江戸時代の山中新田は、山中城跡の曲輪の中に東海道が通り、集落を形成していたが、難所の箱根峠を控えた間の宿として栄えていた、という (右写真-現在の集落)
駒形神社斜め向かいの茶屋、竹屋は、江戸時代の茶屋を平成八年に復活させたもののようだが、当日は臨時休業で入れなかった。
山中新田には、山中公民館のあたりに水戸屋(脇本陣)、その向かいに、大和屋(脇本陣)、水戸屋の手前には茶屋本陣の笹屋
など、四十軒を越える茶屋があった、というが、現在の姿からは想像できなかった。 時計を見ると、十三時四十分を過ぎていた。 山中城址の見学を終えると、岱崎出丸の右側には、東海道の石畳と三島市が立てた箱根旧街道の案内板があった (右写真)
看板によると、この先三百五十メートルの石畳があるが、その内、六十メートルは当時の石で、その他の二百九十メートルは、
足りない部分を根府川町の安山岩で補充した、
とある。
国道一号線は、曲りくねりしながら三島へ向かうが、江戸時代の東海道は国道を
突っ切るように一直線に延びていたようである。 杉林の中に入ると、右側に、嘉永六年(1853)の馬頭観音と司馬遼太郎の箱根八里記念碑があり、 幾億の足音が 坂に積もり 吐く息が谷を埋める わが箱根にこそ と、刻まれている (右写真)
杉林が途切れると、国道にでた。 東海道夢舞台 腰巻地区石畳の道標が建っている。 横断歩道があるので、道の反対に行き、国道を下る。 右側は枯れ草が残る土地で、
奥の雑木の間から富士山が見えた。 道が左へカーブするのが見えるところにくると、右側の柵が一部外されているところに、東海道の標識があるので、その中に入ると、浅間平の石畳復元整備の案内板があり、石畳が現れたので、そのまま進むと、杉の間から富士山が見え始め、さらに進むと、富士山がどっと現れた (右写真)
浅間平の旧街道は余り残らなかったようで、全長三百三十メートルの内、江戸時代の
石で復元できたのは四十三メートルだけ、とあった。 眺望が開けたこの場所を下ると、国道1号線沿いのドライブインの脇に出た。 ここには、東海道夢舞台富士見平の道標と浅間平石畳の説明板がある。
国道と交わる手前には、道を塞ぐような巨大な句碑は、芭蕉の句碑で、昭和五十三年に、当時の三島市長が建てたもの (右写真)
「 霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き 」
とあり、貞享元年(1684)の旅の途中に詠んだものだが、芭蕉の富士山が見られなかったくやしさがにじむ句である。
ここで国道を渡るが、国道が急カーブしていて、車を確認するのが困難なので、迂回してください、という立て札が立っている。 左手の横断歩道で、国道を渡ると、下に降りる階段が東海道である (右写真)
なお、少し先に、コンクリート舗装の道への入口もあるが、この道は、石畳で馬が転倒
するのを防ぐために作られた馬専用道の名残である。 階段を降りると、すぐ左に小道があり、少し入ると突き当たりに、明治天皇御駐輦阯の碑が建っている。 隣には、名勝地見晴碑もある。 街道に戻り、石畳を歩くと、
上長坂の石畳の復元整備の案内板がある。 約三百七十メートルの内、現状のまま保存が三十七メートル、一部欠けたのを補修して保存が百十六メートル、 とあった (右写真)
石畳を歩き、国道に合流する手前までくると、笹原一里塚への道しるべが立ち、右側
から馬道が合流していた。 東海道夢舞台 笹原新田の道標も建っていた (右写真)
先程の山中新田、この笹原新田、この先、三ツ谷新田、市ノ山新田、塚原新田と五つの新田という名の集落が続くが、どこにも水田らしいものは見渡らない。 ここの新田は、東海道を維持するために、三島付近の農家の次男、三男を移住させて作った集落で、
彼らは街道の維持整備に携わっていた、という。
