江戸時代、西三河地方は、水が不足した荒地だったが、明治用水の完成により、緑の農地が生まれた。
それを祀るのが、明治川神社である。
知立宿は、池鯉鮒宿とも書かれ、古来より馬市や木綿市が開かれた土地である。
宿場のはずれにある無量寿寺や業平寺は、八橋のかきつばたの故事とともに、有名である。
平成19年3月1日、名古屋美術館で開かれた大エルミタージェ美術館展を午前中に見て、昼から岡崎宿から池鯉鮒宿まで歩く予定で、名鉄で東岡崎駅まで行った (右写真)
駅前で味噌煮込みうどんを食べ、今日の歩きを開始した。 本来は、名鉄岡崎公園駅で降りればよいのだが、前回暗くなりそうと、急いて見落としがあったので、備前屋からもう一度歩いた。 そして、愛環の高架下をくぐり、 岡崎城下二十七曲り 八帖村 の標石から、東海道の
新たな旅が始まった。
旧八帖村は、岡崎城から八丁(約1000m)の距離にあることから、名が付けられた。 真っ直ぐの道が東海道で、八帖往還道である。 八丁蔵通りの表示があり、八丁味噌の郷である。 右折をすると、カクキュー八丁味噌(早川家、創業正保年間)があり、資料館と味噌蔵を見学することができる (右写真)
八丁味噌は、明暦元年(1655)に、朝鮮通信使が岡崎に宿泊した時、使節より伝えられ
たと、いわれる。 カクキューには、訪れているので、直進すると、左側に、まるや八丁味噌(大田家、創業永禄年間)が
ある。
両側には、古い家並が続いていた (右写真)
突き当たりの丁字路には、昭和六十一年に建てられた、左江戸、右西京、と刻まれた道標が立っている。 東海道は、ここを右折して進むと、国道1号線を左折すると、矢作川で、昭和
二十六年に完成した、全長二百七十六メートルの橋が架かる (右写真)
江戸時代の慶長六年(1601)に、東海道に架けられた橋は、ここから百メートル程下流で、長さ七十五間(約136m)の土橋だった。
橋ができたことにより、これまで矢作川の川岸にあった宿場は存在価値をなくし、矢作宿は廃止になった。
慶長十二年八月に大水が出て、
橋が流されたが、その際、八帖村の家屋が流され、被害に遭った人々が、伝馬町の北側に
移り、
榎町(祐金町)の人が南側に住み替えて、現在の伝馬町になった。 伝馬町に旅籠が
集中していた理由が分かるような気がした。
寛永十一年(1634)に、二百八間(約378m)の板橋が完成した。
安藤広重の岡崎宿の浮世絵に、矢作川に架かる立派な木の橋が描かれているが、その橋だろうか? (右写真)
その後、洪水などによる流失で、九回も架け替えが行われた。 幕末から明治十一年(1878)に、十回目の新橋が
完成するまでの約二十三年間は橋がなく、渡船による通行で、
明治元年の明治天皇東征の際は、舟橋を利用した、とある。
幕末の尊王攘夷の動きを考え、幕府は、橋を再建するのをあえて遅らせたのだろうか?
矢作橋を渡ろうとすると、橋の架け替え工事中で、ガードマンの指図であわてて渡った (右写真)
。 かなり大
掛かりな工事で、工事関係者の話では今年中には終わらないとのこと、だった。 橋を渡ると、国道を横断して橋の右側に出た。
ここには、矢矧橋のたもとに槍を持つ武士と
子供の像がある。 あるはずだった!!
