平成19年3月21日。 前回、甲西で終わったので、石部宿を経て、草津宿まで歩こうと思って、家をでた。
前回利用した関西本線の列車がダイヤ改正でなくなっているので、名古屋発6時33分発の快速米原行きにのる。
米原で少し待って、西姫路行き新快速で草津で下車、草津線で甲西へ。 到着したのは、9時15分。
前回より30分ほど余計かかった。 その上、祭日ということもあり、青春18切符を利用する人で、電車は大変な混雑だった。 座ることができたのはラッキーだった。
甲西駅に着くと、早速、前回終わった家棟川橋に行く。 橋の向かいに住む方に、前回気になった両宮常夜燈について質問した (右写真)
奉両宮常夜燈と刻まれている両宮の意味である。
質問を受けたご主人は、びっくりした顔をして、「 川は今より数メートル東寄りにあった。 その当時は、燈籠はたしか川の向こう側にあったはず。 この近くに、飯道神社と松尾神社があるが、別の集落の氏神なので、二つを祀ることはないのでは?? 」、との回答だが、すっきりとはしなかった。
お礼を述べ、教えられた通り、川に沿って歩き、ゴルフ練習場の脇を通り抜けていくと、十分もかからず、飯道神社に着いた。
入口に、式内 飯道神社 と、刻まれた石柱と鳥居があり、脇に、明治十二年再建、と書かれている (右写真)
飯道神社と言えば、これより南方の飯道山頂にある飯道神社(信楽町宮、いいみちじんじゃ、通称ははんどうじんじゃ)を思い浮かべる。
飯道山は、海抜六百六十四メートル
の山で、古来より、山岳信仰の霊山で、修験道の道場であったが、元明天皇の和銅四年
(711)、熊野信仰の熊野本宮大社より勧請して、社殿が創始された、と伝えられる神社
で、延喜式神名帳に、甲賀郡八座の一つとして記されている延喜式内社である。
中に入ると、左側に針地区の公民館があり、奥に社殿があった (右写真)
傍らの案内によると、 飯道神社は、旧村社で、大同弐年(807)に、大字針の飯道の森
(現在の湖南市役所東庁舎の敷地)で創建。 明治六年(1873)、家棟川の改修工事が行われた際、現在地に遷座した。 飯道神社の祭神は、素盞鳴尊、菅原道真 である、 とある。 この地は、飯道山から阿星山に連なる山塊の麓にあるので、針村の人達が、飯道山上に鎮座する飯道神社の里宮として、信仰してきたものだろか??
境内には、塔身を失った、鎌倉期の造とされる、宝しょう印塔があった (右写真)
ゴルフ練習場の前まで戻り、練習場の向こう側の道を上っていくと、常夜燈や石仏群が
ある南照寺の前に出た。 山門に入ると、右側に、南照寺のお堂があり、真っ直ぐ進む
と、松尾神社である。
松尾神社は、針の隣の平松集落(旧平松村)の鎮守である (右写真)
拝殿を掃除している人を見て驚いた。 お坊さん? よく見ると女性であった。
南照寺が松尾神社も管理している、といわれた。 神仏混合が、今でも残っていた、ということになるのだろうか?
先ほどの両宮常夜燈について聞いてみる。 住職に聞くからといって、お寺に戻って
いった。 松尾神社は、文徳天皇の仁寿三年(853)、領主の藤原頼平が山城国松尾神社から美松山に勧請、至徳三年(1386)に現在地に遷座した、とあった。
本社は、文政四年(1821)の建立である。
神社のお参りを済ませ、お寺の前まで行くと、先程の女性が待っておられた (右写真-南照寺)
「 住職の話では、燈籠があったところにトンネルがあり、トンネルを壊した時に出た石で造ったのが常夜燈。 毎年、住職が常夜燈の前でお祈りを行う。 」と、言われた。
法事があるとのことで、住職に直接確かめられなかったが、この話から推察すると、明治
時代までは、家棟川も天井川だったのではないか?
