『 東海道を歩く ー 土 山 宿(続き)  』




土山(つちやま)宿

安藤広重の土山宿・春の雨"安藤(歌川)広重は、天保(1833)の保永堂版で、土山宿を春の雨と題して、雨の中、笠を目深にかぶり、合羽を羽織った大名行列の一行が、背を丸めながら、増水した田村川板橋を渡り、田村神社の杜の中を宿場にむかう構図で描いている (右写真)
江戸時代には、土山は雨が多い土地柄という、印象が強かったようで、上記の絵でも、雨の情景が描かれている。 
海道橋" 土山宿は、江戸から四十九番目の宿場で、田村川板橋から西の松尾川(野洲川)まで、二十二町五十五間(約2.5km)の細長い宿場だった。  田村川に架かっている海道橋は、平成十七年七月に竣工したもので、当時の板橋を再現した、という (右写真)
当時の板橋は、巾2間1尺5寸(約4.1m)、長さは20間3尺(約37.3m)で、橋を渡ると、右側に橋番所があり、橋のたもとには、高札場があったようである。 板橋が架けられたのは、
田村川" 安永四年(1775)で、それ以前の東海道は、川の手前で左折して、国道1号にでる道(現存)である (右写真の左側に道があり、その先で国道で途切れている)
道は消滅しているが、国道の約五十メートル先で、田村川を徒歩で渡り、道の駅あいの土山の先の左側(現存)にある道に合流していた、という。 
東海道は、橋の完成により、安永四年(1775)からは、田村川橋を渡って、田村神社の
田村神社の鳥居" 境内に入り、神社の参道で直角に曲がり、土山宿へ向かった。  街道を歩くと、右側に、田村神社の二の鳥居、常夜燈、狛犬が並んで建っている (右写真)
折角の機会なので、参道を歩き、田村神社に向かう。  田村神社は、平安時代弘仁十三年(822)の創建と伝えられる古い神社で、蝦夷征討で功績のあった坂上田村麻呂と嵯峨天皇、倭姫命を祀っている。 東海道名所図会には、 「 祭神、中央、将軍田村麻呂、相殿、東の方、
田村神社拝殿" 嵯峨天皇、西の方、鈴鹿御前 」、とあり、 「 当社旧記に所見なし 」 、とも記している。 鬱蒼たる樹林に囲まれた参道を歩いていくと、正面に見えるのが拝殿である (右写真)
田村神社の生い立ちには、異説もある。 垂仁(崇神)天皇の御代(紀元前47年)に、鈴鹿大神として、倭姫 命を祀ったことが創始、その後、弘仁十三年(822)、嵯峨上皇が坂上田村麻呂
田村神社太鼓橋" の霊を鈴鹿社に合祀して、社号を田村神社と定めた、というものである。 田村神社の由緒書は、そのあたりをぼかした表現になっていた。 東海道名所図会の 当社旧記に所見なし は、そのあたりをついているのだろう。  拝殿を過ぎると、禊場から流れてきた川を渡る厄落とし太鼓橋があった (右写真)
弘仁元年(810)田村麻呂が嵯峨天皇の勅を奉じて鈴鹿の悪鬼を討伐したことから、
田村神社本殿" 厄よけの神として有名のようである。 本殿は、元文四年(1739)に焼失した社殿を再建したもので、築後二百六十年以上になるという。 向拝に、牡丹と孔雀、そして、鳳凰(ほうおう)を彫刻されている (右写真)
参拝を済ませ、二の鳥居まで引きかえす。  国道1号に面した一の鳥居までの参道にある永夜燈と刻まれた四つの燈籠は文政十二年のものだった。 
かにが坂飴・高岡商店" 鳥居のところに出て国道を横断歩道橋を渡ると、左側にかにが坂飴の高岡商店がある。 恵心僧都が、蟹の供養をするために村人に石塔を建てるよう願い、また、蟹の甲羅を模した飴を作り、厄除けにするよう言い残した、という飴が、かにが坂飴である。 かにが坂飴は、今でも1つ1つ手作りされている、という (右写真)
その先に、道の駅 あいの土山があったので、少し早いが、休憩となった。 
お土産" 売店のメニューは、そばとうどんだけだったので、肉うどんを注文したが、肉が想像したより多く入っていた。 朝出掛けに食べただけなので、これで一安心。  お土産に、厄除けのかにが坂飴と手もみ新茶の土山茶を購入した (右写真)
十二時十五分出発。 道の駅の脇の道を入っていくと、土山宿の大きな案内板があった。 
公園の石碑" 安永四年以前の東海道は、田村川を渡って、この左側の道に続いていたのである。 
左の公園の前には、松の木が植えられて、土山宿と書いた石碑が建っていた (右写真)
