石部宿から草津宿へ途中にある、旧和中散本舗の豪商、大角弥右衛門家の建物は、国の重要文化財
に指定されている。 和中散とは、徳川家康が腹痛を直したと伝えられる腹痛の漢方薬である。
草津宿に残る田中七左衛門本陣は、東海道に残る数少ない本陣建築で、一見に値する。
平成19年3月21日、JR草津線甲西駅から石部宿を見て、草津宿に向かう。
石部から草津までは、約十二キロの距離だが、東海道は比較的多く残っている。
石部宿の西の玄関の見附を出たあたりは古い家が残っていた (右写真)
少し歩くと、小さな松が多く植えられたところに来た。 右手には、JR石部駅がある。
ここは縄手といい、直線状に道が長く続くところである。
傍らの案内板には、 「 昔、大名行列が宿場に入る前、長い松並木の下で整列をしたところ ・・・ 」 、とあった。
道の左側に、宿場の町を意識して造られたと思われる、東海道のポケットパークがあった (右写真)
そこを過ぎると、道は右にカーブし、少し歩くと、橋を渡り、丁字路に出る。 左側の工場前に、「 左五軒茶屋 」 、とあり、
小さく、 「 東海道古い道は直進 」 、の表示があった。
東海道は、江戸時代初期には、直進する道だったが、野洲川の氾濫で歩けなくなったため、
正面の山の左裾を回る道が開発され、旅人は、そちらを通るようになった。
直進する道を下道、左に大きく迂回する道を上道と呼んだようである (右写真)
その先に見える山は安藤広重の石部宿の絵にあった灰山である。
昔、石部金山と呼ばれ、聖武天皇時代には銅が、江戸時代には黄銅鉱が採掘された、ともいわれる。
先程会った老人の、 「 石部で金が採れたのは事実で、石部金吉という言葉はそこから出ている。
金山は、淨現寺あたりにあった、と聞いている。 」 という話を思い出した。
二つの東海道がある訳だが、現在の直進する道は道路も整備されている上、距離も短い。 灰山の山砂運搬のトラックが通るのが難点であるが・・・
小生は遠回りになる上道を歩く。 工場に沿ってずーと歩き、それがなくなると民家が現れたが、そこに五軒茶屋というバス停があった (右写真)
名前から察すると、江戸時代には、茶屋が置かれたのであろう。 今も家数はそう多くない。
道は、右左右と曲がり、山裾を通って坂を上って行くが、静かな山道である。
突然広い空間が現れた。 遠くに廃棄物処理場(?)の煙突が見え、手前には、高速道路が見える。 左側は柵で覆われているが、分譲地なのだろう (右写真)
道の右奥にあるガードをくぐり、名神高速道路の向こう側にでた。
すると、正面に採石場があり、作業中で山がどんどん削られていく姿が見えたので、先程の空地はその跡なのかと
思った。
ここからは栗東市。 右折した道は、高速道路と平行しているが、ダンプ一台分の狭い道で、ダンプを気にしながら下ることになった。 途中で、高速道路を見上げると、近江富士455m と書かれた看板があった。
その方向を見上げると、三上山が見えた。
これから先、三上山は、いろいろ形を変えて現れる (右写真)
坂を下ると、先程別れた右の道と合流する。 その地点にはダンプの侵入を調整する係員が
立っていた。 ここで左折し、田圃に囲まれた道を進むと、伊勢落集落に入る。
白い漆喰に連子格子の古い家が多く、しっとりとした町並を形成していた (右写真)
伊勢落(いせおち)の地名は、伊勢参りの旅人が中山道から東海道へ行くのに、守山市伊勢町からここに出たが、その道は伊勢大路とか伊勢道と呼ばれており、伊勢に落ちるところということに由来すると思われる。
やがて、左右に太い道がある交差点に出る。
