浜松宿は江戸幕府を開いた徳川家康が築城した浜松城があったところである。
徳川家康は、これまで曳馬と呼ばれた地名を縁起が悪いからと浜松と変えた。
浜松宿は、旅籠が九十四軒もある遠江国と駿河国で、一番大きな宿場だった。
平成19年4月8日(日)、袋井駅を出発し、見附宿を見学後、浜松に向かう。
見附宿は古い建物など残っていなかったが、明治に開通した東海道本線から離れでいることもあり、落ち着いた雰囲気の町だった。
宿場の京側入口の加茂川橋を渡り、加茂川信号交差点で、国道1号線を越えると、坂道になった (右写真)
天平通りという表示になっていたが、江戸時代の分間絵図では、この坂道は石畳になって
いた。 頂上付近の右側に磐田南高校、左に磐田郵便局があり、その先の右側に、特別史跡・遠江国分寺跡の石柱が建っていた。 中に入っていくと、広い土地(空地)に、赤い案内板が一つだけ建っているだけの史跡公園になっていた (右写真)
国分寺は、奈良時代、聖武天皇の命令で各地に造られたが、遠江国分寺は、中泉のこの地に建立され、国分尼寺は、北側二百メートルに配置された。 国分寺は、東西百八十メートル、
南北二百五十メートルの広さで、伽藍は金堂を中心に、七重塔や講堂、
中門
などが配置され、それらを築地塀などで囲んでいた、というもので、発掘調査が行われた際、七重塔や金堂跡などが確認された、とある。
中世に入り、国分寺は衰退したが、その後、その一隅に薬師堂が建てられた (右写真)
南無薬師瑠璃光如来と、書かれた赤い幟が立つお堂がそれで、手洗石は、国分寺の礎石をくり抜いてつくられたものである。 隣の旧えんま堂は、バラックのようなものだったが・・・
(ご参考) 遠江国の国府、国分寺、国分尼寺に興味にある方は友人のページ「国府物語」をご覧ください。
街道に戻ると、道の反対側に、「府八幡宮」と書かれた木造の大きな鳥居が建っている。
大鳥居をくぐり、参道を歩くと、寛永十二年(1635)建立の楼門があった (右写真)
入母屋造りで、建物全体が深みのある美しい随身門だった。
府八幡宮とあるのは、奈良時代の天平年間、天武天皇の曽孫、桜井王が、遠江国司として赴任したとき、国の安定を願い、国府内に祭られたのが神社のはじめとあることから。
その後、今川氏の羽鳥庄の地頭職となった秋鹿氏が、神主を務め、江戸時代には、徳川幕府の代官に任じられ、二百五十石を給せられた。 楼門をくぐって中に入ると、文化年間に再建されたという中門があり、その奥に幣殿と本殿があった (右写真ー幣殿)
幣殿は拝殿付きで寛永十二年(1635)に建立され、正徳四年(1714)の再建されたもの。 本殿は、後水尾天皇の皇后・東福門院が寄進し、元和三年(1617) に建てられたものである。
この神社の祭神は、仲彦命(仲哀天皇)、誉田別命(応神天皇)、気長足姫命(神功皇后)だが、明治維新までは、阿弥陀如来像を祀る、神仏混合の神社だった。
なお、右側の奥の方にある駐車場の一角に、桜井王と時の天皇の問答歌が刻まれた万葉歌碑がある (右写真)
街道に戻り歩き始める。 市役所入口信号交差点を過ぎると、左に曲がる道は、幾つか
あるが、東海道はまっすぐである。 磐田中町バス停を過ぎたところのコンビニ前に、旧救院跡の石碑があった。
商店街は屋根付きで、歩道にはジュビロの選手の足型が刻まれていた (右写真)
磐田はサッカー日本一のジュビロの本拠地で、この通りはジュビロ通りという名で呼ばれている。
東町バス停の先に中泉御殿裏門と西願寺の案内があった (右写真)
徳川家康が、天正十四年(1587)、初代代官を務めた秋鹿氏の屋敷跡に御殿を造ったのが中泉御殿で、
