平成19年3月6日、6時40分発で名古屋を出て、関西本線で亀山、そこでディーゼル車に乗り換えて、柘植まで行き、草津線に乗り換え、8時56分に貴生川駅に到着。
ここで、近江鉄道に乗り換えで、水口石橋駅まできた (右写真は近江鉄道)
この方法が一番安く、また、効率的なので、利用した。
早速、水口宿の東入口に向かう。 東入口から引き返すことになるので、東海道と同じ道を歩いてもしょうがないので、その左側の道
を歩き、途中から国道に出て、速玉神社、山の神、秋葉神社を経て、秋葉北交差点に到着した。
山川橋を渡ると、下りになり古い家が残っていた。 水口神社で使われる山車倉もある。
前方の登り坂の上の右側に、冠木門が見える (右写真)
ここが水口宿の東見付(東入口)跡である。 ここは、宿場や城下町に多い鉤型だったところ
で、今もその面影が残っていた。
右側(西方)にある秋葉神社は、古城山の東麓にあたり、水口宿は、江戸時代、三度の大火に遭い、多大な被害を受けたので、明和七年(1770)、宿場の人達が、火除けの神として有名な遠州秋葉山から勧請し、建立した神社である (右写真)
両脇に古い町並みが続く。 元町交差点は信号がないので、注意して渡った。 水口宿
は、江戸から五十番目の宿場で、家数六百九十二軒、宿内人口千六百九十二人、本陣が
一軒、脇本陣も一軒、旅籠が四十一軒で、本陣は鵜飼伝左ヱ門が営んでいた。
このあたりが宿場の中心で、今も古い家が残っている (右写真)
その先で、道がト字になって、右側にぬり又本店という、漆芸品の店があった。
その手前あたりの左側に、脇本陣があったはずだが、案内板などがないため、分からなかった。
本陣跡は、ぬり又本店の対面の立派な家の手前にある竹垣で囲まれたところである。
入口に、水口宿の概要が貼られていた。 奥に入って行くと、石柱に囲まれた明治天皇聖蹟碑があった(右写真)
水口宿本陣跡碑の案内板には、本陣は鵜飼氏が経営にあったこと、大きさは普通の家の三倍の大きさだったこと、明治二年に明治天皇が宿泊されたのを最後に歴史を閉じ、撤去された
ことが記されていた。
その先にも、三叉路があり、左側を行くと、左側に桔梗屋がある。 百メートルほど歩くと、ミニチュアの高札場があるが、江戸時代の高札場跡である (右写真)
その先の三叉路は、右側の道を進む。
道が幾筋もあって、どれが東海道なのか迷ってしまうのに、この町は、東海道の案内には、冷淡で、表示や説明はいっさいないのである。
これらの道は、地図で確認すると、三本と考えればよく、宿場の出口まで、約一キロにわたり、平行に続いているのであるが、東海道は、真ん中の道と理解する、とよいだろう。
御菓子処一味屋の向かいの家の前に、問屋場跡の標石があった (右写真)
このへんから京町にかけて、旅籠が軒を連ねていたというが、今もその面影はいくらかは残っている。 少し歩くと、交差点手前の右側に、塀をかけた奇妙な空間がある。
なんだろうと表示を見ると、本町商店街駐車場、とあった。 これが駐車場とは思えなかった。
角には、毎時0分になると囃子に合わせて、祭半纏を着た人形が踊りだすからくり時計があった (右写真)
ここを右折して、大岡寺(だいこうじ)に向かう。
正面に見える山は古城山(こじょうざん)と呼ばれるが、標高二百八十三メートル弱の大岡山である。
水口宿は、豊臣秀吉が京への入口である
この地を重視し、中村一氏に城を築かせたことに始まる。 秀吉の命を受けた
中村一氏は、天正十三年(1585)、野洲川を見下ろす大岡山に城を築き、山麓の集落を城下町に整備した。
その後、一氏は天正十八年(1590)、駿河国駿府へ転封となり、代わって、増田長盛、そして、長束正家が城主となったが、関ヶ原の西軍の敗北で、岡山城は落城した (右写真-大岡山)
幕府は
この城を廃城にし、水口を幕府の天領(直轄地)にし、宿場町に替えた。
この山の麓に、大岡寺がある。 道を歩いて行くと、国道1号に出る手前の二又で、左側の狭い道に入る。
ここには、国宝本尊観世音大岡寺と書かれた大きなが建っている。
車は来ないとたかをくくり歩いていると、クラクションで、びっくり!! 意外に多くの車が通る。
すぐに山門の下に到着した (右写真)
天台宗の寺院で、俗に岡観音の名で親しまれている寺である。
