『 東海道を歩く ー 浜松宿(続き)  』




浜 松 宿

浜松駅 平成19年4月20日(金)、今日は、浜松駅から浜松宿を経て、舞阪宿まで歩く予定である。  浜松宿は、天保十四年の東海道宿村大概帳によると、人口は五千九百六十四人、家数千六百二十二軒、旅籠が九十四軒もある、遠江国と駿河国で、一番大きな宿場だった。 安藤広重の東海道浜松宿の浮世絵にgは、遠くに浜松城が見える ( 右写真 )
浜松は、江戸時代から綿織物の産地として栄え、昭和三十年代までは、綿織物の生産地
浜松駅 だっ たが、現在は自動車と楽器の製造業が主体で、大企業の下請けの多い町である。   難しい話はそれまでにして、浜松駅を出発。  浜松駅は、アクトシティの高い建物が建ったことで、すっかり変り、二十年前に訪れた当時の面影はなかった。 
駅の案内をみながら、地下道をくぐると、ぽっかり空いた空間があった (右写真)
その先の階段を上ると、前回の国道152号線に出たので、歩いて馬込橋まで行った。 
馬込橋 天気予報は曇りのち雨とあったが、東海道の歩きでは一度も雨に会わなかったので、雨具を持たずにきた。 ところが、馬込橋から今日の旅を開始した途端、ぽつりぽつりときたのである (右写真)
橋の入口の道路左側に、浜松宿の外木戸跡の木柱があるはずだが、慌てたせいか、見付けられなかった。  とりあえず、雨を避ける屋根のあるバス停の下にもぐりこんだ。 

