菊川の里の終わりは、小川にかかる四郡橋で、ここに、小夜の中山への表示板があるので、左折して、車道を横断し、目の前の石段と石畳を登る と、いよいよ小夜の中山への道である。
樹木が茂ったところを過ぎると、明るいところにでた。 正面に鉄塔があるが、道の傾斜は半端ではない (右写真)
伊勢国の石薬師宿に向かう途中にあった、杖突坂も急坂だったが、こちらの方が距離が長いので、大変である。 我慢して歩いて行くと、平らなところに出たが、大井平というところ
だろうか? しばらく尾根のような道を歩く。 下を見ると絶景で、下に向かって茶畑が果てしなく続いている。 また、向かいあう山の傾斜にも、茶畑が展開し、茶畑にアクセントをつけているのは、点在する林や数本の樹木である。 お茶をのみながら、しばしの間、これらの景色を眺めていた (右写真)
しばらく歩くと、また、上り坂になるが、右側に、島田市と掛川市の境を示す道標があり、
菊川と日坂宿の表示があった。 茶畑の間の急激な坂道を登り続けると、十六夜日記を
著した阿仏尼の歌碑があった (右写真)
「 雲かかる さやの中山 越えぬとは 都に告げよ 有明の月 」
( 雲がかかる佐夜の中山を越えたと、都の子供らに伝えておくれ、有明の月よ。 )
という意。
この先も、上り坂は続き、しばしの間、あえぎながら上る。
左側に、最近建てられたと思える衣笠内大臣の歌碑があった (右写真)
「 旅ごろも 夕霜さむき ささの葉の さやの中山 あらし吹くなり 」
(ここであらしとあるのは木枯らしのこと)
衣笠内大臣とは、衣笠家良(きぬがさいえよし)のことで、父は 正二位大納言忠良、母は
大納言藤原定能の娘である。 若くして定家の門弟となり、後鳥羽院や順徳天皇の内裏
歌壇に参加。 弘長二年(1262)には続古今集の撰者の一人に加えられたが、完成以前に没した。 彼の京嵐山にあった別荘が、後年、地蔵院となり、紅葉の名所になっている。
両側に数軒の家があるところで、上りは終わった (右写真)
その先にT字路があり、直進すると久延寺、右折すると、小夜の中山峠とある。
右折すると、左にぐるーと回りこんだみたいで、左側に、久延寺に入る道があった。
久延寺は、真言宗の寺院で、正式名称は、佐夜中山久延寺である (右写真)
本尊の聖観音像は、殺された子供を育てたということから、子育て観音と呼ばれている。
掛川城主、山内一豊が、関ヶ原に向かう家康をもてなした寺で、江戸時代には、ここを通る大名は、寺をおまいりするか、駕篭の戸を下ろして会釈して通り過ぎた、と伝えられる。
木が茂る草むらにある茶亭址の石柱が、一豊が家康をもてなした跡の痕跡を示していた。
久延寺で有名なのが夜泣き石である (右写真)
これについては、小夜の中山に住むお石という女が、菊川からの帰りに通りがかりの男に殺されたが、お石の魂は丸石に乗り移り、夜毎に泣いたため、里人はおそれ、誰いうともなく、夜泣き石と呼ぶようになったと、今も語り継がれている (詳細は巻末参照)
芭蕉が野ざらし紀行で、小夜の中山で詠んだ 「 馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり 」 の句碑が庭の一角に建っていた。 街道に戻ると、右側に、扇屋という店がある。 和尚が子供を育てるときなめさせたという子育飴を売っているはずだが、土日曜日にしか営業していないようで、当日は閉まっていて買えなかった (右写真)
その先の左側は、小夜の中山公園になっている。 入口のところに一般的な歌碑と違う、
大きな歌碑があるが、それには、西行の歌が刻まれていた (右写真)
