土山宿から水口宿へ行く途中に、頓宮(とんぐう)があったところがある。 頓宮とは平安時代から
鎌倉時代中期まで行われた斎王が伊勢神宮の参行の途上宿泊された施設のことである。
水口宿には、行基が建立したと伝えられる大岡寺や碧水城の異名のある水口城、ヴォーリズの
設計で建てられた旧水口図書館など古い建物が残っている。
平成17年5月11日(金)、坂下宿を出発し、土山宿の見学を国道1号線との合流地点にある御代参(ごだいさん)街道の道標で終え、13時30分、水口宿に向う (右写真)
東海道は、御代参街道の道標で、進路を北西に変えて進み、野洲川を舟渡しで渡るのだが、現在はその道はないので、国道をそのまま歩き、白川橋を渡ることにする。
七百メートル近く歩くと、左側に、家が建ち、そちらに入れる道があるが、川で行き止まりと
思って、国道の右側の歩道を歩くと、橋の手前で、道は右にカーブし少し上りになった。
白川橋の歩行者用の橋を渡り、右側の野洲川の川原を眺めながら、あのあたりに船着場があったのだろうか、と想像をふくらませた (右写真)
川の反対を見ると、歩行者が渡れる橋が架かっているではないか?!
いつのまにか、サイクリングロードが出来ていたのである。 左の道を行けばよかった!!
橋を渡ると、自動車を警戒しながら国道を横断して、左の細い道に入る。
これが東海道で、鈴鹿を下りてきた道と違い、平坦で所々に茶畑があった (右写真)
風も治まってきて、いつの間にか、軽装になっていた。
その先の集落は、江戸時代、頓宮村といったようで、民家の木札にそう表示されていた。
民家の一角に、滝樹神社入口の案内があって、従是四丁(約450m)とある。 この道を歩いていくと、滝樹神社は、拝殿から本殿まで
最近できたぴかぴかの建物ばかりだった (右写真)
何故すべてがあたらしいのかとか、神社の由来などに興味があったが、時間がないこともあり、調べられないまま街道に戻った。 唯一分ったのは、この神社に伝わる頭に鶏の羽をつけた七 〜十二歳の男児が、鐘太鼓を持って踊る、ケンケト踊は、貴重な無形文化財ということ。
このあたりに、垂水斎王頓宮跡があるはずなのだが、歩いて
いてもいっこうに現れない。
念のため、手許の本を見ると、東海道ではなく、国道1号側であることと少し行き過ぎて
いることが分った。 つちやま共同作業所の入口まで戻り、道の反対側の狭い道に入り、
国道に出た。
国道の先の小高いところに、石柱らしいものが見えたので、道路を横断し、畠のあぜみちに入ると、垂水斎王頓宮跡の石柱があった。
畠に迷惑がかからないように、畠の脇を抜けると、鳥居と垂水斎王頓宮跡の石柱と案内板が建っていた (右写真)
垂水斎王頓宮跡地は、平安時代から鎌倉時代中期までの約三百八十年間、三十一人の
斎王が、伊勢参行の途上宿泊された頓宮(とんぐう)が建築されたところで、森閑とした林
の中に入ると、ぽっかりあいた空間に、垂水斎王頓宮跡の大きな石碑と伊勢神宮遥拝所の木柱の奥に社殿が見えるが、近くに、土で埋まった井戸の跡が残っているだけで、千年前に頓宮があったところ、という形跡は無くなっていた (右写真)
それでも、五つの頓宮で、明確に検証されているのは、この垂水頓宮跡だけである、と
説明板に書かれていたが・・・・
(斎王と伊勢参行については巻末参照)
近くの案内板に、醍醐天皇第四皇子重明親王の長女、斎王徽子(きこ)女御が詠んだ
「 世になれば 又越えけり 鈴鹿山 廿日の今になる しやあるらむ 」 と、いう和歌が書かれていた (右写真)
彼女はわずか九才のとき、斎王として伊勢に下向し、また、娘が斎王に選ばれたため娘に
付き添って伊勢群行に同行し、二度ここで宿泊したのを詠んだものである。 ここで十分ほど休憩し、十四時二十分、東海道に戻り、歩き始めた。
滝樹神社入口を過ぎた右側には、鳥居と小さな神社があった。
前野集落には、べんがらで塗られた連子格子の古い家が多い (右写真)
また、狸の置物を玄関に置いている家が何軒かあるのは、信楽が近いからか??
