『 東海道を歩く ー 鳴海宿(続き)   』


 

間の宿・有松宿

有松の入口付近平成17年1月25日。 天気も良く、歩くのに気候もよい。  今回は、有松と鳴海宿を歩くため、名鉄競馬場前駅から出発する (右写真)
国道1号線に出て、左へ入る細い道に入ったが、すぐに終わってしまった。  一キロ程歩くと右に入る道がある。  これが東海道で、ここから鳴海宿まで続いている。  池鯉鮒宿から鳴海宿間は、二里三十町(約11km)であるが、江戸時代には、この間に なにもなく、特に、このあたり
有松の入口付近 は、樹木が生い茂り、追剥も出る物騒なところだった。 国道から右に別れて、入ったところが、有松の入口で、このあたりは、最近の家が大部分だが、進むに連れて、漆喰で塗られた家が現れてくる (右写真)
尾張藩は、慶長十三年(1608)、桶狭間村の有松集落を分村し、知多郡阿久比村から十一戸を移住させ、安永弐年(1125)に、間(あい)の宿にしたのである。  有松は耕地も少なく、
山車会館 茶屋としての営みにも限界があったため、尾張藩は、副業として絞染を奨励し、それが、新しい産業に育った。  少し歩くと、右側に有松の良き時代の産物といえる山車倉があった。  高山祭に登場する山車と同様、からくりを演じるすぐれもので、有料だが見学できる。 山車は思ったより背が高かった (右写真)
その先の左側に、有松鳴海絞会館がある。 名古屋市に併合される前の有松町役場 跡であるが、絞り商品の展示や絞り技術の実演を行っている。  有松絞りは、五代将軍綱吉への
井桁屋 献上品、絹布に絞りを施した手綱が話題に なり、全国津々浦々まで名声をとどろかせるようになった。  有松は、江戸時代から昭和初期にかけて、活況を呈した。  絞り産業で儲けた富を店先の装飾や家並みに充てることで、反映振りを競ってきたので、いつの間にか、田舎に京の有松、といわれるように なった。 その中でも、井桁屋服部家はすごい (右写真)
店舗兼住居部は、瓦葺に塗籠(ぬりごめ)造りで、卯達を設け、蔵は土蔵造りで、腰になまこ壁を用い、 防火対策を行っている絞り問屋を代表する建築物である。 その他、井戸屋形、客室部、
淡淡の歌碑 絞倉、藍倉、土倉、長屋数棟などが連なっていて、県の有形文化財に指定されている。 
街道に沿ったところに、歌碑があり、
     有松や   家の中なる   ふじのは那    淡 淡 
淡淡は、大阪の人で、東京に出て、晩年は、大阪で過ごしたとあるが、この句が、いつ読まれたかは書いてなかった (右写真)
この先にも、昔から有松絞りを生産販売をして来た店が多い。  竹田家の主屋は江戸時代、
竹田家住宅 茶室などは明治から大正時代にかけて整備されたもので、これまた、絞り問屋の繁栄した様を感じることができた (右写真)
その他にも、岡家や小塚家住宅のほか、数多くの古い建築が残っていて、文化庁の町並み保存地区に指定されている。  

(ご参考)「 絞りで栄えた 有松の町屋 」を紹介しますので、ご覧ください。

有松絞りは、はじめは九九利染めといわれていた。 名古屋城普請に集められた大名の家臣のうち、豊後のものの絞りの手拭に、竹田庄九 郎が目をつけたのが始めといわれる。 四十年ほどののち、豊後からきた医師の妻が絞りの手法をつたえ、産業としての準備ができ、三河、 知多の木綿産地を背景として発達した。 十八世紀後半には、隣村の鳴海、大高あたりまで拡大し、その営業権をめぐって有松との紛争を おこすほどまでになった。 

漆喰の壁が多いのは何故だろうと思っていたが、前述の絞り会館の資料に、
有松にて 「 天明四年(1784)の大火で村の大半が焼失してしまったが、その後、火災に備えて漆喰による塗籠造とし、萱葺き屋根を瓦葺とした。 」 と、あったので、得心がいった。 
 (右写真は井桁屋の土倉)
しかし、絞り産業は、分業制で数多の工程を経て完成するという、労働集約産業の最たるものなので、バブル期の人件費の高騰を期に、 低価額品は、中国に技術移転された結果、 かってのような活気はなくなった。 
今後、この町並が維持できるか? が、心配である。 有松のはずれは、祇園寺である。 
平部集落四本木は、右側の山裾に左京山住宅が拡がる。 
平部あたりは、名古屋のベットタウンでマンションや団地が立ち並ぶところに開発が進む。  それでも、一本道である旧東海道の両脇には、古い家も散見された (右写真)
ここから、旧鳴海町、現在は名古屋市緑区鳴海町である。 

