東海道五十七次の終点(起点)は大阪の高麗橋である。
その途中にある、天正八年に設けられた関目の七曲がりは、豊臣秀吉が大阪城築城の際、防衛の一策として関目より古市、森小路の間、十余町の通路を屈折させたものである。
淀川は明治の終りに大工事が行われて、北方へ流れが変えられた。
現在、大川と呼ばれているのが、江戸時代の淀川で、中島(なかのしま)の手前にある八軒家は、京都と大阪を行き来した三十石船の大阪側の船着場だったところである。
東海道五十七次は八軒家から少し歩いたところに流れる東横堀川に架かかる高麗橋がゴールである。
平成二十二年二月二十四日十四時十分、守口宿から東海道五十七次の終着点、大阪の高麗橋を目指す。
見附跡の三叉路を右折して進むと交差点があるので、左折して進むと、交差点の右側に日吉公園があるので、交差点を右折して公園前を進む (右写真)
江戸時代の東海道は三叉路を直進した後、右斜めに緩やかなカーブを描きながら、現在の日吉公園の南の角をかすめるように進み、右に曲がって国道1号付近に合流していた。
公園ではプールを壊し、公園を拡張する工事が行われていた。 公園の前を通り過ぎると交差点があり、その先の右側にあるのは廃校になった土居小学校である。
交差点で左折し南に下り、 二つ目の交差点を右折すると、その先で守口車庫前交差点に出た。
左折して、国道を百メートル歩くと、左側に旭通商店街がある (右写真)
このあたりが先程別れた江戸時代の東海道が合流していた地点である。
商店街のアーケードに入り、東に二百メートル程歩くと、左側に守居神社がある (右写真)
守居神社の略記には 「 守居神社は、延喜十八年(918)の大洪水で周辺が湖のようになったとき、素盞嗚尊(スサノオノミコト)のお告げによって、土居を築いて治水祈願をしたのに始まる。
天文十三年(1544)の洪水で再び流されたので、それまで京都の方向の東北を向いていたのを南西の向きにした。
延喜十八年の洪水の時、ちさ(食用のちしゃの葉)の船に
乗り、ねぶか(ねぎ)の櫂で漕いで、淀川を渡ってこられた神様に、雨がやむように祈願したところ、たちまち晴れた。
それ以来、村人はちしゃとねぎは一切食べないようになり、それは明治末頃まで守られていた。 」 と、あった。
商店街は庶民的な商店が多かったので、店を覗きながら商店街の入口まで戻った (右写真)
街道に戻ると、その先は国道1号線と494号線とが交差する京阪本通1交差点で、交差点
を横断して国道を進むと、次の信号交差点には地下鉄太子橋今市駅の入口があった。
交差点を横断するとその先で、守口市から大坂市旭区に変わる。
今市交差点の左手は今市商店街の看板がかかっていたが、交差点を横切って進むと、横断歩道橋があり、
その先に、昭和六十年に大阪市が建てた京かいどうの石碑が建っていた (右写真)
今市バス停の先に左に入る狭い道があり、東海道はここで国道を別れ、この道に入っていく。
カラー舗装の道は左にカーブし、左側に政近歯科がある。 京かいどうのロゴが入った
プレートが道に埋め込まれていて、東海道(京街道)を歩いていることが確認できた。
その先の左側には地蔵尊を祀る祠があった。
福島病院の手前から千林(せんばやし)になるが、左に入る三叉路の壁面に千林商店街と書かれた絵看板があった (右写真)
その左側に京街道の地図と説明文があり、 「 千林商店街の道筋は野崎街道(野崎観音に通じる陸路)と呼ばれ、昔から交通の要所としてにぎわった。 」 と記されていた。
野崎
観音とは、大東市、慈眼寺の天平勝宝年間(747-757)に行基が彫ったと伝えられる十一面観音のこと。
