『 東海道を歩く ー 宮 宿   』


鳴海宿から宮宿への道は、北方あるいは北西への道となるが、当時の海岸線との関係である。 
途中の三王山には千鳥塚、笠寺観音を祀る笠覆寺には春雨塚など、松尾芭蕉の句碑が多い。 
また、年魚市潟(あゆちがた)は、万葉集にも詠われた名勝で、愛知県の名の由来といわれる。 
宮宿は熱田神宮の門前町として、伊勢や美濃そして木曽への分岐点として大きな宿場町を形成していた。





鳴海宿から笠寺立場へ

作町交差点 平成17年3月2日、鳴海宿から宮宿を経て、七里の渡し場まで歩く予定である。 名鉄鳴海駅を出て鳴海宿の作町交差点を右折し、今日の旅が始まった (右写真)
名古屋市内は、戦災で焼け野原になったと聞くし、伊勢湾台風でも大きな被害があったので、東海道はなくなっていると思っていたが、この先、かなりの長い区間が残っていたのである 戦災当時は、緑区はまだ名古屋市でなく、焼失を免れ、南区あたりも区画整理がなく、道路拡張
古い屋敷 もハイピッチで行われなかったため、旧道が残ったらしい。  作町の両脇には古い家がところどころ残っているが、町のはずれの右側の白壁に黒い板の塀を張り巡らした屋敷は大きかった (右写真)
作町交差点から五百メートルほど歩くと、三皿交差点で、左右に県道36号が通り車の行き来が激しい。 東海道は交差点を越えて、北に向かって進む。 作町まで西に向かっていた
村社式内成海神社の石柱 のに少し変に思ったが、江戸時代には鳴海から熱田にかけて、南側は干潟か 海だったとある。 なるほどなるほど ・・・・
その先の右側に、村社式内成海神社の石柱がある。 神社の創建は朱鳥元年(686年)で、草薙剣が熱田に還座された時、日本武尊の縁により鎮座された、と伝えられ、根古屋城を築城の際、この東方にある二子山に転座した (右写真)
鉾ノ木貝塚 少し歩くと、右側に丹下町常夜燈が建っているが、ここまでが、鳴海宿である。 隣に天正十五年の子安地蔵大菩薩光明の石柱があった。 鉾ノ木に入ると、右側は民家一軒か二軒先から高台になっていて、この先、三王山の先まで続いている。 右側の野原に、鉾ノ木貝塚の案内板が立っていた (右写真)
縄文時代早期から前期にかけての貝塚で、貝層はハイガイを主とし、縄文の荒い土器
や薄手の細線文土器などが出土した。 上層部から出土した土器は鉾ノ木式と呼称される、
千句塚公園レリーフ と説明にあった。 とすると、今歩いているところは、太古は海であったのだろう。 50m先の右側に狭い道の入口に、正一位緒畑稲荷神社の石柱と千鳥塚の道標が建っている。 坂を上ると、千句塚公園と書かれたレリーフが現れ、星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥 という芭蕉の句が刻まれている (右写真)
左手は広場公園になっているが、俳聖芭蕉の有名な千鳥塚は、直進だが、かなり急な坂
千鳥塚 だった。 五分くらいで坂は終り、その先の木の下に、千鳥塚があった。  この碑は、松尾芭蕉が、貞享四年(1687)冬十一月、寺島安信宅での歌仙の巻が満尾した記念に建てたもので、 高さ五十センチ位の小さな青ぽい自然石で出来ている (右写真)
碑の表面に千鳥塚、その下に武城江東散人芭蕉桃青と、芭蕉直筆の文字で刻まれている。 

