『 東海道を歩く ー 日 坂 宿  』


金谷宿から間の宿菊川へ行くまでに、金谷坂と菊川坂を歩くが、両方とも石畳の道だった。 
その間に、武田方の居城だった諏訪原城址があった。 
日坂宿には、菊川から小夜の中山を越えていくが、平安時代、小夜の中山は佐夜(さや)の
なかやまと呼ばれ、東海道一の難所といわれ、多くの歌が詠われた。





金谷宿から間の宿・菊川

小さな社 平成19年5月22日(火)、今日は島田駅から金谷宿、日坂宿を経て掛川まで歩く予定である。  大井川を渡り、金谷宿を経て、追分の不動橋で、九時三十分なので、順調なペースである。  不動橋を越えると両側に古い家が建っている。 なだらかな登り坂が、やや急な坂に変った。 左側の家の一角に、小さな社が祀られていた (右写真)
登りきると車道があり、国道473号線である。 
石畳茶屋 道を横切り、旧東海道石畳入口と書かれた、大きな看板がある道に入っていく。 道は急傾斜に変ったので、歩くペースは落ちたが、百五十メートルほど歩くと、右側に立派な建物が現れた。 石畳茶屋である  (右写真)
この建物は、旧金谷町が建てたもので、金谷宿に関するものが展示されていた。 
半分のスペースに売店や畳の部屋があり、自由に休憩や食事ができる。 
金谷坂の石畳 小生も一面に拡がった茶畑を見ながら、お菓子を食べ、お茶を飲み、一服した。 
いよいよここから金谷坂の石畳が始まる  (右写真)
説明板によると、 江戸時代には、金谷宿から日坂宿の金谷坂に、石畳が敷かれていた。 近年は、僅か三十メートルの石畳を残すのみで、コンクリートの道になっていた。 平成四年に、町民六百人の参加をえて行われた平成の道普請で、四百三十メートルの石畳が復元された、
鷄頭塚と庚申堂 とあった。 石畳を歩き始めたところに、すべらず地蔵があり、その脇の小道を登ると、手前の左側に鷄頭塚、そして、奥に庚申堂があった  (右写真)
鷄頭塚とは、六々庵巴靜が詠んだ句、   曙も  夕ぐれもなし  鶏頭華   から、 付けた句碑のことである。 六々庵巴靜は江戸時代の俳人で、薫風を広め、寛保四年(1744)に亡くなったが、彼を慕った金谷の門人たちが、金谷坂入口北側に、自然石の句碑を建てたものである。 
庚申塚三猿碑 その先には、河浦向延命地蔵尊が祀られていて、その隣に、三匹の猿を刻んだ庚申塚三猿の石碑があった (右写真)
その奥の庚申堂には、芝居の白浪五人男に出てくる、日本駄右衛門が、夜働きの際の着替え場所だった、という言い伝えが残る。 周りが薄暗いので、いかにも追いはぎがでてきそうな
滑らず地蔵 雰囲気なところだった。 なお、日本駄右衛門の墓は金谷宿手前の宅円庵という寺
にある (前述ー金谷宿参照)
石畳を登って行くと、赤い幟が沢山現れ、右側の六角堂に祀られていたのは、滑らず地蔵である (右写真)
石畳を復原した際に、石畳を滑らないようにとの願いを込めて、祀られたもの。  このような
明治天皇駐輦阯碑 広範囲の石畳は、東海道では箱根峠、中山道では落合の石畳だけとあったが、落合の石畳の方が石が大きいので、歩きやすかったような気がした。  坂を上りきると、広い道に出た。 正面の建物はNTTの通信施設のようである。  それを囲む土塁の上に、明治天皇駐輦阯碑があった (右写真)
左側には、まさに広大な茶畑が拡がっていた。 お茶の郷という看板につられたこともあり、
金谷茶のサイロ そのまま歩き続けた。  金谷茶と書かれたJAのサイロが大きく見えるところまで来た。 近くを通りかかった人に聞くと、お茶の郷はまだ一キロほどあり、そのまま行くと相良方面で、東海道とは反対の方角であることが分った (右写真)
時間にゆとりがあればよいが、この先、掛川まで行かなければならないので、引きかえすことにした。  石畳を出たところまで戻り、道を反対にとると、左側に芭蕉の句碑があった。 
芭蕉句碑 句碑には、 馬に寝て  残夢月遠し  茶の烟   と、いう句が刻まれていたが、これは、野ざらし紀行の中で詠まれた句である (右写真)
中国の詩人、杜牧の早行という詩を意識した作品といわれ、前文には、 二十日ばかりの月微かに見えて、山の根際いと暗きに馬上に鞭垂れて数里未だ鶏鳴ならず、杜牧が早行の残夢、
広々とした茶畑 小夜の中山に至りて忽ち驚く と、記されている。 
この先は、広々とした茶畑を左に見ながら歩く (右写真)
なお、芭蕉の前文だが、 ( 未明の空に二十日月がかすかに見えて、山の麓あたりがたいそう暗い中を、 鞭を垂れたまま馬の足取りにまかせ、数里を旅してきたが、いまだ、鳥の鳴き声が聞こえてこない。 杜牧が 早行 の詩に詠んだあの夢見心地のまま、馬に揺られ、小夜の中山まで
諏訪神社鳥居 来たところで、やにわに目が覚めた。 ) という意である。 
やがて、諏訪原城跡の看板が見えてくるが、そのまま進み、アルムという喫茶店の手前の小道を右折すると、鳥居と諏訪原城阯の石碑が建っていた  (右写真)
鳥居をくぐり、奥に入ると、諏訪神社と書かれた案内と諏訪原城全体の案内板があった
空堀跡 が、大変湿気が多く、薄暗い。 奥にある諏訪神社は、小屋のような貧弱なものだった。 
その前をすすむと、いくらか明るくなって、城の空堀跡に出た (右写真)
諏訪原城は、武田勝頼が、天正元年(1573)に、馬場氏勝に命じて築いた山城で、浜松の徳川家康に対する前線基地だった。 複雑な地形を利用し、堀を幾重にも張り巡らせ、押し寄せる敵を防ぐ工夫が施された難攻不落の天然の要害だったが、今ではそのほとんどが、畑や茶畑と、
今福浄閑の墓塚 なってしまっている。 茶畑の中に、ここで戦死した武田方の城主の今福浄閑の墓塚があった (右写真)
歩いて行くと、武家屋敷や馬場などがあったところは林に変り、二之丸や三之丸は茶畑になっていた。 二之丸や三之丸は、近年、学術調査で掘り返され、その痕跡も残り、二之丸は武将が集まって戦術を打ち合わせたところ、三之丸は火薬や武器を貯蔵していた
