現在の地名、知立は、池鯉鮒とも書き、江戸時代は、池鯉鮒の方が多く使われたようである。 古来より、馬市や木綿市が開かれた土地で、中世は鎌倉街道の要衡として栄え、江戸時代には東海道の宿場として賑わったところ。
安藤広重は、池鯉鮒宿を、 首夏馬市 と題し、東野で行われた馬市の様子を描いている (右写真)
おびただしい馬のいななきが聞こえたことだろうから、この一帯のにぎやかだったことは想像できよう。 知立は、現在でも、この地方の交通の要路として、重要な位置を
占めていることに変わりはない。
平成17年1月25日、今日は、名鉄知立駅から東に向かい、
カキツバタで有名な無量寿寺を見て、鎌倉街道を一部通り、宿場に入るというコースを歩く予定である。 知立は、昭和三十年代に、大団地が出来、名古屋へ勤める人々が、多く移り住んだ割には、駅前の商店街は発展せず、駅前の整備も進まないまま推移し、駅舎も、以前と変わらぬバラック的である (右写真)
駅舎を出ると、右側に有料駐車場が並び、その前に、公会堂と書かれた壊れかけた門柱
が残る。 駅前商店街は、定休日ということで、しーんと静まりかえっていた。
映画館だったところは、いつ廃業したのか、古いポスターが、貼ったままになっていた。
東海道は、国道1号線の南側に平行して残っている。 少し歩くと、山町交差点で、北に向かい、国道1号の交差点を渡り、幟がひらめく慈眼寺の境内に入っていった (右写真)
寺は、知多地方の観音霊場の一つで、老人のグループがバスで乗りつけ、本堂で朱印を
いただいている光景を目にした (右写真)
知立は、木綿の集散地で、馬が運搬に使われた関係から、馬市が栄えたといわれる。
馬市は、四月二十五日に始まり、五月五日に終わった。 当初、知立宿の東の入口にあたる東野で行われていたが、明治に入り、この寺の境内に移ったのである。
昭和初期までに、馬が牛に代わったものの、鯖市も兼ねて賑わったが、昭和十八年を最後に、
幕を閉じた。 境内には、馬頭観世音菩薩及家畜市場、と書かれた大きな石柱が建っていた (右写真)
傍らの草むらにも、馬の碑 刈谷馬車合資会社、と刻まれた石碑が残っている。 馬の碑は、街道で亡くなった馬の供養碑で、刈谷馬車合資会社は、明治に入り各地に誕生した馬車を営業する会社の一つである。 しかし、馬車は、車の登場により、やがて、終わりを告げた。
街道に戻り、東に向かう。 左に倉庫のようなものがあり、防災小屋(国土交通省)と、書かれていたが、
この小屋の使命はなんなのか?!
その先は三叉路になっていて、右折する車で込んでいた。 こむ理由は、右折すると踏み切りがあるのと、踏み切りの先に、市役所があるせいのようである。
東海道は直進し、右側の小さな社の石仏に手を合わせて通り過ぎた。 少し上ると、国道にでる。 道の反対側には派手な結婚式場のチャペルが見えた (右写真)
東海道は、この先、道の反対側に残っているが、横断歩道はないので、地下連絡道を歩き、
反対側に出た。 すぐ左に入る道が、東海道で、慶長九年(1604)、幕府の五街道の制定により、一里塚と松並木の整備が義務付けられたが、その松並木が残っていて、地元では、知立の松並木と呼んでいる (右写真)
道巾六メートル、五百メートル程の区間に 今でも、百七十本ほどの松が残っている。
両側には、工場が立ち並び、走る車が多いという環境の悪さなのに、松の保存状態は良いように
思われた。 東海道に入るとすぐ、大きな松の木の下、小さな石仏が祀られていた (右写真)
松の樹姿を眺めながら歩く。 松は歩道に向かって曲がっているものもあり、時代を感じさせる味わいがあった。 道を歩いて行くと、馬市之跡碑があった。 市教育委員会の資料に、
この松並木の特徴は側道を持つことだが、これは馬市の馬をつなぐためのものと推定
される。 また、この付近には四百頭から五百頭の馬が繋がれ、馬の値段を決めるところを談合松と
いった。 と、ある。
万葉歌碑もあり、大宝弐年(702)、持統天皇が三河行幸の際、詠まれた歌
