江尻宿から府中宿に向かうと、日本武尊が祀られている草薙神社の近くを通る。
草薙神社の境内には、草薙の地名にもなった日本武尊の像が祀られていた。
府中宿は、徳川家康が幼年時と晩年を過ごしたところでもあり、単なる城下町とか宿場と
いうことでなく、
徳川家にとって由緒の深い所として重要視されてきたのである。
平成19年6月2日(月)、江尻宿から清水港へ行き、その後、府中宿に向う。
江尻宿のはずれの稚児橋を渡ったところから、二つ目の信号、竹翁堂菓子店前の入江の変速十字路を右折して行くのが東海道である (右写真)
東海道は、この先、府中(現静岡市)の中心まで断続的だが、かなりの部分が残っている。
なお、直進する道は久能山への参詣道(久能道)で、清水港、三保へも通じている。
右折すると入江町になり、かっては、桶屋、刀剣屋、畳屋、箒屋などが軒を連ねた職人の町だったが、そうした店も少なくなってしまった。 二十分程歩くと、道の左側に 名物追分羊かんと書かれた看板が見えるが、江戸時代に創業した追分羊羹店である (右写真)
この辺りは、茶屋が建ち並び、東海道を行く人と久能山へと向かう人で、賑わったところで、
店の左側に建っている久能道の追分道標は、久能山へいく道の分岐点を示す道標である。 前述の入江交差点の久能道ができるまでは、ここが久能山へいく道だった。
道標は、一面に、 右より志ミづ道 と、読めるが,もう一面には、 南無妙法蓮華経 と、
刻まれていた。
なお、このお店は創業元禄八年とあるので、歴史が古い。
その先の民家の前にある五輪塔は、都田吉兵衛の供養塔である (右写真)
清水の次郎長の子分の森の石松は、通称は都鳥の都田吉兵衛の家にやっかいになって
いたが、賭場の金の貸し借りがもとで、吉兵衛との仲がこじれ、だまし討ちにあって殺され
てしまう。 吉兵衛は、東海一の大親分、次郎長の子分を殺したことで逐電し、追分の
茶屋の一軒に潜んでいたが、次郎長一家に見つけられ、文久元年(1861)正月十五日、
次郎長より、討たれてしまい、
吉兵衛の死体は、後難を恐れ野ざらしになっていたが、それを哀れんだ里の人がここに埋葬し、供養塔を建てた、というものである。
この先の金谷橋が架かる川には、江戸時代は、土橋が架けられていて、牛馬は、橋の脇の土手を降りて川を渡って、また、土手を登って、道に合流したようである。
ここには、夢舞台東海道 元追分の道標が建っていた (右写真ー金谷橋)
鉄道線路を越えた所が、平川地、うばが原ともいったところで、東海道名所記では、
「 うばが原、右の方の田中に婆が池とてちいさきいけあり。 しるしに松二本あり・・・・ 」 と、ある。
道は右に大きくカーブしながら穏やかに上る。
その先の交差点は、左に向かう道は広く、右側の道の先には、静鉄狐ケ崎駅がある。
交差点の手前の左側に、久能寺観音道と書かれた道標が建っているが、安永七年(1778)に妙音寺の若者の寄進により造立された (右写真)
(注)久能寺観音道は、平川地から有東坂、今泉、船越、矢部、妙音寺、久能寺に至る有度山麓を通る道。 久能寺は久能山にあったのだが、武田信玄の駿河進出で久能山に城が築かれ
たため、天正三年に現在地に移転したが、明治維新で廃寺になった。 明治十三年(1883)に、山岡鉄舟が再建し、鉄泉寺になった。
地元の人達が建てた東海道の説明板によると、
「 東海道は今の北街道を通っていたが、慶長十二年(1607)、徳川家康の命により、七日市場の巴川に大橋(現在の稚児橋)が架けられ、追分、そして、ここ大原から駿府横田に至る道に変えられた。 」 とある。 左側には、上原堤という大きな池があり、池を避けるため、道は湾曲していた。 これが、前出の婆(うば)が池かどうか不明である (右写真)
昔はこのあたりに池沼多く、篠竹が繁っていたところのようで、駅のあたりにも、別の池がある。
池に沿って歩いていくと、左側に上原子安地蔵堂がある (右写真)
上原延命子安地蔵はいつの創建かは明らかではないが、鎌倉時代か?とあった。
永禄十一年(1568)の武田信玄の駿河攻めの時、山県正景がここに陣を敷いた。
天正十年(1582)には、徳川家康が江尻城主の穴山梅雪とここで会談し、梅雪は織田方に降り、これが
武田氏滅亡のきっかけとなった、とあったが、当時の建物や子安延命地蔵は焼失しているので、お堂や地蔵は最近のものである。
その先、左側の百メートル上ったところに白壁で大陸風の小さい寺があった (右写真)
十七夜山千手寺という寺で、入口に、 「 柚子湯出て 慈母観音の 如く立つ 」 という上田千石の句碑があった。