ここまでの狭い道を走ってきた車は、全て、右折し、国道1号に向かって行く。
右角には、生涯学習の町伊勢落、という看板があった。 この先も、集落は続いていた。
道辺には小さな石仏が花を生けて祀られていた。
右側にJRの線路と近江富士といわれる三上山が見える (右写真)
少し歩くと、林集落に入った。 右側の民家の目立たないところに、新善光寺道の道標が
あった。 少し進むと、右側に、浄土宗本願寺派の楞厳山長徳寺がある。
永正十六年(1519)開基のこの寺の境内には、石仏群があり、寺の左角には 「 従是東膳所領 」 と書かれた領界標があった (右写真)
これから東とあるので、西の間違いではないかと思ったが、膳所藩の領地は滋賀郡、栗太郡を中心に、近江国六郡、河内国三郡まで及ぶ、とあるので、ここも飛び地になっていたのだろう。
少し先の道の右側に、新善光寺道と書かれた大きな道標が建っていた (右写真)
右折して、少し行くと、東海道名所図会に、 「 信州善光寺如来と同体なり 」 、 と書かれている新善光寺があった。
寺の由来を示す 新善光寺縁起によると、
「 今から八百年程前、源平の乱で敗れた平清盛の長子、小松内府重盛の一族のひとり、小松左衛門慰尉宗定が、この地にのがれ住んだが、
当地の地名を取って、高野宗定と称した。
彼は、平家一門の菩提をとむらうため、信濃善光寺へ四十八度の参詣を発願された。
その後、十二年かけて、この願は成就したが、満願の未明、信濃善光寺如来より、夢の中で
おつげを賜り、 江州(滋賀県)一円の衆生済度のため、我を連れ帰れ 、 という霊告を得られた。
宗定は御分身如来を頂き、この地に請来された。
時に、建長五年(1253)一月十三日のことである。
これが善光寺分身仏の由来で、宗定公の御影は、五十年に一度の御開帳の秘仏として、御奉安している。 」 とあった (右写真ー新善光寺山門)
本堂は、膳所城主、本多俊次が、寛永年間(一661〜73)に、三間四面の建物を建て、著した
略縁起と共に寄進したもの。 本堂の老朽化が進んだため、昭和五十四年九月より昭和五十六年六月まで、一年九ヶ月をかけて解体修理が行われている。
当日はお彼岸で、本堂の前にお店が出て、多くの人で賑わっていた (右写真)
本尊は、一光三尊善光寺如来だが、南北朝時代に作られた九十八センチの本造阿弥陀如来は、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)の作と伝えられ、国の重要文化財に指定されている。
街道に戻り、(三叉路が二つあるが、)そのまま直進すると、六地蔵集落に出た。
道の両側には古い家が多くのこっているが、六地蔵集落は、江戸時代には、石部宿と草津宿との間宿(あいのしゅく)だったところである。
道は、左にカーブするが、右側に、国宝地蔵尊と書かれた石碑がある寺があった (右写真)
案内文を見ると、 「 福正寺(法界寺) 木造地蔵菩薩坐像は96.5cmのヒノキ一本造り、
平安時代の作で国の重要文化財に指定されている・・ 」 とあり、この仏像は、当地の名前
になった六地蔵の一体らしい。 好奇心が旺盛なので、山門は閉まったままだったが、脇から入れるので中に入ってみた。
本堂はあったが、住職無住の寺のようなので、外に出て案内文を見ると、その下の方に、 「 地蔵尊は←福正寺 」 とあったので、
寺を出て進むと、その先に福正寺はあったが、国宝はこの寺に移されているのだろうと思った (右写真)
その先の道を越えた左側に、大きな古い建物がある。
旧和中散本舗の豪商、大角弥右衛門家である (右写真)
