『 東海道を歩く ー 三島宿(続き)  』




三島(みしま) 宿

三島大社 平成19年6月3日(日)、昨日は掛川で泊まったので、三島駅には思っていたより早く着いた。 駅前からバスに乗り、三島大社前で降り、今日の旅が始まった。  (右写真)
現在、九時十六分であるが、三島宿、沼津宿を経由し、原まで歩こうと思う。 三島大社のバス停近くに、夢舞台東海道 旧伝馬町 三島大社の道標が建っていた。  三島は、奈良時代には伊豆国の国府にもなっていた。 鎌倉時代以降は、三嶋大社が幕府や武家の手厚い保護
たたり石 を受け、門前町として栄えた町で、江戸時代に入ると、箱根越えの前後に必ず泊まる宿場町となり、箱根を越えた旅人達は、山祝いを称して、供の者に御祝儀を出したため、遊ぶ旅人でさらに賑わったのである。  三島大社の鳥居と常夜燈が並ぶ参道を歩くと、右側に大きな石があり、たたり石とある (右写真)
傍らの説明では、かっては東海道の中央にあり、人の流れを整理をする役目をして
若山牧水歌碑 いた。 往来が激しくなり邪魔になったので取り除こうとする度に災いがあった。 大正
三年の道路工事で掘り出されてここに移された、というものである。 
池のほとりに若山牧水の歌碑が建っていた (右写真)
 「 のずゑなる 三島のまちの あげ花火 月夜のそらに 散りて 清ゆなり 」 
沼津市に居を構えていた牧水が、三島大社の夏祭りの花火を詠んだものである。 
安達盛長警護の跡 近くの松の木が生えているところに、安達藤九郎盛長警護の跡の案内板があった。 
源頼朝は、治承四年(1180)に、源家再興を祈願して、百日もの間、毎晩蛭ヶ小島から三島大社に日参したのであるが、警護した安達盛長が詰めた場所である (右写真)
三島大社の祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)、積羽八重事代主神(つみはやえ ことしろぬしのかみ)である。 神社の由来書には、創建は明らかではない、と書かれていないが、
厳島神社 伊予国大三島の三島明神を伊豆下田へ勧請した後、この地へ勧請したものといわれれ、延喜式神名帳に名神大社として記載される、伊豆国の一之宮である。  左側の神池の脇には、北条政子が勧請したという厳島神社が祀られていた (右写真)
三島大社の起源の話に戻るが、鎌倉時代の東関紀行に、 「 伊豆の国府にいたりぬれば、三島の社のみしめ、うちをがみ奉るに松の嵐、木ぐらく おとづれて庭の気色も神さび
三島大社総門 わたれり。 この社は伊予の国三島大明神をうつし奉ると聞く 」  と、書かれていること
からみると、日本総鎮守と呼ばれる、伊予国 大三島の大山祇神社から勧請されたという説が主流だったのだろう。 逆に、三島大社から勧請されたのが、大山祇神社という説もある。  池の脇を過ぎると、三島大社の総門がある (右写真)
慶応三年(1854)に建てられた神門をくぐると、正面に慶応弐年(1866)に再建された舞殿
三島大社社殿 が見え、その先に 立派な社殿が現れる。  社殿は拝殿、本殿、幣殿からなるが、本殿の大きさは出雲大社級の大きさである。 高さは二十三メートル、鬼瓦の高さは四メートル、流れ造りで、切妻屋根、棟には千木、鰹木をつけている (右写真)
嘉永七年(1854)の東海地震で倒壊したのを慶応弐年に再建したものだが、総檜造りで、六千六百七拾七両余りのお金がかかった、とある。 
キンモクセイ 本殿前に御神木のキンモクセイがあった。  国の天然記念物に指定されていて、樹の高さは十メートル、周囲約四メートルで、樹齢はおよそ千二百年の巨木で、今もなお青々とした葉を付けていた (右写真)
境内には売店が何軒かあるが、時間にゆとりがあると思い、福太郎餅の暖簾を掲げた店に入った。 福太郎餅という名に興味を感じたからである。 
福太郎餅 出てきたお菓子は草餅に餡を包んだものだった (右写真)