「 引馬野爾 仁保布榛原 入乱 衣爾保波勢 多鼻能 知師爾 長忌寸 奥麻呂 」
(ひきまのに にほふはりはら いりみだれ ころもにほはせ たびの しるしに ながのいみき おくまろ)
が、刻まれていた (右写真)
傍らの説明板には、 松並木西の地名を引馬野と呼ぶが、この歌から天皇が駿河の興津とともにここに立ち寄られたことは明らか 、というようなことが書かれていた。
俳人、麦人が、和田英作を当地に訪れた際に詠んだ句が、馬市句碑になっていた。
「 かきつばた 名に八ッ橋の なつかしく 蝶つばめ馬市 たてしあととめて 」
少し歩くと、衣浦有料道路があり、その先の左側に、カキツバタで有名な無量寿寺への道標が建っていた。 片方に、 従是五丁北 八橋業平作・・・ と、刻まれ、もう片方には、 無量寿寺 と、書かれている道標である (右写真)
整備された散歩道になっていたので、そのまま、左側の小さな道に入っていった。 明治用水を暗渠にした際、その上に造られた道で、明治用水緑道とあった。 ところどころに置かれた
看板には、明治用水の歴史が解説されていたが、江戸時代の西三河と知多半島は、河川のない荒地で、農民は、水の確保に苦労していたのである。 公園の石碑に弘厚の夢と書かれていたが、明治用水建設のきっかけを作った人である (右写真)
明治用水は、明治十二年(1879)に、工事を始め、明治十四年に、西井筋が完成し、その後も工事が続いた。 戦後に、愛知用水が作られたのも、こうした先人の努力によることが大きい (巻末参照)
來迎寺小学校の先の交差点で左折し、歩くこと数分で、無量寿寺に到着した。
臨済宗妙心寺派に属する寺で、奈良時代の慶雲元年(704)の創立といわれ、弘仁十二年(821)にこの地に移され、無量寿寺となった。 その後、荒廃したのを文化九年(1812)、方巌売茶(ほうがん ばいさ)翁により再建され、杜若庭園もこの時完成した (右写真)
寺の本尊は、正観音像で、在原業平の作と伝えられるものである。
本堂前の小高いところに、八橋古碑があった (右写真)
八橋古碑は、亀の台座の上に、碑柱が立つ亀甲碑という、亀の形をした変わったもので、寛保二年(1741)の建立である。 碑文は、荻生徂徠の門人が、この地を訪れ、八橋と在原業平の故事について、漢文でまとめたものであると、傍らの案内板にあった。
隣に、松尾芭蕉の連句碑がある。
『 かきつばた 我に発句の おもひあり 芭蕉 』
『 麦穂なみ よるうるおいの里 知足 』
と刻まれているもので、碑を建てたのは、知足の子孫、下郷学海で、安永六年(1777)の建立である。
芭蕉は、貞享弐年(1684)、のざらし紀行 の旅を終えたが、翌年四月、木曽路を経ての帰途、鳴海の俳人、下郷知足の家に泊り、歌会を開いた時の作といわれる。
寺の裏にまわると、 伝説羽田玄喜二児の墓 と、書かれた二つの並んだ墓があった。
二児の水死を悲しみ、当寺で尼になった母親が建てた墓で、村人の力で、入り江に八つの橋を架けたことから、この村は八橋と名付けられた、と伝えられる (右写真)
無量寿寺は、かきつばたで有名であるが、八橋を有名にしたのは、なんといっても、伊勢物語の第八話の東下りである。 ある男(業平と想定されている)が都から道に迷いつつ、
この地にたどり着いた。 川が幾筋も流れ、
水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つにわたせるによりてなむ八橋といひける。
燕子花(かきつばた)が、水辺に美しく咲いていたので、連れの者と かきつばた という五文字を句の上において歌を詠もう、ということになった。 その男は、次のような歌を詠んだ。
「 唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思う 」
高校時代の古文で登場するもので、この地で読むと感じが違った (右上写真ー庭園)
しかし、花のかけらもない時期なので人出はなく、閑散としていた。
