『 東海道を歩く ー 箱根宿(続き)  』




間の宿・畑宿

畑宿 大澤坂の石畳を上り終えると、県道に出た。 そして、十二時二十二分、畑宿集落に到着。 江戸時代の畑宿は、小田原宿と箱根宿の間の、箱根旧街道の間の宿として栄え、たくさんの茶屋が並び、名物の蕎麦、鮎の塩焼き、箱根細工に人気があったという (右写真)
坂を上り切った所は、国道のカーブの所である。 近くに、道祖神と思える石碑があったが、磨耗しているので、確認できなかった。 畑宿バス停の脇には、浜松屋という寄木細工の店が
畑宿本陣跡 あり、隣に、畑宿本陣茗荷屋跡の木柱が目に入った。 間宿でも本陣があり、代々、茗荷屋畑右衛門を名乗った (右写真)
明治天皇は、京都から東京への遷都に際し、明治元年十月八日、同年十二月十日と翌年三月二十五日の三回、ここで御小休を取られたが、それを記念して、大きな石碑が建っている。 また、 米国初代総領事のハリスが、江戸入りの途中、下田から駕篭で上京したが、その際、
箱根駒形神社 ここで休息し、日本式庭園を観賞している。 大正元年の全村火災の折、建物は焼失したが、庭園は、昔を偲ぶ形で、残された。  その先の右側の細い道の奥にあるのが、駒形宮の鳥居がある箱根駒形神社である。 この神社は、畑宿の鎮守社で、箱根神社の社外の末社として、荒湯駒形権現とも言われている (右写真)
箱根細工ともいわれる寄せ木細工は、古くは木地挽きから起こった。 後北条氏の小田 原の発展に伴い、畑宿は、轆轤(ろくろ)を使った挽き物と、平面的な箱物などの指物(さしもの)が、
畑宿寄木会館 製品として作られるようになった。 江戸時代の中期以降は、寄木(よせぎ)細工と象嵌(ぞうがん)細工が中心となり、旅人の人気を博した、という。 こうした伝統工芸を紹介する、畑宿寄木会館は、街道に戻り、少し行った右側の小道を入ったところにあり、寄せ木細工の販売とともに、製作の模様が見学できる (右写真)
相模国風土記稿によると、 「 畑宿村は、江戸より行程二十四里、此地は東海道中の立場
畑の茶屋 にて湯本茶屋へ一里、箱根宿へ一里八町、民戸連住し、宿駅の如し、家数四十三、東西二十三町、南北十八町余 」 とあり、 「 当所も正月松に替へて樒(しきみ)を立り 名主畑右衛門、字号を茗荷屋と称す、湯本細工、挽物(ろくろ細工)、塗物類をひさぐ 」 、と書かれている。 道は、畑の茶屋バス停で、右にカーブして登り坂となるが、東海道は、そのまま進むと、一里塚の木柱があり、その先に、畑の茶屋があった (右写真)
桔梗屋 お昼になったので、店に入ろうとしたら、休みなので、その先の蕎麦処桔梗屋に入り、 ざる蕎麦を注文し、休憩に入った。 平日なので、客は小生一人だけである (右写真)
囲炉裏が切られていたので、その脇に陣取り、炎をぼけーと見ていた。 まだ若いが愛想が全然ない男が、蕎麦を手許に置いて立ち去った。 この蕎麦はなかなか美味かったので、勘定を払うとき、大変うまかったよ!!、といったら、彼から笑みがこぼれた。
守源寺 先程の一里塚の木柱まで戻り、脇の参道を上ると、守源寺という寺があった (右写真)
箱根七福神の一つ、蓄財の神様である大黒天が、本堂の右側の大黒堂に祀られて いた。  なお、箱根七福神巡りは、江戸時代初期より庶民の間に広まった信仰で、今でも人気がある。 街道に戻ると、畑の茶屋の先から、石畳が始まる。 その先には、木々に囲まれた大きな広場が有り、小山が二つあり、右の塚には、樅(もみ)、左の塚には、欅(けやき)の木が植えられて
畑宿一里塚 いる。  これは、江戸から二十三番目の畑宿一里塚を整備、復元したもので、なかなか美しい一里塚である。  なお、相模国風土記稿には、 「 西海子坂の下、海道の左右にあり、各高一丈五尺、東は湯本茶屋、西は箱根宿の一里塚に続けり 」、とある (右写真)
上の方から、大勢の人が降りてきた。 箱根宿からここまで徒歩で下り、この先のバス停からバスで帰る人であろう。  小生のように、箱根路を全部歩かなくても、そのように歩けば、古の旅の苦労を感じ取ることができるのだろう。 