国道に出ると、左右に注意して国道をわたり、左側の歩道を
歩くと、左に入るところにラブホテルがあるが、その横を入って行く坂道が、下長坂である。 笹原地区の石畳の案内板があり、全長三百八十メートル、内、現状保存が百四十五メートル、農耕車による陥没を修正し保存は九十三メートルとあり、昔のままの石畳は中央部分に残っていたようである (右写真)
上って下ると、周りが畑になり、少し歩くと、人家が見えてくる。 そのまま下って行くと、
国道にでるが、その手前の左側に消防施設があり、その手前の小高いところに、笹原一里塚が残っている。 曲がり角に、箱根旧街道の道標が建っているのだが、三島宿と山中城跡は目に入るが、笹原一里塚の表示は、影に隠れて目に入らない (右写真)
また、左手前の草むらに、箱根八里 笹原一里塚の長方形の道標もあるのだが、注意
しないと通り過ぎてしまう。 小生も国道まで出て、あわてて引きかえし、見つけた。
笹原一里塚は、街道の石段を上り、農道を横切ると、杉の大木が茂る下に、片側だけあった。 江戸から二十七里目の一里塚である (右写真)
木の下に、昭和四十四年の一里塚石碑と三島出身の詩人、大岡信の森の谺を背に 此の径をゆく 次なる道に 出会うため と、ある詩碑があった。
街道に戻ると、消防の脇に、また、箱根旧街道の道標があり、国道の脇に、庚申供養塔と思える石碑と東海道夢舞台 笹原新田 笹原一里塚の道標が建っていた (右写真)
国道をこえると、細い坂道の両側に、笹原の集落の家が並んでいた。 坂を下ると、すぐこわめし坂の説明板がある。 この坂道は、下長坂だが、別名、
こわめし坂である。
現在の傾斜は十二度であるが、江戸時代には平均二十度で、最大は四十度の急坂
だった、という。
あまりの急坂で、背負った米が人の汗の蒸気で蒸されて強飯となってしまったことから、強飯坂の地名が生まれたというから、想像もできないほどの急坂だったのだろう。 少し先の右側に小さな祠があり、二体の単身道祖神が祀られていた。 二体とも年号は不明で、右側のは上部が割れていた (右写真)
これは、笹原新田集落の入口に祀られた塞神(さいのかみ)で、江戸時代には、隣に高札場があった、という。 その先の民家から、坂は急激に下がる。 老人憩いの家の先
を右折すると、秀吉側の武将、一柳直末を弔らった一柳庵があるが、寄らずに進むと、民家もまばらになる。 左側の農家の庭から、駿河湾と伊豆半島が見えた (右写真)
更に、坂を下ると、右側の斜面に、念仏石の説明板があった。 昔、この辺りにあった横九十センチ、縦百二十センチの巨石で、昭和二十年代の大雨で埋まり、平成八年に発掘しようとしたが発見できなかった、という。 このあたりにくると、道の傾斜も少なくなった。
坂を下りきると、県道(旧国道1号)に合流したが、車がほとんど通らない道である。 道がカーブする手前に、東海道夢舞台 三ツ谷新田 こわめし坂の道標があり、その先
火の見櫓が見えた (右写真)
合流して少し行くと左に三ッ谷区公民館があり、公民館向かいの県道右側には、右側に、三ッ谷新田発祥の地の看板がある。 この辺りに三軒の茶屋があり、元茶屋と呼ばれたが、
三茶屋から三ッ屋と呼ばれ、元和四年(1619)、街道奉行、大久保長安が五ヶ新田を設立する時、三ッ谷新田に転化した、とある。 公民館手前の三差路を左折すると、左に天神社の鳥居と石段がある。 昭和四十三年に山神社を合祀した (右写真)
度々の土砂崩れで流されたため、流の天神とも呼ばれるが、明和三年(1766)の創建で、祭神は高皇産霊神、大山祇神である。
県道を歩くと、右側に、覚源山松雲寺が
ある。 尾張大納言、紀伊大納言など、参勤交代の大名の休息所となり、朝鮮通信使、十四代将軍家茂、十五代将軍慶喜なども泊まった寺本陣である。 明治天皇も、御小休所として、しばしば利用されたという寺である。 本堂手前にあるのは、享保十四年(7129)に建立された日蓮宗題目碑である (右写真)