緒畑稲荷神社 裏面には、知足軒寂照、寺島業言、同 安信、出羽守自笑、児玉重辰、沙門如風と、連衆の鳴海六俳人の名が見られる。 側面には、貞亨四丁卯十一月日と、興行の年月日が刻まれている。 芭蕉存命中の芭蕉塚は全国でもここしかない貴重なものということで、名古屋市の重要文化財になっている。 三王山の上は広場になっていて、子供が野球をしていた。 その北側には、緒畑稲荷神社があった (右写真)
高台で見晴らしがよいので、しばし市内を眺めて、東海道に戻る。 この先すぐの三王山
緒畑稲荷神社 交差点で、県道59号線を渡り、直進すると、山下西交差点で、広い道と合流し、その先少し上り坂になるが、天白川に架かる天白橋を渡ると、南区に入る (右写真)
天白川は、江戸時代にはすでに同じ名前だった。 東海道宿村大概帳には、天白川有と記されている。 東海道名所記には、同じ名前ではないが、田畠橋(でんばくはし)とあり、長さ十五間(約30m)と書かれている。 天白橋西交差点を越え、赤坪交差点を渡る。 
笠寺一里塚 東海道の道標がないなあ、と思っていたが、歩道に絵が薄れて今にも消え入りそうであるが、東海道のイラストが描かれていた。 東海道はその先は右にカーブし、道が細くなるが、その先の三差路になっているところに、笠寺一里塚がある (右写真)
直径十メートル、高さ三メートルの土を盛った上に、大きく育った榎(えのき)が生えていて、予想したより迫力がある。 現在は東側だけが残り、反対側は大正時代に消滅したようである。 
見晴台遺跡 ここから笠寺の立場で、江戸時代には、立場茶屋があったところである。 右側の狭い道を入って行くと、小高い岡という感じの場所に出る。 ここは、見晴台遺跡で、現在も発掘が続けられているようだが、簡単なブランコと滑り台があったので、遊び場も兼ねた公園のようになっているようである (右写真)
このあたりから、熱田、御器所、名古屋と台地が続く土地で、旧石器時代から人が住んでいた
笠寺立場跡 といい、台地の上に、幅四メートル、深さ四メートルの大きな濠がめぐらされ、集落が作られていた。 もっとも栄えたのは、弥生時代後期から古墳時代前期で、これまでに百八十軒以上の竪穴住居跡が発見されている、とあった。 街道に戻り進むと、茶屋は残っていないが、古そうな家が数軒あった (右写真)
五百メートル程行くと、右側の池の向こうに山門があり、天林山笠覆寺という石柱が建って
泉増院 いる。 道の反対に、玉照姫と書かれた大きな石碑があるので、なんだろうと上っていくと、そこには、泉増院という寺があり、本尊が玉照姫像といい、縁結びとして売り出していた (右写真)
街道に戻り、右側の橋を渡り、楼門をくぐると、正面の本堂の前には赤いのぼりが林立していた。 
笠寺観音として多くの参詣客を集めているが、正式の名前は天林山笠覆寺(しょうふくじ) といい、本尊は十一面観世音菩薩像である。 笠寺の地名は、寺名に由来する。 
笠覆寺 本尊の十一面観音が笠をかぶっているので、笠覆寺あるいは笠寺の名で呼ばれて来た (右写真ー本堂)
天平八年(736)の開基とされるが、現在地にきたのは、藤原兼平がお堂を建て、小松寺から笠覆寺に改めた時である (詳細は巻末参照)
京の公卿、藤原兼平と鳴海の少女、玉照姫のロマンスに笠寺観音が係わる話は面白い。 
玉照殿 先程訪れた泉増院が縁結びとして売り出していたのはこの話によるのだが、笠覆寺は燃失した玉照姫と兼平を祀るお堂を本殿の右前に再建し、玉照姫の本家はこちらと主張し、PRに努めていた。 両者の競争の行方は?! (右写真)
本堂にのぼり、お参りを済ませる。 笠覆寺の境内は広く参詣人も多い。 本堂の右手に、宮本武蔵供養碑と千鳥塚碑があった 新免武蔵守玄信之碑とある石碑は、百年忌の延亨元年
武蔵供養碑と千鳥塚 (1744)のもので、武蔵の孫弟子に当たる左右田邦後の子孫と門弟が建立したもので、ここに建てられた経緯は分からないが、武蔵は尾張徳川家に仕官を願ったがかなわなかったという出来事はある。 隣に、芭蕉の千鳥塚碑が建っている (右写真)
名古屋の医師で俳人だった人が、芭蕉三十六回忌に建立したものなので、鳴海の句碑よりは、かなり遅い。  石柱には、良く読めないが、  星崎の闇を見よや啼千鳥 芭蕉翁  と、刻まれているようである。 
多宝塔 本堂の左側に行くと、多宝塔があった。 建立の時期ははっきりしないが、江戸時代中期(1753)頃らしい (右写真)
その奥に、幾つかの句碑が建っている場所があった。 湿気が多そうなところで、文字がよく読めない。  その左側に、芭蕉の弟子だった鳴海の俳人、下里知足の孫、鐵叟 亀世が、 安永弐年(1773)に建立した春雨塚と呼ばれる芭蕉の句碑があった。 
春雨塚 碑の表には、此の御寺の縁起の人のかたるを聞侍りて、とあり、
笠寺やもらぬ岩屋も春乃雨      芭蕉翁桃青
たびねを起す花の鐘撞         知足
かさ寺や夕日こぼるる晴しぐれ     素堂
大悲のこの葉鰭となる池        蝶羽     という句が刻まれている (右写真)
裏面には、 かさ寺や浮世の雨を峰の月 鐵叟 亀世  とあった。 
境内には、多くの常夜燈や延命地蔵尊を始め、多くのお堂があった。 その前を通り、寺を出た。 