直進すると、森小路2丁目で、 森小路 京かい道商店街 と書かれたアーケードが続く商店街に入る。
うなぎ大扇の角には京かいどうの石柱が建っていた (右写真)
右にわずかにカーブする交差点にでると、右手には大宮1交差点が見え、左折すると京阪森小路駅へ行ける。
東海道は直進で、森小路1丁目に入る。
左側の小公園の脇には、先程と同じタイプの京かいどうの石碑が建ち、公園のはずれには大扇前と同じ、京かいどうの石柱(道標)があった。
阪神高速12号守口線の高架下までくると川に橋が架かり、橋の中央部分の左側に、右大阪、左京とある道標も兼ねた古市橋の案内板があった (右写真)
また、 文禄年間に造られた京街道の跡に架けられていること。
橋が架けられたのは比較的新しく、昭和十年から十五年にかけて開削された城北運河からで、その上に架けられた今の橋は昭和十二年十一月という説明があった。
橋の上から左手を見ると運河が延々と続いていた。 橋を渡ると高殿7丁目。 道をまっすぐ進むと、左側の田中電工の構内には
小さな社が祀られていた。 その隣は本門仏立宗清現寺の交差点を右折すると、高殿7交差点に出た。
左折して城北筋を歩くと、関目5交叉点に出たが、国道1号線と府道163号線が合流する五差路の交差点である。
なお、関目(せきめ)という名は、平安時代にこの地が榎並荘だった頃、見張所(目で見る関所)が設けられたことからつけられたといわれる (右写真)
東海道(京街道)はこの付近で複雑に曲がりくねっていた。 これを関目の七曲りといった。
手元の行くべきと思う地図を書いたメモを持参したが、交差点で東海道を聞くと皆知らない
という。 京街道は?というとほとんどの人が頷いたが、七曲りの道の詳細を知っている人はいなかった。
交差点で国道を横断すると地下鉄の関目高殿駅入口がある。 メモを見ると、ファミリーマートとある。
ファミリーマートはどこかとキョロキョロすると対面にビルの下にあるので、都島通りを横断した。
とりあえず第一ポイントはOK (右写真)
関目5交差点から東側は、旭区から城東区に入る。 国道1号に沿って東へ百五十メー
トル行くと、関目5南交差点があるので、 交差点を右折し細い道に入ると、交差点の左側に深草温泉があった。
このあたりは成育五丁目で、道なりに進むと、右、そして、左にカーブし、三差路に出たので、右折すると右側に関目神社があった (右写真)
案内板には、「 須佐之男尊神社 通称 関目神社 ー
天正八年、豊臣秀吉が大阪城築城の際、防衛の一策として関目より古市、森小路の間、十余町の通路を特に屈折させて、敵兵の進軍を俯瞰し、
その軍容兵数を察知するのに便利なようにした。
これと同時に
北の護りとして武神の須佐之男尊を祀り、崇敬すると共に浪速の鬼門に当たるので、鬼門鎮護の神として、毘沙門天王を勧請して小祠を建立したことに始まる。 」 とある。
境内には、関目発祥之地碑もあった (右写真)
神社を出ると都島通りに出た。 都島通りを右折して二百メートル進むとエネオスのガソリンスタンドがある。
東海道(京街道)はここで途切れているが、都島通りを横断して反対側へ
行き、都島通りを左側へ行くとすぐ右に入る狭い道があり、右側に自転車の駐輪場、その先のビル下にはモードツチヤの看板が見えた (右写真)
この道に入るとすぐ、左側に京街道と書かれた石標が建っていた。
この石標はこの先もしばしば現れる。
このあたりは高殿4丁目で、道は左にカーブし、その後も少しくねくねして進む。
途中からカラー舗装の道になったが、左側に京街道の石標があった。 右側に
ゴルフ練習場がある。 左にラーメン五右衛門があるところで、また、都島通りに合流。
