袋井宿から見附宿への途中に、三方ヶ原の合戦前に、徳川家康が腰掛けた、という石が残っていた。
見附宿には、徳川家康と縁が深い御朱印船屋敷の冷酒清兵衛邸がある。
旧見付学校は、現存する日本最古の洋風木造小学校校舎で、国の史跡に指定されている。
平成19年4月8日(日)、名古屋発7時17分の特別快速で出発し、浜松で乗り換えで、袋井駅に9時に着いた。
駅から直進し、静橋を渡り、袋井宿場公園で左折し、東海道に入る。
前回訪れたときは気が付かなかったが、御幸橋の手前の右側に、袋井名物の丸凧を作っている店があった (右写真)
御幸橋を渡ると、川原町のバス停があり、左側に、袋井宿の浮世絵の看板があった。
ここが袋井宿の終わり(西入口)で、次の宿場のある見附宿に向かう。
道は右にカーブ、そして、左にカーブし、少し歩いて、信号交差点を越える。
手前の酒屋では、地酒・どまん中を売っていた。
少し歩くと、左側に、旧澤野病院の木造の洋風建物が現れた (右写真)
澤野家は、享保十二年(1727)には、内科医に携わっていたようで、居宅は幕末から
明治期のものだが、東海道に面する病棟と洋館は昭和初期のものらしい。
その先に、明治元年(1868)に建てた、と伝えられる寺澤家屋敷門が残る (右写真)
江戸時代、このあたりには、東海道の松並木があったが、幕末になって御札が空から降った。 道の右側にある、小さな社の津島神社は、その時から祀られるようになった、とあった。
川井の信号交差点で、東海道は、県道413号(旧国道1号線)の広い道に合流してしまった。
その道を五百メートルほど歩くと、松橋という小さな橋がある。 ここには、夢舞台東海道 木原松橋と、書かれた道標があった。
右に入る狭い道があり、その脇に、袋井宿浮世絵の案内板が建っていた (右写真)
細い道に入っていくと、木原集落で、右側の民家の前に、木原一里塚跡の石柱があり、
その少し先に、一里塚のようなものが見えた。 近づくと、まさしく一里塚。
江戸から六十一番目の木原一里塚だが、最近復元したものだった。
位置もここではなく、東に六十メートルとあるから、先程の石柱あたりにあったのが正しい (右写真)
両脇に家が建ち並んでいるが、古い家はないようである。
五十メートルほど歩くと、右側に、いろいろな石碑が立つ許禰(こね)神社があった。
祭神は、伊弉諾命、合祀されているのは速玉男命 、事解男命 で、大宝弐年に熊野権現
を勧請したのが始めと伝えられ、永保弐年(1082)に社殿を造営、今川氏真や徳川家康の崇敬を受け、所領を安堵され、
江戸時代には、木原権現、熊野権現と称していたが、慶応四年(1868)に現社名になった、といわれる神社である (右写真)
江戸時代には、熊野社と呼ばれ、東海道分間延絵図には、熊野神主木原主水、と
書かれている。 延喜式神名帳に、許祢神社(遠江国山名郡)の記載があるが、この神社がそれに
該当するのか、はっきりしないようだが・・・
境内には、木原畷(なわて)の古戦場の碑と徳川家康腰掛石があった (右写真)
元亀三年(1573)、武田信玄はここ木原西島に陣を張った。 これを知った家康の兵とこの付近で、小競り合いを繰り返した。
信玄は、やがて、二俣城を攻略し、三方ヶ原を通過しようとしたので、徳川家康が、一万の兵で立ち向かったが、
信玄の三万五千の大軍の前で、
一蹴され、浜松城に逃げ帰った。
世にいう、三方ヶ原合戦であるが、木原の戦いは、その前哨戦だった。 御神木は樹齢五百年、目通り七メートルの巨木だった。
神社の先に、「夢舞台東海道 木原」と、書かれた道標があった。
さらに進むと、先程の県道と合流した。 蟹田川に架かる西木橋を渡ると、磐田市である (右写真)
西島信号交差点を越えると、道の右左に、家が建っているが、家の裏側は田畑である。
以前は田畑だけだったので、浜松や磐田の産業の好調がここまで住宅化を進めたことが窺える。