業平が、茶を飲んだという井戸が残っていた (右写真)
また、花崗岩で作られた宝しょう印塔の杜若姫供養塔があった。 杜若姫は、小野中将篁(たかむら)の娘と伝えられ、在原業平が、東下りの時、在原業平を慕って来て、八橋の逢妻川
で追いついたが、業平の心を得ることができず、悲しんで、池に身を投げて果てた、と
いう、悲しい話が伝えられている。 折角の機会なので、在原寺に向かう。
左側の淨教寺の入口の鐘楼門は、宝暦(1757)の建立であるが、延享元年(1744)に鋳造された鐘は、第2次大戦時に供出したので、新しいものである (右写真)
その先の交差点を右折すると、道巾が狭い道になった。 この道は、鎌倉街道といわれ
るが、車線は一台分強なので、車のすれ違いに難儀していた。 少し歩くと、左側の小高いところに、寺が見える。 これが、どうやら、在原寺のようである。 寺に入る坂の途中に、
「 萩刈って 松籟ばかり 在原寺 経四楼 」 と、刻まれた常夜燈が建っていた (右写真)
在原寺は臨済宗妙心寺派の寺で、在原業平立像が祀られている。
寛平年間(889〜897)、在原塚を守る人の御堂として創建された、と伝えられ、一時途絶えたが、文化六年(1809)に
方巌売茶によって、再建された。 本堂は、見たところ比較的新しく、本堂前の右手に業平の竹、左に、業平ゆかりのひとむらすヽきが植えられていた (右写真)
本堂左側奥には、義玄句碑があり、 「 いつも聞く 家ははや寝て 遠砧(とうきぬた) 」 と、いう句が刻まれていた。
市教育委員会の案内板によると、 兼子義玄は、尾張藩士の子として生まれたが、嘉永五年(1822)、在原寺に入寺、仏門に仕えるかたわら、
俳諧をたしなんだ。 義玄の俳風を慕って、多くの門人が集まった、 とある。
その奥に、古い墓石がいくつかあったが、その中に、無量寿寺で八橋の名前の由来に
登場する二児の母、師孝尼の供養塔といわれる宝しょう印塔(室町時代のもの)があった。
種田山頭火の句碑には、昭和十四年(1939)に、当地を訪れた時、詠まれた句が刻まれていた (右写真)
『 むかし男ありけりという松が青く
はこべ花さく旅のある日のすなほにも
枯草にかすかな風がある旅で
業平塚にて 山頭火 』
この寺には句碑が多く、歌を詠む人が多く、訪れるようである。
寺を出て、街道を西に向かうと、左の小山に、黒松が見えた。
鎌倉街道の根上りの松と呼ばれる松である (右写真)
安藤広重の東海道名所図会に描かれている松とも言われ、根の部分にあった土が、年月を経て流出し、根が上ったように見えることから、その名が付いた。
鎌倉街道の松並木の一部という説もあるようだが、どれくらい古いのかは分からないようである。
その先の名鉄三河線の踏み切りを渡ると、右側に小高い塚があるが、業平の菩堤を弔うため築かれた業平塚である (右写真)
在原寺縁起に、 寛平年間(889〜897)、業平の骨を分骨し、八橋川辺りの地に塚を築いた、 と伝えられるもので、十メートルほどの高さだったが、隣に工場が出来ているため、
見晴らしはいいというものではなかった。
塚の上にある業平供養塔は、鎌倉末期頃、業平をしのんで建立されたもので、塔身に、金剛界四仏と梵語で刻まれた、関西式といわれる宝篋印塔である (右写真)
傍らには、数百年もの年月を経た松があったが、伊勢湾台風で枯死したので、今はない。
江戸時代、東海道を旅する人に、在原業平の古跡は人気があったようで、わざわざ遠回りして、この鎌倉街道を歩いたようである。 塚の下に、八橋伝説地碑があり、この先に流れる逢妻川
が、当時、蜘蛛の手のようになっていたようで、くもでが、歌の枕詞になるくらい、有名だった、 と、書かれていた (右写真)
謡曲の杜若 の東下りの段には、 「 ささがにの蜘蛛手にかかる八橋や。 澤邊に匂う杜若。 在原の中将のはるばる来ぬと詠ぜしも。 今身の上に知られたり 」 とあり、
十六夜日記には、「 ささがにの蜘蛛手あやふき八橋を夕ぐれかけてわたりぬるかな 」