鳴海(なるみ) 宿

平部北交差点の左側に、常夜燈があり、表面に、秋葉大権現、左側に永代常夜燈、右側に
秋葉大権現常夜燈 宿名内為安全、裏面に文化三丙寅(1806)正月と、刻まれているが、江戸時代には、ここが鳴海宿の江戸側の入口だったようである (右写真)
やがて、下中地区に入る。 この間、数キロ。 途中の民家前には、飛脚と旅女のレリーフが置かれていたりして、都会に近いのに、昔の面影もかすかに残る道であった。 
扇川に架かる中島橋を渡ると、鳴海宿の中心部に入った。 
東海道鳴海宿 鳴海宿は、天保十四年の東海道宿村大概帳によると、東西十五町十八間(約1.6km)に、家数八百四十七軒、人口三千六百四十三人、本陣は一軒、脇本陣は二軒、旅籠の数は二百六十八軒と、かなりの規模の宿場町で、東海道五十三次の浮世絵には、旅籠の様子が描かれているが、平成の今日には、そうした古い家は残っていない (右写真)
鳴海は、有松と共に、絞りで知られたところであったが、有松の方が生産や販売力が向上したので、鳴海と有松との間で、絞りの販売権をめぐって紛争が起こった、といわれる。 
瑞泉寺総門 鳴海宿に入ると、すぐ右手にあるのが瑞泉寺で、 重層本瓦葺の黄檗風四脚門の総門は、宇治黄檗山万福寺を模したもので、県の指定文化財になっている (右写真)
根古屋城主安原宗範が、応永十一年(1404)に、大徹禅師を開山として、平部山に創建した曹洞宗のお寺である。 文亀元年(1501)に、現在の場所に移建したが、明暦弐年(1656)の火災で焼失。 寛保元年(1741)以降、呑舟和尚により再建され、宝暦五年、堂宇が完成した。  境内には、宝暦六年(1766)に建立した本堂、書院、僧堂や秋葉堂などの伽藍が並び、
下郷家 壮観だった。 その先を右に少し入ると、、右側に立派な御屋敷があったので、角の店で聞いたところ、江戸時代から続く下郷家で、今でも、この一帯の土地を所有しているという。 前述の桶狭間の七石表の製作に金を出した家である (右写真)
鳴海は、小さな寺を含め、寺院が多い。 正面に万福寺、そして、右側に淨泉寺があった。 万福寺は、永享年間、三井右近太夫高行の創建で、真宗高田派、永禄三年(1560)の兵火で
万福寺 焼失したが、再建され、江戸末期に再々建された。 明治六年(1873)、鳴海小学校の仮校舎となり、校名を広道学校とした、と寺の案内にあった。 山門をくぐり、中に入ったが、本堂は大きく立派だった (右写真)
街道に戻り、先に進むと、その先は鉤型のように右に曲がっていた。  このあたりからが宿場の中心で、左側の緑生涯学習センターは問屋場跡のようである。 昭和三十八年の名古屋市
誓願寺 との合併までは、鳴海町役場だった。 その先の両側に、商店や民家が建ち並ぶが古い家はなさそうである。 本町交差点を右折すると、幾つかの寺があるが、曲がってすぐの左側の歩道に案内板が建っているのが誓願寺である (右写真)
誓願寺は、天正元年(1573)の創建で、本尊は阿弥陀如来であるが、境内に、芭蕉供養塔と芭蕉堂があることで有名である。 芭蕉の門下の下里知足は、鳴海宿で千代倉という屋号の
芭蕉堂 造り酒屋を営んでいたが、芭蕉のスポンサーの一人だったようで、芭蕉との交流を示す芭蕉の手紙が数通残っている、という。 また、笈の小文の旅の途中、芭蕉はここに休息している。 
安政五年(1858)に、彼の菩提寺であるこの寺に、芭蕉堂が建てられた (右写真)
芭蕉供養塔は、芭蕉が没した一ヶ月後の元禄七年(1694)十一月十二日に、追悼句会
芭蕉供養塔 が営まれた折、鳴海の門下達によって、如意寺に建てられた、日本最古の芭蕉碑である。  この供養塔は高さが六十センチくらいの青色の自然石で、表面に芭蕉翁、背面に元禄七年(1694)十月十二日とその没年月日が記されているもので、市の指定史跡となっている (右写真)
下里知足の菩提寺に芭蕉堂が建設されると、如意寺にあった芭蕉供養塔も、その脇に移された。 