畑宿から箱根宿

急な坂道 十三時三分、一里塚跡碑を出ると、道は、再び、石畳となり、急な坂道である。 
相模国風土記稿に、宿外西の方にあり、登り二町許り、とある、西海子坂であろう (右写真)
道に沿って茂る杉林は、雨風や夏のひざしから旅人を守り続けてきただろう。 先程までの石畳と違い、石が地面から浮いていたりするので、歩きずらい。 案内板があり、雨水を排水するため、斜めの排水路を作っていた、とあった。 上流側に小さな石、下流側に大きな石を積み、斜めに段差を付けることで、街道脇に流し込むもので、快適に歩くための江戸時代の工夫で
七曲がり ある。 更に歩くと、前方に階段が見えてきた。 ここには、西海子坂の石碑があり、石畳の前の東海道は、雨や雪の後は、泥道になるため、竹を敷いていたが、調達に苦労した、とあった。 階段を上ると、舗装した県道に出た (右写真)
  幾重にも曲がりくねった道なので、七曲がりと呼ばれる。 道は、右にカーブし、左にカーブするが、歩行者は途中で上れる石段があり、そこを上った。 続いて、左にカーブするところで、
橿木坂バス停 箱根新道の下をくぐる。 この坂は、かなり厳しい坂である。 それでも、左側に、石畳風に石をあしらった歩道が設けられているのは助かる。  車もスピードは出ないようだが、小生はスローペースで上って行くと、橿木坂バス停があった (右写真)
橿木坂の案内板には、 「 相模国風土記稿に、峭崖(高く険しい崖)に橿樹あり、故に名を得とあり、東海道名所日記には、けわしきこと道中一番の難所なり、おとこかくぞよみ ける、かしの
木の さかをこゆれば くるしくて どんぐりほどの 涙こぼれる と、書かれていた。 」 、とある。 
橿木坂の石段 相模国風土記稿にも、 「 此坂山中第一の険しさにして、壁立するが如く、岩角をよじ登るべし、一歩も謹(つつしま)ざれば千尋の岩底 におとしいれり 」 、とあるから、 江戸時代の箱根路で一番の難所だったのだろうと思った。  橿木坂の石碑の脇の石段を上る (右写真)
石段の一段一段が高かったので、非常につらい石段だったが、上りきると、県道に出た。  県道の右にカーブするところで、また、石段があったので、上っていくと、旧街道心晴橋、という
道標が建っていた。 左に入ると、「 箱根旧街道(新設歩道) 甘酒茶屋1300米 元箱根3000
山根橋 米 」 と書かれた道標が建っていた。 この道は、最近作られたもののようであるが、この道を歩く。  右側に石段があり、家のようなものが見えるのが見晴茶屋かも知れない。 
立ち寄らず、そのまま進むと、山根橋に出た。 橋の脇の 「 旧街道 山根橋 」 の道標には、元箱根まで三キロの表示があった (右写真)
石畳の道を歩くと、階段があるので、それを上ると、甘酒橋があったが、山根橋からここまで
中高年の二人が歩く の距離は三百メートルである。 その先も石畳の厳しい坂が続く。 目の前を中高年の二人が歩いていたが、この坂を上るのは、けっこう苦労していた (右写真)
階段が見えてきたところに、猿滑り坂の石碑が建っていた。 案内板に、「 猿滑り坂は、相模国風土記稿に、 猿、猴といえどもたやすく登り得ず、よりて名とす 」 、と難所らしい名の由来
が書かれていた。 また、 「 県道の横断歩道橋が架かるあたりが当時の坂でした。 」 
猿滑り坂の横断歩道 とあるが、階段を上っても、横断歩道橋はなく、代わりに、横断歩道と対面の山際に斜めに階段があった。  かっては横断歩道橋があったのだろうか? (右写真)
横断歩道を渡り、階段を上ると、県道を下に見て歩く形になる。 
高度も高くなり、対面の山と肩を並べつつあるなあ、という感じがした。 
このあたりは、紅葉も進んでいるようで、それを眺めながら、石畳を進むと、階段があった。 
親鸞上人御旧蹟碑 階段を降りて、県道脇の歩道を進むと、ちょっとした平らな所に出たが、ここには、笈の平の碑と、近くにはさつきに囲まれた、笈親鸞上人御旧蹟と刻まれた大きな石碑があった (右写真)
「 東国の教化を終えての帰路、親鸞上人と四人の弟子が険しい箱根路を登って、この地 に来たとき、上人は、弟子の性信坊と蓮位坊に向い、立ち戻って、東国布教をしてもらいたい、と
頼み、悲しい別れをしたところ 」 、という話が伝えられている。 
追込坂碑 碑の裏側になだらかな階段があり、県道に沿って続く、未舗装の細い道が東海道である。 