天井川の下にあったトンネルを壊し、家棟川を普通の川に変えた時、移転してきた飯道神社と近くの松尾神社の両宮に、水害の願いを込めて、常夜燈を建てた、と思うと、辻褄が合う。
南照寺の隣に、天文(1537)開基の西照寺があった (右写真)
西照寺の近くの家で、美し松自生地に行く道を教わり、西照寺の右側の道を上って行く。
やがて、分譲住宅地が現れ、更に上って行くと、右側に美し松(ウツクシマツ)があった。 美し松は、一つの根から曲がりくねった幹がいくつにも枝分かれしており、傘を逆さにしたような樹形をしている。 大小二百本以上が自生し、見事な風貌を見せていて、国の天然記念物に指定されている (右写真)
日本全国でここしか無い松だといわれ、他に移すと枯れてしまうようである。 しばし眺めた
後、持参したお茶を飲み、一服した。 街道に戻る途中で、三上山が見えた。
街道の入口に、美し松自生地0.9kmとあったが、美松山の山腹で登りだったせいか、それ以上の距離に感じられた。
街道に戻ると、柑子袋(こうじぶくろ)という珍しい名の集落に入った (右写真)
祭日なので、車は少ないとの予想に反し、狭い道にどんどん入ってくる。 京都や神戸
ナンバーが混じるのは、お彼岸と関係があるのだろう。 街道から奥まったところに、
お寺が幾つかあり、それを横目で見ながら進むと、西柑子袋の光林寺に来た。
それにしても、寺が多いところである。
左に入る道の入口に、上葦穂神社の石柱と常夜燈と鳥居が建っていた。 上葦穂神社は、この奥の落合川の左岸にあり、江戸時代には白知大明神と呼ばれ、天智三年(664)の創建と伝えられる
(右写真)
その手前には、南無妙法蓮華経の石柱が建っていた。
落合川の橋を渡ると、石部宿に入る。
落合川から三百メートルほど行ったところに、江戸時代には、木戸があり、そこが、石部宿の東入口であった、という。 現在の石部東交差点のあたりと思うが、何の痕跡も残っていない。
街燈には、東海道の表示され、股旅姿の旅人がいた(右写真)
道の傍に、小さな石仏が祀られているトタン屋根の社があった。 その先、
吉姫の里あけぼの公園、と表示があるので、なんだろうと入っていった。
上って行くと、右側に公園があったが、宮の森古墳に作られた古墳公園である。
宮の森古墳は、古墳時代の中期、五世紀に築かれた前方後円墳で、円の直径は五十五メートル、高さ十メートルという (右写真)
公園は高台にあるので、下が見下ろせた。 その時、正午の時報がなった。 まだ早いと思っていたが、両宮常夜燈の探索と美し松の見学で、かなりの時間を使ったことを知り、愕然と
した。 前回の失敗に懲り、名古屋駅で買ってきた駅弁を食べ、トイレ休憩を済ました。
古墳の反対側を降りると、吉姫神社の境内に出た。
吉姫神社の創建時期は、はっきりしないが、御旅所の上田の地に祀られていた明応年間に、兵火に遭い燃失し、天文三年(1534)に現在地に移った、という神社である (右写真)
江戸時代には、上田大明神という名で呼ばれていたが、明治元年現在名に変えた、と、
案内にあるので、 江州石部上田宮 と、刻まれた常夜燈は、江戸時代以前のもの、ということになる。 本殿は、天文三年の建立で、一間社流造、間口一間三尺、奥行一間一尺の大きさ。 拝殿は、入母屋造りで、間口三間、奥行三間である (右写真)
祭神は、上鹿葦津姫大神、吉比女大神、配祀神は木花咲耶姫 と、女の神様ばかりなのは珍しい。
参道には神木と思われる大きな木があった。 鳥居をくぐって、街道に戻
る。
石部宿は、千六百メートルの長さで、家の数が四百五十八軒、宿内に千六百十六人が住み、本陣が
二軒、脇本陣はなく、旅籠が三十二軒だった。 安藤広重の
東海道石部宿は、草津に向かう山を背景に描いている (右写真)
京から下る場合、京発ち石部泊まり、といわれたようで、京を発った旅人は、東海道なら石部宿、中山道なら守山宿に泊まるものが多かった。
宿場としてなかなか繁栄していたようであることから、いろいろな事件も起きたようで、そうしたこと題材にして、
歌舞伎
や浄瑠璃にも
登場する。 桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ )は浄瑠璃で、三十八歳の長右衛門が、