と、ある。 現在の景色では、蜘蛛手にかかる川筋はぴんとこないが、狭間(はざま)
のようなところだったのだろう。
この先に、業平がかきつばたの歌を詠んだとされる、落田中の一本松があるが、そこまでは行かないで、もときた道を引き返した。
淨教寺のある交差点まで戻り、右折し、東海道に出た。
東海道との交差点には、元禄時代に作られたという無量寿寺への道標が建っていた。
左折すると、安城を経由して岡崎宿である。
ここを右折し、少し歩くと、道の左側に来迎寺の一里塚があった (右写真)
左側だけか、と思ったが、右の駐車場に入ると、民家の間にもう一つの一里塚があった。
その先の道は特に印象に残るものがなく、ただ歩くだけで、明治用水緑道の入口で、さっき歩いた道に合流した。 松並木に入ると、道祖神を見つけた (右写真)
知立の松並木の枝ぶりに感心しながら歩くと、国道に出て、また、東海道の細い道に入る。 やがて、山町交差点を過ぎると、古い家が数軒あったが、江戸時代といえるものではなさそ
う。
明治四十一年(1908)に、建てられた常夜灯が古いという程度で、古いもの残っていない。
はいよいよ、宿場の中心に入る。
中町交差点は六差路なので、分かりにくいが、やや右に入る細い道が東海道である。
右側の銀座タワービルの駐車場の前に、池鯉鮒宿問屋場之跡の石碑があったが、気を付けないと見つからないところだった (右写真)
左側に、知立セントピアホテル、右手はコンサートホールがあり、宿場付近は、すっかり開発の波に飲まれてしまった感じである。
脇本陣の表示はなくなっていて、その場所は分からな
かった。
本陣は、この通りにあると思ったが、国道419号の知立駅北口の交差点近くの道の右側にある貯水槽の脇に、本陣跡の石碑があった (右写真)
本陣は、峯家(杉屋本陣)だったが、没落したので、寛文二年(1662)に、永田家(永田本陣)に代わった。 敷地面積は三千坪、建坪三百坪と広大なものだったが、明治八年(1875)に取り壊された、と、傍らの案内板に書かれていた。 本陣は旧街道に面していたのだが、土地が
処分され、貯水槽のところだけが、かろうじて残ったのだろうと、推測できた。 街道に戻ると、その先の三叉路に、知立名物、あんまきの元祖の小松屋がある。 大あんまきとは、どらやきの生地に餡を巻き込んたものだが、大きいので1つ食べると満腹する (右写真)
名古屋に就職したとき、職場のおばちゃんが、新聞紙に包まった大あんまきをおやつに差し
入れてくれた。 当時は甘いものが不足していたので、感激した、という思い出があるお菓子である。
今は飽食の時代なので、以前のように売れなく、カスタットクリーム入りを出すなど、苦労しているようであった。
この先、道は鉤型に曲がっていて、小松屋を右折すると、左側に知立城跡がある。
池鯉鮒には、代々、知立神社の神官を務めた氷見氏が築いた城があり、桶狭間の戦いで城が炎上した後、新たに御殿が建てられたところ (右写真)
元禄の地震で、御殿が倒壊するまでは、将軍や藩主の休息所として使われたが、その後、
壊されてしまった。 現在は児童公園になり、城址を示す石柱が一本建っているだけである。
歩いて行くと、了運寺につきあたったので、ここを左に折れ、西町に入った。
西町を抜けると、右に入ったところに知立神社があり、街道の入口には常夜燈などが残っていた。 知立神社は池鯉鮒大明神といい、日本武尊ゆかりの神社である (右写真)
日本武尊東征の折、当地において、皇祖の神々に平定の祈願を行い、無事、その務め
を果したことにより、建国の祖神を祀ったのが神社の始めである (詳細は巻末参照)
参道にかかる太鼓橋(石橋)は、享保十七年の建設である。 寛政五年に建立されたという、芭蕉句碑は、少し分かりづらいところにあった (右写真)
「 ふだんたつ 池鯉鮒の宿の 木綿市 芭蕉翁 」
江戸で有名になっていた知立木綿を題材に詠んだもので、芭蕉没後百年忌に、当地の有志が建立したものである。
境内右側の多宝塔は、嘉祥三年(850)の創建と伝えられ、永正六年
