16時27分、春日町駅前の五叉路で、国道1号と別れ、右の道に入った (右写真)
このあたりは横田町で、道脇に横田町の道標と歴史が書かれていた。 それによると、
横田はかなり古い時代から交通の要衝だったようである。 江戸時代の元禄五年(1692)、東境に、道の両側を挟んで石垣が築かれ、枡形の府中宿の東入口の見附が設置された、とある。 府中宿は、徳川家康が、足利氏の支族の今川氏の人質として、幼少の頃をこの地で過ごした
ところである。
また、晩年、将軍職を秀忠に譲り、駿府城に移り大御所として権勢を振るった所でもある。 従って、府中は単なる城下町とか宿場ということでなく、徳川家にとって由緒の深い所として重要視されてきたのである。
その先の交差点は横田東で、左右の通りはきよみずさん通りと、いうらしい (右写真)
当時の下横田町の家数は四十七軒、二百十四人の人口だった、とある。
右折すると、静岡鉄道音羽駅があり、その先にある清水寺は、永禄弐年(1559)の創建で、家康が建立した観音堂がある。
交差点の先は、江戸時代の猿屋町で、左側の酒屋の二階にビールジョッキ片手の人形が下を見下ろしていたが、愛嬌がありおもしろい。
その先は、旧院内町になるが、右側の奥に西宮神社が祀られている (右写真)
その先の交差点を越えると、伝馬町通りに入るが、旧上横田町、旧鋳物師町と続く。
○○だるま店という店があり、店頭にちいさなだるまや招き猫などが飾られていたが、慶事関係の問屋なのだろうか?
交差点を横断すると、ビル街になった (右写真)
道脇に鋳物師町の道標があり、旧鋳物師(いもじ)町は鋳物を扱っていた職人の町だったが、今は横田1丁目、伝馬町、日の出町の3つに分割されていた。
古い職業ではいぐさ屋があったのには驚いたが・・・・
交差点を越えた先の左側に久能山東照宮道の標柱があるが、この道は久能山に通ずる道で、江戸時代には、参勤交代の大名たちが久能山詣でをした、という。 その先の道の右側に、華陽院門前町の道標がある (右写真)
華陽院は、右側の道を入ったところにあり、家康が今川氏の人質になっていた時代に勉学に通った寺である。
家康は三歳で母と生き別れ、祖母の源応尼が静岡まで付き添ってきて面倒をみた。
源応尼が亡くなると、家康はこの寺で法要を営み、源応尼の法名から、寺の名をこれまでの智源院を、玉桂山華陽院府中寺と改めた。 それがこの寺である (右写真)
寺には、源応尼墓の他、市姫(家康と側室との娘)や側室お久の方など、徳川家にゆかりの深い墓がある。 この町は、駿河国の国府であったことから、府中となったが、中世になっても、
海道のおさえとして足利氏の支族、今川氏が支配していた。
江戸時代の府中は、
宿場町であると同時に、駿府城の城下町として、駿河国では最大規模の賑わいを誇った。 天保十四年の宿場の人口は、一万四千七十一人で、家数は三千六百七十三軒を数えている (右写真ー府中の宿散歩道とある道路のタイル)
(ご参考) 駿河国の国府、国分寺、国分尼寺に興味にある方は友人のページ「国府物語」をご覧ください。
街道に戻って歩くと、歩くに比例して大きな建物が増えてきた (右写真)
交差点を右折すると、その先に静岡鉄道新静岡駅があった。
道を直進すると、左側にFIVE−Jというビルがある。
ビルの左側には、丸井、松坂屋などのデパートが並んでいて、その先が静岡駅である。 若い人が沢山歩いていた。
県内の他地区からも来ているのだろうが、
これまで歩いた沼津や浜松と違い、
静岡市は東京風の雰囲気が流れた都会なのである。
右にカーブする道の右側に、ホテルシティオ静岡がある。 ホテルの外壁に、西郷と山岡の歴史会見の説明板があった (右写真-ホテルシティオ)
『 慶応四年(1868)二月十二日、最後の将軍・徳川慶喜が江戸城を出て、上野寛永寺で謹慎
した直後に追討軍が江戸に到着。 官軍の江戸城総攻撃が目前に迫った。
幕府軍事取扱の勝海舟は、慶喜の処刑と江戸会戦を避けるため、山岡鉄太郎(鉄舟)
を静岡にいる官軍参謀西郷隆盛のところへと派遣した。 山岡は、江戸から駿府に
かけて居並ぶ官軍の中を
「 朝敵徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎。大総督府へ参
る。 」 と大声で叫びながら馬を駆り、
呆然と見送る兵士たちの間を走り抜けた。
駿府まで進出してきていた西郷は、定宿の
松崎源兵衛方で山岡と会見する。 両者
は初対面だったが、山岡の人柄にすっかり惚れ
込んだ西郷は勝との話し合いに
応じることを約し、これにより江戸無血開城への道が