学校帰りの小学生が、「 ただいま!! 」 と、挨拶をした。
おや!と思ったが、その後の子も、同じ挨拶だったので、学校の指導が、ただいまなのだろう。
左側に、滝樹神社の鳥居と石柱があり、ここが滝樹神社参道入口であることを知った。
道は、右にカーブするが、歩いていると、右側に、地安禅寺の石柱がある (右写真)
立派な鐘楼門をくぐり、寺の中に入ると、 後水尾法皇の御影 御位牌安置所があり、皇室
とゆかりのある寺であることが分った。 宝永年間(1704〜1710)に、安置所を建てた、林丘寺光子(普門院)が植えた茶の木脇に、林丘寺宮御植栽の茶碑が建っていた。 当時は、鐘楼門前の参道の両側は茶畑だったというが、今は茶の木1本だけという(右写真)
左右に古い家が残るのを見ながら歩くと、信号のない交差点の出る。
右側に、平行する国道の交差点名は、頓宮である。
交差点を越えて、直進する。 このあたりは旧頓宮村。 といっても、超えてきた交差点の右側は頓宮で、左側は旧前野村。
このあたりには、江戸後期から普及した虫籠窓の漆喰壁の家をみかける。 商家だった家だろうか?
道の左側に、以前は藁葺きだったと思える家を発見した (右写真)
けっこう広い道なのに車を見かけないので、安心して歩けるのはよい。 道の左右に、茶畑が
増えてきた。
その先の左側の民家の一角に、垂水頓宮御殿跡と書かれた石柱が建っていた (右写真)
傍らの説明文によると、 「 伊勢神宮に伝わる倭姫命世記によると、垂仁天皇の皇女である倭姫命は、天照大神の御神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行した、と伝えられる。 土山町頓宮には、巡行地の一つ、甲可日雲宮があった、とされ、この時の殿舎がこの付近に設けられた
ことが御殿という地名の由来とされる。 ・・・ 」 とあった。
甲可日雲宮がどこにあったかについては異説もある(巻末の日本書紀参照)
旧市場村に入ると、面白い光景を見た。
機械を使って、お茶を刈る風景で、バリカンのようなもので刈られたお茶は、扇風機のようなもので、袋に送り込まれていた (右写真)
諏訪神社の前を過ぎると、右側に長泉寺がある。
延命地蔵尊が祀られているようだった。
どっちりした大きな建物が続いていた。 十四時四十五分、市場の一里塚に到着した。
といっても、道の右側の角に、一里塚跡の石柱があるだけだが・・・ (右写真)
今では珍しい藁葺きの家を過ぎると、大日川(堀切川)がある。
一里塚から百メートルくらいの距離にある大日川は、江戸時代、市場村と大野村の境だった。
頓宮山を源流とした川は、
平坦部で広がり、大雨が降ると、旧市場村と旧大野村の被害が多かった。
川の手前の右側に大日川掘割の石柱があった (右写真)
橋を渡ると、今度は、左側に、東海道反野畷の石柱が建っている。 この二つの石柱は、洪水被害を避けようとした歴史がある。
大野村は、その対策として、江戸時代の初期、堤を作ったが、市場村はこの結果、多大の被害を受けるようになった。 市場村は元禄十二年(1699)、
排水用の掘割により、野洲川に流すことを計画し、元禄十六年(1703)に完成させた。
橋を渡ると、整然とした松並木が現れる (右写真)
そこから三百メートル程歩くと、左側の林の前にも、東海道反野畷の石柱があった。
少し歩くと、左側に野洲川が見えた。 その先の左側に、花枝神社があり、隣が大野小学校である。
左側の民家の前に、旅籠松坂屋の石柱があり、その隣に、長園寺の石柱が建っていた。
民家に、東海道大野村加佐屋という木札が張られ、また、昔の屋号が復活である。 また、左側の民家に旅籠丸屋跡の石柱がある (右写真)
この先、旧大野村から旧徳原村にかけて、江戸時代に旅籠だったことを示す標柱が立っているが、土山宿と水口宿の中間にあたるので、間宿になっていたのだろうか??