(ご参考) 笠寺縁起

聖武天皇の天平八年(736)のある日、呼続(よびつぎ)の浜辺に一本の浮木が漂着した。 それが夜な夜な不思議な光を放ったので、付近の者はそれを見て恐れおののいた。 近くに住んでいた善光上人は、夢の中で不思議なお告げを受け、その浮木から十一面観世音菩薩像を刻み、粕畠に、お堂を建立し、安置して、天林山 小松寺と名付けた 。 建立から百数十年も過ぎると、寺は荒れ果てて、本尊の観世音像は風雨にさらされたままになってしまった。  鳴海の長者のもとにいた少女は美貌なことへのねたみもあり、こき使われていた。 ある雨の日、ずぶ濡れになっている観音様を見て可哀想に思い、自分が冠っていた笠を観音様にかぶせた。  それからしばらくたった頃、都から来た公卿が、鳴海宿に立ち寄り娘の話を聞いた。 関白の息子の中将、藤原兼平である。 彼は心優しき娘をみそめ、妻として迎えた。 彼女は、玉照姫(たまてるひめ)と呼ばれた。  延長八年(930)、兼平と玉照姫は、現在地にお寺を再建、姫が笠をかぶらせた観音を本尊として祀り、寺名を笠覆寺(りゅうふくじ)と改名した。  それから二百年の時が流れると、寺は再び荒廃してしまう。 鎌倉時代、嘉禎四年(1238)、阿願上人の発願によって、再び諸堂や塔が建立された。 鐘楼の梵鐘はその時造られたものである。  現在の堂塔は江戸時代の正保〜宝暦年間に建てられたものである。  明治に入ると、廃仏棄釈の動きも影響してか、かっての威光は消え、建物の崩壊や土地の逸散など、寺は貧しくなっていった。  昭和に入り、住職の政識和尚が、本堂の瓦屋根に松の木が生えた寺を憂い、津々浦々を托鉢し、寄進を受けて復興の浄財を集め、後援者達の協力で、ついに往年の壮観を取り戻すことができた。  地名の笠寺は笠覆寺に由来するもので、今でもは笠寺観音という名で呼びならわされている。   (笠覆寺の由来より)