東海道の往来時の宿泊施設や鷹狩り時の休息所として利用された。 家康死後の寛文十年(1670)に、御殿が廃止された際、建物は周りの寺院に払い下げられたが、表門は
見附の西光寺に、裏門は西願寺に払い下げられ、表門になった。
その先からはビルが建ち並び、そのまま進むと、JR磐田駅が見えてきた (右写真)
見附宿のはずれの加茂川橋から、ここまで二キロ強の距離であるが、この間に古い建物は残っていなかった。
東海道は、磐田駅前信号交差点の手前で、右に入る細い道である。
手前のビルは現在工事中で、その角に、木製の東海道の案内板があった。
磐田駅前は、再開発が進行中という感じがした。
右折し進むと、右奥に、村社浅間神社が見える。
西町を過ぎると、緩やかな上り坂になり、登っていくと、道の両脇に古そうな家があるが、その他は新しい (右写真)
旧中泉村は、江戸時代には三百三軒の家があった、というが、かって農村だった面影
はすっかり消えていた。 中泉公民館も、例にもれず、立派な現代風の建物である。
道側に、夢舞台東海道 中泉の道標があり、また、江戸時代と大正時代の中泉の絵図が掲示されていた (右写真)
その前を通り過ぎると、すぐに、江戸時代には立場だった旧大乗院村に入る。
大正時代には、中泉軌道がこのあたりを通っていたようである。
中泉軌道は軽便鉄道で、磐田駅
(当時は中泉駅)から田中神社の近くを通り、北上し、現在の県道261号線に出て、左折するルートである。
小さな橋を渡ると、右側に大乗院坂の石碑があった。
少し歩くと、旧大乗院村のはずれ(今の西新町)で、右からの市役所からの広い通り(県道261号線)と合流してしまった (右写真)
すぐ先が旧豊田町(磐田市に編入合併)で、小さな川に架かる一言橋を渡る。
道の左の磐田化学工業の敷地内に、くろんぼ坊様という黒坊大権現が祀られていた。
万能橋を渡ると、宮之一色に入る。 スズキの販売店の前から、短い区間ながら、松並木が残っていた (右写真)
万能橋から約二キロ行ったところの右側、経済連バス停前に、宮之一色一里塚跡がある。 江戸から六十三番目の一里塚で、
昭和四十六年に復元されたものである。
松並木が終わり、しばらく行くと、左側に秋葉山常夜燈がある。
文政十一年(1828)に建立された、木製の常夜燈で、祠の中には、毎年、可睡斎からいただくお札を祀っている、という。
透かし彫りの立派なものだった (右写真)
宮之一色西バス停の先からは、道の左側に、松並木が残っている。
森下の歩道橋の先は三叉路。
歩道橋をくぐると、森下南信号交差点で、県道は右にカーブしていくが、旧東海道は直進し、車が一台しか通れない狭い道をいく (右写真)
交差点の右手に若宮八幡があるが、このあたりは、ひっそりとした町並である。
少し歩くと、森下羽田橋に出るが、江戸時代には、橋のたもとに、森下村の高札場が
あったようである。
そのまま歩いていくと、右側の民家の垣根に、夢舞台東海道 長森立場長森かうやくの道標があり、看板に、長森立場は、これより数十メートル東にあった、とある (右写真)
立場は、掛茶屋、立場茶屋などと呼ばれる茶屋を兼ねていた。 旅人は、ここでお茶を飲んだり、名物の餅などを食べて、休憩したもので、馬にも湯や麦などを補給した。
長森かうやくは、江戸時代万治年間に、山田与左衛門が始めたあかぎれや切り傷に効果
のある軟膏で、参勤交代の一行や東海道の旅人の土産として人気があった。 現在は、作られていない
が、山田家には、当時の大看板が残されている、とあった。
やがて、T字路になり、木内建設の工場に突き当たるが、江戸時代の東海道は、工場のところを直進し、天竜川の土手に登って、北に進み、天竜川橋より少し上流の河原から、船渡しで川を越えていったのである (右写真ー土手への道)
