『 東海道を歩く ー 箱根宿(続き)  』




箱根(はこね)宿(その1)

箱根神社の一の鳥居 成川美術館の反対側にある大鳥居は、箱根神社の一の鳥居である (右写真)
箱根神社は、天平宝字元年(757)、万巻(まんがん)上人が、ここに、丈六薬師如来を祀ったのが始まりで、 後に、頼朝の保護を受け、伊豆山、三島と並ぶ関東第一級の神社となった。 
一の鳥居のある湖畔が、賽(さい)の河原である。 東海道名所図会では、西の河原と紹介
元箱根港 されている。 江戸時代には百三十基の石仏や石塔があったが、今は五十四基しか残っていない。  このあたりは、元箱根で、定期バスのターミナルもあり、芦ノ湖遊覧船が常時発着し、その傍は、観光バスで混雑していた (右写真)
先程のところに戻ると、成川美術館の隣の吾妻山日輪寺の参道入口には、髭題目が建っていた。 

身替わり地蔵 その先、左側の岩屋に、身替わり地蔵が祀られている。  宇治川の先陣争いで名高い梶原景李(かげすえ)が、箱根を通りかかった時、背後から何者かに襲われた。  父の梶原景時と間違えられたらしい。 しかし、かたわらにあった地蔵が身代わりなって、かろうじて命が助かったと 伝えられ、それ以来、この地蔵は景李の身代わり地蔵と呼ばれるようになった (右写真)
地蔵と呼ばれているが、実際は阿弥陀如来像。 よく見ると右肩から左脇腹にかけて、刀傷が
富士山 残されている。 梶原景時は、源頼朝の側近だったが、弁舌巧みで、たびたび人を陥れたといわれ、源義経を始め、次々にライバルを追い落としたため、相当嫌われていたらしく、頼朝の死後は、失脚して鎌倉を落ちる途中で殺されてしまった。  車道の右側に逆さ富士駐車場があり、逆さ富士が見られる場所であるが、当日は富士山は雲の中で何も見えなかった。 
(注) 翌年2月29日に、再訪 ー 冨士は見えたが、水面に富士は現れなかった (右写真)
葭原一里塚 逆さ富士は、富士山が見えるだけでなく、湖面が平らであることが条件になるので、なかなか難しいと思った。  杉並木が残るので、それを見ながら関所方面に向かおうとすると、杉並木に入って直ぐのところに、一里塚跡の石碑があった (右写真)
巨大な杉が二本生えている下にあるのは、江戸から二十四番目の葭原久保一里塚である。  かつては、盛り土をして、ここでは珍しく檀(まゆみ)が植えられていた、という。  檀は、ニシキギ科の落葉小高木で、真弓とも書かれた。  この先、国道の左の狭い道に入ると、昔ながらの
杉並木 東海道が残っていて、見事な杉並木の中をしばらく歩くことができる。 この杉は、元和元年(1618)に植えられたもので、平均樹齢は三百七十年を越える立派なもので、四百二十本残っている、という。 十五時を過ぎてそれ程経っていないのに、杉並木の中は薄暗く、少し明るくなったところに出ても、霧が出ているのか、少しミルキータッチに写っていた (右写真)
これ等の杉の木は、江戸時代の旅人の歩きを見守ってきたと思うと、幾百もの年輪を 箱根関所資料館" 感じさせるぬくもりを感じた。 杉が吐くオゾンを吸いながら歩くと、やがて、東海道は、国道と合流した。 道の反対側に、箱根恩賜公園がある。 公園の横を左に入ると、湖畔に箱根関所資料館があり、通行手形、古代道中絵図など、関所に関する資料や関所破りを防ぐための武具などが展示されている (右写真)
更に、歩いて行くと、冠木門のようなものが見えてきた。 ここは、江戸時代に、 箱根関所が
江戸口御門 あった場所で、箱根関所の江戸口御門を復元したものである (右写真)
元和五年(1619)、江戸幕府は、全国に五十三ヶ所の関所を設置したが、箱根関所は、屏風山と芦ノ湖に挟まれた要害の地形を利用して、山の中腹から湖の中まで柵で厳重に区分し、江戸口、京口両御門を備え、大番所と足軽番所が向き合うものになっていた。  入り鉄砲に出女 、という言葉があるが、箱根関は、大名の妻女が江戸から抜け出すことを防止すること
大番所 が主眼だったので、鉄砲改めは行われなかった。 そういうことから、箱根関を通るのには、江戸に入る(下り)場合には、手形がいらなかったが、江戸を出る(上り)ときは、手形が必要であった。  なお、女子と囚人以外ならば、手形をもっていなくとも吟味の上で通していた、という。  その取締りにあたったのが人見女(俗称、関所婆)である (右写真ー大番所)
箱根関所は、士分十名、足軽十七名、人見女、二名が一組であった。 担当したのは、小田原
吟味人形 藩で、十一組編成されていて、毎月交替で、関所役を勤めた。 また、非常時は、小田原藩から非番のものが駆けつけた。 門の手前には、千人溜まりと言われる場所があり、吟味を受ける順番を待ちの人が待機していた。 旅人は、中の建物の前で、吟味を受けた (右写真)
箱根関所は、通常の往来手形の他に、箱根関所宛の関所手形を持たないと通行出来
遠見番所 ない程、厳重だったが、御三家と旗本は、関所手形は必要なかった。 足軽番所の裏の高台に、遠見番所があり、湖上監視のため、関所破りを見張っていた (右写真)
なお、箱根全山の監視が、此処だけでは出来ないため、根府川、仙石原、矢倉沢、谷蛾、川村にも裏関所が設けられていた。  関所破りは死罪に処せられたが、記録に残る関所破りは以外と少なく、五件六名しかない。 これは、関所破りを見つかっても、ほとんどの場合は藪入り
芦ノ湖の紅葉" と言って、道に迷っただけとみなして、関所の役人が叱責して、追い返していたからである。 小生も、番所役人から許可が出たつもりになって、反対側の門をくぐって外に出て、芦ノ湖のきれい紅葉を見ながら、茶屋で一服した (右写真)
時計を見ると、十五時三十二分、この後、三島へ行き、名古屋に帰らなければならないので、今日の旅は終了である。 元箱根まで戻り、バスターミナル発十六時の三島駅行に乗り、三島駅から新幹線で、名古屋に帰宅した。 