道がやや上りになり、国道1号が右側からせまってきた。
国道1号と平行して、太田川にかかる三ヶ野橋を渡る。
少し行くと、三ケ野IC信号交差点があり、道は三つに分かれるが、
一番左の狭い道が、東海道である (右写真)
ここに夢舞台東海道 三ヶ野と、書かれた道標と松並木の説明板が建っていた
が、板金屋が停めた車両に邪魔されて、よく読めなかった。
東海道が、板金屋と車屋の駐車場代わりに使われていた。
それらの店を横目で見ながら、通り過ぎると、二又の道に出た。
石碑があり、右側は大正の道、左は明治の道とあるので、左側の明治の道を行くと、かなり急な坂である。 これが三ヶ野坂である (右写真)
薄暗い道で、道を五百メートル程登ると、四差路に出た。 左側の民家のような建物
が三ケ野公会堂で、その前に、明治の道の石碑、三箇野車井戸跡の石碑と従是鎌田山薬師道の道標が建っていた (右写真)
この地方では、公民館を公会堂と呼ぶようである。 なお、前述の二又の道のところには、明治と大正の道しかなかったので、そのまま行ったが、入ってから左に登っていく自然歩道があるが、それが江戸の道のようである。
また、その左側に鎌倉街道もあるようで、複雑に交差する道になっている。
これから行かれる方はこの点に注意して歩かれるとよいだろう。
この山は大日山と呼ばれ、高台には、家康の腹心、本多平八郎が物見をしたといわれる大日堂がある。
交差点の先は、今から五年前には畑や茶畑で、袋井方面も見渡せたようであるが、住宅地に変わってしまっていた。
三ケ野公会堂で右折し、少し歩くと、右側の空間に三ケ野立場跡の標札があったが、十年もしないうちに、
この場所も住宅に変っているような気がした (右写真)
その先の両側に古い家が並び、その先の右側は茶畑だったが、そこを過ぎると、一戸建ての家とアパートが続き、かって農家が並んでいたとは想像しずらい。
坂を下ると、交差点があったが、直進し、坂を下ると平坦な道に変った。 その後、上りになると、松並木の道で、左側歩道に、見付の松並木と書かれた小さな石碑が建っていた (右写真)
昼のサイレンがなり、
お昼になったことを知った。 坂の左は崖になっていて、階段を降ると、右側
に共同墓地、その先を右に入ると、富士塚稲荷大明神の社、その奥に、
浄土宗玉光山善導寺があった。 寺の境内には桜が植えられていて、満開を過ぎた花が
落花しきりで、それを見ながら、持ってきたお弁当を食べ、お茶を飲んだ。
街道に戻ると、道は右にカーブし、国道1号線と合流した。
その先の歩道橋を渡り、国道の反対側(右側)に出ると、高台に遠州 鈴ヶ森の看板が見える。
石段
を登って行くと、遠州 鈴ヶ森の看板の先に、南無阿弥陀仏と刻まれた石碑が建っていた (右写真)
この高台には、遠州鈴ヶ森刑場跡があり、大盗賊日本左衛門の首がここで晒された、
と伝えられる。 日本左衛門は、歌舞伎狂言・白波五人男で、日本駄右衛門として登場
するが、実在の人物である。
遠州金谷の生れで、美濃から相模の八か国で、五十人〜六十人の盗賊団を率いて暴れまわった、といわれる大盗賊であったが、江戸の火付け盗賊改め方に捕えられて、江戸で斬首され、この地に運ばれ、晒し首になった。
そんな過去を忘れたように、桜が咲き誇っていた (右写真)
階段を降り、国道を歩くが、富士見町東信号交差点の手前で、国道と別れ、右の道に
入った。 東海道を西から歩いてくると、最初に富士が見られることから、見附という名が
付いたという説があるが、富士見はそのものずばりの名である。
その先の交差点を渡ると、小さな橋があり、よく見ると三本松橋とあるが、江戸時代には、なみだ橋と呼ばれた橋である (右写真)
刑場のそばになみだ橋があるのは、品川の場合と同じである。
少し歩くと、交差点があるが、そのまま直進すると、道は左右に分かれるところにでる。