その菓子を食べ、濃い目に出されたお茶を飲んだ。 福太郎餅はとびきり美味いというものではなかったが、腹持ちはよかったですね!!  福太郎餅のいわれを確認するのを忘れて店を出たが、後で確認すると暖簾の翁がそれで福をもたらす縁起餅とあった。  大きな鳥居をくぐり、先程の道に戻る。 三嶋大社の正面から下田街道が出ていて、
交差点 西側には、中山道に通じる佐野街道があり、交通の要所でもあった。 三島宿は、東西十八町二十間(約2km)の長さである。 東海道は交差点を右折する (右写真)
なお、鎌倉時代以前の東海道は、もう一つ北の現在桜小路と呼ばれる道である。 
宿場町だったこの辺りは、アーケードのある商店街になっていて、古い家は見当たらない。 少し歩くと、右側に、郵便局(市役所中央町別館)があり、右に入ったところに、問屋場跡の石碑
郵便局 と案内板が建っていて、問屋が一軒だけだったので、東海道の交通量が多くいつも人手不足だった、と書かれていた  (右写真)
田町駅入口交差点の左側のメガネのスパーの手前に、上御殿橋があったことを示すモニュメントがあった。 三島は、富士山の溶岩流上にあり、湧水が豊富なため、水の都とも言われる。 県道51号線を越える交差点の手前には、井戸から水を汲み上げる人形からくり
郵便局 があった。 一年を通して一定の水温のため、冬は外気より暖かいため、朝霧が立ち込める、といい、三島は水、水、水で象徴される都市である (右写真)
三島宿は新町橋の東の見付から広小路先の西の見付までの長い宿場であるが、天保十四年の宿村大概帳によると、家数は千二十五軒、宿内人口は四千四十八人だった。 
世古本陣 交差点を渡って少し行ったところに花で飾られた西洋風のお店があり、そこに世古本陣跡と表示されたものが水盤の上に乗ったデザインであった (右写真)
しゃれたものなので、お店の案内と思って通り過ぎてしまいそうである。 道の反対にある樋口本陣は、茶処山田園になっていて、店の前に、小さなセロケースに案内が書かれていた。 店の中に入り、お茶を買って、女房への御土産にした。 
商店街 その先もアーケードが続く商店街だがあまり活気は感じられなかった (右写真)
江戸時代の三島宿には、箱根越えをする人、終えた人が集まったので、脇本陣は三軒、旅籠は七十四軒あった。  箱根関所と箱根越えを終えた開放感から旅人は農兵(のうへい)節と並んで有名な三島女郎を相手に遊んだ。 それを示す数字は宿場の人口で、女子が二千百二十人で、男子を百五十人上回っていた。 そうした賑わいはもうない。 
源兵衛橋 道の左側に、常林寺という古い禅寺があるが、ここには江戸時代の古い墓が多数あった。  常林寺を過ぎると、すぐ源兵衛橋がある (右写真)
この橋は源兵白旗橋といい、江戸時代の駿豆五色橋の一つに数えられていたといい、その下には楽寿園の小浜池を源流とする源兵衛川が流れている。  橋を渡り、左折して川に沿って歩くと鐘楼がある。 江戸時代から時を告げた鐘だったので、時の鐘と呼ばれている。 
三石神社 宝暦十一年に鋳られた鐘は太平洋戦争時に供出してしまったが、昭和二十五年に復活させた。 その奥にあるのが三石神社である (右写真)
源兵衛川の川辺に三ツ石という巨石があり、その上に社を建て、稲荷を祀ったのが始まり。 東海殿の宿場が発展するとともに隆昌したが、天明年間に隣村新宿の火災で類焼。 その後、火防の神、正一位火防三石大明神も合祀したという、地元の鎮守である。 
広小路 街道に戻ると、その先に踏切があり、伊豆箱根鉄道三島広小路駅がある。 
その先は変則の交差点で、道が多数に分かれている (右写真)
東海道は、右側に花屋、左側にパチンコ屋がある道であるが、この先黄瀬川の先まで旧道が残っている。  なお、この交差点で、花屋の右側の道に入り、最初の五叉路の狭い道を進むと伊豆国分寺跡がある。 
(注) 伊豆国分寺は、旧蓮行寺(現在は国分寺)一帯にあったようで、発掘調査の 結果、金堂跡、僧房跡などが確認されたが、今はこの寺の 本堂の裏に礎石の一部があるだけである。 
(ご参考) 伊豆国の国府、国分寺、国分尼寺に興味にある方は 友人のページ「国府物語」をご覧ください。