突き当たった工場で、右折して進むと、右側の源平新田公民館前に、天竜橋跡の碑が
ある。 明治七年(1874)に架けた橋は、船をつなぎ、上に板を載せた舟橋で、二年後に、巾三メートル六十センチの木製の橋に架け替えられたが、橋銭を徴収する有料橋だった。 その後、流される度に架け替えられたが、昭和八年に現在の鉄製の橋になった (右写真)
なお、ここから、北へ1.5kmほど行くと、池田という所がある。 現在は静かな農村だが、鎌倉時代には、鎌倉街道の宿駅として栄えたところである (詳細は下記参照)
(ご参考) 鎌倉街道の宿駅 池 田
天竜川橋から北へ1.5kmほど行ったところに、鎌倉時代、鎌倉街道の宿駅としておおいに栄えた、池田という集落がある。 江戸時代には、姫街道が通っていたが、この地を有名にしたのは、謡曲の熊野(ゆや)である。
謡曲の熊野は、平宗盛と愛妾熊野が主人公で、平家物語巻十の「海道下(かいどうくだり)」を基に、金春が書きあげたといわれるものである。
『 京で暮らす熊野のもとに母の病が重くなったとの手紙が届く。 熊野は宗盛に故郷の母に顔をみせたいと願う
が、宗盛はせめて桜だけは一諸に見たい、という。 花見の宴会が始まり、熊野は桜の清水(きよみず)を讃え
ながら舞を舞うが、折悪しく村雨が花を散らす。 それを見た熊野は、
「 いかにせん 都の春も惜しけれど 馴れし東の 花や散るらん 」
の歌を詠む。 宗盛もこれには感じ入り、その場で暇を許す。 熊野は宗盛の気が変わらない内にとすぐさま
故郷を目指し出立する。
「東路さして行く道の。 やがて休ろう逢坂の。 関の戸ざしも心して。 明けゆく跡の山見えて。 花を見捨つる
かりがねの。 それは越路われはまた。 あずまに帰る名残かな。 あずまに帰る名残かな。 』
で終わる。
平家物語の「海道下」は本三位中将・平重衡が一の谷の合戦で破れ、生け捕りにされて、鎌倉へ送られる途上が描かれているが、
『 浜名の橋をわたり給へば、松の梢に風さえて、入江にさわぐ浪の音、さらでもたびは物うきに、心をつくすゆふまぐれ、池田の宿にもつき給ひぬ。 彼宿の長者熊野が娘、侍従のもとに其夜は宿せられけり 』 とあり、池田の宿で侍従という遊君と歌の贈答をしたが、その女は東海道一の歌の名手で、かつて宗盛がこの国の国守であった頃、歌を詠んで名を挙げた者だった、という話になっている。
上記の謡曲熊野(ゆや)の愛妾熊野は、この池田の宿の人とされ、熊野の墓と伝えられるものが行興寺に残っている。 また、天然記念物に指定されている熊野の長藤も近くにある。
東海道の石薬師宿に、蒲冠者範頼之社があるが、蒲冠者とは、源頼朝の弟の源範頼(義朝の六男)のことを指す。 池田宿の遊女の子で、蒲御厨(かんばのみくりや)で育ったことから蒲冠者といわれた、とある。
また、鎌倉時代の天竜川は、現在より東側を流れていたようである。 江戸時代の東海道名所図絵に、 「 いにしへは 天竜川の西岸にあり、古人の紀行 多くは池田宿に泊まりて天竜川を渡る と書たり。 後世川瀬変じて東岸となる 」 と、あることから、池田は浜松側にあったようである。
途中から土手を歩き、国道で左折し、天竜川橋を渡り始める (右写真)
天竜川は、暴れ天竜と呼ばれ、徒歩渡りができないほどの急流だったため、大井川の徒歩渡しと違い、舟渡りだったが、それでも、水が増えると、川止めが頻繁に行われた。 また、渡船場も街道よりも上流にあったのは、川の流れが速いためであろう。
現在は天竜川の水量が
減り、川岸は公園になっていたが、それでも、大井川と違い、水量は多かっ