和中散は、徳川家康が腹痛を起こしたとき、この薬を飲んだところただちに直ったことから、腹の中を和らげるという意味で名付けられた、と伝えられる腹痛の漢方薬である。
江戸時代には、和中散を作って売る店が何軒もあったようで、大角家は、その一軒で、同時にまた、
間宿の茶屋本陣でもあった。
建物に付属する日本庭園は、国の名勝に指定されている。
道の反対側には、お堂があり、その隣の建物は大角家住宅隠居所である (右写真)
説明によると、 「 大角家の家長が隠居したとき住む為に造られた建物だが、大名が本陣として使用している間は、家族も一時的に居住した。 」 、とあり、
江戸時代を代表する豪華な建物として、国の重要文化財に指定されている。
現在、和中散は製造されていないが、街道に面して立つこれらの建物は当時の賑わいを偲ばせるものである。
その先、道を隔てて大きな道があるが、ここには一里塚跡の石碑があった (右写真)
右の狭い道が東海道なのでこの道を行く。 少し歩くと、車が一台ほどの狭い道になった。
しばらく歩くと、小野集落(旧小野村)に入る。
白漆喰の家に倉がある家があり、酒屋清右衛門と表示されていた (右写真)
この先もベンガラで塗られた連子格子の家など、古い素敵な家が残っていた。
そこを過ぎると、手原(てはら)に入る。
ここは、道中記などで、手孕村 と書れていたところである。
手原1丁目の信号交差点の右側に、東海道の道標がある。
以前、「右 東海道 」と書かれているので設置の方向が間違っている、と指摘を受けていたが、確認すると、
右の字が白く塗られて
消されていた。 名神高速道路栗東ICへの接続道路の高架をくぐる。 このあたりも古い家が多い。
まもなく、左手に背の高い木が見えてきた。
近づいていくと、右側に倉付きの立派な屋敷がある。 壁に、 東海道 手原村平原醤油店 塩谷藤五郎 と、書かれた張り紙があり、江戸時代には醤油製造業だったことがわかる (右写真)
道の反対側にある、赤い柵で囲まれている神社は、江戸時代の東海道名所記に、
「 左の方に、稲荷の祠あり 老木ありて傘の如くあり 傘松の宮という。 」 と、書かれていた、手原稲荷神社である (右写真)
傘松の宮とか、里中稲荷大明神とも称された神社であるが、神社の由来書によると、
「 祭神は稲倉魂神、素戔鳴尊、大市比売神、寛元三年(1145)領主、馬渕広政が勧請、子孫は
手原氏と称し、当社を崇敬、文明三年(1471)、同族の里内為経は社殿を修し、社域を拡張、慶長七年(1612)、宮城丹羽守豊盛が社殿を造営した。
その後、貞亨三年(1686)と享保八年(1723)の社殿を再建、明治二年に改築、昭和六十一年修復工事を行った。 」、
とあるので、古くからあったことが分った (右写真は手原稲荷神社社殿)
弥次さん喜多さんは傘松の下で休憩したのだろうか?と想像したが、作者は訪れているのだろ
う。 鳥居の左側に、稲荷大明神常夜燈が建っていたが、皇太神宮常夜燈もあった。
明治天皇が寄られたようで、境内に、明治天皇聖跡という石碑があったが、鳥居の左脇には、明治天皇手原小休止碑が建っていた (右写真)
神社の角を右折すると、JR草津線の手原駅であるが、東海道は直進。 手原駅を過ぎたあたりから、人の往来が多くなった。
道なり歩いて行くと、道は左(南西)にカーブし、信号のない
交差点に出る。 左右の道は、車の通行を多く、右手の方が賑わっているようだった。
車に注意しながら、交差点を渡り、右側のビィラ栗東というマンションと左の堤の間の道を行く。
少し先の堤の中腹に、「 九代将軍足利義尚公鈎陣所ゆかりの地 」 と書かれた石碑が建っていた (右写真)