屋根の上に、煙り出しの屋根を付けた、この地方独特の建物が増えてきた。
養蚕が盛んだった時代に建てられたものだろう。
左側の煉瓦作りの煙突の家は、造り酒屋で、
右側の民家の脇に、明治天皇御聖蹟碑があるが、ここは、旅籠小幡屋跡で、明治天皇が休憩されたところのようである (右写真)
東海道は、国道1号線に突き当たる。
角には、大日如来と書かれた小さな祠や布引山岩王寺の道標と三好赤甫先生をしのびて、という石碑があった。 脇の案内板には、
「 三好赤甫はここの生まれで、魚類商を営んでいたが、家業を子供に譲り、京に上り、
芋庵虚白に俳諧を学び、待花園月坡と号して、俳道に精進した。 75歳で死去、
大野村若王寺に葬る。 」 とあった。
十五時二十分、大野交差点を横断歩道橋で国道を越える (右写真)
橋の上からは先程越えてきた鈴鹿が見えた。 また、道路標識にある若王寺まで100m
とある寺も、目のあたりに出来た。
橋を下り、右の道に入ると、旧徳原村の集落。
旅籠東屋跡の石柱のある家はわらぶき屋根だった (右写真)
江戸時代もそうだったのだろうか? 集落の家を見ながら、三百メートルほど歩くと、左下に、国道の徳原交差点が見えてくる。
しばらくは、両脇が田畑のところで、左手の国道の先には、田植えを終えた田圃は広がっていた。
五百メートルほど歩くと、また、旧今宿村の集落が現れたが、三百五十メートル程歩くと、国道1号に出た。
大野西信号交差点手前の松が植えられているところに、東海道土山今宿と書かれた石碑と石燈籠があった (右写真)
十五時四十四分、右へ分かれる国道1号を越えて、左の県道(以前の国道1号)に入った。
稲川を渡ると、旧水口町(現在は甲賀市水口町)である。 県道から、右に上る細い道に入り、
上って行くと集落があるが、集落を貫く道が東海道である。
少し歩くと、左に細い木が植わっているが、ここに、今在家一里塚跡の表示がある (右写真)
実際にはこの近くあったようで、明治に撤去されたものを最近復元したものである。
道の脇に、馬頭観音などの石仏群があった。
そこを過ぎると、左は竹林、右は田圃で、国道が見える
ところに出た。 そのまま進むと、さっき分かれた県道に出たが、角に、街道をゆく、と題する石碑があった。
県道を歩くのは五十メートルくらいで、またに右の道に入る。
今郷集落には古い家が多い (右写真)
信号のない交差点は、そのまま、直進し、宝善寺の前を通り過ぎると、道は少し上りになった。
道は、左にカーブしていき、また、県道に出てしまった。 県道を少しの間、歩く。
左手には、野洲川が流れていて、右側は岩山で、岩神と呼ばれたところ。
巨岩や奇岩が多く、寛政九年(1797)の伊勢名所図会には、絵入りで紹介された名所だった。
岩神社、岩上不動尊参道という石柱があり、東海道の道が矢印で示されている (右写真)
岩神社に興味はあったが、既に十六時を過ぎているので、あきらめた。
入った道はけっこう広く、家も最近建てられたものが多い。
水口に着いたら、電車で関まで戻らなければならないので、少しペースを上げることにした。
右側の道に入り、歩き続けると、八幡神社の森が見えてきた (右写真)
少し行くと二又に出るが、右の道を行く。
右側の最近植えられたと思える松のたもとに、松並木の碑があった。 左に田、右は民家というところを過ぎると集落に入り、道も下り坂になった。
下りて行くと、左側の小高いところに、月ヶ上大師寺がある (右写真)