(1509)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。
五月二日〜三日に行われる知立まつりといわれる神社の例祭では、偶数年に絢爛豪華な五台の山車が繰り出す。 また、外苑にある花しょうぶは、明治神宮からいただいた約六十品種の花しょうぶで、六月には多くの人で賑わう。 小生の家と近いので、ここ数年は写真を撮りに訪れている (右写真)
東海道に戻ると、その先に、総持寺がある。 元和弐年(1616)に創建された玉泉坊が
前身で、貞亨三年(1686)に総持寺に改称した。 明治五年(1572)、神仏混淆禁止令により、廃寺となったが、大正十三年に、天台寺門宗として、この地に再興された。 なお、明治以前の総持寺は、東海道の道筋、知立神社の手前の右側にあった (右写真)
寺の跡には、樹齢二百年余の大銀杏が、今も、元気に葉を茂らせていた。
寺を出て少し歩くと、川があり、左に橋が見えてくる。 川の手前で左にカーブして、逢妻橋に出る。 逢妻川は、伊勢物語の八橋に登場する逢妻男川が逢妻女川に合流した後の
名前である。 逢妻川を渡る
と、池鯉鮒宿は終わる。
(ご 参 考) 明治用水の歴史
江戸時代の西三河と知多半島は、河川のない荒地で、農民は、水の確保に苦労していた。
水不足を用水をつくることで解決しようとしたのが、碧海郡和泉村(安城市和泉町)の豪農、都築弥厚(つつぎやこう)である。 碧海台地に矢作川の水を引き、開墾を行うという計画を幕府に提出し、許可を得たが、病没してしまった。 その後、岡崎の庄屋伊豫田与八郎(いよだよはちろう)が計画したが、諸藩の了解が得られず、頓挫。 石井新田(安城市石井町)の開拓農民、岡本兵松(おかもとひょうまつ)の計画は、幕末の混乱で進まず、明治を迎えた。 伊豫田と岡本の計画は、愛知県の仲介により統合され、明治十二年(1879)に工事を始め、明治十四年に、西井筋が完成し、明治用水と名付けられた。 戦後に、知多半島を横断し、篠島までの愛知用水が作られたのも、こうした先人の努力によることが大きい。
明治用水の先人を祀る明治川神社は、安城市の東海道の道脇にある。
安城市が日本のデンマークとして戦後の教科書に載っていたこともあったが、
それもこの用水のお陰であったことを知った。
(ご 参 考) 知立神社
社伝によると、
「 景行天皇の御代(412)、日本武尊東征のおり、当地において、皇祖の神々に平定の祈願を行い、無事、その務めを果したことにより、当地に、建国の祖神を祀ったのが初め。 創建当初は山町の北に鎮座していたが、戦国時代に、上重原へ、天正元年(1573)に、現在地に移った。 」 とある。
嘉祥三年(850)、慈覚大師円仁が、当地に来た時、蝮(まむし)に咬まれたが、当社に参拝し祈願したところ、痛みも腫れもなくなった、という故事から、御札を携帯していれば、マムシや長虫避けになると信じられ、マムシよけの神として、全国的に有名だった。
また、境内の池に鯉や鮒が多くいたことから、池鯉鮒と呼ばれるようになったとも、いわれる。
境内右側の多宝塔は、嘉祥三年(850)の創建と伝えられ、永正
六年(1509)に再建されたものである。 塔の高さは十メートル、三間柿葺で、室町時代の様式を残す建物として、国の重要文化財に指定されている。
江戸時代には愛染明王がまつられていたが、神仏分離の際、これを総持寺に移し、相輪もとりのぞき、知立文庫と名を改めて、取り壊しを免れた、 という歴史がある。
本殿の右手には、豊玉媛命をまつる親母神社、天照皇大神はじめ10柱を合しする合祀殿、少名毘古那命をまつる小山天神社、秋葉神社など境内社が建っている。
五月二日〜三日に行われる知立まつりといわれる神社の例祭では、偶数年に絢爛豪華な五台の山車が繰り出す。 山車の上で、からくりと文楽(浄瑠璃)が上演されるが、山車で文楽が演じられるのはここだけという貴重なものである。
岡崎宿から池鯉鮒宿 平成19年(2007) 3 月
池鯉鮒宿 平成17年(2005) 1 月