島田宿から金谷宿への途中に、大井川川越場があった。 江戸時代、大井川には、橋が架けられ
なかったので、川越人夫の手を借りて、川を渡った。
江戸時代には、大井川の川越えの宿場として、大繁盛をした金谷だが、明治時代に橋が架かり、
川越人夫の失業対策として、お茶の栽培が奨励されたことが、日本一の静岡茶になった理由とある。
平成19年5月22日(火)、今日は島田から金谷宿、日坂宿を経て掛川まで歩く予定である。 前日は掛川に泊まったので早朝から出発できた。 島田駅前を北に向かい、大通り
1丁目交差点を左折すると、ほどなく、右側に、大井神社の鳥居があった (右写真)
前回は、ここで終わったので、今日の旅は、ここから始まる。 金谷宿は、島田宿から
およそ四キロの距離であるが、その半分近くが大井川越えに費やされる。
大井神社は、島田宿の鎮守社で、安産祈願とかかわりを持つ帯祭が有名である (右写真)
その先、道の右側には大善寺という古い寺がある。
道を進むに比例し、前面のもくもくと煙を吐く煙突が大きくなるが、この大きな煙突の主は、東海パルプ製紙工場である。
製紙工場は、何故、もくもくと煙りを出さないと、駄目なのだろうか??
以前に比べるとかなり少なくなったが、今も煙を吐き続けていた。
工場の前で、二又になっているが、東海道は、川越遺跡の表示がある左の細い道に入っていく。 道が狭くなると河原町で、古い町並みが現れると、川越遺跡に到着である。
遺跡といっても、これらの建物の多くは人が住み住居として使用されているところで、その中の一部の建物は一般に公開されていて、自由に見学ができる (右写真)
島田宿のはずれを流れる大井川は、水の量が常に変動し、流れもしばしば変わった
ようである。
江戸幕府は、軍事上の理由から、東海道の主要河川に橋を架けなかった。
舟渡しも認めず、すべて、人足による渡しとした (右写真ー浮世絵島田宿大井川越)
流水量が多くなると、川止めといって、渡しを禁止したので、旅人は何日も、大井川の両岸の宿場に逗留をよぎなくされ、ひどい時には、島田や金谷の旅籠が満員で、その手前の藤枝、岡部、或は日坂、掛川で足止めをくったこともあった、という。
箱根八里は馬
でも越すが 越すに越されぬ大井川 と、あるのはこの様子を物語っている。
道の右側に、海野晃弘版画記念館、左側に、口取宿 がある。 その先の、○番宿と表示された家が並んで建っているが、これらは川越え人足の詰所である (右写真)
島田宿が最初に抱えていた川越人足の数は三百五十人、幕末には六百五十人もいたといい、それらの人足は、十の組に分けられ、各組にひとつの番宿があり、ここで待機していた。 人足の定年は四十五歳だったが、その後も仕事を続けたい者は、口取宿に詰めて、人や荷物の
各組への割り当てなどの仕事をした。 今回訪れると、番宿の多くは、民家として使用されていた。
右側の奥まったところにある建物は、安政三年(1856)に建てられた川会所で、川越しの料金を決めたり、川札を売っていたところ (右写真)
川会所は、明治維新で宿場制度が廃止されると、学校になって、場所も移転していたが、元の場所に近いところに戻し、復元保存されている。
境内には、「 馬方は しらじ時雨の 大井川 』 という芭蕉の句碑があった。
道の対面には、人足が客から受け取った川札を現金に換える札場があった。
川会所の隣にある堤は、島田大堤といわれ、慶長の大洪水で、島田宿が押し流され全滅になったのを受けて建設されたものである (右写真)
高さは、二間(約3.6m)、向谷水門下から道悦島村境まであったという長さ三千百五十間(約5.7km)の大堤で、正保元年(1644)には完成していただろう、といわれる。
その他に、立会宿や荷縄屋などがあった。 立会宿は、旅人を番宿まで案内する立会人の詰め所で、
荷縄屋は荷縄を売ったり、荷物を積み直したりしたところである。
川会所と島田大堤を通り過ぎると、石垣があり、せぎと書かれた施設がある (右写真)
せぎは、洪水が起きたときに板を挟んで、水をせきとめるものである。
江戸時代には、ここから先が、川越し場ということになる。 現在は、右側に島田市博物館があり、一階常設展示場に、
大井川越に関するものが展示されている。 入館は有料であるが、渡し賃は水の量や渡し方によって違ったこと、川越人夫は渡し賃以外に酒手ももらったので、日銭が入り景気はよかったことなどがわかった (右写真)
