『 東海道を歩く ー 吉田宿(続き)  』




吉田(よしだ) 宿

願成寺 吉田宿は、二川宿から六キロ、御油宿へ十キロ強の距離にある。 豊川に架けられた橋の名から、今橋といっっていたが、池田輝政が城主となった千六百年頃、縁起のよい吉の文字を取り入れて、吉田に変えられたのである。 戦災に遭ったので、古い建物はないが、瓦町から先の右側に不動院幼稚園、そして、願成寺がある (右写真)
吉田は、豊川の流れに近接して築城された吉田城を有する城下町であると同時に、 東海道の中では、大きな宿場の一つだったのである。 
西新町交差点 東海道は、城下の入口の東新町(江戸時代の町名は元新町)のところで、鉤型になっていた。 当時の東海道は、ここで左折し、一本目の道を右折し、突き当たったところを右折し、西新町(同新町)交差点に出た (右写真)
その先が東八町だが、交差点の北東角に、文化弐年(1805)に住民達の手で建てられたという秋葉山常夜燈が建っている。  江戸時代には、その先に、吉田城の東総門が、あったので、
東八町の東海道 門番が監視していたが、現在は、四差路の信号交差点で、地形が変り、 その痕跡は分からなかった。 それに近い歩きをしようとすると、東八町交差点で左折し、一つ目の道(対面に東海道の矢印がある)を目指して、車道を横断する (右写真)
但し、ここは横断歩道も信号もないが、渡ったら、右折して、東八町交差点に出る。 左に、東総門のミニチュアが置かれているが、交差点を左折して、国道に出て、一本目の道を左折する
鍛治町の東海道 と、鍛治町である。 旧東海道は。地元の人に聞いても知らない人が多く、うろうろした。 家に入ろうとした主婦に聞いたら、お婆ちゃんに確かめるといって、家に入り、後に続くと、八十すぎの女性から、教えていただけた (右写真)
二本目の道を右折するのが、江戸時代に近い歩き方のようである。  道は、そのまま、曲尺手(かねんて)町と続く。 曲尺手とは、このように曲がりくねった道のことをいうのである。 
そば屋のある四差路 くすのき通りの交差点北側の道路分離帯に、曲尺手門跡の石碑が建っている。  くすのき通りを渡り、そのまま道を直進し、そば屋のある四差路を左折する (右写真)
すると、三叉路に出て、正面にあるヴィジェアルスタジオマリエの建物に突き当たる。 
東海道の右折する矢印の標識があり、ここを右折すると、呉服町、江戸時代の宿場の中心地に入っていく。  吉田宿の宿内人口は五千二百七十七人、家数は千二百九十三軒で、本陣は
大手門跡 二軒、脇本陣は一軒、旅籠は六十五軒だった。 本陣跡に向かう途中の右側にあるガソリンスタンドが、高札場の跡である。  そこには、大手通り商店街の袖看板があるが、道の左側に、豊橋市道路元標があった。  右側には、大手門跡と書かれた小さな標柱が建っていたが、吉田城の大手門のあったところである (右写真)
以前は、その先に吉田城祉が、垣間見られたようだが、豊橋市役所や豊橋公会堂に視野を奪われ、何も見えなかった。 豊橋公会堂は 昭和六年の建設、高さが十六メー トルの鉄筋コン