有度(うど)第一小学校前を通り、歩き続けると、県道に合流した。
この交差点には、夢舞台東海道 有度の道標があった。
右側の静鉄御門台の駅を見下ろしながら進むと、右側に大きなタヌキの置物があり、横に東海道草薙一里塚跡の石柱が建っていた。 江戸から四十三番目の一里塚跡で、昔は塚の横に高札場があったようである (右写真)
ここから十分ほど広い道をそのまま進むと交差点があり、右折するとJR草薙駅前になる。
道の左側に大鳥居と此奥有草薙大明神と刻まれた道標があるので、ここで左折し、道を上る。
かなりの急坂を上ると、草薙神社の鳥居があった (右写真)
1.2kmとあったので、たいした距離でないと上り坂を歩いていったが、予想した以上に時間をくわれた。
草薙神社の社殿は立派で、境内は鬱蒼とした森でに包まれていた。
草薙神社の祭神は日本武尊、景行天皇五十三年の創建と、伝えられる神社で、平安時代編纂の延喜式神名帳の延喜式巻第九に、有度郡三座のうちとして、記されている (右写真)
江戸時代の東海道名所図会でも、 「 駿府より二里ばかり東、草薙村にあり。 海道より入る事五町余、鳥居海道に立つ。 延喜式内、有度郡三社のうちの一社なり 」 とある。
中世以降には武士の尊崇を集め、特に徳川家康が社殿の造営をしたほか、五十石の朱印領を
与え、その後、歴代の将軍の庇護を受けてきた。
境内には、草薙の地名にもなった日本武尊の像が祀られている (右写真)
日本武尊が東征でこの地を通りかかると、逆賊が起こり、尊を殺そうとして火を放った。
尊は佩いた剣を抜いて、「遠かたや、しけきかもと、をやり鎌の」と、鎌を打ち払う様に唱え、剣を振り草ををなぎ払い、火を逆賊の方へなびかせ、無事逃れることができた。 尊の佩刀した
あめのむらくもの剣は、草薙の剣と名称を替え、神社に奉られていたが、天武十四年
(686)、天武天皇の勅命によって熱田神宮に移された。
街道まで戻り、東海道の旅を再開する。
バス停があるあたりで、車の少ない静かな通りに入るのが、旧東海道である (右写真)
やがて前方に東名高速道路の高架が見えてくる。 しばらくの間住宅街を歩き、高架橋
の下をくぐり、さらに進むと左側に運動場が見えるところで、マンションに突き当たり、旧道は終わっている。 その先は自信はないが、右折して県道の交差点を渡って進むと、静岡鉄道の県総合運動場駅があるが、その先はJRの操車場である (右写真)
旧東海道は鉄道線路で分断されているが、線路の北側から国道1号線まで続く。 地下道を抜け静岡鉄道の高架をくぐり、JRの線路沿いに百mほど行くと右に入る道がある。
後久橋を渡ると、夢舞台東海道 古庄の道標があり、府中宿まで3.3qと表示されていた。 国道を少し歩くと、長沼交差点である (右写真)
ここは、右側に渡り、続いて、県道74号線を越える。 右側に、タツノと大きく書かれた看板のビルの対面に細い道があるので、それに入る。
これが旧東海道で、この先、五百メートルほど残っている。
左の家の上に、マイクロウエーブを乗せたNTTのビルが見えた。
その先、右側に久応院という寺の前には石仏と庚申塔が祀られていた。
一里塚があるはずなので、その所在を求めて歩くと、左側の民家の前に、長沼一里塚跡の石柱を見つけた。 プランターに偶然目が行ったことで見つけられた。 植物に溶け込んでいるので、見つけづらい感じだった (右写真)
静岡鉄道長沼駅の前を通り過ぎると右側の線路越しにバンダイのビルが見えた。
また、左側には、かって仕事でおじゃましたことがあるトヨペット本社ビルもあった。
踏切の向こうに見える神社は、静岡県護国神社である。
道はその先カーブし、護国神社前交差点で、再び、国道1号線と合流する (右写真)
交差点の先を見ると、道は残っているが、残念ながら、JR運転所の先の鉄道線路で終わっている。
国道を静岡方面に向かうと、右手に静岡鉄道柚木駅が見えてくる。
この交差点には横断歩道橋があるので、これを利用して反対側に渡る (右写真)
JR線のガードをくぐり、小さな道路の立体交差が見えたら階段を上ると、上の道路に出られる。
右折すると、夢舞台東海道 曲金の道標があるが、昔は曲金村(まがりかね)だった。
その先の左に、西豊田小学校があり、その先に、曲金軍神社がある。
その先の交差点手前に、戦死した梶原景時一族郎党の霊を弔う曲金観音堂がある。
江戸時代にはその前の東海道には石橋が架かっていた、という。
右の道を進み、JR線のガードをくぐると、春日町駅前の五叉路に出る (右写真)
春日町一丁目交差点であるが、国道1号線をわたって、正面の道を進めばよい。
いよいよ府中宿である。