『 東海道を歩く ー 興津宿(続き)   』




由比宿から興津宿(その3−さった峠を下る)

暗い道 さった峠の道標から少し歩くと、下り坂になり、道が二手に分かれる。  上へ登って行くと、すぐに立ち入り禁止の表示があった。 清水市指定眺望地点で、興津地区の建てた看板には、江戸時代の後期、峠を下るところより内洞へ抜ける道ができ、それを上道といったが、現在は廃道になっている、とあったが、方角的には、この道が該当する。 
左の道を下って行くと、両側が木に覆われた暗い道になった (右写真)
自然が作りだした谷のような道で、これでよいのか?と、一瞬不安にかられた。 
墓地 それほど長い時間ではなかったが、突然明るいところに出た (右写真)
下を見ると墓地があるが、墓地を過ぎると、左側に、さった峠に上る人のための駐車場とトイレがあった。  車ならここに駐車し、登った方が良いと思う。 道の角の東海自然歩道の案内板には、さった峠ハイキングコース全長0.94km、興津駅2.5kmと表示されていた。  先を急ぐので、トイレにはよらず、下り始めると、道の左に往還道という石柱があった。 
秋葉山常夜燈 道の正面には小高い丘があり、農地を造成したような道も出来ていたが、小生は、最初の四差路で右折し、長山平に向かった。 舗装されていない道は、最近造成された道にも思えたが、道の左側に秋葉山常夜燈があり、文政二年とあった (右写真)
ここから先の東海道の道筋は判然としない。 左下に家並みがあったので、畑を突っ切り行ってみると行き止りで、慌てて引きかえした。 
瑞泉寺の標柱と常夜燈 やっと舗装された道に出たので、ここを左折し、両脇が家が並ぶ中を歩く。  このあたりは興津東町で、少し歩くと、左側に瑞泉寺の標柱と常夜燈が建っていた (右写真)
瑞泉寺に寄ってみたい気はしたが、江尻宿までいかなければならないので、そのまま歩くと、右側の車道と合流した。 道の角には、JR興津駅とさった峠方面の矢印があった。 
さった峠の入口 道を左折して川沿いの道を歩くと、左側に入る道にさった峠の矢印があった (右写真) 
この道は瑞泉寺の前に続いていて、この道の方が近道であることを後日知った。 
左側に東町公民館があるが、右側の川に出ると緑地が広がり、興津東町公園になっている。 そこは川越遺跡の案内板があるが、江戸時代の渡し場の跡である。 
広重の興津宿 興津川は徒歩渡しだったので、川会所で越し札を買って、蓮台や人足の肩車で川を渡ったのだが、その様子は、広重の興津宿の浮世絵で、確認することができる (右写真)
現在は川渡しはないので、先程の道に戻る。 道の左側に牛頭観世音菩薩の石碑を祀った小さな社があり、JR東海道線のガードをくぐると、県道に合流した。 駐車場からここまで、1.2kmほどの距離だった。 ここを右折すると、興津川に架かる橋が
興津橋 あるので、川渡りに代えて、歩道がないこの橋を渡る (右写真)
ここから、興津中町で、少し歩くと、国道1号線が左から接近してきて、合流するが、中央に上っていく道は、国道1号バイパスである。 右側の国道1号を歩くと、興津中町交差点に出た。 ここで、身延山に向う国道52号線は右へ分かれる。  交差点を渡ると、その先の右側に、宗像神社の鳥居があるので、入って行くと、小学校の先が 宗像神社で、祭神は、奥津島比命
宗像神社 (おくつしまひめのみこと)、狭依姫命(さぎりひめのみこと)、多岐津比売命(たきつひめのみこと)であることから、宗形弁才天、三女の宮などと称していたが、明治元年に現社名になった。 古は、沖に出た漁師の目印になったという女体の森と呼ばれる広大な森に覆われていたが、清水興津小学校のグランドになるなど、社域はかなり縮小した (右写真)
興津という名は、祭神の奥津島比命から付いたと伝えられる、と神社由来にあった。 
旧身延道の追分 街道に戻り少し歩くと、静岡信金の角を右に入る道がある。 この道は、江戸時代の脇甲州往還(身延道の正式名)で、ここは身延道の追分にあたる。 道の角に、元禄六年(1693)建立の身延道と書かれた石碑が建っていた (右写真)
江戸時代には宿場の人々がここを管理し、常夜燈に灯をともして、旅人の安全を守っていた、という。 そのものと同じか分らないが、すこし変った常夜燈もあった。 ここは、明治時代まで
題目碑 あった石塔寺の跡で、石塔寺無縁供養塔や承応三年(1654)建立の南無 妙法蓮華経と刻まれた石碑があった。 三メートルある題目碑は、髭題目と呼ばれる変った字体で書かれていた (右写真) 
興津駅前交差点手前の民家の一角に、一里塚跡の石碑があったが、小さいので、注意しないと、気が付かずに通り過ぎてしまう。 