札木交差点 クリート造三階建で、ロマネスク様式を取り入れたデザインはなかなかよい感じがする建物である。 札木交差点の手前にNTTのビルがあり、道路の一角に吉田宿問屋場跡の標柱が建っていたが、ここも、石柱に問屋場の定義が書かれているだけで、誰がやっていたかの表示はない。 この交差点の右側に、豊橋鉄道の札木(ふだぎ)駅があり、路面電車から、乗り降りの姿が見られた (右写真)
交差点を渡ると、右側に喜の字という蕎麦屋があり、その先に、創業百年余といわれる、
吉田宿本陣跡 丸よという、うなぎ屋さんがある。 店の前には、本陣跡の石碑と案内板があるが、道路の片隅にある吉田宿本陣跡の標柱よりも、ずっと立派だった (右写真)
案内板によると、江戸時代の清須屋与右衛門本陣の跡地で、東隣には、江戸屋新右衛門の本陣が二軒並んで建っていた、とあった。  もう一軒の本陣は、隣の喜の字という蕎麦屋さんのところにあったのだろうか? 丁度昼になったので、抵抗なく、うなぎ屋に入ったが、値段は
丸よのうなぎ丼 高い方だった。 しばし待たされて、出てきたうなぎ丼は、鰻が皮を上に向けて乗っていた。 身は薄く、油は落とされて淡白。 あっさりした味付けのたれにつけられて、なかなか美味だったので、この価額でも良いだろうと、思った (右写真)
吉田宿は、 吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖が・・ とか、 御油や赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い・・・ と、いった俗謡が良く唄われ、飯盛女の多かったことで知られる宿場で、旅籠はこの札木周辺に集中していた、といわれる。 
鬼の凧 レジの脇にあった鬼の凧は、二月十日と十一日に行われる、安久美神戸神明社の鬼祭をイメージしたものである (右写真)
鬼祭は、国の重要無形民俗文化財に指定された天下の奇祭で、平安朝から足利時代にかけて行われた田楽の一種が今日まで継承されたもの。 暴ぶる神(赤鬼)と武神(天狗)の戦いは、寒中の勇壮な神事であり、暴ぶる神の退散により、一同が平和を喜んで舞う神楽が有名で
きく宗 ある。  その先、五十メートル程の所に、脇本陣跡があるのだが、見落して しまった。 道の左側の普通の民家の壁面に、脇本陣跡のプレートがあるようである。  豊橋名物として知られたのは、菜めし田楽である。 この先の左側のなまこ壁の建物で営業している若松園や、信号を越えた本町のきく宗で食べられる (右写真)
きく宗は文政年間の創業とある老舗で、菜めし田楽定食が1785円。 菜めし田楽を食べた
西総門の跡 ことのない方は賞味あれ。  産婦人科の前に、馬の水飲み桶のような物が置いてある。  松葉公園前の交差点を右折し、直進すると、上伝馬交差点になるが、 交差点を越えた右側に、西総門のミニチュアが置かれている (右写真)
吉田城の西総門があったところである。 西総門は、吉田城の西門であると同時に、吉田宿の京方の入口なので、吉田宿はここで終わる。 