「 足利九代将軍義尚は、幕府に抵抗する近江守護、佐々木高頼を攻めた。
文明十九年(1487)、この地に陣を張り、佐々木陣営と小競り合いを繰り返したが、二年後の延慶元年、
陣中において、二十五歳の若さで、病没した。 本陣は、ここから西に三百メートルほどの
永正寺のあたりに置かれたようである。 」 と案内にあった。
なお、これに関しては、巻末に司馬遼太郎の 「 街道をゆく 」 に書かれた将軍義尚のコメントを記載)。
堤の向こうには、上鈎 (かみまがり)池があり、堤に沿って進むと、上鈎東の信号交差点に出る (右写真)
交差点を渡って、まっすぐ進むと、道は、わずかに右へ左へとカーブする。 少し上りになると、葉山川に出た。
川に架かる葉山川橋を渡ると、右側は、一面の畑で、その先に、草津の町が見える。
川辺信号交差点を越え、少し行くと、左側に、善性寺という寺がある (右写真)
文政九年(1826)、シーボルトが、この寺の住職で、植物学者でもあった恵教を訪ねている。
シーボルトは、その時の印象を江戸参府紀行に、 「 かねてより植物学者として知っていた川辺村善性寺の僧、恵教のもとを訪ね、
スイレン、ウド、モクタチバナ、カエデ等の珍しい植物を
見学せり 」 と、綴っている。
まもなく、東海道は金勝川の堤に突き当たるが、ここには 「 金勝寺 こんぜ 東海道 やせ馬坂 中仙道 でみせ 」 と刻まれた道標があった (右写真)
この区間は、国道と平行しているだけでなく、名神高速道路の出入路が近いので、道幅が狭いのに車の往来が激しく歩きにくい。
ここを左折すると、右側に地蔵院という寺があり、
境内には天照皇太神宮、八幡大菩薩、春日大明神の碑があった。
側面に元禄年間亥年の刻印があるが、寺に神社の碑があるのは、神仏混交時代の遺物でおもしろいと思った。
道を左折し、少し歩くと、右側の民家前に、一里塚跡の石柱が立っていた (右写真)
二百メートル程歩くと、専光寺があり、更に、数百メートル歩くと、道はやや左に曲がって
おり、右側に、田楽発祥の地の碑と領界碑が建っていて、目川立場茶屋伊勢屋跡という案内板がある (右写真)
伊勢屋の天明時代の主人、岡野五左衛門は、与謝蕪村に師事した文人画家だったようである。
江戸時代には、元伊勢屋(岡野家)、京伊勢屋(西岡家)、古志ま屋(寺田家)の三軒の
茶屋が並んでいた、という。
数軒先の寺田家の前に、 名代田楽茶屋古志まや跡 と、書かれた石柱が建っていた。
傍らの案内板には、 江戸時代には、目川という立場茶屋があった所で、ここの菜飯と田楽は東海道中で名物になった と、書かれていた (右写真)
その先に乗円寺があり、その西岡家の前にも、京伊勢屋跡の案内があった。
道は左、右、左とカーブし、その先で堤と突き当たるので、右にカーブする道を進む。
この辺りは、旧坊袋で、左は堤、右下には畑が広がり、その先には、遠くなった三上山が見えた (右写真)
新幹線の下をくぐると、また、住宅地になり、右側に、従是東膳ヽ領と書かれた領界碑
が建っていて、近くに、新屋敷バス停があった。
更に歩くと、小柿1丁目の右側に、 史跡老牛馬養生所跡 の碑があった (右写真)
湖西和称村の庄屋、岸岡長右衛門は、年老いた牛馬を打はぎにする様子を見て、残酷さに驚き、息のあるうちは打ちはぎにすることをやめるように呼びかけた。 天保十二年、老牛馬が静かに余生を暮らさせる養生所をこの地に設立した、というものである。
なお、打はぎとは、殴り殺して皮を剥ぐこと。
少し歩くと、左に土手が見えてきて、草津市と書いた看板があった。 草津宿の入口である。