日吉丸(豊臣秀吉の幼名)と阿波蜂須賀小六(正勝・蜂須賀家の始祖)とが、この河岸で運命の出会いをした姿を像にした、出会いの像である。 ところが、その像がない。 そこにあったお断りには、 橋の工事で一時撤去、橋が完成したら、また、この場所に置く 、とあった (右写真)
なお、秀吉が、蜂須賀小六に出逢った頃は、橋はなかったはずで、吉川英治の太閤記では、
無一文の日吉丸は腹を痛め、川に繋がれた小船で寝ていると、たたき起こしたのが川を渡る
船を捜していた小六だった、とあり、橋は出てこない。
この先で左折し、入った細い道が東海道で、旧矢作村である。
右手に親鸞聖人の旧跡、とある勝蓮寺があり、左側には、近江屋本舗というお菓子屋さんがあった。 古い家はほとんどないが、雰囲気のある家並みであった (右写真)
弥五騰神社という変った名前の神社があった。
帰宅して調べてみると、津島神社の摂社に、 彌五郎殿社(やごろうでんしゃ) というのがあることが分かった。
津島神社のホームページには、 堀田彌五郎正泰は、吉野朝廷に仕え、姓祖を祀る此の社を再建し、
己の佩刀・大原真守作の太刀(現津島神社社宝、重要文化財に指定)を寄進されたことにより、彌五郎殿社と称する、 と、あるが、
この神社はその員外社のようである。 鳥居手前の右側には、南無日蓮大菩薩・・、と刻まれた、大きな石柱が建っていた。
少し先の右側に、、往生要集を著わした恵心僧都が長徳三年(997)に建立した、と伝えられる寺がある。 誓願寺で、街道に面して十王堂というお堂があった (右写真)
案内には、 寿永三年(1135)三月、矢作の兼高長者の娘、浄瑠璃姫は、源義経を慕うあまり、菅生(すごう)川に身を投げた。
長者は、姫の遺体を当寺に埋葬し、十王堂を再建し、義経と浄瑠璃姫を弔う木像を作り、義経より姫に贈られた名笛、薄墨と姫の鏡を安置した。
堂内には、十王の極彩色の像と地獄と天国の姿が描かれている。 なお、浄瑠璃姫と義経の伝承から
生まれたのが浄瑠璃節(義太夫節の別名)である、とあった。
この道は長くは続かず、安城街道入口交差点で、再び、国道1号線に合流してしまった。 これから、二キロ程は、これといったものもなく、ただ黙々と国道を歩いた。 鹿乗橋を渡り、宇頭町を過ぎると、安城市に入った。 尾崎東信号交差点で、道は二又に分かれるが、右側の松並木がある道に入った。 これが東海道だった道である (右写真)
国道の喧騒から逃れられ、ほっと一安心!!
しかし、道に区分された歩道はなく、線が引かれているだけ。
従って、溝の蓋を歩くのが楽で安全ということになる。
しばらく歩くと、うっそうとした森が見えてきた。 熊野神社で、境内は大変広い (右写真)
この辺りは、昭和十九年に、土浦海軍航空隊分遣隊として、創設された第一岡崎海軍航空隊の跡地である。 劣勢挽回のため、搭乗員養成を目的として創設されたが、翌年、終戦により
解散した。
予科練は、土浦だけだと思っていたが、戦況が急で慌てて岡崎に追加した、
という訳だが、戦争に負けたお陰で若い人の命を落とさないですんだ。 鳥居の脇に、予科練の碑があった (巻末参照)
戦争は愚かなものだ、と今更ながら思う。
跡地は、戦後の食糧難時代に開墾されて、農地になっている。
鳥居の前を通り過ぎたところに、一里塚跡の小さな石碑と目明しの松があった (右写真)
その脇の案内板は、一里塚の説明かと思ったが、鎌倉街道の説明だった (巻末参照)
少し歩くと、宇頭茶屋交差点になった。 旧宇頭村は、立場茶屋があったところである。
大きな松がある妙教寺、内外神明社を横目に見て歩く。 宇頭茶屋説教所のバス停の表示を見て、説教所とは何?と、右側に入った。
寺のような建物はあったが、住職がいる様子はなく、説教所の意味が分からないまま終わった (右写真)
少し歩いた先は、江戸時代の大浜村で、ここにも茶屋があったようで、天保十四年(1842)には、宇頭茶屋と大浜茶屋で、宿争いが起きている。