秋葉神社 その先は西本町であるが、宿場の面影はまったく残っていなかった。 
林光寺を通り過ぎると、左に茅町の石柱があり、その先に善教寺という寺があった。  
広小路から五百メートルほどで、左側に秋葉神社があった (右写真)
小さな社は八坂神社、石段を上ると秋葉神社である。 手前に秋葉山常夜燈があった。 
この先に橋があり、境橋とあり、ここが三島宿の西見附の跡で、三島宿はここで終わる。 

からくり人形 本日はこの後、原駅まで歩いたが、三島駅前の駐車場に車を停めていたので、電車で三島まで戻り、水の名所を見学することにする。 
駅前の商店街を左に沿って歩くと、愛染堂跡の溶岩塚があった。 市民会館の脇を下って行くと、また、からくり人形があった (右写真)
その先の左側に白滝公園があり、中に入ると、公園の至るところから湧水が噴き出し、
白滝観音堂 池をなしていた。 これらは富士山の積もった雪が溶けて地面にしみ込み、三年の日月をかけて、幾つかの地層を通りぬけてきた清水である。 遊歩道に戻ると、桜川の水辺に白滝観音堂というお堂が建っている (右写真)
以前は北側の滝の脇にあったらしいが、今は桜川の水辺に移されている。 
桜川は、この上流にある菰池公園が源流で、白滝公園の水も集めて、流れている。 
白滝観音堂 桜川に沿って作られた遊歩道には、文学碑が多数あり、水辺の文学碑と名付けられている (右写真)
大岡信、宗祇、正岡子規、太宰治、若山牧水、十返舎一九、川端康成、三島由紀夫、井上靖という豪華メンバーである。  司馬遼太郎のは長かった。 
「 この湧水というのが、なんともいえずおかしみがある  むかし富士が噴火してせり
司馬遼太郎文学碑 あがってゆくとき、溶岩流が奔って、いまの三島の市域にまできて止まり、冷えて岩盤になった   三島は富士の湧水の町なので、ここだけではなく至るところで水が湧き出している。 その後、岩盤がちょうど人体の血管のようにそのすきまに多くの水脈をつくった  」  とあり、さらに続いていた (右写真)
これは小説新潮に掲載した裾野の水、三島一泊二日の記からのものとあったが、
楽寿園 湧水について見事に表現していると感心した。 三島駅前に戻り、元小松宮の別邸で廻遊式の庭園の楽寿園を訪れると、閉館時間で入れなかった (右写真)
駅で頂いたパンフレット・水の街三島歴史の道に、三島のうなぎはなぜうまい、とあるのを見て、三島で食事をすることにした。 
うな重 何箇所か案内がある中、駅前の不二美という店に入り、うな重を頼んだ。 
しばらく待って出てきた鰻は割と淡白な味だった (右写真)
三島では江戸時代、うなぎは食用とされていなかったため、桜川などには沢山の鰻がいたという。 幕末に薩長兵により食され、三島の清流に住む鰻は美味と次第に東京方面に伝わり、鰻屋が増えていったとあった。  それを証明するように、パンフレットの 味処案内の半分が
鰻屋だった。 

楽寿園 (追記)
平成20年2月13日、箱根の温泉に入りにいった帰途、前回入れなかった楽寿園を訪れた。 楽寿園は、二万坪の大きな公園で、入園料三百円を支払い、右側の道を行くと、右側に資料館、そして、左側に池があった (右写真)
この公園の歴史は、明治二十三年(1890)に、小松宮彰仁親王別邸として造営されたが、その後、梨本宮方子妃と結婚した李氏朝鮮最後の皇太子、王垠の所有となり、
昭和二年、資産家の緒明氏のものになったが、戦後、三島市に移管され公園となった
小浜池 ものである。 案内パンフレットによると、三島溶岩流の岩肌に、百六十種以上の樹木が実生し、湧水が所々に小浜池など天然池をなし、昭和二十九年に国の天然記念物及び名勝に指定された、とあり、豊富な湧水を想像して、訪れたのだが、池は完全に干上がっていて、看板に偽りありの風景である (右写真)
係員の話では、小浜池が満水になることは、五年に一度くらいしかないという。 周辺の
小浜池 地下水汲み上げが原因で、水位が下がり、代わりに、水道水を入れでも、漏れでしまう、という。 そういうことも含めて、入場前に説明すべきで、三島市の現在のやり方は、食品偽装と変らなく、悪質である。 しかたがないので、小松宮が造った楽寿館の建物を見学することにしたが、十三時半の公開時間まで一時間も待った (右写真)
小松宮は、明治天皇の側近として、戊辰戦争では、奥州征討総督として官軍の指揮を執った人物で、上野公園に騎馬姿の銅像が建っている。 建物の中は、撮影禁止との
ことで、写せなかったが、明治期の装飾絵画が数多く残され、建物も京風の高床式
数奇屋造の建物で、材料にお金がかかっていて、素晴らしいものだと、思った。 

 

( 箱根宿から三島宿 )    平成20年(2008)   2 月 
( 三島宿  )    平成19年(2007)   6 月 
( 同 再訪問)       平成20年(2008)   2 月


(12)沼津宿へ                                           旅の目次に戻る







かうんたぁ。