江尻宿は、現在の静岡市清水区で、武田信玄が築いた江尻城の城下町に造られた宿場である。
宿場の終わりの稚児橋には可愛い河童の像が四隅の橋柱になっていた。
江尻宿より有名なのは清水次郎長の住んだ清水港である。 今でもその家が残っていた。
平成19年4月29日(日)、東蒲原駅から蒲原宿、由比宿、興津宿と歩いてきたが、座魚荘まで来たところで、十六時三十分である (右写真)
蒲原駅に戻ろうか、それとも清水駅まで歩こうかと、迷っていたが、決め手になったのは昼の食事である。 桜えび御膳をいただいたのだが、意外に腹もちがよく、空腹感を感じない。 また、蒲原駅まで戻っても、一キロ以上ある。 ということで、江尻宿に
向かうことにした。 国道1号線をひたすら進むと、正面に、高速道路の陸橋みたいなものが見えるが、これは、国道1号線静清バイパスである (右写真)
高架の下に川が流れているが、川に沿って進むと、少し上りになる。 続いて、東海道本線の上を渡ると、江戸時代には横砂村だった横砂東町に入る。 たばこ屋だったと思える、民家のガラス窓に、上野ー万座鹿沢口 急行草津 や 東京ー静岡 急行東海などの列車のプレート
が飾られていた。 この地方の人にとっては、急行東海は思い出に残る列車なのであろう。
少し行くと、右側に延命地蔵があり、前に常夜燈が建っていた (右写真)
横砂自治館前の交差点あたりが、横砂中町であろうか?
その先の民家の一角に、念仏供養塔がある。 この横に、袖師ふるさとの道25という番号が表示されていた。
この番号は何を意味するのだろうか? この疑問は、かなり歩いてから、案内板を見て
解決したが・・・・ それは、後刻述べることにする。
その先の右側にある医王山東光寺の山門は、昔、朝廷からの勅使が、興津川の氾濫により、東光寺に泊まることになり、急遽、この門を造った、と伝わるものである (右写真)
勅使が泊まる宿舎は、格式上、門構えでなければならなかったためである。
寺がここに移ったのは、天文年間(1532〜1555)で、寺佛の薬師如来(秘仏)は行基の作と
伝えられている、という。
その先の横砂交差点を急ぎ足で通り過ぎた。 このあたりは旧清水市の住宅地のようで、ほとんどが比較的新しい家で、見るべきものはなかった。
庵原川に架かる庵原川橋を渡ると、横砂西町である (右写真)
しかし、すぐに袖師町に入った。
明治維新後の町村合併で、旧横砂村、旧嶺村、旧西久保村が合併し、袖師村になり、その後、袖師町になったが、昭和の大合併で清水市に併合された。
さらに、今回の静岡市との合併で、旧横砂村は、清水区横砂○○町に、旧西久保村は、清水区西久保に変り、旧嶺村だけが、清水区袖師町になったのだが、別の意味では、江戸時代の区分けに戻ったとも言える。
道の左側に、松の木が一本あり、夕方の逆光の光で、シルエットを作っていたが、東海道の松並木の生き残りなのだろうか? (右写真)
袖師東交差点を過ぎると、左右の道が広い交差点に出たが、横断歩道がないので、歩道橋を
歩き、向こう側に渡った。 その先の右側に、馬頭観世音菩薩があり、それ
には袖師ふるさとの道1、とある (右写真)
道の右側に、袖師ふるさとの道と書いた、大きな案内板があり、疑問だった番号の怪が解けた。 ふるさとの道を一周する場合の順番が示されていたのである。
夢舞台東海道 袖師ヶ浦の道標を見つけた。 それには、江尻宿まで六町とあったので、残りは
七百七十メートルほどの距離である。 だいぶ日が陰ってきたが、なんとか江尻宿まで着けそうである。
道が二又になったところが見えてきた (右写真)
二又の中央に行くと、無縁さんの碑と夢舞台東海道 細井の松原、という道標があった。
元禄十六年(1703)には、ここから江尻宿の入口、現在の矢倉町通り交差点までの全長百九十九間二尺(約360m)の間に、二百六本の松の木があり、細井(ほそい)の松原と呼ばれ、松原では松原