また、明治六年から明治四十三年まで、坂小学校の前身である三ッ谷学校として、
寺子屋教育を行なった。 境内には、日桓人の題目宝塔、その奥には、樹齢三百五十年のヤブツバキ、その先には参杉明神の祠があった。 境内にあった明治天皇御腰掛石は、明治天皇が腰掛けて富士山を眺めた石といわれるが、ここから見た富士山の眺めはなかなかよかった (右写真)
江戸時代には、寺の前に高札場が置かれていたようである。 寺の二軒先には、茶屋本陣の富士見屋があったようだが、今は民家になっている。 三ツ谷下バス停を過ぎると、
道は左そして、右にカーブするが、その手前に右に降りる細い道がある。 この道を降りると、右側に坂公民館があり、その先に法善寺旧跡と書かれた石碑が建っている。 その前の坂小学校が下校したときで、低学年の女の子が石碑に上ったり、下りたりして遊んでいた (右写真ー法善寺旧跡碑の裏面)
左手に坂小学校があるのを見ながら進むと、その先の下り坂を降りると、三差路で左側
は小高くなっているが、登ると幼稚園があり、その前に、征夷大将軍足利尊氏建立七面堂旧跡の碑があり、側面には、 あしがわの ぶしょうのたてし なにめでて しちめんどうと いうべかりける という、東海道中膝栗毛の中の歌が書かれていた。 これは、武将 七面堂 と 不精 七面倒 をかけた狂歌で、十返舎一九のだじゃれである (右写真)
三差路に戻ると、右側の道脇に、箱根旧街道 題目坂の案内板があり、この坂は、
玉沢妙法寺への道程を示す題目石から名付られた、とあり、この学校の通学路のような坂道が題目坂で、れっきとした東海道で、ここにあった題目石は、法善寺へ移され保存されている、という (右写真-左側が幼稚園への道、右が東海道)
坂を下ると、車道に出る手前はコンクリートの石段になっていた。 車道で左折すると、すぐ先の三差路で県道と再び合流し右折する。 三差路の左側に、東海道 夢舞台
市の山新田の道標が建っていて、三差路の反対側には、出征馬記念碑があった。 県道の右手に石段があり、上ると、山神社があった。 祭神は大山祇命で、創建は不明だが、社殿には享保十四年(1729)の棟札が確認されている、とある (右写真)
社殿の前には水神の碑もあった。 反対側の道を下ると、山神社の鳥居右の大きなシイの根元に、単体の道祖神が祀られていた。 道祖神は、市の山新田の集落入口にあったもので、
神社の参道入口前には、江戸時代には高札場があったようである。
街道には、帝釈天法善寺の石柱があり、寺の前には帝釈天王の碑と題目碑が建っている。
法善寺は、坂小学校のあたりにあり、江戸時代には多くの伽藍があったようだが、明治四十三年、ここに移転してきたのである (右写真)
街道に戻り歩き始めるとすぐがある。 何故か、六体以上あり、赤いエプロンを着けて
祀られていた。 その先の右にカーブする道の手前の右側に木柱があり、その中に入ると、箱根旧街道の道標と、臼転坂(うすころげさか)の案内板があり、牛が上れず転げたとか、臼が転がったので、それが地名になった、と書かれていた (右写真)
道を歩くと、下り坂になったが、石がところどころに露出しているので、石畳の跡と分るが、その先は林の中の山道のようになった。 パッと開けると、石畳の残る道になった
が、その先は急坂で、下りると、国道1号線の信号交差点に出た。 この林間の道は、二百メートルくらいだった (右写真)
ここには、東海道 夢舞台 塚原新田 臼転坂の道標が建っていた。
国道を進み、ラーメン一番亭まできたら、右の狭い道に入る。 このあたりが塚原新田で、坂を下ると、