都島通りを右折して百メートル歩くと、歩道にアーケードのあるアサヒ国道筋商店街に出る。
入口付近は飲食店が多いが、その先は、魚や豆や総菜などの店があった (右写真)
城北貨物線の高架をくぐると、アーケードのデザインが変わり、野江国道筋商店街になる。
商店街が終わったところで、右に入る狭い道がある。 道の入口に京街道の石標があるが、これまで左側にあったのと異なり、右側に建っていた。
一方通行の出口にあたることと
関係がありそうである。
狭い道を歩いていくと、城北筋の三叉路に出たが、ここにも京街道の石標があり、京橋口から2.1kmと書かれていた (右写真)
どうやらここで、高殿7丁目から始まった関目の七曲りが終了したようである。
途中で入口を探したりして時間をくったが、これで一安心である。
時刻は十六時二十分、当地の日没は一七時四十五分なので、一時間半もない。 左折して城北筋の道を進むと、左側に地下
鉄野江内代駅の入口があり、その先は野江4交叉点である。 交叉点の手前で、左から
都島通と合流する。 手許のメモには、 「 東海道(京街道)は交叉点を横断すると、右折して百メートル程進み、平耳鼻科から左折する。
」 とあるが、見当たらない。 細江3西交差点まで行き引き返したが、左側にある空地が病院の跡かも知れない。
細江3西交差点の手前に居酒屋もりちゃんという看板を掲げた店の手前にある狭い道に入る (右写真)
少しだけ歩くと、細江3西交差点からの道に合流し、広い道に変った。
二百五十メートル程歩くと、道は左にカーブし、前方の信号交差点にはファミリーマートがあるが、そこまで行くと行きすぎ。
左にカーブするところで、右手を見ると道路の右側に側道があるので、その道に入り、交差点を越えると、中三商店会の看板があった (右写真)
ここからは都島区である。 商店会といってもこれはという店もなかった。
古い家も残る道を歩いて行くと、老人ホームの青都荘の前に、榎並地蔵の小さな社が祀られていて、その左には、京街道 野江 高麗橋と書かれた地図とイラストのパネルがあった。
その先の左側の大内病院の先にある京かいどうと書かれた石標はこれまで見てきたものとタイプが違う。
大内病院から山本医院までの東手の地名は野江2丁目であるが、豊臣の残党や淀屋辰五郎、天野屋利平兵衛が処刑された野江刑場(仕置場)はどこにあったのだろうか? (右写真-山本医院)
このあたりは道が少しくねくねするが、山本医院を過ぎたあたりからお店が増えてきた。
その先の新しいアーケードのリブストリート(京橋中央商店街)に入ると、天井がガラス貼りなので、明るい感じでよい。
そこを過ぎると、ドーム型の広場に出たが、ここからはビギン京橋(新京橋商店街)である。
少し歩くと、天井がカラフルなビギンドームの下の広場にでたが、そこは三叉路になっていて、右側中央に京かいどうの石碑があった (右写真)
長い商店街を出ると国道1号線(京阪国道)と合流する交差点に出た。
京街道の石柱も途中にあったはずだが、自転車などに隠れているのか、見つからなかった。
交差点を横断すると右折して、JR大坂環状線のガードの下を通り、すぐに左折すると、正面に京阪京橋駅の京阪モールの建物が見えてくる (右写真)
右側の第一晃進ビルの前に、左京みち 右大和なら のさき と書かれた文政九年(1826)建立の道標がある。
東海道(京街道)はその先京阪電車の線路で途切れているが、その後は西側の片町交差点の手前の道に出る。
しかたがないので、京阪モールビルに沿って右に進み、京阪モールビルが終わった先の片町交番前交差点で左折し、京阪電車のガードを
くぐり、出たところの交差点を右折して狭い道に入るとのだ橋跡の碑がある。