せんべいを出す茶屋があった、という。
第二次世界大戦の時、飛行機の燃料にするための松根油をとるため、伐採されて一本もなくなってしまった。
ここにある一本は、平成になって植えられたものである (右写真)
旧東海道は国道1号線と別れて右側の道に入る。
このあたりは、江戸時代には辻村で、百十戸の家があった、とされるところである。 現在は、辻町三丁目になっているが、古い家は
一軒も残っていなかった。
矢倉町通り交差点を過ぎると、数は少ないが古い家が残る。
その一軒の連子格子のすばらしい家の屋根から、SEIYUのネオンが見えた (右写真)
その先の信号交差点に、江尻東とあったことで、江尻宿に入ったことを知った。
十七時二十一分だった。 今日はこれで終了しよう。
東蒲原駅からさった峠を越えてここまで歩くことができたのはよかったし、さくらえびが食べられたことに満足した旅だった。
交差点で左折し歩いて行くと、両側に大きなビルのある交差点に出た (右写真)
地下道をくぐり向こう側に出る。 直進すれば清水駅だが、その前に右側の商店街に立ち寄り、新茶を買って家への御土産にした。
帰りは静岡から新幹線である。
訪れてから一月以上経った平成19年6月2日(土)の10時、清水駅に到着 (右写真)
今日は江尻宿を見学してから、清水港に向かい、その後、府中宿まで行くつもりである。
江尻というとなじみが薄いが、次郎長の住む清水港(みなと)は有名で、江尻宿は、駿河国では、府中宿に次いで、大きな宿場だったのである。
前回、蒲原宿から江尻宿に来た際、辻村から江尻東交差点まで歩いた。 江戸幕府は、慶長六年(1601)、東海道を開設した際、江尻の町
の中に東海道を通して、宿場町とした。 その後、慶長十二年(1607)に、
宿場の西端に近い巴川に、橋を架けたことで、東の辻村の木戸から西の入江町の木戸までの二キロの宿場町になったのである。
今回の旅は、先回終わった江尻東交差点からである (右写真)
交差点を左折すると、江尻東商店街で、江戸時代には傳馬町と呼ばれた。 道は広くないが、
旧東海道で、この道を歩くと、江尻東商店街から銀座商店街となり、前方に緑色の鉄橋が見えてくる。
東海道は、それより手前で曲がるが、そのまま行くと大正橋で、右側に水神社があり、神社隣の公園には、昔の稚児橋の親柱が残されている (右写真)
街道に戻る。 江尻東商店街には、古い家は一軒も残っていなかった。
江尻宿も宿場特有の鉤型になっているが、そこへと至る交差点の手前の右側に、高級英国生地テーラー雀荘(ジャクソウが)ある (右写真)
麻雀屋と勘違いするが、れっきとしたオーダーメイドの洋服屋さんで、その角を右に曲がる。 江戸時代には、鉤型になっていたようで、その先に、志茂町、仲町、魚町などの町があり、宿場の家数千二百四十軒、六千四百九十八人、本陣が二軒、脇本陣が三軒、旅籠が五十軒が
軒を並べていたようであるが、宿場町時代の面影はまったく残っていない。
左側の洋菓子喫茶富士と駐車場の前には、夢舞台東海道 江尻宿の道標が建っていた (右写真)
その先の交差点の左側あたりに、江戸時代には羽根本陣があったように思われる。 また、羽根本陣の先には大竹屋脇本陣があり、その反対の手前には田中屋脇本陣があったはずである。
というのは、江戸時代には、ここには現在のような道は存在しなかったので、本陣の跡
に道が作られたという前提での話だが・・
寺尾本陣は、五年ほど前には銀座ガレージ寺尾という駐車場になっていたが、今回訪れるとその表示がなく、その場所は確認できなかった。
道の左側にあるおもちゃ屋、富岡屋の前に、江尻宿の説明板が立っていた (右写真)
図面でみると、手前の駐車場あたりが、寺尾本陣があったところに思えるのだが・・・
左側の履き物屋、西村屋あたりが、江戸時代には鉤型になっていたところで、ここを