箱 根 宿(その2)

箱根関所 平成20年2月29日、前回終わったところから三島宿まで歩こうと、名古屋から新幹線に乗り、三島からバスで関所前にきた。 九時十分に到着したので、もう一度、箱根関所に行ったが、見学している人は数えるほどで、閑散としていた (右写真)
江戸時代には、関所の御門の手前は千人溜まりと言われ,関所の順番待ちの人たちが大勢いて、それを目当ての茶屋などが立ち並んでいた、という。 京方御門をでると、
箱根関所付近" オルゴール館、蕎麦屋、箱根寄木細工の店や御土産店が建ち並んでいた (右写真)
東海道に箱根関所が出来たころは、箱根に宿場がなかった。 関所の門は、暮六つには閉じられてしまう。  それと同時に、裏道はすべて封鎖され、抜け道はまったくないので、関所の通過には、旅人はすごく神経を使った。  大名行列も例外ではなかったので、西国大名の要請
箱根ホテル で、元和四年(1618)、箱根にも宿場が作られたのである。 
箱根は相模と伊豆の国境にあることから、小田原宿と三島宿より五十軒づつの宿を移住させて宿場を作った。   本陣の数は六軒と東海道最大で、脇本陣も一軒あったが、その先の国道の右側にある箱根ホテルが、本陣だったはふやの現在の姿である (右写真)
旅籠は三十六軒で、宿場創設時より減少していった。 大名が多く泊まることや関所が近い
箱根駅伝碑 ことから、民衆は敬遠したようで、旅人の多くは、三島か、小田原に泊まったようである。 
江戸時代の箱根宿の中心は、その先の遊覧船とバスの発着所になっているところだったが、江戸時代の面影は全く残っていなかった。  時代の移り変わりを反映して、雲助だんご本舗の奥には、箱根駅伝に関連する石碑が幾つか建っていた (右写真)
毎年正月に行なわれる東京から箱根往復の大学駅伝は、東海道の沿線を走る冬の風物詩
箱根駅伝碑" である。 ここには、箱根栄光の碑や駅伝をたたえての歌詞が書かれた碑などが建っていた。 その先の右側には、箱根駅伝ミュージアムがあった (右写真)
交差点の左側にあるコーナーにも、箱根駅伝の歴史を語る出来事が書かれていて、ここが箱根宿であったことは一言も書いてなかった。 今の箱根は、江戸時代の東海道の箱根宿より、テレビで放映される箱根駅伝なのだ、と思った。  これで、箱根宿は終わる。 