『 年たけて また越ゆべしと 思いきや 命なりけり 小夜の中山 』
西行法師が、文治弐年(1186)、六十九歳の時に再び、当地を通った。 出家して、全国巡礼に出たときと違い、今度は、死出の旅になるかもしれない旅で、この険しい山道を差し掛かった感慨がよくあらわれている。 小夜の中山から日坂宿までは、坂道を下っていく。
左側の木立の中に、江戸から五十四番目の佐夜鹿一里塚跡の石柱が立っている。 奥の土手には、古くなったもう1つの石柱もあった (右写真)
その先には、蓮生法師の 「 甲斐ヶ嶺に はや雪しろし 神無月 しぐれてこゆる さやの中山 」という歌碑があった。
蓮生法師とは、源平の戦いで有名な熊谷次郎直実で、蓮生は、法然のもとで出家した後の法名である。
少し行くと三叉路で、直進が東海道である。 道の左側に階段があり、薄暗い中に、鎧(よろい)塚があった (右写真)
建武弐年(1333)、中先代の乱の際、北条時行の一族の名越邦時は、京都へ上る途中、この地で今川頼国と戦って、壮絶な討ち死にを遂げた。
敵将の今川頼国が、名越邦時の武勇をたたえて、ここに葬ったのが鎧塚である。
(注)中先代の乱とは、北条高時の遺児、北条時行を擁した諏訪頼重らの挙兵に始まる戦乱のこと。
先代(北条氏)と後代(足利氏)の間で、一時的に鎌倉を制圧したことから「中先代の乱」と呼ばれる。
茶畑に挟まれた坂道をどんどん下って行く (右写真)
その先にも、藤原家隆朝臣や芭蕉の歌碑がある。
「 ふるさとに 聞きあらしの 声もにず 忘れ人を さやの中山 」 (藤原家隆朝臣)
「 道のべの 木槿(むくげ)は 馬に食はれけり 」 (芭蕉)
( むくげの花を馬の上から眺めていると、あれよという間に、その花を馬が食べてしまったよ。 )
歌碑が並ぶ道を下っていくと、右側に、白山神社があり、夢舞台東海道 小夜の中山白山神社の道標があり、日坂宿まで十四町(約1600m)とある (右写真)
道は尾根道のようになり、両側の茶畑の方が石垣が組まれて高くなっていた。
(注)小夜の中山は平安時代から多くの歌人の歌の題材となったらしく、この先にも歌碑がいくつかあったが、紹介は省略。
白山神社から三百五十メートルほど歩いた石垣の上に、丸い石に馬頭観音が刻まれて、
祀られている。
さやの中山に現れる怪鳥を退治するため、京から下ってきた三位良政卿の馬を葬ったところという。
そこから二百メートル程の右側にある墓は妊婦の墓と呼ばれ、良政卿の娘、小石姫が嫌な結婚を前に、松の根元で自殺した後、葬られた場所と、伝えられるものである (右写真)
小石姫の霊がそばの松に留まり、松籟(松に吹く風音)となって、旅行く人々に哀切の情
を誘った、とある。 その先の左側に、涼み松広場という石柱があり、松の木の下に、芭蕉句碑が建っていた。
「 命なり わずかの笠の 下涼み 」
芭蕉がこの松の下で,この句を詠んだため、この松を涼み松という (右写真)
ここには、他にも 「 馬に寝て 残夢月遠し 茶のけぶり 」 の句碑もあった。
この先は少し下がり、また、平らな道という具合である。
その先の左側には、夜泣石跡の標柱が建っている (右写真)
夜泣石は、明治元年まで、この場所の道の中央にあったが、明治天皇の東京行幸の際、道の脇に寄せられ、その後、東京の博覧会に出品された後、国道一号線の小泉屋脇に置かれた、とある。
とすると、久延寺で見た石はなにか? 久延寺の石は、ここを掘り返したとき現れた
ものらしい。 一号線の石には、南無阿弥陀と刻まれているという。
近くに、安藤広重の絵碑・小夜の中山峠があり、夜泣石が道の真中にあったことがわかる。