その先の交差点を左折すると、三叉路の片町交差点に出る。
左右の道が土佐堀通で、先程別れた東海道はこの辺りで合流していたと思う。
交叉点を横断すると右折して、少し歩くと、左側の家と家との間から大坂城天守閣が姿を見せるようになる (右写真)
この天守閣は、高さが五十五メートルの鉄骨鉄筋コンクリート造で、昭和六年(1931)に再建
されたものだが、秀吉が造営した大阪城の天守閣と大阪夏の陣後に家康により再建された天守閣との複合したもののようである。
寝屋川東詰交差点を渡ると、その先の歩道橋の下に、京橋川魚市場跡碑が建っている (右写真)
「 大阪の魚市場といえば雑魚場市場が著名である。 しかし近世の魚市場は雑魚ひとつでなく、
木津や天満にも海魚を扱う市場がいとまれてた。 また海魚とは別に川魚を扱う市場が京橋にあった。
京橋川魚市場の起源は石山本願寺の時期に設けられた鮒市場とされ
る。 もともと、漁民が京橋の北詰に川魚を持ち寄って販売する市のようなものだったと考えられる。
・・・・ 」 と傍らの案内板にあった。 寝屋川東詰交差点まで戻り、京橋を渡る。
京橋は大川(旧淀川)に注ぐ寝屋川に架かる橋で、上流に高層ビル群が見えた (右写真)
秀吉が大阪城を造った時、城北側の寝屋川に架けた橋に、京都に通じる橋という意味から京橋と命名された。
秀吉が淀川左岸を改修して堤防上に築いた京街道は、大坂城の
京橋口が起点だったが、東海道五十七次が制定されると高麗橋東詰に替えられた。
橋を渡るとその先右側の細い道に入る。
右側はレンガ色の日本経済新聞社ビルの側壁で、道に出る手前、ビルの東北隅に、石垣の由来という案内板が建てられていた (右写真)
それによると、昭和五十年に社屋建設時に敷地内地下から発見された古い石垣遺構の一部で、
大部分は本社屋の東北隅に移築復原していることや元和六年(1620)の大坂城再興
のころ、城北の旧大和川の左岸に護岸用に築かれたものと推定されることが書かれていた。
道の左側に府立女性総合センタービル(ドーンセンタ)があり、その前に大坂城三の丸の石垣跡を復元したという案内板があった (右写真)
このビル建設の際、地下から取壊された石垣が発見された。
慶長十九年(1614)、家康が大坂冬の陣の講和条件として、大坂城の三の丸の石垣を壊させたが、それが発見されたもので、
ビルの北側の塀沿いに移築復元した、ということが書かれていた。
ビルの前の道は上町筋の通りである。
東海道は、上町筋を斜めに横断して、天満橋ビルと大坂歯科大学の間の道に入る。 横断歩道はないので、右折して京阪東口交差点に出た。
なお、右写真は移築復元された三の丸の石垣である。
京阪東口交差点で上町筋を横断すると左折して、ドーンセンタの対面に出た。
天満橋ビルと大坂歯科大学の間の道に入ると、五十メートル程で行き止まりになるので、右折して土佐堀通りに出る。
土佐
堀通は、東西に通る全長五キロ足らずの道である。
この後は土佐堀通を西に向かって歩く。
高架下の天満橋交差点を横断すると、右側のビルに京阪電車天満橋駅大きな表示があり、
道の反対に永田屋昆布本店があり、暖簾の下に、八軒家船着場跡と書かれた石碑が建っていたが、道を隔てた北側には土佐堀川が並行して流れている (右写真)
江戸時代には、八軒屋浜と呼ばれたところである。
平安時代に渡辺之津と呼ばれ、紀州熊野詣での船便の上陸地だったが、
秀吉が淀川に築いた文禄堤が造られると、京と大坂間を往復する淀川の舟便の三十石船が発着するようになり、賑わったようで、案内板には、
「 淀川を上下した三十石船の発着場で、八軒の船宿があったことから八軒家と呼ばれて
いる。