元箱根石仏・石塔群

精進池 平成二十三年(2011)六月七日(火)、元箱根石仏・石塔群を訪れた。  東海道の旧道より少し入ると、箱根の森の一角にお玉ヶ池があるが、そこから北東に約一キロお玉ヶ池遊歩道を歩くと、国道1号線にある六道地蔵バス停に出る。  駐車場の奥に 「 石仏群と歴史館 」 と書かれた建物があり、その前に精進池が静かに佇んでいた (右写真)
ここは鎌倉時代に始まった湯坂道沿いにあるが、精進池周辺は厳しい気候と火山性の荒涼と
六道地蔵堂 した景観で、地獄の地として、また賽の河原として、鎌倉時代に地獄信仰の霊場となった。 
国道下のトンネルをくぐり、数メートル上ると、山裾に石垣と御堂があった (右写真)
覆屋は幅46メートル、奥行き7.1メートル、高さ9.2メートル、杉材を用いて建てられていて、屋根は寄棟で、柿葺きになっている。  お堂の中には六道地蔵と呼ばれる石仏が祀られていた。  箱根町教育委員会によると、 「 この石仏は巨大な転石に彫られた像高3.5メートル
地蔵菩薩坐像 に及ぶ地蔵菩薩坐像で、 銘文から鎌倉時代の正安2年(1300)の造立と分る。 磨崖仏としては線刻のものを除き、 関東では最大級のもので、昭和49年に国の重要文化財に指定された。  保存修理の際、石垣で補強し、周辺を当時の地盤まで削掘し、景観を当時に戻し、白毫や右手、錫杖も正しい姿に戻し、 覆屋も室町時代の姿に復元した。 」 という (右写真)
堂内の大きな石仏は左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、蓮華座の上に結跏趺座していたが、 引き締まった端正な顔に薄ものの質感を巧みにとらえた衣紋の襞、胸の華やかな瓔珞などが
八百比丘尼の墓 暗い中になんとか見えた。 
精進池に戻り、北に向かって歩くと、八百比丘尼の墓があった (右写真)
これは宝篋印塔の残欠で、室町時代初めの観応元年に建てられたもので、 八百比丘尼の墓と呼ばれるようになったのはいつからか分らないようである。  なお、八百比丘尼は各地に残る人魚伝説に登場する。  人魚の肉を食べたため、八百年間も生きたとされる美女である。 
応長地蔵 少し行くと右側の国道の下に応長地蔵と呼ばれる地蔵菩薩があった (右写真)
高さ百二十四センチメートルの安山岩に地蔵菩薩が彫られたもので、昭和四十九年(1974)に国の重要文化財に指定されている。  応長元年(1311)に造像したという願文が彫られていることから応長地蔵と呼ばれるが、 岩には二つの龕(壁面に仏像や仏具を納めるために設けたくぼみ)があり、大きい龕に一体、小さい龕に二体の地蔵菩薩が彫られていた。  教育委員会
多田満仲の墓 によると、 「 宮城野地区では、家族に死者があると、四十九日以内にここまで家族の者がやってきて、送り火を焚く(浜降り)という風習があったことから 、火焚地蔵とも呼ばれています。 」 という見解である。  この先の三叉路を左に行くと、精進池の西岸を廻る遊歩道になっている。  直進すると、高さ三メートルほどの大きな宝篋印塔があった (右写真)