その先の民家のところで、道はストーンと落ちる感じの急勾配になった (右写真)
車で下るのは怖いという感じなので、江戸時代、馬に乗った人は、下を見てすくんだのではないだろうか? このあたりは沓掛という地名だが、昔の旅人は草鞋をここで履き替え、古いものを
木に掛けたことが語源である。
下り続けると、急勾配のまま、曲がりくねった道になるが、二曲がりと呼ばれるところである。
左手に、日乃坂神社があるが、寄らないで、そのまま下った。
やがて、目の前が開け、向こう側に、国道1号の高架橋を走る車が見えてきた (右写真)
坂の終わりの石垣と石の水路があるところは、江戸時代、坂口町と呼ばれていたとあるが、両側は茶畑で、民家はなかった。
坂を下りきると日坂宿で、金谷から始まった長く
厳しい坂道の旅は終わった。
(ご 参 考) 夜泣き石の伝説
この地方では、以下のような話が今も語り継がれている。
『 小夜の中山に住むお石という女が、菊川からの帰りに街道の丸石の横で腹が痛くなった。 通りがかりの轟業右衛門が介抱するが、お石が金を持っているのを知り、彼女を殺して金を奪ってしまう。 懐妊していたお石は子供を産み落とすと息絶えたが、お石の魂は丸石に乗り移り、夜毎に泣いたため、里人はおそれ、誰いうともなく、夜泣き石と呼ぶようになった。 子供は音八と名付け、久延寺の和尚に飴で育てられ、立派な若者になり、大和国の刃研師の弟子となった。 そこへ轟業右衛門が刃研にきたとき、刃こぼれがあったので聞いたところ、 「 去る十数年前、小夜の中山の丸石付近で妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ。 」と
言ったので、母の仇とわかり、
名乗りをあげ、恨みをはらしたということである。 その後、弘法大師がこの話を聞き、お石
に同情し、石に仏号を刻み立ち去った、という。 』
右の写真の子育飴は、金谷石畳茶屋で購入したもので、これは飴だが、水飴もあったね!! それにしても、水飴だけで、子は育つものだろうか??
日坂宿の宿場の長さは、六町(約700m)で、天保十四年(1843)の資料によると、人口は七百五十人、家数も百六十八軒、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠が三十三軒と、東海道の中で坂下宿、由比宿に次いて、三番目に小さな宿場だった。 安藤広重は、小夜の中山の道が印象深かったようで、宿場を描かないで、夜泣き石付近を描いている(右写真)
苦しかった坂道が終わり、国道1号線のガードをくぐると、広い道にでた。
バイパスができるまでは、国道1号として、交通量が多かったのだが、現在は、たまに走ってくるという程度の道に変わっていた。
道を越えると、右側に入る道があり、下り坂になっているが、ここを下ると、日坂宿上町に入り、十四時三十五分、日坂宿に到着した (右写真)
この区間は、坂道が多いので喉が渇く。 これから歩かれる方は、途中に自動販売機も
ないので、飲み物だけはしっかり持たれることをお勧めしたい。 日坂宿は小夜の中山峠の西の入口にあたるので、西坂、入坂などとも、呼ばれた。
道の右側に、秋葉山常夜燈が祀られている (右写真)
この常夜燈は安政三年(1856)に建立されたものが老朽化したので、平成十年に復元したものである。
日坂宿は火災が多かったようで、火防の神様を祀る常夜燈をここ以外にも、相伝寺と
古宮公会堂脇、合計三つ建てたようである。 日坂宿の大きな案内板があるところをぐるーと行くと、門があり、日坂宿の本陣跡と表示されている (右写真)
