栃山川を渡り、少し行くと、横断歩道橋があり、下に小さな川が流れていた (右写真)
寛永十二年(1635)、島田宿は、田中藩の預り所となった。 田中藩主、水野監物忠善は、栃山川以東の水不足に対応するため、灌漑用水路を造ることを計画し、島田宿南(横井)に水門を設けて、大井川の水を取り込み、栃山川まで水路を開削して、流すようにした。 この水路を感謝の気持を込め、農民は監物(けんもつ)川と呼び、東海道に架かる幅三間、長さ二間の土橋を
監物橋と呼んだ。
少し歩くと、道が二又になっている、御仮屋信号交差点に出た。 左側の直進の道が、東海道であるので、右にカーブする国道1号とは、ここで、お別れ (右写真)
この角に、島田宿の道標があると思っていたがない。
もときた道を戻ると、道の左側の草むらの中に、夢舞台東海道 島田市島田宿の道標があり、金谷宿境まで三十三町(3.6km)と、あった。 島田市は、区画整理や道路拡張が行われたため、古い建物は、ほとんど残っていない
ようである。 新しい住宅が建ち並ぶ道を歩いて行くと、右側奥に、島田商業高校があった。
信号交差点を越えた左側に、島田信金七丁目支店があるが、その前に、夢舞台東海道 島田市島田宿の二つ目の道標があり、藤枝宿 宿境まで一里三十四町、そして、金谷宿 宿境まで二十四町、とあった (右写真)
従って、御仮屋交差点から一キロほど歩いたことになる。
ギネスに登録されている世界
一長い有料木橋は、明治になって架けられた蓬莱橋である。
信金の角を左折すると、八百メートル先にあるのだが、先日の大雨で、一部が流されたと、新聞で報道されていたので、寄らなかった。
商店街をそのまま進んで行くと、本通り6丁目の右側歩道に、江戸から五十二里の島田宿一里塚趾の石柱があった (右写真)
道路側には、川会所まで2.4km、栃山土橋まで1.3kmと、書かれている説明板には、
「 天和年間(1681〜1684)に描かれた最古の東海道絵図の中で江戸から五十里と記され、
北側の塚しか描かれていない。 幕末の島田宿並井両裏通家別取調帳に巾五間二尺で
北側のみ、榎の木が植えられていた、とある。 」 と書いてあったが、五十里というのは
間違いではないか??
商店街を歩いていても、夕方なのに歩行者の姿はなく、通る車もちらほらである。 左側に大きな建物があり、一部のお店だけが開いていたが、その他の部分はシャッターが閉まっている。 ジャスコが閉店したためのようである。
その前に、刀の刃先をイメージした刀匠島田顕彰碑があった (右写真)
室町時代初期、助宗や義助という刀鍛冶がいて、この一門は代々同じ名前を踏襲して明治に至るまで高い評価を得ていたという。 ここは義助屋敷跡のあたりである。
その先には問屋場跡の石碑があった (右写真)
問屋場の建物は間口五間半(約10m)奥行五間(9.1m)で、常備人足を百三十六人、伝馬百匹を常備したが、その内、人足三十人と馬二十匹は特別に備えた予備だった。
また、飛脚(御継飛脚)が十人常駐し、昼夜交代で、御状箱を継ぎ送っていた。
天保十四年の島田宿は、総家数千四百六十一軒、宿内人口六千七百二十七人で、三島宿より大きかった。 島田宿が盛況を極めたのは他でもない。 大井川の渡しがあったためで、
宿内に、
男三千四百人、女三千三百二十七人がいたが、男子は川渡人足、女子は島田女郎で代表される稼業に従事していた。
そのまま歩くと、本通五丁目の交差点を越えたお店の前の小さな庭に、日本最初の私設天文台のあったところという、モダンな形をした石碑が建っていた (右写真)