その先の秋葉北交差点を越えると、右側に小公園があり、休憩スペースがあったが、それは無視して進む。 山川橋を渡った先には、民家が建ち並んでいるが、その先が水口宿の入口である。
左右の家を見ながら歩いて行くと、十六時四十分、東見付(東入口)跡に到着した。
(注)水口宿は、既に3月に歩いていて、後半の水口宿は、その体験を綴っている。
この後は、足早に宿場の中を歩き、水口本町で左折し、多くのバスが通る甲賀病院前に出て、
貴生川駅までバスで行き、草津線、関西線に乗り継いで、関駅に戻り、駐車した車で、名古屋
に帰った。
(ご 参 考) 『斎王の伊勢参行』
斎王とは、天皇の代わりに、伊勢神宮の天照大神にお仕えしていた未婚の皇女で、記録によれば、垂仁朝の倭姫(やまとひめ)が初代である。 天皇の代わるごとに、皇女の中から占いによって選ばれ、伊勢へ向かった。 これを群行といった。
京都から伊勢の斎宮まで、当時は、五泊六日もかかり、この間、近江の国では、勢多、甲賀、垂水の三ヶ所、伊勢国では、鈴鹿、一志の二ヶ所で、それぞれ一泊し、伊勢の斎宮に行かれたのである。
この群行は鎌倉中期まで続いたが、以後皇威の衰微とともに廃れた。
(ご 参 考) 『伊勢神宮の誕生(日本書紀)』
日本書紀には、伊勢神宮の誕生に関して以下のように記されている。
「 垂仁天皇 天照大神を 倭姫命に託す
(二十五年の)三月(やよひ)の丁亥(ひのとゐ)の朔(ついたち)丙申(ひのえさるのひ)に、天照大神を豊耜入姫命(とよすきいりひめのみこと)より離(はな)ちまつりて、倭姫命(やまとひめのみこと)に託(つ)けたまふ。 爰(ここ)に倭姫命、大神を鎮(しづ)め坐(ま)させむ処を求めて、菟田(うだ)の筱幡(ささはた)に詣(いた)る。 更に還りて近江国に入りて、東(ひむがしのかた)美濃を廻(めぐ)りて、伊勢国に到る。 時に天照大神、倭姫命に誨(をし)へて曰(のたま)はく、 「 是(こ)の神風(かむかぜ)の伊勢国は、常世(とこよ)の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。 傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。 是の国に居(を)らむと欲(おも)ふ」 とのたまふ。 故(かれ)、大神の教(をしへ)の随(まにま)に、其の祠(やしろ)を伊勢国に立てたまふ。 因(よ)りて斎宮(いはひのみや)を五十鈴(いすず)の川上(かはのほとり)に興(た)つ。 是を磯宮(いそのみや)と謂ふ。 則ち天照大神の始めて天(あめ)より降(くだ)ります処なり。 」
日本書紀には以上の通りの記述しかないが、伊勢神道の教理書の一つである、倭姫命世記に、倭姫命が伊勢にたどり着くまで滋賀県、岐阜県、三重県のあちこちに巡行した故地があることが書かれている。
その中に、甲可日雲宮の記述があり、 「 垂仁天皇四年、倭姫命が天照大神の御杖代として、伊賀国より淡海国甲賀の日雲宮に遷り四年奉斎した。 」 と書かれているが、それがどこなのかが、論議になっているのである。
候補の一つに上げられているのが前述した垂水斎王頓宮跡である (右写真)
史跡にある説明文では、「 平安時代の初期から鎌倉時代の中期までの約三百八十年間、三十一人の斎王が伊勢参行の途上に宿泊された頓宮が建てられていたところ 」とあり、ここが甲可日雲宮だと主張するのである。
その他、日雲神社(甲賀市信楽町牧)説、高宮神社(甲賀市信楽町多羅尾)説、田村神社(甲賀市土山町北土山)説などがある。