入口に、「 追込坂登二町半余 」 の石碑があり、脇の案内板には、 「 追込坂は新編相模国風土記稿のふりがな(万葉仮名)をみると、ふっこみ坂といったのかもしれない。 甘酒茶屋までのゆるい坂道の名である。 」 、と書かれていた  (右写真)
この道をたどると、左側に昔の旅道具などが展示されている箱根旧街道資料館があった
甘酒茶屋 (入場料70円) が、その隣の家の前に、甘酒茶屋の石碑があり、 江戸時代、赤穂浪士の一人、神崎弥五郎の詫び証文で有名になった茶屋である (右写真)
この茶屋は畑宿と箱根宿の中間に位置し、旅人が一休みするのに絶好の場所で、名物の甘酒を出していたとある。  名物の甘酒を頼んだが、小さな頃飲んだ甘酒を思い出す味だった。  こうした甘酒茶屋は、箱根八里全体では、十三軒あった、という。  以前は小さな小屋だったのだが、今は立派な建物になっていて、甘酒以外にも、色々なものを商っている。 
於玉坂の石碑 観光バスできた団体やマイカー客に、ハイカーも混じり、かなり繁盛しているようだった。 
十五分程滞在し、十四時十一分、街道を歩き始めると、、標高七百十五メートルの地点があった。  左側が杉林、右が雑木の道を歩くと、於玉坂の石碑が建っていた (右写真)
この北東にお玉ケ池があるが、池の由来は、 「 元禄十五年(1702)二月十日夜、南伊豆町(伊豆大瀬村)の百姓の娘、お玉が主人に叱られたか故郷が恋しくなってなのか、 江戸の奉公先から抜け出して、箱根の関所を迂回する屏風山の抜け道の木柵を越えようとして、捕縛され、
史跡箱根旧街道の石碑 池のほとりで獄門にかけられた。 」 という実話によるが、於玉坂もそれにちなむ名であろう。   この坂は二町余で終り、県道に出たが、対面に石畳の道が続いていて、 「 甘酒茶屋まで0.4km、元箱根まで1.2km 」 の道標があった。 
その先の石畳道に、史跡箱根旧街道の石碑が建っていた (右写真)
その奥の案内板には、東海道の変遷が書かれていた (関連資料:巻末参照)
箱根旧街道石畳道 「 現在残っている石畳道は、文久三年(1863)の皇女和宮の御降嫁の際、幕府は時の代官に命じ、前年の文久二年に改修工事をさせたもの、といわれ、平均三メートル六十センチの道巾 の中央に、約一メートル八十センチ巾に石を敷きつめられていた。 」 とあったが、この地点から元箱根に至る約一キロメートル残っている (右写真)
道脇に、「 白水坂 登十二間余 」 の石碑が建っていた。 
少し先には、「 天ヶ石坂 」 の石碑があったが、この坂は相模国風土記稿に、「 天ヶ石坂は
天ヶ石坂碑 登り七間余、坂側に 一巨石あり、方八尺余、天ヶ石と云う 天蓋石の訛なり 其形、天蓋に似なればなり、 此所 箱根宿の界にて山中海道の最高頂なり、爰より次第に下れり」 、とある坂である (右写真)
石碑の先の大きな岩が天蓋石なのだろうか?  この坂を過ぎるとようやく下り坂となったところで、 石畳道から外れて、右に少し入って行くと、展望広場があった。  しかし、展望の名に反して、眺望は良くない。 二子山はなんとか見えたが・・・ 
箱根馬子唄碑 その先にお玉ケ池があるが、池の下には下りていけそうもないので、お玉ヶ池までは行かないで、石畳道に引き返した。  下り坂はあまり整備されていないのか、石畳とは思えぬ、石がゴロゴロあったりして、歩きにくかった。  坂の途中に箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川と唄われた、箱根八里馬子唄の石碑があった (右写真)
そこから、更に下ると、右側に 「 箱根旧街道元箱根まで十五分 」 と書かれた看板があり、
その先で舗装した道と交差するが、交差する道は、鎌倉時代の東海道の湯坂道である。 
箱根馬子唄碑 舗装された道の石垣の上に 「 おたま池ゆかりのお玉観音堂(曹洞宗興福院) 」 の案内看板が立っていた。 」  石畳の道を下るがこの坂が権現坂、八町坂とも呼ばれていた坂で、坂道の長さは、約八町、八百六十四メートルである。 
正面には樹間を通して、芦ノ湖が見えるが、かなりの急坂である (右写真)
小走りに坂を下る感じで、芦の湖に向って、樹間を一気に駆け下ると、舗装した車道に出て、石畳の道は、ここで終わっていた。  坂を下ると、成川美術館の脇で、芦ノ湖畔に出た。 
十四時四十分、箱根宿の入口に到着し、箱根路を歩き終えた。 