松江交差点バスに乗り駅に戻って、雨の止むのを待つのも一つの方法だが、 雨がやむという保証はない。 しばらく様子を見ていたが、思い切って外に出て、コンビニを探し、傘を買った。  橋を渡って、最初の信号交差点を越えた左側が番所があったところだが、区画整理が行われたことで、全て新しい建物になっていて、見付けられなかった (右写真)
浜松宿は、ここ新町から西へ進み、連尺町で左折し、伝馬町、旅籠町を経て、菅原町で
夢告地蔵尊 終わる宿場だが、浜松城の城下町でもあった。 駅前に差し掛かると、左側のビルの間からアクトシティが現れ、これが東海道か?と違和感を感じるほどの変貌振りである。 
新町交差点の右側には、夢告地蔵尊が祀られている小さなお堂があった (右写真)
江戸時代の末期に、コレラで亡くなった人々を祀るために建立されたが、明治時代の
板屋町交差点 廃仏毀釈により、土中に深く埋められていたが、町民の夢枕に出て助けを求め、町民達の手で掘り出されて、新たな お堂に安置された、という逸話が残る。 
板屋町の交差点の先には、遠州鉄道西鹿島線の高架が見える (右写真)
高架の下に万年橋があるが、川は蓋をされて公園になっている。  高架をくぐると、田町、ゆりの木通りという表示がある。 商店街には違いないのだが、大きなビルが建ち、
連尺交差点 ビジネス街の感がした。 そのまま進むと上り坂になり、上りきったところに、連尺信号交差点があり、国道152号と257号が接している。 東海道は、左折する (右写真)
交差点を右折し、市役所前信号交差点を左折すると、浜松城公園前に出られるので、徳川家康が築いた浜松城に寄ることにした。  浜松城は、徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)六月に入城し、天正十四年(1586)十二月、駿河城に移る までの十七年間をこの城で過ごした。 これまでの地名、曳馬(引馬)は縁起が悪いと、荘園時代の浜松に
浜松城石垣 変えたのも、家康である。  市役所前交差点の左側に、浜松市役所があるが、浜松城の二之丸があった場所である。 市役所の左側に入ると、本丸の石垣が残っていた。 野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、石は湖西から船で運ばれたのだろうと、推理されていた (右写真)
浜松城は、東西六百メートル、南北六百五十メートルの規模で、南の東海道に大手門
が開き、東から西に三之丸、二之丸、本丸、天守台と連なり、順次高くなっていた。 
浜松城天守台 本丸跡には、徳川家康の銅像が建つが、雨が降っているので、薄暗く、顔が見えない。  ここに佇んで思い出すのが、吉川英治の太閤記で、 (右写真ー復元された天守櫓)
徳川家康は、武田信玄との三方ヶ原の戦いで破れて、この城に逃げ帰る。  武田軍が、浜松城まで追撃してきたが、家康は、空城の計を使い、居留守を極めこむ。  大手門は開き、かがり火を真っ赤に燃やし、城内はしーんと静まりかえっていたのを見た信玄は、それを見て、うかつに手が出せぬと、城攻めをせずに撤退をした、というシーンである。 
浜松城は、出世城として名高かったが、その割りに石高が低く、浜松藩は五万〜七万石
高札場跡説明板 だったが、 家康の城ということで権威があった訳である。  連尺交差点まで戻り、旅を再開する。 江戸時代の東海道は、連尺交差点で、直角に左に曲がり、南に向かう。  浜松宿は、宿場でありまた城下町でもあったが、曲がり角は少なく、ここ1ヶ所のみである。 
交差点を左に曲がった右側の谷島屋書店前に、高札場跡の説明板がある (右写真)
連尺町からこの先の伝馬町までが宿場の中心で、本陣が六軒もあった(脇本陣はない)
佐藤本陣跡 道の反対(左側)の彩画堂と緑屋装室あたりが佐藤本陣のあったところで、道の脇に、 
佐藤本陣は、二百二十五坪(約745u)の敷地だった、という説明板があった (右写真)
道の左奥に、五社神社と諏訪神社があった。 五社神社は、遠江国主、久野越中守が、曳馬城内に奉斉し、家康は、その子・秀忠が城内で誕生したので産土神として崇敬した。 
五社神社と諏訪神社 天正八年、当地に転座され、社殿が建てた、とある神社である。  諏訪神社は、徳川家康が社殿を造営し、家光が現在地に転座した。 五社神社と諏訪神社の社殿は、国宝に指定されていたが、昭和二十年の空襲で燃失、両神社は合祀され、現在の建物は、昭和五十七年に再建したものである (右写真)
街道に戻ると、右側に浜松信金伝馬町支店があるが、ここは杉浦本陣の跡で、歩道に、
伝馬町交差点 「 杉浦本陣は二百七十二坪(約900u)の敷地だった 」 、という説明板があり、敷地内に本陣 跡と刻まれた標柱があった。  右側には、三菱東京証券の赤い看板が見え、その先が伝馬町交差点である。 三菱東京証券のビルが川口本陣の跡で、歩道に、 「 川口本陣は百六十三坪(約540u)の敷地だった 」、という説明板があった (右写真)
伝馬町交差点の左に見える大きなビルは、ZAZACITY(ザザシテイ)西館で、かっての
梅屋本陣 西武百貨店。 交差点の地下道を通って、対面の道路左側に出る。  ザザシテイの前に、梅屋本陣跡の説明板があり、梅屋本陣は、百八十坪(600u)の敷地だった。 国学者、歌人として有名な賀茂真淵(本名、庄助)は、梅屋の婿養子だった、とある (右写真)
右に緩くカーブする国道257号線を歩く。  その先の、伝馬町 旅籠町交差点を過ぎると、旅籠町になるが、町並は少し雑然とした感じだった。 浜松宿には、九十四軒の旅籠が
木挽庵 あったので、江戸時代の旅籠が並ぶ姿と客引きは、さぞかし凄かったことだろう、と想像した。 塩町歩道橋のところにくると、そのような想像を打ち消すように、雨が突然強くなったきた。  昼には少し早かったが、木挽庵というそば屋にはいり、千円なりの天もりそばを注文し、小休憩となった (右写真) 
汁は少し塩からい感じがしたが、蕎麦は更科系の細麺でこしもあり、おいしかった。 
夢舞台東海道浜松宿の道標 四十分ほどいて外にでたが、雨はまだ残っていたので、コンビニで買った傘を広げて歩き始めた。  二百メートル程歩くと、成子交差点で、国道257号は直進、県道62号は右折の表示がある。 交差点の左手前に、夢舞台東海道 浜松宿の道標があり、舞阪宿まで10.9qと書かれていた (右写真)
旧東海道は、交差点を右折し、国道257号を渡る。  病院の一角には、成子坂泣き子 地蔵尊跡の標柱があり、道を挟んだ先には浜納豆の店があった。  県道62号(雄踏街道) を二百
メートルほど進むと、菅原町交差点。 東海道は左折であるが、東伊場に賀茂神社がある
賀茂神社 ので、寄り道をする。  真っ直ぐ行くと、五百メートルほど先に、京都上賀茂神社の流れをくむ賀茂神社があった。  賀茂真淵は、賀茂神社の神官の子として生まれ、京都で荷田春満(かだのあずままろ)に師事して国学を学び、浜松に帰郷して遠州国学の中心となり、神官、町人や地主層の支持を受けた (右写真ー賀茂神社)
その後、江戸に出て、八代将軍徳川吉宗の次男、田安宗武(たやすむねたけ)に仕えた。  傍らの説明に、境内に県居翁の旧蹟があるとあったが、県居は賀茂真淵の号である。 
子育地蔵 もう少し先の丘の上には、天保十年(1839)に、浜松藩主、水野忠邦によって創建された県居(あがたい)神社があるが、寄らなかった。  菅原町交差点に戻ると、子育地蔵があり、脇に石仏群が祀られていた (右写真)
その先の菅原町の家並みが終えると、浜松宿は終わる。 


平成19年(2007)   4 月


(30)舞阪宿へ                                           旅の目次に戻る






かうんたぁ。