この石塔には、「 永仁四年(1296) 」 が基壇に刻まれているが、多田満仲の墓と呼ばれるものである。  多田満仲は、平安時代中期の武将、清和源氏発展の礎をつくった源満仲の別名である。  彼は清和源氏六孫王経基の子で、酒天童子退治で有名な源頼光や源頼親など
磨崖地蔵菩薩群 の父である。  この石塔が多田満仲の墓と呼ばれるようになったのは近世以降のようである。 
なお、宝篋印塔とは、石で造られた塔の一種で、笠を階段状に造ることと四隅に隅飾を持つことが特徴で、 始められた頃は基礎の内部に宝篋印陀羅尼というお経を納めたことからその名が付けられた。  その先にあるのは磨崖地蔵菩薩群である (右写真)
これは二十五菩薩と呼ばれるもので、石段を上っていく左側の岩に二十三体の石仏が彫ら
磨崖地蔵菩薩群 れ、上の国道の右側にも三体ある。  内訳は地蔵菩薩立像が二十四体、阿弥陀如来立像が一体に供養菩薩立像が一体である。  大きいものは高さ一メートル、小さいものは高さ20センチで、銘文から永仁元年(1293)から造り始めたと推定されるという (右写真)
これらの石仏群は、平安末期の末法思想から興った地蔵講の衆徒が鎌倉時代後期にこの地に死後の救済や極楽浄土を願つて、建立したもので、昭和四十九年(1974)、国の重要文化財
右側の磨崖地蔵菩薩群 に指定された。  遊歩道はその先トンネルをくぐり、国道の反対側に出る。 
その手前に三体の石仏が掘られた岩山が飛び出していた (右写真)
この岩と前述の石仏群が掘られた岩は繋がっていたのだが、国道工事で分断されてしまったのである。   また、地獄谷という地名も、明治天皇がくるというので、小涌谷と大涌谷に改称されてしまった。  鎌倉を中心に活動した忍性による地蔵信仰は、石工達や勧進僧によって
俗称曽我兄弟・虎御前の墓 各地に広められたが、その史蹟が箱根の石仏群として今日まで残っているのである。  彼ら地蔵講の衆徒は岩に地蔵像を刻み、峠を越える旅人や病を治すために訪れる湯治客にひたすら地蔵による救済の道を説いたのである。  木立の中を少し歩くと、ぽっかり空間が開き、右側に五輪塔・俗称曽我兄弟・虎御前の墓があった (右写真)
五輪塔から少し離れたところの案内板には、「 五輪塔は宇宙の五つの生成要素をかたどっ
五輪塔の仏像部分 たもので、特に二基の五輪塔には仏像が刻まれており、極めてまれな例です 」(右写真)
とあり、また、 「 右の塔には永仁三年(1295)に地蔵講中により建立されたという銘が刻まれているのは、この五輪塔が日本最古のものといわれています。   」 と書かれていた。   曽我兄弟が父の仇討をしたのは鎌倉時代初期のこと、江戸時代に入ると仇討ブームが起きたので、曽我兄弟の話は庶民に好まれ、墓の俗称がついたものと思われる。  この先に湯坂道入口のバス停があった。  箱根駅伝のアナウンサーが 「 選手は最も苦しい最高地点にさし
かかりました! 」 と絶叫するのはこのあたりである。  その場所が古代の地獄霊場で、
地蔵講の聖地だったとは知らなかったのである。 