開けたのである。 』
ホテルは、安田屋太郎兵衛宅だったところで、西郷と山岡が会見した場所は、安田屋の三軒隣の松崎屋源兵衛宅だったが、
現在はペガサートというビルになっていて、その前に静岡市史跡の石柱と二人の顔入りの会見の碑が建っている (右写真)
そのまま道を進むと、右手に駿府城がちらりと見える五叉路の江川町交差点に出る。
時計を見ると、十七時になろうとしていた。 これから府中の西見附まで行くことは可能だが、
丸子宿と一緒の方がよいので、次回にし、駿河城に行ってみることにした。
歩いていくと奥に静岡市役所のビルが見えるが、お堀の水と石垣が現れた (右写真)
今川館と呼ばれた駿府城は、永禄十一年の武田信玄の駿河侵攻と天正十年の徳川家康の侵攻により灰燼と帰したが、徳川家康は今川館があったところに城を築き、天正十七年居住地を浜松からここに移転した。 家康は大御所になった後、再びこの城に入り、
天守閣を設けるなど城の大修復を行い、慶長十三年に完成させた。
家康の没後、駿河(府中)藩として、徳川頼宣と徳川忠長が藩主になったが、その天領
になり、五千石格の旗本による駿府城代が置かれたが、天守閣が焼失して後は、再建されなかった。
幕末、徳川慶喜が江戸城からここに監禁された後、徳川家達が藩主になり、版籍奉還となった。 その後、建物は壊され、堀と城壁の一部が残されていたが、最近、巽櫓と東御門が復元された (右写真)
東御門から入ると、駿府公園となっているが予想していたより広大な面積である。
復元された櫓(有料)の中は見ることができるが、時間が過ぎていたので入れなかった。
城を示すものは家康の銅像と本丸跡を示す水溜まりだけで、その他は紅葉山庭園位しか見るものはなかった。 その足で静岡駅に行き、今日の旅は終わった (右写真)
今日は清水駅から江尻宿を経て府中宿にきたが、清水港で博物館や次郎長の家などに寄ったことで、府中宿全部を見終わらなかったのは、少し残念だった。
平成19年7月31日(火)、府中宿に再度訪問。 青春18切符を使用したことから、静岡駅に到着したのは九時をだいぶ過ぎていたが、前回歩いた区間の一部は夕方で見落としがあったと思い、その部分から歩き始めることにする。 駅を出て、ホテルアソシアの前を通り、栄町交差点を渡ると、ビルの一角に珠賀美神社があった (右写真)
珠賀美(たまがみ)神社は、怪力鬼彦の伝説が伝わる神社だが、そこを過ぎると、右側にある
のが静岡市伝馬公園で、そこを過ぎると大通りに出た。 これが前回歩いた東海道である。
空を見上げると、街灯に TENMA DESIGNER'S BANNER CONTECT 2007と表示されていたが、どういうコンテストなのか、分らなかった (右写真)
花陽院門前町の石碑の先の交差点まで行き、そこでUターンして西に向かって、今日の
東海道の旅を始めた。 右側に伝馬小路と表示があるが、道を挟んだ左側のまつ本という店の方を
見ると、手前の歩道に、本陣脇本陣跡の石碑が見えた。 これは前回気が付かずに通り過ぎたもので、下伝馬町本陣と脇本陣の跡である (右写真)
下本陣と呼ばれたのは、小倉家で、脇本陣は平尾家である。 その先の右側に、上伝馬町の本陣望月家、脇本陣松崎家があったのだが、それを示す石碑などは見付けられなかった。
スルガ銀行の先の交差点を渡るが、前方に見えるのは高いビルばかりで、昔の面影を
感じさせる建物は残っていない。
左側のFIVE−Jというビルの奥には、丸井、松坂屋などのデパートが並んでいて、その先が静岡駅である。 歩道に上下伝馬町の石碑があり、傍らに説明があった。 また、人形像の脇に伝馬町由来碑が建てられていた (右写真)
これも前回見なかったものである。 道の右側に戻り、西に向かう。
ホテルシティオ静岡の外壁の西郷と山岡の歴史会見の説明板を横目で見て、道を進むと、右手に駿府城がちらりと見える五叉路の江川町交差点に出た (右写真)
前回はここまで来て終わったので、これから先は未踏破の道である。
交差点には横断歩道が無いので、地下道を通って斜めに出るのだが、地下道はけっこう複雑なので、町名から出口を探して表に出た。 このあたりは、城下町特有の曲がりくねた道である。 ワタベウエデング
の前に出たので、南に向かい、呉服町交差点まで来たら、右折する。
呉服町商店街は、レトロな雰囲気を演出しようとしているようで、鋳物製の街燈やモダンなデザインのベンチが置かれていた (右写真)
そうした通りを自転車がすいすい通り過ぎていく。 静岡市は平らな土地からか、自転車の利用者が多く、このような町の中心にも平気で乗り入れてきていたのには驚いた。