(ご 参 考)  東海道の変遷

「箱根の山は天下の嶮 函谷関もものならず」という歌もあるように、小田原から箱根を越え、三島までの箱根八里(約32km)は昔からの難所である。  しかし、最初からこの街道があった訳ではない。  奈良時代の官道である東海道は、箱根越えではなく、その北方の足柄越えだった。  大雄山入口の関本から足柄峠を越えて、駿河関山、横走りへ出るルートで、平安時代中期の更級日記の作者、菅原孝標女は父の任地の上総から京都に向かう際、このルートを歩いている。  しかし、延暦二十一年(802)の箱根火山の噴火のより、足柄峠の通行ができなくなったので、湯本の先から湯坂越えの道が開発された。  現在ハイキングコースになっている湯坂越えのルートがそれである。  早川を旭橋で渡り、和泉屋旅館の脇を左に入ると、湯坂道入口の道標があるが、ここから街道が始まる。  左上のコンクリートの坂道に入ると、石畳の道があるので、それを辿ると湯坂山の尾根に出て、湯坂城址、大日如来碑を経て、浅間山鞍部から右に小涌谷の道に分け、鷹の巣山から千条滝を見て、芦ノ湯に至り、元箱根へ出るコースだった。  これを湯坂道というが、鎌倉時代後期には十六夜日記の著者、阿仏尼はこの道を使って箱根を越えている。  江戸時代の元和四年(1618)、江戸幕府は、これまでの湯坂道ルートを廃し、湯本から畑宿を経て、元箱根へ出るルートに変えた。  これが、箱根八里といわれる東海道だが、幕府がこのルートを採ったのには、江戸防衛という意図が隠されていたのではないだろうか?  箱根山を越えるという難関とそこに関所を設ける戦術、そして、その後に採られた参勤交代は西国大名にとって大きな負担で、幕府にとっては大変な効果を発揮したように思える。  このように考えると、箱根八里は江戸防衛を兼ねた街道であった。  その証拠には、明治時代に開通した東海道線は、箱根を避け、大きく箱根の外輪山を迂回し、国府津から松田、小山、御殿場を経て沼津へのルートを通っている。  また、国道1号線は、旧東海道の須雲川をさかのぼるルートを採らず、湯本から宮の下、小涌谷を迂回して、元箱根に出ている。  高速道路に至っては、箱根外輪をぐるーと、回っているのである。 
  


続く( 箱根宿 )







かうんたぁ。