道のまん中に、三本松の秋葉常夜燈があった (右写真)
東海道は右側の道で、百メートルほどで下り坂になるが、見付宿の東側にあるから、東坂という名である。 坂の途中で、見附の景観が一部だが見られた。
少し急な坂を下っていくと、見附宿に到着した。
見附宿は、江戸から六十里二十九町、京都より六十四里二十七町のところにあるので、見附宿と浜松宿の間が、東海道のまん中
ということになる。
坂を下りきったところの民家の前に、見附宿木戸跡と記された木標があった (右写真)
国道1号から入ってくる左側の道(東海道ではない)に、どうしてなのか、見附宿の案内板があり、道の両側に、宿場の木戸を
イメージしたモニュメントが立っていた。
これらの道を挟むところに愛宕山がある。 石段の登り際の左角に、江戸から六十二番目の阿多古山一里塚跡の案内があった
ので、石段を登って行くと、山頂には屋根が壊れたのか、青いビニールで覆われた小さな社の愛宕神社が祀られていた (右写真)
一里塚跡の石柱は、神社の奥を登った林の中にあったので、江戸時代には、両脇の一里塚の間を通って、見附宿に入っていった、ということになる。 降りる途中、磐田の町並が一望
できたが、神社の石段や常夜燈が一部壊れていて、痛々しかった。 道の両脇にある橋の形をしたものは、当時の愛宕橋をイメージしたもので、その先の右側に入ると、矢奈比売(やなひめ)神社の石柱と常夜燈二基が建っていた (右写真)
創建は詳らかではないが、延喜式内社になっており、祭神は、矢奈比売命と菅原道真である。
正式名称の矢奈比売神社より、見付天神の方が有名で、見付天神社とも言われる神社
である。 祭礼の裸祭は、矢奈比売神社の神様が、神輿に移されて、遠江国の総社の淡海国玉神社へ渡御する際に行われる祭で、旧暦八月十日の直前の土、日曜日にかけて行われるもので、国の指定重要無形民俗文化財である (右写真)
見附宿は、東木戸から東坂町、馬場町、西坂町、横町と西木戸までの約一キロ。
大通りを歩くと、右側に、見付宿分間絵図などを表示した大きな案内板があった。
案内板の少し先にある東梅塚は、復元されたものだと思うが、菅原天神にまつわる梅の木が植えられていた (右写真)
道の反対側に、飛行家、浮田幸吉の家があったことを示す案内があった。 浮田幸吉は、神輿に移されて、空を飛ぶ鳥に興味を持ち、鳥が空を飛ぶメカニズムを研究し、日本で初めて、
空を飛んだとされる人物である。
中川橋を渡るとすぐの右手奥に、見附城跡といわれる大見寺がある (右写真)
徳川家康は、今川領を武田信玄と分割した際、永禄十一年十二月、見附の問屋を安堵し、翌年一月、見附城を廃して、その代わりに、浜松城を築き、遠州経営の本拠としたが、その際、家康は、見附城跡を大見寺に寄進し、寺の中に、茶屋御殿を建てた。
墓地には、純法親王
や浮田幸吉の墓がある。 浮田幸吉は、日本で最初にグライダーを発明したと、伝えられるが、その為、岡山を追われ、晩年は磐田で送った、といわれる。
道の反対にある路地は、江戸時代、清水小路と呼ばれた。 絵図面によると、その角に脇本陣があり、その対面に問屋場があったように描かれている。
大通り交差点の手前、右側の屋敷が、御朱印船屋敷の冷酒清兵衛邸である (右写真)
冷酒清兵衛は、家康が付けたあだ名で、本当の名は、上村清兵衛、
徳川家康が見附を
訪れた時、自慢の冷酒を勧めたところ、家康は、たいそう気に入って、冷酒清兵衛と呼ぶようになった。 また、巡視途中に武田軍に捕らえられそうになり、清兵衛宅に逃げ込ん
だ時、清兵衛は見附の町に火を放ち、混乱の中で家康を浜松城に逃がした、などの逸話が残っている。 大通り信号交差点を越えた右側の宗教団体支部の建物が、北本陣跡である (右写真)
見附宿は、天保十四年の宿村大概帳によると、宿場の人口、三千九百三十五人、家数