たが、川の流れは穏やかで、河川敷の風景からは、暴れ天竜と呼ばれた当時の姿は想像できない (右写真)
ところが、この橋は、造られた当時は自動車という観念がなかったのだろう。 幅が七メートル四十センチの道は、歩道がない上、歩道帯もなく、大変危険な橋なのである。
日曜日だったので、トラックの通行が少なかったので助かったが、橋の長さが九百二十メートルと長い
ので、ひやひやしながら、やっとの思いで、渡り終え、浜松市に入った。
浜松市は、今回の市町村合併で、上流の天竜市などと合併し、政令指定都市になった。
土手を三百メートルほど下流へ歩くと、右側に、明治大帝御聖蹟の標柱と玉座迹の記念碑があった (右写真)
その先に、天竜川木橋跡と舟橋跡の木標があったが、対岸は公民館あたりなので、
位置的にここに架けられていたということは納得できた。 明治になって最初にできたのは舟橋で、
その後に木橋になったことは、前述した通りである。 土手を下ると、右側に六所神社があり、その前に、東海道の標柱があった (右写真)
このあたりは中野町で、十返舎一九の東海道中膝栗毛に、
「 舟よりあがりて建場の町にいたる。 此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし 」 と、あるが、京都と江戸のちょうど中間点にある
ことから付いた地名と、いう。 その先で横に延びる道は、浜松宿までほぼ一直線で、西へ続いている (右写真)
大きくうなぎと書いた、中川屋のかぐわしい匂いがしたが、立ち寄らずに歩き続ける。
道の左端に、西町通りの標柱がある。 太陽は、かなり低くなってきたが、浜松はまだ遠い。
右側の立派な屋敷の前に立つ松は、東海道の松並木時代のものだろうか?
その先に右側に、軽便鉄道軌道跡の標柱がある。 これまで静岡県ほど軽便鉄道跡の標示を見たことがなかったが、それだけ多かったということだろうか?
しばらく歩くと、右手に松林寺が見えてきた (右写真)
奥山大権現とある常夜燈の奥にある建物が徳川家光時代に建てられたという薬師堂だろうか??
時間がなかったので確認できなかった。 道の反対側の民家の駐車場に、
かやんば高札場跡の標柱があったが、かやんばは、萱場のことで、旧安間村である。
その先の右側に、白壁に黒い板が張られた塀で囲まれた大きな家が建っていた。
旧安間村の庄屋で、明治、大正期の実業家、金原明善の生家である (右写真)
金原氏は、天竜川の治水に人生を賭けた人で、明治八年に天竜川の治水に着手したが、政府からの補助金が少なかったため、全財産を売り払って資金を作り、治水工事の
費用に充てた、といわれる。 天竜川土手にあった玉座迹は、明治天皇が、金原明善
に謁見した場所なのである。 なお、生家の向かいの金原明善記念館では、彼の生涯を知ることができる。
しばらく行くと、右からの広い道と合流するが、この道は、先程、天竜川橋を渡ったところで、別れた道である。 金網の中に、安間一里塚跡の木柱があるのだが、木が生え茂っていて、気を付けないと、見過ごしところだった (右写真)
なお、右側の道の少し手前にある安新町交差点には、北へ行く道がある。 江戸時代、
このあたりは、安間の萱場と呼ばれたところで、この道も、姫街道と呼ばれ、吟味の厳しい新居関所を避けた人達が利用した道、という。
姫街道の正式名は、本坂越脇往還といい、見附宿の追分から池田に出て、池田から船渡りして、市野にいたる道だが、この道も市野で合流していた。
少し歩くと、安間川に架かる安間橋を渡る (右写真)
その先の左側に、背の高い松の木が現れた。 国道1号線の高架をくぐると、道幅が
狭くなったが、車が多く、歩道もないので、少し怖い道である。