大江山の鬼退治で有名な渡辺綱はこの地を支配した摂津源氏一族の出身である。
また、楠正行がここにあった渡辺橋からなだれ落ちる敵兵を救いあげ、衣料を払って国へ帰してやったという美談もある。 」 とある。
北浜東2交差点の手前、左角の福助ビルの歩道に、熊野かいどうの石碑が建っている (右写真)
熊野街道の陸路は、ここを起点として熊野三山へ続いていたのである。 大川(旧淀川)は
中島を前に、北側が堂島川、南側が土佐堀川と名前がかわる。
土佐堀通を更に進むと、松屋町筋との交差点の右側に、土佐堀川と堂島川に架かる天神橋が見えた (右写真)
交差点をそのまま進むと、阪神高速環状線の高架の下で、道は二つに分かれ、右は土佐堀通で、直進するのが東海道(京街道)である。
東海道に入ると東横堀川に架かるのが今橋である。
橋を渡ると二つ目の交差点を左折して百メートル程進み、交差点を左折すると、その先に阪神高速環状線の高架が見えてきた。
高架の下にあるのは左右に常夜燈が付いた高麗橋で、この橋が東海道五十七次の起点(終点)になっていた。
東海道五十七次を知ったのは五十三次を終えて一年半経過した平成二十一年九月のこと。
計画より少し遅れたが、平成二十二年二月二十四日十七時四十五分、高麗橋の東詰に到着し、東海道完全踏破となった (右写真)
ここには、高麗橋案内碑と里程元標跡碑が建っている。 高麗橋案内碑には 「 東横堀川は大坂城築城のとき外堀として改修され、高麗橋はその頃にかけられた。 高麗橋は
幕府管理の十二公儀橋の中でも最も格式が高く、西詰には幕府のお触書を掲示する制札場があったほか、諸方への距離を測る起点にもなっていた。
明治三年(1870)、大坂最初の鉄橋として架け替えられ、さらに昭和四年(1929)に現在の鉄筋コンクリートアーチ橋にかえられた。
欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷を模した柱は昔をしのぶ姿となっている。 」 とあり、
大阪の歴史を象徴する代表的な橋といえよう (右写真)
また、里程元標跡の碑の裏側には、「 明治時代に高麗橋東詰に里程元標がおかて、西日
本のれ主要道路の距離計算はここを起点として行われた。 」 と記されていた (右写真)
この里程元標は、東京日本橋の里程元標と対をなすものだが、現在は梅田新道交差点に置かれている大阪市道路元標が七本の国道の起点となっている。
ベンチに座ってしばし感傷に浸っていると、
自転車に乗った青年が、自転車に乗ったまま、高麗橋案内碑を携帯電話で写していた。
彼の今朝の出発地はどこか分からないが、自転車なら大津からここまで一日で来ることができるかもと思った。
田辺聖子さんが書かれた姥ざかり花の旅笠
のもとになった「小田宅子の東路日記」の京都から大阪への移動には三十石舟が利用され
ていて、淀川の水車や淀城を詠んだ短歌や石清水八幡、こちらは山崎、などと指さしながら、舟は下る様子が描かれている。
枚方のくらわんか舟の記述もある。 下り舟は早く、半日で、長柄の橋を過ぎて、大阪城のついそば、八軒家の船着場についた、とある。
高麗橋には夜の帳が降りてきて、川面には明かりの波がきらめいていた (右写真)
自転車の青年はともかく、江戸時代の旅人も舟に乗れば半日の行程だったので、小生みた
いにてくてく歩いた人はどのくらいあっただろうか、と思った。 これで小生の東海道の旅は終了したが、
東横堀川の水が淡々と流れていて、江戸時代から続いているように思えた。
すっかり日が暮れた高麗橋をゆっくり渡った (右写真)
大阪城を見学できなかったのは残念だったが、淀屋橋から地下鉄で新大阪駅へいき、新幹線で名古屋へ帰っていった。