芦之湯

松坂本店 江戸時代に入ると温泉ブームがくる。  湯本、塔之澤、堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀、芦之湯の各温泉場は箱根七湯と呼ばれ、江戸や関東一円から、多くの湯治客が訪れた。  特に芦之湯は、文化文政期(1804〜1830)、箱根七湯の中で最も標高が高く、江戸から一番遠い所にありながら、硫黄泉のもつ独特の温泉効果と夏の涼しさが江戸の人々に大変な人気を呼び、 大いに賑わった。  松坂本店旅館は芦之湯に残る当時から湯宿である (右写真)
松坂屋主人の松阪賢全、芦之湯主人の勝間田茂野は熊野権現の敷地に東光庵薬師堂を建て
東光庵 て、湯治にきた客の憩いの場として提供、  湯治にきた客はここで碁や将棋に興じ、また、文人や墨客は句会や茶会などを開いて、風流を楽しんだのである。  明治に入ると、芦之湯は時代から取り残され、東光庵も明治十五年頃には朽ち果てて、取り壊されてしまった。  東光庵跡は町の指定史跡となり、平成十三年、東光庵は百二十年ぶりに再建された (右写真)
東光庵の右側にあるのは江戸時代には熊野権現と呼ばれた熊野神社である。 
熊野権現社は箱根七湯の全てに祀られていた。 この神社の創建時期ははっきりしないが、
文化十一年(1811)の七湯枝折には熊野権現と東光庵が紹介されているので、それ以前から
蜀山人狂歌碑 存在したことは間違いない。  逗留した文人墨客には賀茂真淵、蜀山人、安藤広重、本居宣長などがいるが、境内には彼等の句碑や歌碑がある。  蜀山人(四方山人)のは、享和四年(1804)に詠んだ句を翌年の文化二年(1805)に狂歌碑としたものである (右写真)
 「 てる月の鏡をぬいて 樽まくら 雪もこんこん 花もさけさけ 四方山人 」 
  その近くには 「 逗留と 定めて旅の 月見かな 祖友 」 と刻まれた句碑があったが、祖友とはいかなる人なのか?  熊野神社の右側にも石碑や句碑などが建っていた。 
芭蕉の句碑 大磯の鴫立庵の庵主との交流があったようで、庵主が文化十二年(1615)に建てた芭蕉の句碑  「 芭蕉翁 しばらくは花の うえなる月夜哉 」 があった (右写真)
芭蕉の花上の句碑と呼ばれるものだが、芭蕉のこの句は人気があったようで、全国各地にこの句碑は見ることができる。  その隣にあるのは蘆湯神游碑である。 寛政四年(1792)に勝間田万右衛門賢宣と東光庵主菊仙叟により建てられた。  また、文化十一年(1814)に建立
薬師堂 された弁天峯詩碑というのもあった。  右手にある薬師堂の一角は湿気が多く、じめじめしていて、薄暗い。  薬師堂は徳川家康の四女徳姫の霊堂で、京知恩院に寄進されたものだが、 三井家番頭益田鈍翁の別荘に移築され、その後、松坂屋に寄贈されたとあった (右写真)
東光庵西側の岩場には十六羅漢像が置かれていて、色々なポーズの姿はおもしろかった。  きのくにやの道の反対には 「 明治大帝駐輦所 」 の石碑が建っていて、明治天皇が来たことが分かる。  その隣には今も地下から湧き出ている源泉があった。 
弁財天 箱根の中でこのあたりだけが今なお江戸の雰囲気が残っているのではと思った。 
芦ノ湯フラワーセンター近くから奥に入ると、阿字ケ池弁財天が祀られていた (右写真)
芦ノ湯温泉の付近は古くは湿原だったので、 「 芦の海にある湯 」 という意味で芦ノ湯と呼ばれていたようである。  江戸時代に入り湿原は干拓されたが、弁財天が祀られる阿字ケ池は干拓された時に残された部分と言われているが、 その池もその姿はほとんど見られなかった。  これからも景色が変わっていくのであろう。 寂しい気はするが、それもいたしかたがないのだろうか・・・

( 小田原宿から箱根宿 )    平成19年(2007)   11 月 
( 箱根宿 1 )    平成19年(2007)   11 月  
( 箱根宿 2)       平成20年(2008)   2 月
( 元箱根石仏群・芦之湯)  平成23年(2011)   6 月


(11)三島宿へ                                           旅の目次に戻る







かうんたぁ。