ここから、およそ百メートルほど松並木が続いた (右写真)
その後、松並木はなくなったと思ったら、薬師のバス停から、五十メートルほどの間に、松並木が残っていた。 その先も、ところどころに松が残っている。
天竜川駅への十字路があるあたりが、昔の橋場(はしば)で、
道の右側に、永禄年間の創建で、慶安元年に再建された、という
六所神社があった。 神社には、蒲村東方端和(はしわ)村六所大明神と、書写された古文書が残り、現在の社(やしろ)は、大正弐年(1913)の造営である。
かなり疲れたという感じで、とぼとぼと、歩いて行くと、右側に見えてきた大きな建物は、浜松アリーナである。 道脇には、東海道浮世絵浜松宿の看板があった (右写真)
少し歩くと、右側に、六軒京という漬物店があったが、かっての六軒茶屋に、由来する
ようだった。 更に進むと、右側にエッソのスタンドがある大きな交差点に出た。
右から左へ斜めに交差する子安信号交差点であるが、東海道は直進する道で、表示が国道152号線に変った (右写真)
国道152号線は、浜松市を起点に、長野県上田市に向かう道だが、この交差点を右折して、北上すると、途中の青崩峠があり、この峠は、国道であるのに、自動車が通れない
のである。 道の左側を歩いてくると、地下道を使わなければならないが、エッソ側は横断歩道で向こう側に渡れる。
その先で、芳川に架かる琵琶橋を渡った (右写真)
西遠学園入口交差点の右側にある、大きな木の鳥居は、蒲神明宮の鳥居で、参道の入口である。 参道に入り、少し歩くと、車道に出たが、信号があるのは右側の交差点なので、
そのまま、道を横切り、向こう側に渡ってしまった。 そのまま道なりに進むと、学校の脇に出たが、そのままを進むと、右側に森が現れ、蒲神明宮(かばしんめいぐう)はその中にあった。 交差点から七百五十メートル位の距離である (右写真)
蒲神明宮は、古くは、蒲大神ともいわれるが、平安時代初期、大同元年(806)に、伊勢皇太神宮に勧請され、創建された古社で、鎌倉時代の三代実録、貞観十六年の条に、
従五位下を授く、とある。 蒲氏の祖、越後国司、藤原静並は、蒲二十四郷を開発し、
皇太神宮に寄進し、伊勢神宮の御厨となったと、神社の由来書にあるが、蒲(かば)の
地名は、藤原静並が住み着いた頃、蒲が生いしげる荒地だったことに由来する。 藤原氏は、その後、蒲氏と改称し、蒲神明宮の神主になり、代々継承した。
正面の建物は神明造りの拝殿で、その奥に、天照皇大神を祭神とする内宮が、そして、西寄りに豊受皇大神を祀る外宮がある (右写真)
また、ここの神主は、源頼朝の弟、範頼の末裔であると言われている。
源範頼は
源義朝の六男で、頼朝の平家討伐の戦いに加わり、弟義經とともに戦功を挙げたが、義經が討たれて後、讒により伊豆修善寺に幽閉され、建久四年(1853)に殺された。
街道に戻ると、このあたりには古い家が多少残っていた (右写真)
ここから浜松宿までは二キロ弱であるだが、日がだいぶ傾いてきた。 道路が混雑し、バスが小生の歩きと同じ位のスピードなので、乗客の目があう。 道の右側に竜梅禅
寺、左はNTTのマイクロウエブの塔、その向こうに、東海道本線が見えた。
右側のセブンイレブンの反対側の植え込みに、馬込(向宿)一里塚跡の標柱を見つけた (右写真)
東鎧橋を渡ると相生町、木戸町と変わり、少し歩くと馬込川に架かる馬込橋が見えてきた。 江戸時代には、この橋を渡ると浜松の宿だった。
時計を見ると五時を過ぎていたので、浜松宿は、次回ゆっくり見ようと、今日の袋井駅からの旅を終えた。
浜松駅では、家族のおみやげに、名物のうなぎパイを購入し、電車に乗った。