その先、数十メートル歩くと、右側に、東海道土山宿の標柱が立っていた。 
このあたりは生野町で、前述の岐阜女子大のレポートによると、町家と農家が混在していたところである。 土山宿は、天保年間の記録では、家数三百五十一軒、宿内人口
旧旅籠鳥居本屋" 千五百五人、本陣は二軒、脇本陣はなく、旅籠は四十四軒とある。 
右側に、東海道土山宿旅籠鳥居本屋 という木札がある家を見つけた (右写真)
最初は気付かなかったのであるが、昔の屋号が書かれた木札が、各家の玄関に下がっているのである。 旅籠鳥居本屋はその中の1軒か? 説明はないので分らない。 
お六櫛商三日月屋跡" 少し歩くと、左側に祠があり、脇に、東海道の道標と歌碑があるが、最近のものらしい。  右側の家前で、お孫さんを遊ばしていたお婆ちゃんがいた (右写真)
その脇に、東海道土山宿お六櫛商三日月屋の木札がある。 お六櫛は、たしか、中山道の薮原宿の名物のはず?! 妻籠宿に住んでいたお六という娘が使ったみねばりの木で作った櫛が由来で、現在でも薮原で作られている。 
お婆ちゃんは、「 詳しいことは分らないが、江戸時代の土山宿はお六櫛を商う店が多く
上島鬼貫の句碑" あり、街道の名物になっていた。 」、といわれた。 その先にも、お六櫛商を掲げた木札が数軒あったが、どの家も三日月屋となっている。 これらから推察すると、薮原の三日月屋から仕入れた櫛をここで販売していたのではないだろうか?? 
櫛が名物だったことは、 上島鬼貫の句碑で確認できた (右写真)
       「   吹け波ふけ   櫛を買いたり   秋の風    」   
東海道一里塚跡" 上島鬼貫は、伊丹の生まれで、東の芭蕉、西の鬼貫といわれた人物で、彼が、貞享三年 (1686)の秋、東海道を旅して、当地でお六櫛を買い求め、鈴鹿に向かうとき詠んだ句 である。 古い家が多く、連子格子のある家が並んでいた。  それを見ながら、歩いて行くと、右側の家の前に、日本橋から百十番目の土山一里塚跡の標柱があった (右写真)
この地方は、一里塚を一里山と呼ぶようで、地名の一里山町はそこからきているのだろう。
油屋跡" その先で、微妙に、右に曲がっている。 このあたりからが中垣外町であろうか?  道の左側に、立派な塀のある大きな建物の家があった (右写真)
江戸時代の屋号は油屋権右衛門とあるので、油商を営んでいた家なのだろう。 
前述のレポートでは、町家の主体となっているのは中垣外町、稲荷町、中町、吉川町である、とあるが、連子格子に漆喰壁の家もある。 旅籠だった家の前には、旅籠跡の石柱が立っている。  昔の街道がそのままのような感じがするところであった。 表見川に架かる橋には、
ポスター" 街道にまつわる絵が陶板になり、張られていた。  橋を渡ると、緩やかな坂道で、左にカーブする。  その先の左手に、白山神社があるが、このあたりは、古い家が少ない感じがした。  民家のガラス戸に張られた鈴鹿馬子唄全国大会のポスターには、馬子に引かれて、とぼとぼ歩く馬の姿が描かれ、妙に哀愁を帯びていた (右写真)
正和堂という菓子屋があり、万人講もなか、伊賀饅頭、という看板を出していた。 
大原製茶場" 旅籠跡の石柱が目だつ。 稲荷町には、旅籠が八軒あった、と前述のレポートにあるので、このあたりだろうか?   道が左にカーブし、その先の左側に、連子格子と白い漆喰壁の家があったので、覗くと、大原製茶場とあった (右写真)
土山茶は、文和五年(1356)、南土山の常明寺を再興した鈍翁了愚禅師が、京都の大徳寺から、茶の種を持ち帰って、植えたのが始まり、といわれるので、歴史は古い。 
井筒屋跡" 右側のさじや酒店の前には、三軒の旅籠跡の石柱が並べて建っていた。  道の反対にある民家の前には、 森白仙終焉の地 井筒屋跡 の石柱があった (右写真)
森白泉は、森鴎外の祖父で、津和野藩亀井家の典医だったが、文久元年(1861)、参勤交代に従い、江戸からの旅の途中、ここでなくなった。 そのはす向かいは、平野屋
の跡。 森鴎外は、明治三十三年三月一日、一泊二日で祖父の墓参りに訪れ、
平野屋に宿泊した。 その時、 「 (祖父の泊まった)宿舎井筒屋といふもの存ぜりやと
問いに既に絶えたり 」 (答えられた) 、と小倉日記に書かれている。  その先の左側に、