司馬遼太郎は、甲賀と伊賀のみちでは伊賀上野城を起点にして、北上し西高倉集落を通り、御斎峠(おとぎとうげ)を越えて、近江国甲賀へ入っている。
中世甲賀郡に五十三家の小豪族が生まれ、一種の共和制に似た組織を作り、甲賀の山々に山塞のような屋敷をかまえ、
山襞に田をひらいて平時は農耕を行い、戦いが始まると、要請に応じて、兵を出す請負業のようなことをしていたようである。
司馬遼太郎は、多羅尾集落に入った時、甲賀衆のことと足利将軍の義尚のことを書いている。
「 (甲賀衆が)戦史に登場するのは、室町の乱世の真最中ともいうべき長亨元年(1487)の近江の乱からである。
この当時銀閣をつくった足利義政は隠居していたがまだ存命中で、義尚が将軍職にあった。
近江の守護職は佐々木氏だが、六角氏と京極氏にわかれており、たがいに攻伐しあって、一時期、六角氏のほうが勢威が強かった。
六角氏の当主は、高頼である。
高頼は京極氏を圧倒するために、近江の国中にある叡山の領地や幕臣の領地などを掠めとり、
このため幕臣で飢餓に及ぼうとする者が四十余名も出たという。
叡山の僧たちも、窮迫した。 かれらは、高頼をこらしめてくれ、と将軍義尚に訴えた。
義尚は有名な日野富子が生んだ子である。
このとき満二十二歳で、和歌はうまかったが酒びたりの毎日で、体は弱かった。
叡山の僧や窮乏した幕臣たちが将軍に訴え出たとき、 「 そうか。 では出陣しよう。 」 と突然いいだしたらしい。
諸国から大名や小名があつまり、兵一万数千という堂々たる陣容になった。
義尚が近江に入ると、六角高頼はしきりに陳謝した。
しかし義尚はきき入れなかった。
高頼はしかたなく幕軍と野洲河原で戦い、あっけなく敗れてしまった。
そのあと身一つで甲賀の山の中へ逃げこんだのである。 」
司馬遼太郎は、 「 甲賀の山々に山塞をもつわずか二十七人の郷士がこの敗残の守護職をかくまうことで、天下の幕軍を相手にすることになったが、
このことが天下に喧伝され、のちに戦国期になっても甲賀衆は諸国で一目置かれるもとになったように思われる。 」 、評価している。
将軍義尚は本営を栗太郡鈎に移した。
鈎の本営は臨時の城館ながら相当な構造だったようである。
「 義尚が鈎で長期滞陣したおかげで近江は平らいだかに見えた。
元凶の六角高頼は逐電し、一見、義尚の勝利したように見えた。
しかし、長亨元年十二月の寒夜、鈎の本営のあたりの草木がことごとく動いて兵になるという異変がおこり、
本営は大恐慌におちいり、幕軍は総崩れになった。
甲賀衆が夜襲してきたのである。
さらに翌年になると、高頼方に甲賀衆が加わり、夜襲や奇襲をくりかえし、そのうえ流言を放つなどして幕軍を悩ました。
幕軍はこの種の戦闘法に馴れていないため、諸将が気を病み、やがて内訌がおこたりするうちに、義尚が陣中で死んでしまった。 」
と、司馬遼太郎は書いている。
なお、司馬遼太郎が車で走った甲賀と伊賀のみちだが、多羅尾から信楽の町を抜けて黄ノ瀬集落にある紫香楽宮跡に寄り、
大戸川に沿った道を大津へ抜けている。
現在の地図で確認すると、上野から県道136号で、高倉から曲がりくねった道を上ると御斎峠に出る。
峠の先が多羅尾で、県道136号を進むと信楽CCを経由し、旧信楽町内に入る。
国道307号を北に向かうと、紫香楽宮跡に出る。 その先に最近開通した新名神高速信楽ICがある。
司馬遼太郎が利用した大戸川沿いの道は県道16号で、瀬田に通じている。
草津宿は、江戸方の横町道標から始まり、草津追分を経て、京方の立木神社の南、二百メートルにある黒門までといわれた。
東海道の江戸方入口に、草津川(当時は砂川と呼ばれていた)が流れていたので、広重の東海道 草津宿の絵には、その様子が三上山と共に描かれている (右写真)