その先の右側に、大浜茶屋の庄屋、柴田助太夫の霊が祀られている永安寺がある (右写真)
柴田助太夫は、村民の窮乏を見かねて、助郷の免除を願い出て、刑死された人である。 寺の境内の右側に、枝を左右に大きく伸ばしている立派な松がある。 樹高四メートル五十センチ、
枝張り東西十七メートル、南北二十四メートル、樹齢は三百年以上の老木で、県の天然記念物である。
幹が上に伸びず、地をはうように伸びていて、その形が雲を得て、まさに天に昇ろうとする龍を思わせることから、雲龍の松という (右写真)
浜屋バス停を過ぎると、右手に松の木が見えてきた。
明治川神社交差点を越えた右側に、明治用水の記念碑が幾つかあり、その中の一つに、明治十三年(1880)四月の新用水成業式
(竣工式)に出席した松方正義が揮毫した、「 疎通千里,利澤万世 」 と、刻まれた石碑もあった (右写真)
明治用水は、江戸時代の末期、碧海郡和泉村(安城市和泉町)の豪農、都築弥厚が、碧海(へきかい)台地に、矢作川の水を引き、開墾を行うという計画で、始まった。 幕府の許可は
得られたが、弥厚が病死。 その後、岡本や伊豫田等が遺志を継いで、新たな計画を立てたが、
一部の農民の反対もあり、苦労の上、明治十三年に完成した。
左側に明治川神社の石柱と鳥居があるので、神社の境内に入っていった。
明治川神社は、用水完成後設立が企画され、明治十七年に創建された。
明治用水の開発に功績のあった都築弥厚、岡本兵松、伊豫田与八郎等を祀っている (右写真)
そうして造られた明治用水は、現在は暗渠となっている。 街道に戻り、また、歩き始める。
日は傾きかなり暗くなってきた。 道の両側に、松並木が現れ、やがて、両側が工場地帯となったが、松並木は続いている。
しかし、あるところまで行くと、なくなった。 ところが、また、現れ、その後は現れたり消えたりを繰り返した。 松並木があるところには歩道もあり、松並木が途切れると歩道も消えてしまう (右写真)
黙々と歩き続けると、来迎寺町の交差点に出た。 道とガードレールの間に、正面に、
八橋業平作観音従是四丁半北 有 、脇に、八橋無量寺 と、刻まれた古い道標があった。 これは、在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道標である (右写真)
知立宿は、平成十七年一月に、先行して歩き済みである。 当日は、名鉄知立駅から東海道を歩き、ここを右折し、無量寿寺と鎌倉街道の一部も訪問した (詳細は、後述)
道を直進し、東海道を歩く。 日は陰り、薄暗くなる中、来迎寺一里塚はシルエット状に見えた。 やがて、松並木に入り、石碑群を脇目で見ながら、日が沈むのと競争するように足を速めた。 夜の帳がおりる時、名鉄知立駅に着き、今日の岡崎からの旅は終わった。
(ご 参 考) 予科練の碑
予科練の碑には、
「 此処は第一岡崎海軍航空隊跡にて予科練習生揺籃の地なり
自らの若き命を楯として祖国を守らんと全国より志願して選ばれた若人が六ヶ月間の
猛訓練に耐え海軍航空機搭乗員としての精神を培いたる地なり
生涯を祖国に捧げんとこの地に集い実戦航空隊へ巣立つも戦局に利なく大空をはばたく
間もなく血
涙をのんだ終戦
爾来二十八年吾等相寄り相語り既に亡き戦友の慰霊を兼ねた『予科錬の碑』を建立するものである 」
と、あった。
(ご 参 考) 鎌倉街道
鎌倉幕府は、建久三年(1192)、鎌倉と京都の間に鎌倉街道を定め、六十三ヶ所の宿場を設置した。
西三河の鎌倉街道は、この先の知立市八橋の根曲がりの松から、安城市の里町森の不乗森(のらすのもり)神社を出て、証文山の東を通り、熊野神社に至り、ここで右折し、南東の方向に下って行き、西別所を通り、山崎町を経て、岡崎市新堀町に向かい、大和町桑子(旧西矢作)へと通じていた。
街道が神社の森を通り抜けたので、踏分け(ふみわけ)の森と呼ばれていた。
(注) 現地の案内板にあったものだが、小生の一部修正加筆あり。