左折する
のが、東海道であるが、そのまま直進すると、魚町稲荷神社があった (右写真)
江尻の歴史は、今川が支配していた頃に始まり、最初は三日市場として栄えていたが、永禄十二年(1569)、武田信玄が進出し、その翌年、現在の江尻小学校の敷地に江尻城を築いたことから、城下町が形成され、職人の町として発展して行った。
天正六年(1578)、当時の城将、穴山梅雪が城を大改築して本格的な城にしたが、そのとき、
城内に祀ったのがこの神社である。 街道に戻り、東海道を歩くと、巴川に架けられた
稚児橋がある。
慶長十二年(1607)に架けられたときは江尻橋と言ったが、渡り初めの日に人が川を渡ろうとすると、川の中から童子が現れ、橋脚を登ると入江方向に消え去ったことから、稚児橋に変わった、と伝えられ、前述の童子は巴川に住む河童だったといわれる (右写真)
橋は昭和六十一年に架け替えられたものであるが、橋の親柱四隅に、河童の像がのって
いるのは、童子は巴川に住む河童だったといわれることから。 橋の中間にあるレリーフは、河童が蕗の葉を雨よけにして歩いている姿だが、大変愛嬌があった (右写真)
橋を渡ったところには、江戸時代には高札場があり、船の難破や破損時などの取り決めごとなどを書いた船高札が立てられていた、という。
稚児橋を渡ると、江尻宿は終わる。
江尻宿は古いものが見事に消え去っていたため、簡単に見学が終わったので、清水港に足を伸ばすことにした。 日の出埠頭は小生が期待したような大きな港湾施設ではなく、県警の船が係留される程度の小さなものだった (右写真)
近そうに思えたので歩いていったが、思ったより遠かった(駅前からバスで行った方が時間短縮できるし、料金も百円と安いのでお得のようである)
でも、フェルケール博物館に寄れたのはよかった。
フェルケール博物館は、人と海の交流のステージともいえる港にスポットを当てたミュージアムである。 こうしたものをテーマした博物館はあまりない。
清水港に限定しているので、インターナショナルでないため、展示物が限定され、スケールが小さいのが惜しいが・・・ (右写真)
小生のように物流の仕事を経験したものには面白い博物館だが、一般向けするテーマ
ではないので、入場者は限定されるだろう。 なお、フェルケールはドイツ語で交通、交際を意味する言葉(入場料400円、9時30分〜16時30分、月曜日は休館)
港橋のところに、清水港船宿記念館があったが、清水次郎長が、明治十九年に営業を開始した船宿、末廣を再現した建物(無料、10時〜18時、月休)である (右写真)
室内では、次郎長が清水港の振興に尽力した晩年の姿を紹介していた。
橋を渡り、左側の通りに入ると、股旅姿のイラストの次郎長通り商店街があった。
商店街を歩くと、左側に次郎長の生家があった (右写真)
戦後、広沢虎造の浪曲で有名になった清水次郎長の本名は、山本長五郎といい、伯父の米問屋山本次郎八の養子になったが、二十歳の頃から遊侠の世界に身を投じ、次郎八の長五郎から通称次郎長となり、やがて東海道一の大親分となった。
明治維新後は、山岡鉄舟、榎本武揚らの知遇を受け、明治政府から清水の治安を任されると共に、英語塾を開設したりして、
清水港の振興に尽力、また、三保の開発や富士山麓の開墾など、人のためにささげ、明治二十四年、七十四歳で亡くなっている。
少し歩いた梅陰禅寺には、子分や妻のお蝶らの墓に取り囲まれた次郎長の墓がある (右写真)
大政小政の墓には壊さないでくださいと注意書きがあったが、賭け事にこの墓石や遠州森町の石松の墓石のかけらが幸運をもたらすと信じられているようである。
以上で、清水港の見学もは終わり、再び、東海道に戻った。
(興津宿〜江尻宿) 平成19年(2007) 4 月
( 江尻宿 ) 平成19年(2007) 6 月