は千二十九軒、 旅籠は五十六軒あった。 天竜川は舟渡しだったので、島田の大井川と違い 、通行は楽だったが、それでも、川止めになると宿場は混雑した、という。
道を挟んだ反対側には、南本陣があったようである。
その先に、夢舞台東海道 見附と、書かれた道標があり、右に入ると、常夜燈と高札場跡があった (右写真)
路地に入っていくと、右側に、裸祭りで述べた淡海国玉神社 、左に旧見付学校がある。
淡海国玉(おうみくにたま)神社の創祀年代は、はっきりしないが、平安時代、見附に国府があったときの遠江国総社である。 延喜式の式内社で、もとは、岩井原という地に鎮座していたが、いつのころか、現在地に遷座した、とある。 拝殿と幣殿は文久年間の再建で、拝殿は三棟入母屋造り向拝付である (右写真)
幣殿は三棟入母屋造りで、本殿は明暦年間の再建で、三間社流造である。
主祭神
は大国主命だが、多くの神を相殿に祀っていた。 拝殿前の石像が狛犬でなく、兎というのもめずらしい。
旧見付学校は、現存する日本最古の洋風木造小学校校舎で、玄関は、エンタシス様式に近似した飾柱を配した、三階二層建ての建物である (右写真)
明治五年に小学校として開校したが、その後は小、中、女学校、病院として使用された。
現在は、国史跡の旧見付学校の他、磐田文庫を一般公開している。
磐田文庫は、淡海国玉神社神官を務めた大久保忠尚が開いた私塾である。
少し歩くと、右側に空地があり、なにやら工事中で、その傍に、脇本陣門復旧工事とあった (右写真)
(注)
平成二十一年六月一日、姫街道を歩くため、見附宿を再訪。 その際、ここに立ち寄ると、工事が終わっていた。
門の奥には、いこい茶屋(土、日、祝日のみ10時〜15時開館、無料)が建っていた。
傍らの旧見附宿脇本陣大三河屋門とある案内板には、 「 大三河屋は、はじめは旅籠だったが、文化二年(1805)に脇本陣になった。
この門は、薬医門で、二本の本柱の上に、冠木を渡して、その上に、梁と切妻屋根をのせている。 中泉の中津川
家に移築されていたが、寄贈を受け、平成十九年に移築復元された。 」 と、あった (右写真ー薬医門のイラスト)
赤いタイルが敷かれた歩道に、イラスト入りの道標があり、右の小路は玄妙小路で、右側に慈恩
寺、その先は化粧坂とある。 小路に入ると、玄妙寺があり、その奥に半僧坊慈恩寺とあった。
手前の家の蔵は三層になっているので、珍しいと思い眺めていると、通りかかった人の話では、以前は醤油製造業だった、という (右写真)
そういわれて奥を見ると、広い敷地があるのだが、アパートなどに変わっていた。 醤油を造るよりアパートの方がもうかるのだろう。
見附は、平安時代には遠江国の国府が置かれ、江戸時代には東海道の宿場町として栄え、交通の要衝として多くの物資が集まったので、
多くの蔵が建っていたというが、この家以外にはみなかったし、古い家も残っていなかった。
二百メートル〜三百メートルほど歩くと、県道44号線との交差点で、正面の細い道を姫街道という。
東海道はここで左折し、横町に入るが、ここが姫街道との追分である (右写真)
姫街道とは、意味ありげな名前であるが、東海道の新居の関が、幕府の出鉄砲、入り女の政策により、
女性の出入りを厳しく取り締まっていたため、旅をする女性達は東海道を避け、ここから、
本坂越えの脇往還を通ったことから、姫街道と呼ばれるようになった。
(ご参考)姫街道については、東海道脇往還 姫街道を歩くをご覧下さい。
左折して二百メートル程行くと、右側に東福門院・日限地蔵尊を奉安する寺があった。
日限地蔵とは、日を限って御願い事をすると願いを叶えるという地蔵尊のようである。
その先には加茂川が流れ、川に架かる加茂川橋の両側には、木戸をイメージしたモニュメントがあった (右写真)
江戸時代には、ここに西木戸があり、旅人の通行の監視を行っていたのである。
ここで、見附宿は終わる。
平成19年(2007) 4 月