江戸時代には、扇屋(片岡家)が本陣を営んでいたが、明治三年の東海道制度の廃止に伴い廃業、その建物は四つ辻小学校の校舎として利用されていたが、その跡は日坂幼稚園になっていた。
大きな案内板の脇には、夢舞台東海道・日坂宿本陣跡の道標があった (右写真)
現在の日坂は静かな落ち着いた集落だが、予想したほど古い家は残っていなかった。 かつての宿場町を意識してか、各家の前に宿場町時代の屋号の看板を出していた。
街道沿いの家並みは、江戸時代の町割りがほぼ残っているので、江戸時代の屋号と現在の住居とがほぼ一致するというから驚きである。
本陣の先の道を挟んだところに問屋場があった
ようである。 その先で、道は逆くの字に曲がるが、両側に古い家が残っていた。
右側の家は江戸時代、池田屋という名で旅籠を営んでいた家で、現在は末広亭という名で、旅館、割烹、仕出し屋をやっている (右写真)
その隣の雑貨屋・山本屋は脇本陣黒田屋の跡である。
脇本陣はしばしば代わったようで、大沢富三郎が営む黒田屋が、最後の脇本陣だったようだが、明治天皇は、明治二年と
明治十一年の二回、この宿で小休止をされている。
道は左にカーブするが、右側の古く立派な家は、宿場で最後の問屋役を務めた伊藤又七郎邸である (右写真)
文久弐年(1862)の宿内軒並取調上帳によると、伊藤家は、文七の営む藤文と吉右衛門が営むかえで屋に分かれていたようで、藤文部分の建物が、江戸末期、かえで屋の建物が明治初期に
建てられたもの、と説明板にあった。 その先に法讃寺がある。
その先の右側には旅籠を営んでいた萬屋の建物がある (右写真)
嘉永十五年(1852)の日坂宿の大火で焼失後、安政年間(1854〜59)頃再建された建物だが、間口四間半、奥行七間半の建物で、旅籠としては小さな部類に属する、とあった。
宿場の中は、道が曲がりくねっているが、川坂屋の前からは下り坂になった。
奥の方に、国道1号のバイパスが見えるが、左側の建物が川坂屋である。
大阪の陣で深手を負った武士が、手当てを受けたこの宿に永住し、その子孫の問屋役を務めた斎藤次右衛門が始めた、という旅籠である (右写真)
この建物は、嘉永十五年(1852)の日坂宿の大火後、再建されたものだが、文久弐年(1862)の宿内軒並取調上帳によると、間口六間、奥行拾三間で、敷地は三百坪ほどあり、前述の萬屋
よりかなり大きい。 精巧な木組み、細かな格子、床の間付きの部屋、当時禁制だった檜材を用いていることは、身分の高い武士や公家が宿泊した格式の高い旅籠だったことを意味する (右写真)
明治の要人の山岡鉄舟、巌谷一六、西郷従道などの書が残ることから、明治に廃業後も、要人には宿を提供していた、と思われる。
敷地は、国道の工事の都度削られて、小さくなった。
その斜向かいの相伝寺を入ったところには、日坂宿の三つの秋葉常夜燈の一つが祀られている。 これは、天保十年に建立されたものである (右写真)
境内には石仏群があるが、石仏は道路工事などで置けなくなったものをここに集めたように思えた。
寺の前に、復元された高札場があったが、江戸時代、ここが京方の宿場の
入口だった。 宿場には、外部から侵入を防ぐため、鉤型(枡形)を設けるか、大木戸を建てる場合が多いが、
日坂宿の場合は宿場が小さいこともあり、この小さな逆川の橋がそれだった。 当期の川は、もっと狭かったようで、かけた木橋を外すことで、その役を果たしていた、という。 即ち、日阪宿の下木戸は小さな橋だったわけである (右写真)
十五時ジャスト、日坂宿に別れを告げ、逆川に架かる古宮橋を渡り、掛川宿に向かった。
平成19年(2007) 5 月