『 東海道を歩く ー 吉 田 宿  』


吉田宿は、宿場町であると同時に城下町なので、出入りが厳重で、曲尺手といわれる鉤型になっていた。 
また、「 吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖が・・ 」 と、いった俗謡が良く唄われ、飯盛女が
多いことでも知られていた。





二川宿から吉田宿

JR二川駅 平成19年2月8日、名鉄電車の特急で豊橋まで行き、JRに乗り換えて、二川駅に着いた。 今日は、二川駅から吉田宿を経て御油宿まで歩く予定である (右写真)
明治維新後、東海道沿いに鉄道が敷設された際には、二川駅はなかったのであるが、鉄道の便利さを認識した地元住民が請願運動を行なった結果、二川宿と加宿大岩町の中間地点の
伊良湖阿志両神社道標 この場所に設置されたのである。  二川宿の東海道は、道が狭い上、歩道もないのだが、国道を避けた車が押し寄せてきて、危険である。 車は歩行者を気にせず、ビュービュー飛ばしていった。 二川駅を出た左側に、正面には伊良湖阿志両神社、右側には右東海道豊橋一里半、と書かれた道標があった (右写真)
伊良湖阿志両神社とは、渥美半島の突端にある伊良湖神社と田原市芦町柿ノ木 火打坂交差点 にある、式内社の阿志神社のことである。 道はカーブし、火打坂交差点に出るが、直進し火打坂を上っていくのが東海道で、左折すると、岩屋観音への道である  (右写真)
江戸時代の旅行案内の東海道名所図絵に、 亀見山窟堂(きけんざん、いわやどう)と号す。 ・・・ 大巌、堂後にあり、高さ八丈、幅廿丈余、岩形亀に似たり。 故に山号とす と、あるところで、大きな岩山の上に、観音像が立っているのが遠くからも見える。 
岩屋観音入口 岩屋観音の名は知っていたが、県のはずれにあるので、訪れることはなかったが、折角の機会なので、寄ってみることにした。  右側に見える高いところが岩屋緑地の展望台で、その下に豊橋市地下資源館の建物と緑地公園がある。  少し歩くと、岩屋緑地で、岩屋観音の入口になる (右写真)
右側に入るとすぐ、石碑が建っているが、ここから上り坂になり、歩くに比例して、傾斜が
道標 急になった。 こんなことを予想していなかったので、ややとまどいながら上って行くと、岩山が 見えてきた。 駐車場を越えて上ると、赤い幟がひらめく先に、弘法大師を祀る大師堂があるが、手前に道標があり、左よし田、右ふた川と刻まれていた (右写真)
大師堂の周りには、数多くの石仏が祀られている。  左に目を移すと、手前の左の建物は朱印帳受付で、奥に観音堂があった。  岩屋観音堂は、僧行基が、天平弐年(730)の諸国巡行
観音堂 の際、十一面千手観音像を刻んで、岩穴に安置して開いた、と伝えられるもので、 亀見山観音堂とか、岩屋堂とか、呼ばれていたようである (右写真)
当堂は、真言宗の寺院だったが、明治以降、二川宿にある大岩寺の境外仏堂となっているので、現在は曹洞宗の寺院ということになる。  また、三河三十三ヶ所巡礼の二番札所になっているので、大師堂の御参りの方が観音堂より多いようである。 
窟の石仏 お堂の右側の窟の前にあった一対の常夜燈には、夜燈と書かれ、年号は文化酉子秋八月とあり、吉田連とあった。 旧暦なので、八月があきなのだろうか?  窟のなかに石仏がいくつか祀られていたが、行基が最初に祀ったのもこうした石仏の一つだったのではないかと、思った (右写真)
(いわや)は、直立五十メートルもある大岩で、その岩の上に、聖観音像が立っている。 