このあたりは、都市整備事業で、すっかり様相を変えているので、以前に訪れた方はびっ
くりするだろう。 少し先の右側に入ったところに、帯祭りの奴が踊り出すからくり時計塔がある。 ここは、下本陣の置塩藤四郎家があったところである (右写真)
島田宿には、本陣が三軒あり、京側から上本陣の村松九郎治、中本陣の大久保新右衛門、そして、ここに下本陣があったのである。
なお、島田宿には脇本陣はなく、旅籠は四十八軒あった。
時計塔の通り(おび通り?)を奥に向って歩いて行く (右写真)
その先に車道が現れるが、それを横断すると、御陣屋の説明板があり、その先には神社があった。
島田宿は天領(幕府領)で、一時期、田中藩の預かり地などになったことはあるが、大部分は、幕府から派遣された代官により管理されていた。 府中城主、徳川頼宣の代官、
長谷川藤兵衛長親が、元和弐年(1616)に建てた屋敷が始まりで、その子、藤兵衛長勝が、寛永十九年(1642)に、幕府の代官職に任命され、屋敷が御陣屋となり、明治まで続いた。
陣屋の北西(いぬい)の堤上にあったのが、御陣屋稲生神社で、陣屋の屋敷神として祀られ、年一回の祭礼には、宿民にも開放され賑わった、とある (右写真)
先程の街道まで戻り、西に向かって歩くと、信号交差点を越えた右側の天野屋の角に、
本陣跡の石柱があるが、中本陣の大久保新右衛門宅の跡である。
道の左側の静岡銀行の前には、俳聖芭蕉翁遺跡、塚本如舟邸趾の碑がある (右写真)
塚本如舟は通称孫兵衛といい、文禄頃、島田で庄屋を務めた名家で、俳人でもあった。
松尾芭蕉は元禄四年十月、如舟の家を初めて訪れ、次の句を詠んだ。
『 宿かりて 名を名のらする 時雨かな 』
『 馬方は しらじ時雨の 大井川 』
更に、元禄七年五月、彼が最後の旅になる旅の途中、如舟邸に立ち寄り、大井川の
川止めで四日間逗留した。 この時は、
『 さみだれの 雲吹きおとせ 大井川 』
『 ちさはまだ 青葉ながらに なすび汁 』
などを詠んだ。 また、塚本如舟と芭蕉の合作の句もある。
『 やはらかに たけよ今年の 手作麦 (如舟) 田植とともに 旅の朝起 (芭蕉) 』
道の右側のホテル三布袋の前に本陣跡の石柱があるが、ここが上本陣の村松九郎治
邸跡だろう (右写真)
その先の本通り2丁目交差点を左に行くと、JR島田駅である。
交差点手前、右側の島田信金の角に、芭蕉の句碑がある (右写真)
『 するがぢや はなたち花も ちゃのにほい 』
島田信金と島田茶組合などが建てたものだが、藤枝から島田そして金谷には、多くの茶屋(茶製造業)がある。
2丁目交差点を越えて、更に進むと、本通り1丁目交差点に出る。
左側の角に、石柱の道標があるが、風化していて、よく読めないが、そこには、
「 東 六合村境まで十八町十六間 青島町に至る 西 大井川渡船場迄二十四町六間 川根に通ず 南 島田駅迄一町 第一街青年会 」 と、書かれているらしい (右写真)
渡船場や島田駅が出てくるから、明治以降のものであろう。
交差点を越えて、西に向かうと、右側に、大井神社の鳥居と社叢が見えてきた。
江戸時代には、大井神社が島田宿のはずれであった。 十七時五十二分に無事到着。
今日の予定は終わったので、島田の産土社である大井神社に立ち寄る。
鳥居の前の燈籠は、飛脚たちが、道中の無事を祈って奉納した道中飛脚燈籠である (右写真)
鳥居前から続く石垣は、川越人足たちが、毎日仕事後に、河原から一つずつ石を持ち帰って、積み上げたものである。