二階屋脇本陣跡" 江戸中期の建物を改造した、食事処うかい屋がある。  ぜんざいや土山名物だった夕霧そば(鴨南蛮)があるが、食事をすませてしまったので、寄らずに先を急ぐ。  このあたりは中町で、宿場の中心である。 天保には脇本陣はなかったが、時期によってはあったのだろうか?  左側の家の前に、二階屋脇本陣跡の石柱があった (右写真)
そのはす向かいの連子格子の家は、土山宿かしきやで、左側に道があるが、道を挟ん
問屋場跡" だ左側の自動販売機の脇には、問屋場、成道学校跡の石柱が建っていた (右写真)
土山宿の問屋場は、中町と隣の吉川町にあった、とされるが、問屋役の自宅に設けられたようなので、問屋役が変るたびにその場所が変ったと、いう。  右の空き地が問屋場跡のようで、問屋が廃止された後は、成道学校として利用された、とあった。 
東海道伝馬館" 道の奥には、東海道伝馬館がある(無料、9時〜17時、月曜と火曜は休み)
東海道伝馬館は、江戸時代の農家の建物を移築した施設である (右写真)
その中に、問屋場を再現したり、大名行列のジオラマを設けたりしているが、時間があれば寄ればよいという程度に思えた 。 
街道に戻ると、先程の空地の左に、蔵がある立派な屋敷がある。 
問屋宅跡" 二階は白壁、下半分が奥に三尺引っ込んだ格子造りの大きな家で、玄関脇には、土山宿油佐の木札があり、その先の四辻の角に、問屋宅跡の石柱があった (右写真)
空地にあった問屋場を仕切っていた宿場役人を務めていた家で、 土山宿は、南土山村と北土山村と二つの村からなり、問屋場も、こちらの南土山村と隣の北土山村の問屋場で、交代して務めていたのである。 
本陣跡" 四辻の隣の青黒い(どう表現すべきか分らない)建物は、土山宿本陣跡である (右写真)
土山宿本陣は、寛永三年(1634)、三代将軍徳川家光が上洛するに当り設けられたもので、初代当主は、甲賀武士、土山鹿之助の末裔、土山喜左衛門で、甲賀忍者の末裔ともいわれる。 明治元年(1868)九月の天皇行幸の際、この本陣で誕生日を迎えられ、御神酒とするめが下賜された、という。 明治三年(1870)、東海道の宿駅制度廃止により、廃業となった。 
旅籠近江屋跡" 建物の左側に、土山宿本陣跡の石柱があり、隣に、明治天皇聖蹟碑と歌碑が建っていた。  右側の旅籠近江屋跡の建物は、旅籠風に思えたが・・・・ (右写真)
少し歩くと、左側に土山公民館があり、道の反対側の駐車場には土山宿の大きな案内板が立っている。 その先の左側の漆喰壁の家は茶屋で、その先は交差点である。 
交差点を越えると、吉川町で、江戸時代は北土山村だった。 
大黒屋公園" 右側にある大黒屋公園の正面には、大黒屋本陣跡と土山宿問屋場跡の石柱が並んで建っていて、そこから少し離れた左側に、高札場跡の石柱がある (右写真)
土山宿は、宿場が出来た当初は土山宿本陣だけだったが、参勤交代で往来が増加したので、当宿の豪商であった大黒屋立岡へ控本陣を命じた。 傍らの説明では、何時出来たのかはわからないが、土山宿本陣と同規模だった、と思われる、と書かれていた。 
高桑らんこうの句碑" 奥に、明治天皇聖蹟碑があるところから見ると、東海道が廃止されるまであったことは間違いない。 境内には、加賀国金沢生まれで虚白禅師の師匠であった高桑闌更(らんこう)が詠んだ 「 土山や 唄にもうたう はつしぐれ 」 という大きな句碑が建っていた。 
また、境内に巖稲荷神社跡の石柱があるが、その近くに台座のようなものがあるので、燃失でもしたのだろう。  道はここで大きく右に曲がる。 向かい側の民家の前には、土山陣屋跡の石柱
大黒橋" が建っている。 土山宿は、幕府が支配する天領だったので、幕府から派遣された代官などの役人が詰めていたが、陣屋は、派遣された代官の自宅が使われることが多かった。  その先に流れる川は吉川で、渡る橋は大黒橋である (右写真)
この橋には、鈴鹿馬子唄の一節とそれを表現した絵が陶板になって張られていた。 
鈴鹿馬子唄" 馬子唄に、 坂は照るてる鈴鹿は曇るあいの土山雨が降る と、いうフレーズがあるが、 あいの土山についてはいろいろな説がある (右写真)
間の宿(あいのしゅく)と言ったことからという説や藍染をやっていたという説などである。 間の宿というのは幕府が設けた宿場から宿場まで距離が長いため、休憩するために置かれた宿のことである。 その意味では宿場であるので当てはまらない。 しかし、東海道が始まった当時は、宿場