博物館の庭には、芭蕉の句碑が複数ある。 また、道の角に、夢舞台東海道 島田宿の道標があり、左宿境、右藤枝宿二里二十二町と記されていた。
博物館の反対側にある公園には、朝顔の松があるが、これは、盲目の美女、朝顔が川止め間に、目が見えるようになった、という芝居にちなんだものである (右写真)
その他、家並みの中間あたりに八重枠稲荷神社がある(巻末参照)
ここから少し戻るが、左側の細い道を少しは入ったところに、八百屋お七の恋人吉三郎の墓がある関川庵がある。
街道から路地を二百メートル入った右側に、小さな建物があり、墓地が見えたのが、関川庵だった。
建物の左側に、吉三郎の墓と表示される墓や石仏があったが、お参りに見えていたご婦人は、屋根のある小屋でも作ればよいのに、といっていた (右写真)
お寺小姓だった吉三郎は、お七処刑後、お七を供養するため全国行脚に出たが、ここで亡くなったと、伝えられる。 一通り見学が終えたところで、旅を再開する。 博物館の坂を上り、堤防に
出ると、越すに越されぬといわれた、大河の大井川が、やっと目の前に現れた。 川の流れははるかかなたで、下流にはJRの鉄橋が見えた (右写真)
上流には、県道の橋などが架かっている。 河川敷は公園になっているようで、走っている人がいる。
江戸時代には、この先の渡し場から対岸に渡っていった訳だが、ここから渡ることはできない。
車が走る堤防の道を歩いて、約一キロも上流にある県道の大井川橋まで行く。
橋の手前の少し高い場所に、水神景迹と刻まれた大きな石碑が建っていたが、その近くに、夢舞台東海道 島田宿の道標があった。
いよいよ大井川を渡る (右写真)
といっても半端ではない。 橋の長さが約一キロあるのである。 左側に歩道橋がある。
車と分離した道になっているのはありがたいが、自転車が多いので気がぬけない。
彼等は自分の方が優先すると思っているから、始末が悪い (右写真)
自転車がくる度にこちらが小さくなって避けることになる。 振り返ると、製紙工場からの白っぽい煙りが不気味に出ていた。 川の水は少なかった。 のんびり歩いたこともあるが、橋を渡り終えるのに十五分ほどかかった。 越すに越されぬ、といわれた、大井川の大きさが実感できた。 江戸時代、架橋が禁じられていた大井川に、明治九年(1876)、川の一部に全長二百
三十四メートル、幅二メートル七十センチの有料の木橋が架かけられた。
その後、明治十六年(1883)に千三百メートルの木橋が架かったが、明治二十九年(1896)の洪水で流され、船渡しで対応していたが、昭和三年に、三年以上の歳月を経て完成したのが、現在の橋で、渡り終えた左側堤防に、大井川橋碑がある (右写真)
碑には、昭和三年に完成したトラス橋で全長1026mなど、土木工学として意義がある、
という趣旨が記されていたが、建てて八十年にもなるのに現役なのはすばらしいことである。
大井川は、駿河国と遠江国の国境なので、いよいよ、江戸から四番の遠江国に入った。
堤防上の道を二百メートルほど下流に向かって進むと、右側に、東海道を示す矢印があるので、その反対側の河原が金谷側の渡し場の跡ということになるが、それを示すものはなにも残っていないようだった。 (右写真)
道を右折すると下り坂になったが、道の両側の家は、道よりかなり低いところにあるので、
川より低いところに立っていることになる。 道を下って行くと公園があり、夢舞台東海道 金谷宿八軒家の道標があった。
その先の小さな橋は東橋とあるが、八軒家橋ともいうようである。
橋のイラストは、蓮台に乗った女性で、その間から川が見えたので、川の水を入れて写して見た (右写真)
東橋を渡ると、金谷宿である。
(注)金谷宿は、大井川の金谷側の川会所のある金谷川原町と一体経営になっていたようで、川原町が川越業務、金谷宿が宿場を分担していた。 宿場の入口は大代橋を渡ったところからという説もあり。
(ご 参 考) 八重枠稲荷神社
八重枠稲荷神社は、宝暦十年(1760)に川越しの事故で亡くなった人々を供養するため建立され、社殿は文化九年(1812)と明治三十四年に修繕されたが、礎石は建立当時のままで、大井川の川石を亀甲形に加工して積み上げたものである。
八重枠の名の由来は、昔ここに大井川の出し堤防があり、増水時には蛇籠に石を詰めて杭で固定して幾重にも並べ激流から堤防を守ったことから来ている。
新堀川に架かる東橋の手前の道脇に、福寿稲荷大明神が祀られている。 左側は竜神公園で、その一角に、夢舞台東海道 金谷宿の道標が建っていた (右写真)