笠寺立場から宮宿へ

笠寺商店街 寺の西門を出ると、大力餅の看板があり、その隣は地蔵堂である。 笠寺商店街のアーケードはあるが、門前町のような通りであった (右写真)
商店街を抜けると、笠寺西門交差点に出た。 広い道の左に笠寺の由来の石碑が建っていた。 交差点を越え、その先の名鉄の踏み切りを渡って、すぐ右折し、狭い道に入る。 これが東海道で、ここからしばらく、車の少ない道が続く。 
新しい道標 ここから呼続(よびつぎ)で、道案内の旧東海道の道標が新しい。 それはそのはず、宿場制度四百年を記念し、造られたものである (右写真)
呼続という地名は、宮の宿より渡し舟の出港を呼びついたことからといわれるが、江戸時代 は、四方を川と海に囲まれた、陸の浮島のようなところだったらしく、巨松が生い茂っていたことから、松の巨嶋(こじま)と呼ばれた、とある。 
富部神社 しばらく行くと、左に入る道があり、突き当った右側に、富部神社があった。  慶長八年(1603)に津島神社の牛頭天王を勧請し創建された神社だが、尾張の領主、松平忠吉(徳川家康の四男)の病気快癒により、百石の所領 を拝領し、本殿、祭文殿、回廊が建てられた(右写真)
本殿は、一間社造で、桧皮葺き、正面の蟇股、破風、懸がい等は桃山様式を伝えており、国の重要文化財に指定されている。 祭文殿も回廊 もほとんど当時のまま残っている。 明治維新の 神仏分離で、神宮寺は潰され、神社もその目に遭いそうになったが、素盞鳴命(すさのうのみこと)
桜神明社 祀るということで、難を免れた、という。  街道に戻ると、道の右側に、桜神明社ありの案内があるので、右の小道に入り、道なりに歩く。 狭い道なのに、両側の家には車が駐車している。 うまく入れるもんだと、感心しながら、歩いた。  目当ての神社は、名鉄踏み切り手前の左側の木が茂る奥にあった (右写真)
五世紀に築かれたという、直径三十六メートル、高さ四メートル五十センチの古墳の上に、
清水稲荷の石仏 社殿が造られていた。  街道に戻ると、左側に、名古屋十名所と書かれた石柱と赤い鳥居があった。 石柱は大正時代に建てられたもので、清水稲荷神社である。  中に入って行くと、羅漢様かどうかわからぬが、石仏が至る所に置かれていた (右写真)
表情も違い面白かった。  弘法堂もあったので、お稲荷さんにあるのは何故と思ったが、西隣にある長楽寺の鎮守・清水叱尼真天 が安置されている、とあったので、豊川稲荷と同じ、寺系の稲荷なのである。  境内には、鶏が放し飼いになっていて、餌をくれると思ったのか寄って
記念石碑 きた。 江戸時代、東海道が通っていた呼続浜は、潮騒が磯を洗い、大磯の名を残す。  ここで作られた塩は、星崎あたりから北にのびて飯田街道に接続する塩付街道を通って、小牧や信州に運ばれた、と、宿駅400年記念石碑 に書かれていた (右写真)
塩付小学校を過ぎ、車道を横断し進む。 左にあった誓願寺は、民家と変わらない造りの家だった。 また、街道から左に少し入った白毫寺は、元亀弐年(1571)の創建と伝えられる寺院
年魚市潟の石碑 である。 建物はそれほど古いものではないが、門前の楠は、名古屋市の保存木に指定されている。  年魚市潟勝景と、刻まれた石碑があった (右写真)
昔、このあたりは、あゆち潟と呼ばれ、知多の浦を望む勝景の地で、万葉集に、
 『 桜田へ  鶴鳴き渡る   年魚市潟  潮干にけらし  鶴鳴き渡る  』
 『 年魚市潟  潮干にけらし  知多の浦に  朝漕ぐ舟も 沖に寄る見ゆ 』
と歌われ、歌の枕詞に使われる名勝だった。 愛知県は、上記の歌の年魚市潟
湯あみ地蔵 に由来するといわれ、あゆちがあいちに転じたと、愛知県史にある。  家が立ち並び、海は遠くなってしまったので、年魚市潟の風景を想像することは難しかった。 ふと立ち止まると、満開な梅の花が目に入り、ほのかな匂りがした。 このあたりは、東海道が南北に、これと交差して、鎌倉街道が横切っている。  街道の右手に地蔵院があり、湯あみ地蔵といわれ、湯をかけて拝むと願いがかなう、という言い伝えが残る (右写真) 
江戸時代の公家、土御門泰邦は、陰陽家で、宝暦の改暦の当事者であるが、宝暦十年(1710)に江戸に下った際の紀行文、東行話説には、東海道宮の渡しの呼続の浜を、
山崎橋橋標  「  松風や 夜寒の里に なれていた つるは千年を ゆびつぎの浜  」 と、詠んでいる。  少し先から坂道に変わった。 江戸時代には、山崎の急坂と呼ばれ、もっと急な坂であったようである。 山崎の立場茶屋が建ち、かなりの賑わっていた、とあるが、今は住宅地になっている。  やがて、山崎川にかかる橋を渡るが、橋のたもとに、山崎橋と刻まれた橋標が残っていた (右写真)
橋を渡って右側に入ったところの金網の中に道標があるが、なんと書かれているのか、
ブラザー工業 分からなかった。 道を左折して進むと、左に名四国道事務所、右にブラザー工業の建物が見えてきた (右写真)
残っていた東海道は、神穂1丁目で終り、国道1号線に合流してしまった。 国道が通る交差点は松田橋で、国道1号と都市高速道路とが交差し、交通量は多いが、陸橋があったので、安心して渡れた。 しばらく、国道を歩き、右手のトヨトミの大きな広告塔のところで、国道は
JR踏み切り 坂道になり、陸橋である。  東海道はここで、国道と別れ、左側の小道を下ると、東海道線の踏み切りがあり、電車が目の前を通り過ぎていった (右写真)
通過を待って、東海道線を越えると、その先の左側に、石仏を納めた小さな社があった。 その先は小高くなっているところは、熱田橋である。 橋を渡ったところは宮縄手と呼ばれ、昔は松並木だったようだが、今は木は一本も残っていない。 
宮宿案内板 このあたりには、数軒古い家が残っていた。  名鉄の鉄橋の下を通り抜けると、右側の三角地に、宮宿の案内板が建っている。 このあたりに、伝馬町一里塚があったようであるが、どれなのが表示板がないので、確認はできなかった (右写真)
少し歩くと、道の左側のコンクリート製の建物の前に、裁断橋と書かれた橋状のものがあった。 江戸時代には、建物の手前に精進川が流れ、裁断橋が架っていたが、今は暗渠になり、
川は見えない。 裁断橋を渡ると、宮宿である。 



後半に続く( 宮 宿 )