薄暗くなった境内を歩くと、二百八十年前の正徳三年に、神輿が渡るために造られた石の太鼓橋や使用した帯を供養して納める帯塚などがあった。
その先には、帯祭りの姿をした写真撮影用のボードがあった (右写真)
(注) 帯祭り(島田大祭)は、元禄八年から始まった大井神社の神事で、三年に一度、十月中旬の三日間行われる。 島田へ嫁いだ女性が氏子になったという報告と安産祈願で大井神社に詣でるときに、晴れ着で町内を披露して歩いたのが始まりで、やがて、男たちが代理で、嫁入り道具の帯を飾って練り歩く、というものである。
大井神社は、明治に入ると政府の命令で、この地区にあった全ての神社が合祀された。
境内の燈籠に明かりが点ると、周りを薄暗く照らし、幻想的であった (右写真)
大井神社の由来には、 「 大井神社は、貞観七年、授駿河国正六位上大井神と、三代実録に記載の見える古社である。 昔、大井川が乱流し、度重なる災害に悩まされた里民は、子孫の繁栄と郷土の発展の為に、御守護を祈るべく、大井神社を創建した。 幾たびかの御遷座の後、
島田宿が、東海道五十三次の要衝として、宿場の固まった元禄初年、当地に正式に遷座し、元禄八年より、御しんこいの神事が始まり、下島(現御仮屋)の旧社地は御旅所と称せられ、日本三奇祭、帯祭と讃えられるようになった。 」、とある。 燈籠のともる回廊を歩くと、大井明神と大きく書かれた額がある拝殿に出た (右写真)
大井神社は、島田宿の氏神として尊崇された他、大井川川越の公家、大名、一般人が、
大井川渡渉の安全を祈願する為に立ち寄り、深く信仰されたのである。
拝殿の奥の本殿は、文久三年(1863)の造営で、名彫物師といわれた立川昌敬の彫刻が各所に刻まれている、とあったが、覗きこんでも見えなかった。
拝殿を後にすると、清水祓いの神井戸があり、その左には、大奴像があった (右写真)
夕日が沈みかけていたので、あわてて駅に向かった。
島田駅前の公衆トイレの前に、宗長庵趾碑と三つの句碑があった (右写真)
元禄年間(1688〜1704)に、島田宿の俳人、塚本如舟が、宗長の昔を慕い、宗長庵を営み、雅人たちと諷詠を楽しんでいたところで、元禄七年に、松尾芭蕉も訪れている。
(注)連歌師宗長は、1448(文安5)年島田に生まれ、宗祇(全国に連歌を広めた室町時代
後期の人)に師事し、連歌を学び、宗祇没後は、連歌界の第一人者として活躍した人である。 一番右にあるのは、宗長句碑で、「遠江国、 国の山 ちかき所の 千句に こゑ(声)やけふ はつ蔵山(初倉山)の ほととぎす 」 、とあるが、歌には疎い小生には、どういうことを詠ったのか、さっぱり分らなかった (右写真)
真中と左の石碑は、芭蕉に関するもので、真中は、芭蕉翁を慕う漢文碑である。
その左は、芭蕉さみだれ古碑で、 「 (さみ−欠)たれの (雲ー欠)吹きおとせ 大井川 」 というように、上の部分が欠落していた (右写真)
十八時二十二分、島田宿の旅は終わった。
いっぱい汗をかいたので、一風呂浴びたい気分だが、青春18切符で、豊橋まで行き、名鉄特急で知立まで帰らなければならない。
駅のトイレで、顔と身体の汗を拭い、新しい衣装に着替えると、やっとさっぱりした。
今日は、いろいろなところに行き、けっこう忙しかった。
(藤枝宿〜藤枝駅) 平成19年(2007) 5 月
(藤枝駅〜島田宿) 平成19年(2007) 7 月
( 島田宿 ) 平成19年(2007) 7 月