駿河区役所に通じる緑道の脇に、ライオン像があり、子供が口に手をいれようとして、母親に叱られていた。 少し歩くと、伊勢丹前の交差点に出た (右写真)
交差点の右側に、府中宿の浮世絵タイルを大理石に嵌めこんだ時計付きのポールが建っている。 また、少し離れたところに、里程元標址の石碑があった。
道を渡ると、右側に姉妹都市友好の碑もある。
道の向こう側の伊勢丹前に札の辻址の碑が建っていた (右写真)
江戸時代には、ここに高札場が設けられていたので、札の辻と呼ばれ、昭和二十年まで札の辻町という町名が残っていた、とある。
初期の東海道は本通りを通り、この先の呉服町一丁目から四丁目(現在の呉服町一丁目)を経て、ここに至り、呉服町五丁目から八丁目(現在の呉服町二丁目)を経て、伝馬町に至っていた、という。
その後、東海道が新通りを経由するようになると、ここで左折し、七間町通りを進む道に変わった。 七間町にも商店街があった (右写真)
周りが山と海に囲まれていることから、大型スーパーが郊外に立地する場所に制約があるのかも知れないが、これだけの商店街が残る都市は珍しいなあ、と思った。
そのまま歩くと、右側に静岡東映とサークルKがあり、七間町交差点に出た (右写真)
国道362号線を渡ると、オリオン座があり、その反対側にも、映画館がある。 映画館が数軒固まってある映画館街は、一昔前には全国の各地で見られた風景だが、シネマコンが登場し、一つの映画館で複数の映画が見られるようになってからは、姿を消してしまった。
そういう意味でも、静岡は不思議な町である。
道の左側にファミリーマートがあり、交差点の向こうには最近造られたと思える赤茶色のビルがあった。 東海道はこの交差点を右折する (右写真)
入った先は先程までの商店街と違い、中心を外れていく感じで、取り残された商店街に変る。 道の脇にあった府中宿人宿町と刻まれた石碑には、静岡姉様人形や駿河
竹千筋細工など、江戸時代の名物が紹介されていて、東海道であったことが感じられた。
人宿町は縦七間通りと呼ばれていたこともあるようで、江戸時代には、庶民が泊まる木賃宿が多く、旅籠町として栄えたところのようである。
人通りが少なくなった道を歩くと、右側に梅屋町キリスト教会がある (右写真)
東海道は、キリスト教会の次の交差点を左折して、狭い道に入る。
これが新通りで、東海道はこの先、安倍川の渡しまで、まっすぐな道が続く。
そのまま歩くと左右の道が大きい信号交差点に出た (右写真)
この道を横切ると、新通1丁目に入った。
右側に、駿河名物元祖わさび漬宝暦三年創業、と書かれた看板の家があった。
その上の壁には、田尻屋本店とあり、八代目とある (右写真)
宝暦の頃、東海道の新通りで味噌屋を営んでいた田尻屋和助が、山に出かけ、立ち寄った農家で出されたお茶受けが、山葵の茎と葉を糠味噌に漬けたものだった。 食べてみると、捨て難い風味があったので、茎と葉を持ち帰り、色々と工夫をして加工している中に、酒粕に漬けるのが一番よいことを発見した。 それがわさび漬の始まりという。
小生が新幹線でよく買ったのは田丸屋である。 田丸屋は明治に入ってからの創業で、桶にわさび漬を詰め、開通した東海道の駅で売った
ところ有名になり、わさび漬は全国に広がった、という。 元祖は田尻屋で、普及させたのは田丸屋ということになろう。
新通1丁目を過ぎると、信号交差点があり、左側には、秋葉神社が祀られている (右写真)
府中一里塚は、江戸時代初期の道につくられたので、新通りではなく本通りにある。
折角なので、立ち寄ることにした。 右側の東海電工舎を右折すると、本通り8丁目の交差点に出た。 道の反対側に渡り、左折し、道に沿って歩くと、ラペック静岡の案内標示の先に、府中一里塚址の石碑が建っていた (右写真)
先程の交差点まで戻ると、あとは安倍川橋まで真っ直ぐである。
その先には郵便局と静岡銀行がある。 曇っていた天気がいつの間にか、晴れてきて大変暑い。
既にボトルを飲み干していたので、自動販売機でお茶を買い、一気に飲み干した。
暑さを我慢して歩いて行くと、信号交差点の先で、町名が川越町に変った (右写真)
江戸時代には川越町に西見附があり、府中宿はここで終わりだった。
西見附のあったところを探ろうとしたが、どこにあったのかは確認できないまま終わった。
(江尻宿〜府中宿) 平成19年(2007) 6 月
( 府中宿 ) 平成19年(2007) 6 月
( 府中宿 再訪 ) 平成19年(2007) 7 月