天守台跡 ところ、というような説明板が設置されていた。 天守台跡と書かれてところにきた。 といっても、天守台は、天守閣のような建物ではなく、物見櫓程度のものだったようで、その前方は急斜面になっていて、攻めてくる敵には石や矢で見ながら攻撃できる位置にあった、とある (右写真)
当時は、地上にいる敵の様子は一望できたようだが、木が繁茂しているので、一部しか見ることはできなかった。 
菊川の里 城址の保存状態がよいこともあり、興味深く見学したため、
二十分程度、時間を費やしてしまったが、東海道に戻り、先に進むと、県道234号線に出た。  県道を横切ったところに、案内板と休憩所があり、眼下には、菊川の里が見えた (右写真)
時計を見ると、十一時半なので、持参したおにぎりを食べ、お茶で喉を潤した。 食事を
菊川坂の石畳 すまし、菊川坂を下る。 菊川坂は、金谷坂と同じような石畳の道である (右写真)
菊川坂には、江戸時代後期、近隣十二ヶ村に割り当てられていた助郷により、三百八十間(690m)の石畳が敷かれたが、最近は、百メートル程になっていた。 平成十三年、周囲の人達五百名余の協力により、ほぼ元の姿に復元された、とある。 本当に、ご苦労様でした!! 
石畳が終わったところにある道の先には、東海道、菊川坂と書かれた道があり、それを降り
中納言宗行卿塚入口 れば菊川の里は、すぐのようである。  小生は、宗行卿塚の案内を見つけ、右折して車道に入り歩いていった。  やがて、両脇は林になり、眼下に茶畑が広がったが、しばらく歩くと、左側に中納言宗行卿塚入口の木柱があった (右写真)
車道と別れ、二百メートルほど下っていき、その先で、右折した突き当たりに、宗行卿塚があった。 中納言、藤原宗行は、承久三年(1221)、後鳥羽上皇が、鎌倉幕府を倒そうと
中納言宗行卿塚 兵を挙げた、承久の乱に敗れ、幕府に捕らえられ、鎌倉へ護送の途中、菊川の駅に泊まり、宿の柱に漢詩を残した。 その数日後、藍沢原(現御殿場)で処刑された。 
宗行卿塚は、水戸藩士の渡辺源進が、文久三年(1863)に、中世に築かれた墳墓の上に、宗行卿塚と書かれた石碑を建てたものである (右写真)
この塚は、西方二十メートルのところにあったが、昭和四十三年の国道1号金谷バイバス
高麗橋 の工事で、ここに移された旨が右側の石碑に書いてあった。  そこから、国道のガードをくぐり、法音寺に下り、大通りにでると、東海道で、そこを右折し、まっすぐ進むと高麗橋がある。 橋の手前は、菊川の辻と呼ばれたようであるが、鎌倉時代には宿駅で、江戸時代には間の宿だった菊川の入口である (右写真)
大名などが休息する茶屋本陣は橋を渡り、少し先の左側の路地手前にあったようだが、
秋葉山 そのことを示す表示はなかった。  その先の右側に、秋葉山の社があった (右写真)
江戸時代には、秋葉山の隣に脇本陣があり、その前に庄屋を兼ねた鍵屋が務めた問屋場があったようである。  間の宿は、宿場と宿場の間が三里から四里ある場合に置かれたが、菊川は一里二十四町しかないのに置かれたのは、小夜の中山や物見坂などの険しい坂があったから、といわれる。 
鏃鍛冶 間の宿には厳しい制限があり、川留めなどで周りの宿場が利用できない時しか宿泊は許されない他、尾頭付きなどの贅沢な食事は認められなかったという。 菊川名物になったのが菜飯田楽で、特に下菊川おもだか屋宇兵衛茶屋が有名で、尾張藩の殿様が賞味したと伝えられている。 菊川のもう一つの名物は鏃(やじり)だった (右写真ー鏃鍛冶)
元祖は京五條の鍛冶で、この村に下ってきて定住したが、小夜の中山に出た怪鳥を射た
菊川の里会館 矢の根が有名になり、徳川家康が、大阪城を攻略する際献上されて、幸運の鏃として、ここを通行する大名達が購入した、とある。  少し歩くと、右側奥に、この鄙びた里には似つかわしくない立派な建物があった (右写真)
菊川の里会館で、日曜日には地元の主婦によるさんぽ茶屋が開かれるとあるが、前述の石畳茶屋と同様、地元の人の利用は期待できず、また東海道を歩くひとにとってもこんなものは不要で、まさに旧金谷町町長の箱物行政の遺産である。 
宗行の詩碑と俊基の歌碑 入口にある看板に、菊川に伝わる民話が書かれていたのは好感が持てた。  その隣に立つ二つの石碑は、中御門中納言藤原宗行の詩碑と日野俊基の歌碑である (右写真)
宗行が、承久三年(1221)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうと兵を挙げた承久の乱に敗れ、鎌倉に送られる途中、この宿駅で、宿の柱に漢詩を書いたことは既に述べた。 この石柱には、その辞世の詩が刻まれていた (詳細は巻末参照)
その隣にある歌碑は、日野俊基のもので、彼は宗行の約百十年後、後醍醐天皇が倒幕
を企てた正中の変(1324)でとらえられ、鎌倉の葛原岡で処刑された。 歌碑には、
 『  いにしへも  かゝるためしを  菊川の  おなじ流れに  身をやしづめん 』 
菊川の里 と刻まれているが、鎌倉護送の途中、この地で宗行の故事を思い、詠んだ歌である。 
これらの歌碑は、もとは街道左手奥の菊川神社(旧若宮八幡神社)の境内に あったものを平成三年に移転し、建て替えられたものである。  鄙びた集落なのに、古そうな家は数少なかったのは、残念な気がするが・・・ (右写真)
集落を過ぎて、しばらく行くと、小川にかかる四郡橋がある。 四郡とはなにかと思っていたが、
四郡橋 橋を渡った左側に、小さな石柱があり、榛原郡、山名郡、城東郡、佐野郡とあり、四つの郡の境になっているのだ、ということを知った (右写真)
小夜の中山へは、ここを左折し、その先の細い道を歩くことになるが、菊川の里はこれで終わりである。