岩上に立つ聖観音像 東海道名所図絵に、 岩頭に銅像の正観音を安ず。 明和弐年(1765)、江戸谷中より寄進す。 遠境より鮮にみゆる  と、あるのがそれである (右写真)
吉田大橋の架け替え工事を請け負った、江戸下谷の大工の茂平と善右衛門が、難工事で困り果て、観音堂 に参籠し、霊夢により、難工事を完成させた。 そのお礼として、明和弐年(1765)、下谷講中が寄進した九尺六寸(約2.9m)の大きな観音像である。 
聖観音像 釈光行は、その姿を、 君が代は かずは知られぬ さざれ石の みな大岩んぽ 山となるまで 、と富士紀行の中で、詠んでいる。 吉田の俳人、木朶 (もくだ)は、 霞む日に 海道一の たち仏  、と詠んだが、第二次大戦での金属供出で、この観音像は失われてしまった。 現在のは、昭和二十五年(1950)に地元の寄進により再建されたものである。  窟の先から上に登れる道が作られているので、苦労しながら登っていくと、大岩の頂(いただき)に聖観音像が祀られていた。 大変美しい姿だった (右写真)
高師口のクロマツ 豊橋市が一望できる展望台でもあった。  大岩観音を参拝する目的を果せたので満足したが、時計を見ると、一時間くらい経っている。  これはまずいと東海道に戻った。  昔の火打坂は薄暗く人もあまり通らないので怖かった、 と聞くが、今は道も整備され、そんな感じはしなかった。 道の右側に、東海道と書かれた標識があった (右写真)
坂を登りきりしばらく進むと、大きな園芸屋の角に信号があるが、大岩町北交差点で、
高師口のクロマツ この三叉路は左に曲がる。 対向二車線の道で、歩道帯も付いている。 しばらくいくと、左側に、ヤマハ音楽教室の看板の建物があり、松の木が見える (右写真)
高師口の旧東海道のクロマツといわれるもので、樹齢は壱百年以上、高さは十一メートル五十センチ、幹周りは二メートル三十四センチである。 昔は沢山あったのだろうが、今や一本になってしまっている。  それにしても、これだけ素敵な枝振りの松はそうあるものではない。 
高師口三叉路 本当に凄い。 冬だからだろうが、葉が赤茶けているのが気がかりである。  歩いていくと、左からくる少し太い道と合流する三叉路になる (右写真)
道の左側には豊橋岩屋郵便局があり、この道は国道1号と平行して続いている。  なお、この道を左折すると岩屋交差点があるが、国道の取り付け部分に、旧東海道・岩屋堂道という案内板があった。  火打坂からの東海道は、坂の途中から園芸店の敷地を通っていたようで、
東京庵飯村店 区画整理により、外側をぐるーと遠回りさせられた感じである。  合流した道を歩くと、最初は対向二車線なのに、右側の東京庵飯村店という蕎麦屋いくころには、対向一車線にかわり、しかも、歩道帯は片側にしかないのに、道の左右から車が入ってきて、また、出て行くという、二川宿で見た光景が再現されていた (右写真)
飯村(いむれ)町東川(飯村南2丁目)の交差点を越えると、道は、更に、狭くなり、車線区分が
清晨寺 なくなり、道に白線を引って、歩道帯にしている。 安心して歩けるのは、側溝のブロックの上だけである。    右側に、永禄十一年(1568)に始まったといわれる、日暁山清晨寺という寺があるが、本堂は質素というか、民家の大きなものというような感じだった (右写真)
その先に、二軒茶屋こども公園と、素朴な字で書かれた、空き地があった。  江戸時代に
ボロボロの門 は、二川宿と吉田宿の中間に位置するので、茶屋があったが、これがその茶屋のあった ところかは、説明がないので、分からない。  やがて、飯村の古い家並みが散在するようになるが、古い門だけ残っている所がある。  ただ古いだけでなく、ボロボロの門であるが、曹洞宗悟慶院別院と書いてある (右写真)
お寺だったらしいが、中にあるのは、普通の住宅である。  そのまま進むと、道は左に
殿田橋 カーブし、左側に、連子格子の家が現れると、柳生川に架かる殿田橋になる (右写真)
江戸時代には、飯村一里塚があったところで、それを示す石柱が、殿田橋を渡った先の交差点の一角にあるはずだった。  当日は右奥のマクドナルド前で、道の付け替え工事が行われていたこともあろうか、一里塚の石柱は見つけることはできなかった。 
東海道は国道1号線に合流し、しばらくの間は、単調な国道を歩かなければならない。 
円六橋寺山門 豊橋は昭和二十年六月十九日の深夜から六月二十日の未明にかけてのB29、九十機による空襲で、死者六百二十四名、燃失した家屋は一万六千八百六十六軒で、それまでの町並はほとんど焼失し、消えてしまったのである。 右側にセガワールドがある。 その後は東三輪、山中橋を渡り、三の輪町、伝馬町、そして円六橋と続く (右写真)
豊橋市は、戦後の都市計画によって復興した訳であるが、国道を歩いて気が付くのは、
寿泉禅寺山門 都心部に近くなるに比例して、戦後すぐ建てた、と思われる建物が残っていることである。  山中橋までは、比較的最近の家が多いのに対し、伝馬町から先は、壊れかけたみすぼらしい家が残っているのである。  瓦町の交差点角に、寿泉禅寺の大きな石門がそびえ立っていたが、 門前には延命地蔵の石碑が建っていた (右写真)
吉田宿の入口は近い。 


後半に続く( 吉 田 宿)







かうんたぁ。