徳本上人名号塔 知足の孫が、安永弐年(1773)に、笠寺観音に春雨塚を建立しているが、芭蕉堂の建設に、知足の子孫が係わったのかは確認できなかった。 
境内には、文政弐年の徳本上人の名号塔もあった (右写真)
誓願寺の隣に、聖観世音のお堂があり、その隣に赤い幟が並んでいるのは、曹洞宗の尼寺、庚申山円道寺で、四百年以上前に創建された寺で、ご本尊は青面金剛尊(庚申様)である。 この坂は庚申坂と呼ぶようで、上って行くと、道が別れる右側に、神社があり、
天神社 天神社 成海神社旧蹟の石柱がある。 天神社は、鳴海城の鎮守として、この場所に祀られ、成海神社の御旅所、とあった (右写真)
日本武尊が東征の折、鳴海浦に立ち寄り、対岸の火高(現在の大高)丘陵の尾張氏館を望見して、    鳴海浦を見れば   遠い火高地  この夕浦に   渡らへむかも   
と叫んだと、熱田神宮寛平縁起にあり、成海神社は、これに由来するという尾張氏の
鳴海城址公園 神社で、延喜式神名帳にも、登録されている古社であるが、根古屋(鳴海)城が築城された時、敷地にかかることから、北方に移されたようである。 天神社の境内に も根古屋(鳴海)城祉の石柱があるが、神社の左側の道の左の小道に入ると、根古屋(鳴海)城祉があり、現在は、鳴海城址公園になっている (右写真)
応永年間(1394頃)に、安原宗範によって築かれた城であるが、その後、今川方の城
円龍寺 になっていたが、桶狭間の戦いで、信長軍に攻められて落城し、織田方の佐久間信盛、信栄父子が城主をつとめ、天正末期に廃城になった。 天神社の右側の坂を上ると、円龍寺という寺があり、寺伝では、今から七百年前には奈良の法隆寺に匹敵する伽藍が建つ善照寺という寺だった、とあるが、今はその面影はなかった  (右写真)
更に登ると、鳴海小学校で、道の反対側に、善照寺砦跡の道標があったが、時間の
本陣跡 関係もあるので、そこで引きかえした。 坂を下りて、本町交差点に戻り、ここを右折する。 この通りは、家の建て替えが進んでいて、古い家は壊されてしまっている。 右側の自転車屋辺りが二軒あった脇本陣跡のような気がするが、表示杭の類がないので、確認できなかった。 その先左側の山車倉の前に、本陣跡の表示があった (右写真)
鳴海本陣は間口39m、奥行51m、建坪235坪、159畳の規模だった、と案内板には
如意寺 あった。 右側の路地の奥にある如意寺は、康平弐年(1059)に鳴海町上の山で、地蔵尊を本尊として、青鬼山地蔵堂として開山したが、応永五年(1398)に、無住国師が如意輪観音を本堂に祀った際、当時に移転し、応永二十年に現在の寺名になった、とある。 本堂の左側にある、蛤地蔵堂は尾張国六地蔵の第四番である (右写真)
金塗りの大きな地蔵さんが祀られていると聞いたので訪れたが、地蔵堂にはすりガラス
古い家 で覆われ、拝もうとしたが賽銭箱もないので、そのまま立ち去った。  街道に戻り進むと、 道は突き当たり、三差路になっている。 交差点には作町とあるが、地名は、桶狭間の戦い後、鳴海城主を務めた佐久間信盛、信栄父子から付いた、とされる (右写真)
東海道はここで右折し、北に向うが、ここから二百メートル位の道の両脇には古い家が残っていた。 少し歩くと、三皿交差点で、左右に県道36号が通り車の行き来が激しい。 
三皿 作町交差点からここまで五百メートル足らずである。 東海道は交差点を越えて進む。 
両脇は民家が建ち並んでいる (右写真)
右側に、村社式内成海神社の石柱があるが、成海神社は根古屋城を築城の際、移転させられた神社で、この東方にある。 
その先には、丹下町常夜燈が建っていた。 傍らの案内板には、 「 鳴海宿の西の入口の
丹下町常夜燈 丹下町に建てられた常夜燈で、表 秋葉大権現、右 寛政四年(1792)、左 新馬中、裏 願主重因、と刻まれている。 旅人の目印や宿場内 の人々及び伝馬の馬方集の安全と火災厄除けなどを秋葉社に寄願した火防神として大切な存在だった。 平部の常夜燈と共に鳴海宿の両端に残っているのは、旧宿場町として、貴重である、 (名古屋市教育委員会) 」 と、あった。  鳴海宿はここまでである。 


( 知立宿 〜 有松 )  平成19年(2007) 3 月 
( 有松 〜 鳴海宿 )  平成17年(2005) 1 月
( 鳴海宿 )     平成17年(2005) 1 月


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かうんたぁ。