(ご 参 考)  中御門中納言藤原宗行の詩碑

藤原宗行が、承久三年(1221)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうと兵を挙げた承久の乱に敗れ、鎌倉に送られる途中、この宿駅で、宿の柱に漢詩を書いた詩の石柱で、かっては、菊川神社の境内にあったものを平成三年に移転し、建て替えられたとある。 石柱には以下の詩が彫られている。

            昔南陽縣菊水    汲下流而延齢   
            今東海道菊河    宿西岸而失命   
この詩の意は、昔、中国の南陽県の菊水の水を飲むと寿命が伸びるという話があったが、今日同じ菊川の地に来て、命を失うとはどういう巡り会わせだろうか? 
なお、この原典は、承久の乱を記した公武の合戦記の下記の承久記(作者不詳)である。 
『  中御門中納言宗行は、小山新左衛門尉具し奉りて下りけるが、遠江の菊河に著給ふ。 
   爰をば何と云ふぞと問給へば、菊河と申す。 前に流るゝ川の事か。 
   さん候と申ければ、硯乞ひ出て、宿の柱に書付給ふ。 
     昔南陽県之菊水 酌下流延齢  今東海道之菊河 宿西岸失命 
   と書て過給へば、行き合ふ旅人、空しき筆の跡を見つゝ、涙を流さぬは無りけり。  』

後半に続く( 日 坂 宿)






かうんたぁ。