金谷の地名は、長禄二年(1458)の足利義政御判御教書に、遠江国質侶庄金谷郷とあるのが初見。 大田道灌は、平安紀行の中で、金谷駅と題して、 「 思うかな 八重山越えて 梓弓 はるかき旅の 行く末の夜 」 と、詠んでいる。
新堀川を越えたところには、古い家が残っていた (右写真)
金谷宿は、東に大井川、西に小夜の中山峠と、二つの難所に挟まれて栄えた宿場である。
天保十四年の調査では、宿内人口は四千二百四十一人、家数千四軒を抱える大きな宿場であり、本陣三軒、脇本陣一軒、旅籠は五十一軒だった。
秋葉神社の前あたりから、左の細い道を入って行くと、慶応四年開創の宅円庵という寺がある。
寺というと立派な伽藍を想像するが、ここの建物は、民家という程度のものである。 立ち寄ったのは、歌舞伎の十八番、白浪五人男に登場する、日本駄右衛門のモデルになった男の墓があるからである (右写真)
日本駄右衛門は、実在の盗賊、浜島庄兵衛、別名、日本左衛門がモデルという。 この人物は義賊という説もあるが、詮議の目が厳しくなりもはや逃れられぬと覚悟して、京都で
自首し、
江戸に送られて処刑され、その後、根城にした見付宿(現磐田市)でさらし首になったのを、金谷
宿のおまんという愛人が、ひそかに首を持ち帰り、この寺に葬ったもの
である。
踏切を渡ると、左側に、大井川鉄道新金谷駅がある。 新金谷駅は、今は珍しいSLが走る大井川鉄道の起点で、SLフアンが多く集まるところである。
奥の操車場には、いろいろに列車があったので、大変楽しかった (右写真)
PLAZA LOGOは、休憩所や売店になっているようだが、時間が早く開いていなかった。
街道に戻り、大代橋を渡ると、このあたりは、まだ古い家が残っていた。
清水橋の手前には、小さな祠が祀られていた (右写真)
橋の上から見ると、川の中に多くの鯉のぼりが吊るされていた。
橋を渡ると、商店街になったが、この先には、昔い建物は残っていない。
バス停のダイヤを見ると、一時間に一本か二本であるが、バス停では、五人の人がバスが来るの
を待っていた。
江戸時代には、山田屋、佐塚屋、柏屋の三軒の本陣があったので、探して歩いた。
佐塚佐次衛門が勤めた建坪二百六十三坪の佐塚本陣は、右側の佐塚書店になっていた。
柏屋本陣は、大井川農協金谷支店と島田市金谷地区センターになっていた (右写真)
柏屋本陣を務めた河村八郎左衛門は、庄屋も兼ねていた。 本陣の敷地面積は、二百六十四坪で、間口九間半、奥行四十間の建物に、門と玄関がついていた。
残りの山田三右衛門が勤めた山田屋本陣や金原三郎右衛門の脇本陣の角屋があった場所は、残念ながら、確認できなかった。
旅籠が五十一軒もあったというのだから、それらしい家があってもよいのだが、そうした説明もなった。
ここから、緩やかな登り坂となり、両脇にはお茶を商う店が多い (右写真)
大井川に橋が架かったことで、失業した川越人足たちは、すでに名物となっていた茶の栽培を行うようになったため、明治以降、
大井川周辺での茶の生産は飛躍的に増えていった
ようである。
年配のおばさんが歩いていくので、後から追い抜こうとするが、早く歩くのには驚く。
毎日歩いているので、足腰が鍛えられているのだろうか??
JRのガードのところで追いついたが、彼女は、その先のJR金谷駅にいこうとしていたのだ。
ガードの入口に、夢舞台東海道 金谷宿一里塚の道標があった (右写真)
金谷一里塚は江戸から五十三番目の一里塚である。
ここでガードをくぐって、線路の向
こう側に出る。 ここで、右に行けば東海道だが、正面の小高いところにあるのは、日蓮宗長光寺で、境内に、芭蕉の句碑があった (右写真)
『 道のへの 木槿は馬に 喰はれけり 』
寺の裏にまわると、牧之原大茶園で、広大な茶畑が広がっていた。
下に降り、街道を歩くと、左側に秋葉常夜塔があり、奥まったところに社殿がある。 プロパンの入れ
換えに来ていたご主人に、神社の名を聞いたが、「 聞いたがわすれた!! 」、との答。
「 どこのいくの?? 」と、聴かれたので、「 掛川まで!!」と、答えると、「 それを聞いただけで足がすくむ 」、といわれた。 「 お大事に!! 」という声に送られて再び歩きだした。
橋の欄干をよく見ると、不動橋と書いてあったので、不動尊のようだった (右写真)
それはともかく、不動橋は金谷宿の京側の入口であるので、金谷宿はここで終わる。
平成19年(2007) 5 月