草津市と書かれた看板の先の左側に、上る道があったので、草津川の土手を登って
いく。 上ると、干からびた川があった。 草津川は天井川だったので、江戸時代の東海道は、渇水期には川に降りて渡っていった、とあり、その時の様子が土橋を渡る姿になって浮世絵になっている (右写真)
草津川は、上流を堰きとめ、新たな川を作り、そちらに水を流すように変えたので、この川に水が流れることはなきなった。 とはいえ、往時の姿を留めている。
草津川にかかる橋を渡り、
向こう側に渡る。 ここは、草津宿の江戸方の入口にあたる場所で、右手の土手の上に地蔵堂、そして、下に降りる道の途中に常夜燈が見える (右写真)
常夜燈は、火袋を含めた高さは四メートルもあり、日野の豪商中井氏の寄進により、文化十三年(1816)に建てられたものである。
以前は、道の北側にあったようだが、改修で、この位置に移されたようである。
常夜燈は、道標を兼ねていたので、横町道標と呼ばれ、左 東海道いせ道 、右 金勝寺志がらき道、という刻印がある (右写真)
草津川の堤防上にあるこの石造道標は、草津宿に出入りする人を明るく照らし、旅人の道先案内に大きな役割を果たしただろう。
横町道標を出て、土手を下って行くと、両脇に、民家が建ち並び、少しごちゃごちゃしているが、一部に古い家と思われる漆喰壁の家もあり、宿場の
雰囲気はわずかながら残っていた。 道が突き当ったT字路が、江戸時代の草津追分で、右を見ると、草津川をくぐるトンネルがある。
突き当ったところには、小さな薬師堂とミニチュアな高札場があった (右写真)
このトンネルは、トンネルの向こう側の旧大路井村とこちら側の旧草津村が、明治十七年、東海道の新道と随道(トンネル)開築事業の義願書を県知事に出し、造られたものである。 その後の東海道は、草津川の右側を通り、トンネルを抜けるルートに変更された。
トンネルをくぐり、向こう側に出て、交差点を右折したところに、覚善寺がある。 寺の前の道が、明治に造られた東海道の新道で、門前には、明治十九年(1886)に建てられた、 右東海道 、 左中山道 と、刻まれた大きな石柱の道標がある (右写真)
新東海道では、ここが中山道との新しい追分になった。 寺の先に、女体権現の小汐井神社があり、道をそのまま行けば、先程別れた草津川に上ったところに合流する。
トンネルをくぐり、元の場所に戻る。 薬師堂と高札場があったところが、江戸時代の草津追分で、トンネル入口脇の少し高いところに、大きな常夜燈の道標が建っていて、常夜燈には、右 東海道いせみち 、左 中山道美のぢ、と書かれている (右写真)
この道標は京都からきた場合の表示で、ここにある道標も文化十三年の建立である。
草津宿は、十一町五十三間半(約1.3km)の長さに、家の数が五百八十六軒、宿内人口は二千三百五十一名と多い。
東海道と中山道の追分の宿場だったので、本陣が
二軒、脇本陣二軒、旅籠は七十二軒 (最盛期はもっと多くあった) もあり、と、大変な賑わいを見せていた。
角の草津公民館は、脇本陣大黒屋弥助だったところである。
このあたりは草津二丁目で、少し行くと右側に、田中七左衛門本陣がある (右写真)
草津宿本陣は、田中七左衛門が、材木屋を兼業していたため、木屋本陣ともいわれた。
敷地は、千三百坪もある広大なもので、建坪は四百六十八坪、部屋数は三十余もあり、
現存する本陣の中では最大級で、国の指定史跡である。 東海道の本陣でもこれだけのものは五つしかなかったらしい。 田中家が、個人でこの古い由緒ある建物を守ってきたのを、草津宿本陣として公開している(月曜日・年末年始は休み、200円)