伊勢参りの下向の途中、石部宿で、十四歳のお半と一夜を共にしてばかりに、追い詰められて、京の桂川で心中するという話
である。 吉姫神社からしばらくは、ごちゃごちゃした家並みが続く。 その後、漆喰壁、むしこ窓、格子戸のある古い家がだんだん増えてきて、宿場の雰囲気が出てきた (右写真)
石部中央交差点の手前には、清酒香の泉を造る竹内酒造があり、また、交差点の南側は東海道のポケットパークになっていた。
交差点を渡ると、その先の左側には、石部宿
夢街道という看板が掲げている家があったが、素通り。
その先の左側に、明治天皇聖蹟碑があり、小島本陣跡の案内板があった (右写真)
小島本陣は、吉川代官所の跡地に建てられ、永応元年(1652)に、本陣となり、明治維新で、本陣制が廃止するまで続いた。 敷地二千八百四十五坪に、間口四十五間、奥行三十一間、建坪七百七十五坪、部屋数二十六室、玄関や門と付いた家だったが、老朽化で、昭和四十三年に取り壊された、とあるが、表札に、小島とあるので、今も小島さん
の末裔が住んでおられる
のだろう。
幕末には、征夷大将軍、徳川家茂が、文久三年(1863)、上洛の際宿泊、
最後の征夷大将軍、一橋慶喜も、同年、上洛の際、ここで小休止している。 また、新撰組局長、近藤勇も、文久四年(864)江戸下向の際に宿泊している。
この先、淨現寺、明清寺があり、続いて、真明寺があった (右写真)
真明寺は、慶長(1197)、蓮華の開基とあり、青木検校の持院で、青木氏の屋敷跡に建てられた、という寺である。 なお、検校とは盲人に与えられた幕府の官職。
真明寺に入って行くと、会合があるようで、本堂の前で三人が立ち話をしていた。
小生は、狭い境内をうろうろしていると、八十一歳になるという男から、 「 そっちはお墓なので行ってもしょうがないよ!! 」 と、声をかけられ、芭蕉句碑へ連れていかれた。
句碑には、「 つつじいけて その蔭に 干鱈さく女 はせを 」、と書かれているが、右書きでなく、左書きになっている。 また、季語がなく、自由句になっているのは、芭蕉では、珍しい。 芭蕉が、野ざらし紀行で、石部宿を訪れた時、詠んだ句である と、説明を受けた。 慣れた口調である。
先程見た時は、右から見ていたし、碑が傷んでいるので、
ほとんど読めなかったのであるが、丁寧に説明を受けると、その様に書かれているような気がした。
お礼を言って、街道に戻る。
少し歩くと、三叉路に出たが、正面に、いしべと書かれた暖簾が下がる建物がある (右写真)
街道400年の時に作られた施設のようであるが、誰もいない。 駕篭のようなものが置かれていたので、当時の茶屋を模したものだろう。
建物の左の道から少し入ると、
吉御子(よしみこ)神社の鳥居があったので、立寄ることにした。 吉御子神社は、 崇神天皇六十八年、石部山に御神降があり、 吉比古、吉比女神を黒の御前で祀っていたが、弘仁三年(812)、現在地に移し、承平五年(935)、吉比古、吉比女神を末社から本社に遷座した。 現在の社殿は、慶応三年(1867)、京都の上加茂神社の旧社殿を移築したもので、重要文化財に指定されている、 と、あった (右写真)
近江国甲賀郡の延喜式の式内社に、鹿塩上神社というのがあるが、先程の吉姫神社と
この神社が共に、その後裔の社とされている。 一番奥の石段を登ると、その先に見えるのが本殿で、三間の向拝をつけた流造建築の代表的なものである (右写真)
本殿は、東に面し、内陣と外陣に分かれている。 内陣には、藤原時代に作られた重要文化財の吉彦命立像と随神坐像二体が祀られている、という説明があった。 先程の三叉路に戻ると、最近作られた常夜燈の下に、京へ右東海道 と、書いてあるので、右側の道を行く。
江戸時代には、ここは枡形になっていたようであるが、少し歩くと左折、右側の家の前に、一里塚跡と書かれた木標があった。
更に、二百メートル位歩くと、く形に曲がるところの左側に、広場があり、その片隅に、見付と書かれた木標があった (右写真)
ここが、石部宿の京側の入口である西の木戸があったところだが、今は何も残っていなかった。 これで、石部宿は終わる。
平成19年(2007) 3 月