は、道幅は一車線余と狭く、車は一方通行に なっているが、古い建物も残り、宿場町だった情緒が残る道だった。 
陸橋の守居橋を渡り、ゆるい坂道を進むと、右側の建物の外壁に義天寺とある寺は、 
題目石 明治二十三年、開祖の日扇上人が京都から淀川を下って大阪へ向かう途中、守口の茶店丁子屋 で休息したがここで亡くなり、その由縁で建立されたという。 山門の左側にある大きな南無妙法蓮華経 の題目碑は、豊臣氏の残党を処刑した大坂野江の刑場(仕置場)にあったのを、明治時代に移したもの である (右写真)
文禄堤が残る道は、真直ぐ進むと下り坂になり、その先の三叉路で終わっていた。 東海道(京街道) は三叉路をそのまま進み、日吉公園の西南の角に出て、国道1号線の京阪本通
道標 東交差点へ出るのが本来だが、今は道が残っていない。 三叉路手前、左側のコンクリート塀には、 「 京街道 陸路官道第一の驛 守口 」 の表示があった (右写真)
文久元年(1861)に発行の名所絵図、淀川両岸一覧には、 「  守口驛は浪華より京師に 上がる陸路の官道第一の驛なり。 高麗橋より此地に至る行程二里。 片町、野田町、野江、内代、 関目、森小路、土居、これを本街道とも言い、東街道(ひがし街道)とも言ふ・・・ 」 とある ことを指すのか? この突き当たり辺にあったと思われる大阪口の見付跡は確認できなかったが、ここで 守口宿は終わる。 


平成22年(2010)   2月


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かうんたぁ。