立派な構えの門をくぐると、玄関広間には関札が並べられていた (右写真)
関札とは、大名、公卿、幕府役人が泊まる際、持参した札で、宿(自身賄い)、泊(賄い付き)、休(昼飯休)を関札で示したことを知った。
玄関から座敷広間、台子の間、そして殿様の上段の間があった (右写真-上段の間)
その奥には庭園があり、お殿様用の湯殿は、離れになっていた。 特別待遇である。
上段の間の反対に(向き合って)、向上段の間があり、 玄関に向かって、上段相の間、東の間、配膳所、台所土間、と続いていた。
真ん中は、畳敷きの通路であるが、人数が多いときにはそこに泊まる、とあったのは、おもしろかった。
本陣職を務めた田中家の住宅部分もあったが、六畳以下が大部分とはいえ、九部屋以上もあり、驚いた。
裏には厩(うまや)もあり、本陣というものはすごい施設と思った。
宿帳も公開されていて、「慶応元年5月9日、土方歳三、斉藤一、伊藤甲子太郎、など32名が宿泊した」と記載された大福帳もあった(右写真)
右写真の大福帳には、浅野内匠頭の九日後に吉良上野介が泊まったことが記録されて
いた。
現在、田中家はこの奥の家に御住まいの様子だった。 江戸時代の街道の
歴史を
知る上に一度は訪れたいところである。
その先の左側に、脇本陣藤屋与左衛門と仙台屋茂八があった。 その内のどちらかが、白い建物の脇本陣という名の観光物産館に変身し、草津宿のおみやげやとレストランになっていた (右写真)
いろいろなおみやげがある中で、小さな奇妙な形をした御菓子を見付けた。
姥(うば)が餅という乳房をかたどった小さなあんころ餅で、当宿の名物だったようである。 織田信長に滅ぼされた佐々木義賢の忘れ形見の幼子(曾孫)を、乳母があんころ餅を売って育てた、という故事のある菓子である (右写真)
田中九蔵本陣はその先の食事処がその跡のようである。
その先は、アーケードのある本西商店街になる。 左側に街道交流館があり、右側に、常善寺がある。
常善寺は、承平七年(735)、良弁上人の開基で、本尊の阿弥陀如来像は鎌倉期のもので重文である。
アーケードの終わりにある太田酒造は、戦国時代の関東の英傑、太田道灌の末裔が、江戸時代から営む造り酒屋で、道灌という酒を造っていた (右写真)
草津宿の問屋場職を兼ね、草津政所と呼ばれていた大家だった、とあった。 奥に続く
倉が幾つか見えた。 江戸時代には、道の反対に、問屋場と貫目改所があったようである。
少し歩くと、旅館野村屋の看板の家があるが、幕末から営業している元旅籠である (右写真)
草津3丁目交差点の先にある伯母川(志津川)に、江戸時代には、宮川土橋が架かっていた、という。 橋を渡った右側にある立木神社は、旧草津宿と旧矢倉村の氏神だった。 創建は、神景雲護景雲元年(767)と伝えられる神社で、その名前は、常陸鹿島明神からこの地に一本の柿の木を植えたことに由来するとのこと。 神社に鎮座するのは、狛犬が普通だが、ここ
では、獅子の狛犬の他、神鹿があった。 また、延宝八年(1680)十一月の草津宿最古の追分道標がここに移築されている (右写真ー立木神社)
草津宿は、立木神社の先の黒門までであったが、その跡がどこか分らなかった。
草津宿の東海道沿いは、立木神社あたりに古い建物が少し残っていたが、その他の地区も戦災を受けなかったため、 町並に昔の面影を偲ぶことができ、満足をした。
今日はここで終ることにして、追分のトンネルをくぐり、JR草津駅へ向かった。
(草津宿) 平成19年(2007) 3 月
(司馬遼太郎部分) 平成23年(2011) 7月