石段を上ると、二階堂造の本堂が、山を背にして古寺らしい姿を見せた (右写真)
寺の由来によると、 大岡寺は、白鳳十四年(686)、行基が大岡山の山頂に、白彫の十一面千手観世音像を安置したのが始まり。 しかし、天正二年(1574)の兵火で、堂字は焼失し、東之坊(本坊)を残すのみとなった。 天正十三年(1585)、中村一氏が岡山城の築城にあたり、東之坊を地頭に移転したが、落城後の享保元年(1716)、住職の寂堂法印が、再び、現在の地に堂字を再建
した。 以後、水口藩主、加藤氏歴代の祈願所となった、 という。 寺には、鴨長明や一条兼良も宿泊したといわれ、方丈記を書いた鴨長明の発心地、とされる。
本尊の木造十一面千手観音立像と恵心僧都の作の木造阿弥陀如来立像は国の重要文化財になっている。
境内には、松尾芭蕉が野ざらし紀行の中で詠んだ句碑が建てられている (右写真)
「 命ふたつの 中に生きたる 桜かな 」
水口で旧友と再会したときに詠んだ、といわれる句である。
その他、巖谷一六顕彰碑があった。 巖谷一六は、明治を代表する書家だった、とあった。
大岡寺の桜はこのあたりの名高い桜の名所だというが、まだ一月先のことだろう。
寺を出て、石柱があったところまで戻り、右に入る細い道をみつけて歩くと、水口小学校に出た。
小学校の構内に、ヴォーリズの設計で建てられた旧水口図書館がある (右写真)
二階建てのモダンな建物で、昭和三年(1928)、町の出身の実業家井上好三郎氏が寄付し、ヴォーリズ事務所により建てられたもので、戦前期の建築のなかで、珠玉の小品と評されるもの。
なお、第2、第4日曜日の10時〜16時のみ館内見学ができるようである。
街道まで戻る。
交差点の先、左側にあるいまむら呉服店はなかなか古そうな店である (右写真)
少し歩くと、本町商店街のアーケードの中に入る。
しかし、店は全て閉じられている。 今各地で起きているシャッター通りかと思ったが、しばらく歩いて、商店街の定休日なのだ、
と気付いた。
それにしても、定休日の表示がいっさいない、ということは、固定客しかこない、ということなのだろう。
薄暗いアーケードの人気の消えた道を数百メートル歩いたが、かなり長い距離に感じられた。 正に、死の町だった (右写真)
この通りには、元禄十三年(1700)創業の旅籠だった、旅館桝又が営業していたが、つい先ごろ廃業したことを知った。 これも、時の流れなのだろう。 この先で、広い通りと交差する。
右へ行けば、日野を経て彦根へ、左に行けば、貴生川を経て信楽や甲賀に至る道である。
東海道は直進、普通の民家が多い。 前方に、踏切が見えてきた。
この踏切の手前で、三本の道が合流する。 ここにも、からくり時計があった (右写真)
踏切の左側に、水口石橋駅がある。 からくり時計の左(三本の道の一番左)の道に入り、 右側の線路に平行している道を水口神社に向かう。 途中には、山車倉が幾つか連なって
建っていた。 水口神社は、延喜式神名帳に記載された近江国甲賀郡八座の一つで、古い歴史をもつ神社である。
水口神社の境内は、大きかった (右写真)
神社の由緒書を読むと、祭神の大水口宿禰命(おおみなくちすくねのみこと)は、饒速日命六世の孫、出石心大臣命の御子に坐す、とあるので、水口を開拓した豪族の祖神を祀ることから始まったものらしい。 その後、相殿の大己貴命(おおなみちのみこと)、素盞鳴尊(すさのうのみこと)と稲田姫命(いなだひめのみことト)を加えて、今日の姿になったようである。 什宝の木造の約二十二
センチの女神座像は、藤原期(10世紀〜13世紀)神像の特色を
示していることから、国の重要文化財の指定を受けているが、社殿はそれほど古くなさそうである (右写真)
ここの山車は有名で、毎年四月二十日を中心に行われる水口神社の例大祭は、水口曳山祭といい、曳山の巡行を見所としている。 江戸時代の中期の享保年間に、町の繁栄と町民の心意気を示すものとして成立したもので、今でも、曳山十六基を伝えている。
隣に、甲賀市あいこうか市民ホールと水口歴史民俗資料館がある (右写真)
資料館はまだ開館していなかった。 水口の歴史は古く、野洲川に沿って続いていた、古代の東海道の時代に、甲賀駅舎が置かれ、中世には、市が立ち、人や物資の往来で賑わっていた、といわれる。