左側に道照山普門院がある。 創建時期は不明だが、寺の東北にある道照山の岩穴に夜な夜な五光を発する一寸八分の観音像があり、これを安置したのが寺の起源、と伝わる。 現在の本尊は、聖観世音だが、鉄牛という僧が、この像を背負い通りかかったところ、仏像が重くなって動けなくなったのでここに安置した、という (右写真)
堂の左側には、宝暦四年(1754)の大きな西国三十三所巡礼供養塔の他、巡礼供養塔
二基、観音座像二体、馬頭観音三体、地蔵像二体などがあった (右写真)
その先を歩いて行くと、右手の山門の脇に大きく聳えた欅の木がある寺があったが、横目で見ただけで、入っていかなかったが、延宝元年(1673)創建の宗福寺だろう。 入口の左側にに、弁財天女尊の石碑や地蔵尊が祀られていた。 やがて、左右の土手の上が並木になっているところに出た。 歩道は右側だけで、暗渠の上を利用した狭いものだった。
さらに行くと、国道1号に合流する。 合流地点の左側に、箱根路と書かれた大きな石碑があるはずなのだが、様相が一変していた (右写真)
周りはビニールシートで囲まれ、その先の歩道は通行禁止で国道の左側を通るように、と表示されていて、箱根路の碑も石仏なども姿を消していた。 左折して、塚原新田交差点を渡り、国道の左側に移ると、伊豆縦貫道路塚原IC工事の看板があり、完成後の
姿が描かれていたが、現在の姿はまったくなくなりそうである。 左手は、谷のようにすっこと落ち込んでいる地形だが、大型機械が入って工事中だった。 右側の工事用の柵の向こうに、小生が歩くはずだった歩道の箱根旧街道の道標が見えた (右写真)
国道1号線はこれまで歩いてきた道と違い、車の交通量が多い。 少し進むと、松並木が現れた。 初音ヶ原の松並木と呼ばれるものである。
時計を見ると、十五時四十九分、予定時刻より一時間二十分も余計かかっていた。 箱根峠の雪道と山中城での探訪に時間を掛けすぎたこともあるが、下り坂は楽と思っていたが、三島市が設置した石畳は意外に歩きずらかったこともある。 それはともかく、初音ヶ原の松並木は、国道の上り車線の両側にあった (右写真)
国道はここでは、上りと下りとが分断されていて、江戸時代の東海道の松並木を挟むように
上り車線が設置されているが、よく考えると、これが東海道だった道である。 初音ヶ原は、頼朝がここを通過した時にウグイスの初音を聞いた伝説にちなみ名付けられた地名で、この松並木は一キロほど残っている。 松並木の右側に歩道があり、石畳が敷かれているが、これは昔を偲んで最近敷かれたものであろう?! (右写真)
しばらく行くと、石畳の左側に一つ、また、国道を挟んだ左側に一つあるのが、江戸から二十
八番目の錦田一里塚である。 錦田は、明治二十二年(1889)に、谷田村と川原ヶ村が合併して出来た村で、街道を境に地名が違うため、右側は初音ヶ原一里塚とも呼ばれるようであるが、左右の一里塚には榎が植えられている (右写真)
なお、この一里塚は、太平一里塚(愛知)、阿野一里塚(愛知)、野村一里塚(三重)とともに、東海道に四つしかない国指定史跡の一里塚で、塚の前には、一里塚の石柱と写真付きの
説明碑があった。 また、近くにある箱根八里記念碑には、龍澤寺住職だった鈴木宗忠の歌、 日々うらら 松の道場の 一里塚 が刻まれていた (右写真)
箱根旧街道の長方形の石標には、三島宿まで二キロとあった。 石畳を歩くと、横断歩道橋があり、それを渡った先にも石畳の道があった。 初音入口のバス停があるところからは、石畳の右側は普通の民家が並んでいた。 石畳を車で通らないようにの注意があるが、通っても
よいように固くできているような気がした。 松並木が終わる手前の石畳の左側に、史跡箱根旧街道の石柱が建っていて、その先には、箱根旧街道 松並木の大きな看板が、そして、東海道夢舞台 松並木の道標があった (右写真)
このあたりからビルも現れ、市街地に入ったという印象を受けた。
明治二十二年(1889)に東海道線が開通すると、東海道を歩く人は激減し、東海道の西坂一帯