ではなかったが、坂下から水口まで距離が長かったので、ここが間の宿として使われたことは
常明寺" 間違いないと思うので、馬子たちはそれをあいのしゅく土山と唄ったことは、充分考えられる。  十三時十一分、大黒橋を渡る。 少し歩くと、常明寺の案内があるので、左折して百メートルほど行くと、常明禅寺の石柱があり、右折すると、寺の門に着いた (右写真)
常明寺には、森鴎外の祖父が葬られていたが、鴎外が墓参りに訪れると、墓が荒れ果てていたので、住職に頼み、墓を整備した。 その後、祖母と母が葬られたが、昭和に入り、故郷の
吉川町か大門町" 津和野の寺に移された。 現在は森白仙の供養塔が建つ。 この地方の俳諧の指導者だった虚白は、この寺の住持であった。 
境内には、芭蕉の 「 さみだれに 鳰のうき巣を 見にゆかん 」 という句碑がある。 
街道に戻る。 江戸時代、吉川町は旅籠は多く、少なくとも、七つはあったが、隣の大門町に入ると、町家が少なくなったとあるが、ここはどちらの町だろう? (右写真)
ここから五百メートル足らずで、国道1号線と合流することになるが、江戸時代には愛宕町、
土山宿案内板" 辻町と続き、愛宕町に入ると、町家が増える傾向にあった、という。  ここからしばらく歩くと、左側に土山宿の大きな案内板がある (右写真)
前述の岐阜女子大のレポートによると、辻町と滝町の北には、町家は半分か、三分の一程度を占めるだけだったが、大中規模の旅籠が見られるとあり、その理由として、宿の西寄りに、
旅籠跡の石柱" 御代参街道へ至る脇道があるため、と説明している。 ここまでくると、頻繁に見た 旅籠跡の石柱は、まばらになった。  これが小生が見た最後の石柱か?  (右写真)
道は相変わらず、左右に蛇行しているが、大局的に見ると、右にカーブしている。  そんなことを思いながら、歩いて行くと、正面に道路、右側に白い塀のようなものが見えてきた。 近づいていくと、国道1号線で、白い塀のようなものは、土山宿の見付のつもりのようである。 
東海道土山宿の石柱" 白い塀の中には、松が植えられ、常夜燈と東海道土山宿の石柱が建っていた (右写真)
江戸時代の東海道は、国道1号を横断したところで、北西の方向に向かって道が続いていた。  その道は松尾川(現在の野洲川)の渡し場に出て、舟で川を渡っていたのである。  国道を横断すると、右側の店と左の駐車場の間に細い道がある。 道の左端に、二基の道標が建っている
御代参街道の道標" が、御代参街道の起点の道標である  (右写真)
小さな方の道標には、 右 北国たか街道 ひの八まんみち と、刻まれていて、ここが、 東海道と御代参街道との追分だったのである。 「 お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる 」 と、謳われた御代参街道は、ここから多賀大社へ行く近道で、また、それを経由し北国街道や中山道にも通じ、多賀大社にお参りする人々や近江商人などが行きかった道だった (御代参街道は巻末参照)
東海道は、方角的には駐車場の方だと思うが、道が失われていて歩くことはできない。 
土山宿の終わりは、この道標ということにして、十三時三十分、土山宿を終えた。

(ご 参 考) 御代参街道

御代参街道の意味であるが、伊勢神宮は天照大神を祀り、皇室は祖先神として敬い、 皇室や公家自身あるいは代参の使者が定期的に訪れた。 それらの人が歩いたことから>御代参街道という名が付いた。 
室町時代に入ると、皇室の力が衰えたが、江戸時代に入ると、庶民により伊勢神宮参拝が行われるようになった。  多賀大社は天照大神の親神の伊邪那岐と伊邪那美の二神を祀られていることから、 その往きか帰りには必ず多賀大社へ参るものとされたのである。  「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」と謳われたの雑謡はこのことを謳ったものである。 
  


平成19年(2007)   5 月


(50)水口宿へ                                           旅の目次に戻る






かうんたぁ。