資料館の庭を見ると、横田の渡しの南対岸の地にあった、従是東水口領と刻まれた、極めて大きな領石標はここに移されていた (右写真)
また、ひの 、 左天神道 、右いか などの、道標が前庭に置かれているが、古いものは、正徳元年(1711)のものだった。
建物の裏に出て、小道を行くと、踏切があり、渡ると、水口城南駅に出た。 駅の塀には、三台の曳山の写真が表示されていた。
駅前を歩いて行くと、左に水口城が見えてきた。 碧水城とも呼ばれた城である (右写真)
寛永十一年(1634)、三代将軍、徳川家光が、京都に上洛した際、築かせたのが水口城(水口御茶屋)で、作事奉行は、小堀遠州が務め、城内には、二条城の御殿を模した豪華な御殿が築かれた。
この御殿が、将軍の宿舎として、使われたのは、この一回限りで、その後は、幕府の城番が管理する城になった。 天和弐年(1682)、加藤明友が、石見吉永から移封になり、二万石の水口藩を立藩し、この城の主となる。
その後、鳥居忠英に替わったが、加藤明友
の孫の喜短が、二万五千石で入封し、加藤氏が、明治維新まで領した。 歴代の水口藩主は同城を幕府からお借りしている城として大切に管理し、特に居城であるにもかかわらず、本丸部の御殿を使用しなかったようである。
明治に入ると、城は壊され、わずかに堀、石垣の一部が残っているのみだったが、平成になって、城や櫓を復元され、水口城資料館として公開されている( 入館料100円、 10時〜16時、月曜、祝日、第3日曜は休み。 ) (右上写真)
城を跡にし、北に進むと、左側に、甲賀市誕生記念碑がある。 その先に、東海道と交差する交差点があり、右側に藤栄神社がある。
東海道側に行ってみると、藤栄神社と刻まれた石柱と鳥居、そして、右奥に社が見える。 鳥居をくぐり、振り返ってびっくり
石柱に、 従比川中西水口領と、あるではないか?? 先程訪れた歴史資料館にあった境界石の片割れであるが、藤栄神社の標柱に転用されていたのである。 (右写真)
交差点を越えて、少し行くと、右側に、斜めに行く狭い道があり、その奥に、綾野天満宮がある。
この地は、菅原道真の荘園があった所であるが、その子の菅原淳茂が、父の像を彫り、水口天神として祀った、というもの。 初めは、美濃部宮と称し、現在の藤栄神社のあたりにあったが、水口城が築城する際、現在地に移された (右写真)
東海道に戻る。 東海道は、近江鉄道の水口石橋駅踏み切りからこの交差点までは、
古い家並みが続く。 この先に、水口宿の東海道の西側入口があるのだが、城下町ということに加え、水口城が街道が開通した後に作られたため、道を一部変えたようで、この先は幾重にも折れ曲がっている。
湖東信金水口支店前を右に曲がる (右写真)
突き当たりの米屋の前を左折。
心光寺の前を通って、信号のない交差点を渡って直進する。 やがて、道は直角に左に曲がる。
少し行くと、丁字路(トの字)があり、その角に、
大きな石が置かれている (右写真)
東海道に面した小坂町の角に伝わる石は、力石と呼ばれ、江戸時代の浮世絵師、国芳の錦絵にも、登場する。 この辺りは、藩庁にも近く、長大な百軒長屋や小坂町御門など、城下町のただずまいが濃かった、という。
この石の前で右折する。 このあたりにも、連子格子の家が多い。 格子がベンガラだと思うが、赤く塗られていた跡が残る。 全国歩いても、この地のように、格子に赤く塗るものは見ない。
真徳寺の表門は、水口城下の武家屋敷(蜷川氏)の長屋門を移したものである (右写真)
その先右側に、高い木が生い茂っているのが見える。 五十鈴神社である。
神社の角に、土が盛っていて、林口の一里塚跡と書かれた標石があった。 一里塚は、
最初は、ここより南にあったが、水口城の城郭の整備で、東海道が、北側に付け替えられ、五十鈴神社の境内東端に移った (右写真)
旧水口町には、今郷、林口、泉の三ヶ所に一里塚が設けられたが、明治維新に全て壊された、という。
東海道は一里塚で左折する。
少し歩くと、信号交差点。 このあたりに、西見付(西入口)があったと思われるが、表示はない。
ここで、水口宿は終わり。
土山宿〜水口宿 平成19年(2007) 5 月
水 口 宿 平成19年(2007) 3 月