の人々は、農業に転職するしかなくなり、急斜地を開墾し、大根、芋、人参、ゴボウなどの農作物を作った。 その先の右側の小高い草むらの中にある歌碑は、生産の協同化、品質の向上に尽力した平井源太郎を顕彰し、彼の死後に建立されたもので、彼が詠んだ歌、 箱根八里の 馬子唄消えて 今は大根を 造る唄 源水、が刻まれている (右写真)
源太郎は、富士の白雪ノーエ 富士のサイサイ 白雪 朝日でとける とけて流れてノーエ
とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ と、続く農兵節を作って全国に広めた人物。 その下には、慶應三年(1867)、大名の人足頭を怒らせて斬られて、この下の今井坂で息絶えた、備前国出身の雲助親方の雲助備前繁の墓もあった。 信号交差点を渡ると、東海道は右側にある石畳道へ入る。 少し上ると下る坂は、愛宕坂である (右写真)
この坂の明和六年(1769)の石畳修復記録には、長さ一町十八間、幅二間とあるが、今の石畳は、江戸時代の石の上に、新たな石畳が作られ、右側にはコンクリートの道もある。
左側の三島東海病院の敷地には、江戸時代、愛宕神社と八幡神社があったが、頭上のこんもりとした小山に、愛宕山と刻まれた安永七年(1778)の大きな石碑や石祠だけが残っている。 石畳を下りると、箱根旧街道入口案内板があり、その先に、東海道本線の踏切があった (右写真)
踏切の手前には、三島市が建てた箱根旧街道入口の案内板があり、東海道夢舞台
川原ヶ谷 箱根旧街道入口の道標も建っていた。 東海道踏切を越えたところに、箱根旧街道の標識があり、その先は下り坂になるが、この坂道は今井坂と呼ばれた。
坂を下りると、小さな橋の愛宕橋があり、橋を渡ると長く続いた道の西坂が終わった。 これで、天下の険といわれた、東海道最大の難関を越えた訳である (右写真)
少し歩くと、左側の川に架かる橋から県道(旧国道1号線)が合流してくるが、国道1号
のバイパスがある御蔭で、車はそう多くなかった。 その先の左側の宝鏡院の入口の両脇に石が置かれている。 説明によると、鞍掛け石というもので、昔は馬乗り石とも呼ばれ、北にある川原ヶ谷神社に参詣する人がここで馬に乗った、と伝えられる、とあった。 宝鏡院は、足利尊氏の三男、足利二代将軍、義詮が創建した寺である (右写真)
足利七代将軍、義政の弟、堀越公方だった足利政知の墓がある。 源頼朝参詣の折、
笠を置いた石と伝えられる、笠置の石もあった。 街道に戻り、大場川に架かる新町橋を渡るが、江戸時代にはここに東見附があったというが、今はなにも残っていない。 橋の右手に真っ白に雪を被った富士山を見ながらの三島宿へのゴールだった (右写真)
予想しない雪道に遭遇したが、なんとか無事で三島宿に到着できた。 時計を見ると、十六時二十四分だった。 新町橋を渡ると、日の出町だが、江戸時代には、新町、長谷、伝馬金谷、
久保町などであった。 しばらく歩くと、右側に守綱八幡神社がある。 創建ははっきりしないが、寛永年間ごろとされ、祭神は守綱大神である (右写真)
石鳥居は慶応三年(1967)の建立、灯籠は安永六年(1777)、境内の秋葉山常夜燈は弘化弐年(1845)のものである。 守綱八幡神社の向かいに大きな題目塔が二基あり、その奥にあるのが、妙行寺で、山門は、小松宮の別邸だった当時の楽寿園の表門を移設したもの。
このあたりには、お寺が多く、時宗の光安寺、高野山真言宗の薬師院、真宗大谷派の成真寺などがあるが、古い民家は残っていないようである。
東海道をそのまま進むと、安藤広重が東海道五十三次、三島宿の絵で、描いている三島大社の大鳥居の前に出た (右写真)
ここから先の三島宿は、平成19年6月3日に歩き終えているので、今日はこのまま三島駅に向かい、箱根西坂の旅は終えた。