興津(おきつ) 宿

興津宿道標 夕方の太陽になってきた。 車も少しづつ増えてきた。  少し歩くと、右側の空地の一角に、静岡県が建てた夢舞台東海道 興津宿の道標があった (右写真)
江戸時代天保十四年の東海道宿村大概帳によると、興津宿は、本陣が二軒、脇本陣二軒、旅籠が三十四軒、宿場の家数が三百十六軒で、千六百六十八人の人が住んでいた。  さった峠を控えた宿場として、隣の江尻宿より賑わいをみせていた、というが、国道1号に沿って開発が進んだ
興津宿東本陣跡 結果、古い建物はほとんど残っていない。  この空地は、後日調べたところ、公民館のあったところで、江戸時代には問屋場があったようである。  少し歩いた右側の民家の前に、市川新左衛門が勤めた興津宿東本陣跡の石柱があったが、先程の一里塚跡に比べれば、かなり分りやすかった (右写真)
道の反対側に樹木が茂り、ギャラリー水口屋の看板が出ている、一見料亭風の建物が
ギャラリー水口屋 ある。 この屋敷は江戸時代、興津宿の脇本陣だった水口屋の跡である (右写真)
入口に、一碧楼水口屋跡と興津宿脇本陣跡の石柱が立っていた。 明治の東海道の廃止で、各地の本陣や脇本陣が廃業する中、水口屋は旅館に変わり、興津が明治の元勲の避暑地になると、西園寺公望、伊藤博文などの日本の政財界の大物が多く宿泊し、また、作家も宿泊して作品を書いたという老舗であった。 
西本陣跡 廃業後の現在は、その一部をギャラリーとして開放し、天皇陛下が宿泊された時使用された食器類などが展示されている(無料、10時〜16時、月休) 
少し先の右側の駐車場の一角に、西本陣跡の標柱が建っていた (右写真)
興津宿西本陣は、手塚十右衛門が勤めていた。 
清見寺交差点 少し歩くと、右に入る細い道があり、入口に波切り不動尊と表示があり、JRの踏切を 越えて五分とあった。 山の中腹で、三保や伊豆半島の眺望がよいとあり、おきつ公園もある。  右にカーブするところに清見寺交差点がある (右写真)
交差点を左折すると、興津埠頭である。 かっては、清見潟あるいは清見ケ崎、と呼ばれた海岸だったが、美しかった砂浜は埋められ、近代的な港湾施設にと変ってしまったのである。 
夢舞台東海道・興津宿 寄らずに進むと、夢舞台東海道 興津宿の大きな説明板があり、この奥の小高いところに、清見寺(せいけんじ)という古刹があり、山門の前に、清見関旧跡の碑が建っている (右写真)
興津宿は、古くから交通の要衝として知られ、平安時代にはすでに清見ヶ関という関所が 設けられ、更級日記に、「清見ヶ関は片つ方は海なるに・・・・」 と、関所の姿が描かれていたり、十六夜日記や東関紀行などにも登場する。 清見関は、平安時代白鳳年間に築かれた関所
興津埠頭 だが、永禄年間に廃止されたため、江戸時代の東海道名所記には、 「 清見が関、風景まことにたぐひなく、眺望ひとへにあまりあり(中略) 此関いにしへ眺望の所とて名を得たりけるが、今は関の戸も跡たへててなし 」 と、記されている。 その展望も埋めたてられて、埠頭の先に海は遠のいた (右写真)
清見寺は、清見関が設けられた際に、その守護として仏堂が建てられたのが始まりで、
JR東海道本線 足利尊氏の帰依を受け、室町時代には、七堂伽藍が造営されたが、戦国時代の兵火により燃失。 その後、徳川幕府により、再建されたものである。 
慶安四年(1651)建立の山門をくぐり、鉄道線路でへだてられた参道を行くと、目の前をJR東海道本線の列車が通り過ぎたので、驚いた (右写真)
玄関は元和二年(1618)、仏殿は天保十三年(1844)、大方丈は文化十一年(1862)など、
鐘楼 江戸時代に建てられたものが多い。 文久三年(1862)に建立された鐘楼には、正和三年(1314)に鋳造され、謡曲三井寺に登場する梵鐘が吊り下げられているが、豊臣秀吉が韮山城攻略の際、陣鐘として使用した、とあった (右写真)
その近くには、高山樗牛の清見寺鐘声文塚などの文学に関するものもあった。 
境内左手に、利生塔旧跡の碑があるが、足利尊氏が康永四年(1345)、戦没者の慰霊の
五百羅漢 ため、全国六十六ケ所に建立を発願した利生塔の跡、という。 また、傾斜したところにいろいろな表情をした石仏が並んでいるが、五百羅漢像である (右写真)
家康が学んだところといわれるが、家康が好んだ池泉庭園(国名勝)や家康が接ぎ木したという臥龍梅があり、その他にも、琉球王子の墓、咸臨丸記念碑など興味をそそられるものが多いので、時間さえあればゆっくり見学したいところである。 街道を進むと、左側に座魚荘と表示
興津坐漁荘 した建物がある。 座魚荘は、明治の元勲、西園寺公望が、大正八年に建設し、晩年を暮らした別邸であるが、本物は、愛知県犬山市の明治村に移築して保存されているが、平成四年、明治村の図面を基に、木造二階建ての京風数寄屋造りで、床面積約三百平米の建物を建て、公開していた (右写真)
これで興津宿は終わる。

 

平成19年(2007)   4 月


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かうんたぁ。