吉 田 城

吉田神社 吉田城の表示をしばしば見てきたので、折角の機会なので、立ち寄ることにした。 上伝馬交差点から関屋交差点を過ぎ、右側に入ったところに、吉田神社があった (右写真)
吉田神社は、元々は、吉田城内にあった神社で、牛頭天王社、又は、吉田天王社と呼ばれていたが、明治二年に、吉田神社となった。 祭神は素戔嗚尊で、その創建は定かでないが、
手筒花火発祥の地の碑 源頼朝の家臣、安達九郎盛長が造営したと、言い伝えられている。 神社が移転したとは書かれてないので、ここは、城の敷地の一部だったのだろう。 この神社を有名にしたのが、手筒花火である。  吉田神社略記には、 天王社の祭礼煙火ということで始まる 、  花火の創始は羽田吉田総録に 永禄元年(1558) 今川義元公吉田城代大原備前守知尚が花火を始めた  と、あり、境内に、手筒花火発祥の地の碑があった (右写真)
火薬は使用は戦国時代より武器として厳重に管理されてきたが、この地域では、怨霊退散の
手筒花火 為に花火を放揚する(打揚げる)場合に限り、庶民に火薬の使用と製造を許可したことが始まりで、江戸時代から今日に至るまで続けられてきたのである。 江戸時代、吉田神社の三河吉田祇園祭は、吉田の花火として、常陸水戸、甲斐市川と共に、日本の三大花火として知られていた、という。 小生は今から五年前、娘の招きで神社に訪れ、手筒花火の凄さを体験しているが、凄い迫力だった (右写真)
吉田祇園祭は、七月下旬に行われる吉田神社の例祭で、手筒花火の奉納が行われる。 
マンホールの蓋 訪問はそれ以来であるが、境内を歩くとその日のことが思いだされた。 なお、手筒花火の奉納は、この地区男子の成人式のような行事で、一種の肝試しを兼ねたものでもある。 吉田神社以外でも行なわれるので、一度見学されるとよい。 マンホールの蓋も手筒花火で、消火栓とあるのは愉快である (右写真)
吉田神社の西方の湊町の民家の前に、 関屋は吉田城の西総堀の内にあって、豊川に
関屋 面していたところで、吉田藩の御船蔵が置かれ、藩主専用の波止場があった、 という案内板がある。 ここに、吉田藩の船寄せ場があったことがわかった (右写真)
また、酒井忠次が、初めて豊川に架橋したのも、この場所である。 三州吉田記に、  元亀元年関屋之渡口始めて土橋を架す とあり、 天正十九年(1591)この土橋を船町へ移す  、とある。 豊川に橋が架けられたのは何時か分からないが、橋の名を今橋と呼び、 この土地も今橋と呼ばれるようになった。 池田輝政は、今橋を吉田 と改めると 共に、城の拡張に乗り
吉田大橋 出し、橋が城の領域に入ることから、橋を南に移し、現在の豊橋の下流に、木橋を架けられ、吉田大橋と呼ばれた。 橋は、明治十一年(1878)、現在の位置に移され、大正五年(1916)に、鉄橋の橋に変り、名を豊橋に変えた。  昭和三十四年、国道一号線の整備に伴い、吉田神社脇に、新たな橋が架けられ、昔を偲ぶ吉田大橋の名が付けられたのである (右写真)
吉田城は、明治六年(1873)の失火により、多くの建物が焼失し、その後、陸軍の連隊が
吉田城鉄櫓 置かれたが、現在は、市役所と公園になっている。 吉田城の遺跡といえるのは、城壁のみである。 現在、城址にある櫓は、昭和二十九年(1954)の豊橋産業文化大博覧会を記念して、再建されたものである。 左前のイスノキ(マンサク科)は、樹齢三百年以上とあるので、吉田城の興亡を見守ってきた木である (右写真)
以上で、吉田城の探訪を終わったので、上伝馬町交差点まで引き返して、旅を続けた。 

(ご参考) 吉 田 城 と 吉 田 藩

吉田城は、最初、今橋城とよばれ、今川方の牧野古白によって築城された城であるが、今川義元が桶狭間で戦死すると、徳川家康が吉田城を 取り、酒井忠次を城代として入れたが、天正十八年(1590)の家康の関東転出により、徳川 氏の手から離れ、その代わりに、豊臣秀吉配下の池田輝正が十五万二千石で入封した。 
浮世絵吉田宿 彼は、豊川を背に、本丸を中心に二の丸、三の丸を配置し、それらを掘が同心円状に取り囲む半円郭式縄張りに拡張したが、慶長五年(1600)、姫路に移封となったため、工事は未完に終ったのである。  右の吉田宿の浮世絵には吉田城の普請のような絵になっているが、吉田城には天守閣はなく、深溝松平時代に建てられた本丸御殿のみであった。 これも宝永の大地震で倒壊してしまう。 四隅の石垣には櫓があったので、それが絵になっているのだろうか? 
江戸幕府が出来ると、吉田城主は吉田藩主とあるが、徳川家康は、吉田藩の初代藩主に、一族の松平(竹谷)家清を任命したが、嗣子無く廃絶、代わりに、松平(深溝ふこうず)忠利が入ったが二代で代わる。 その後も、藩主が代わり、松平(大河内・長沢)信復になって安定し、明治維新まで七代続いた。 大きな藩のように思えるが、実際は小藩で、三万石から多くて七万石だった。 
大橋誕生の碑 国道1号線の豊川に架かる吉田大橋の手前に、吉田大橋誕生の碑がある (右写真)
それを見ると、明治政府の手で、吉田から豊橋に変えられた悔しさが読み取れる。  大政奉還の後、新政府は、「 吉田は、伊予国(愛媛県)にもあるので、今までの吉田を改称するので、新しい名前を提出するように 」 と、命じられ、その際、豊橋、関屋、今橋の三つの中から、豊橋が選ばれた。  その背景には、親藩大名であることと尊皇でなかったことがあげられ、江戸の敵を長崎でとったという感がする。 


平成19年(2007) 2 月


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かうんたぁ。