『 東海道を歩く ー 平塚宿(続き)  』




茅ヶ崎から平塚宿

松並木 平成19年11月17日(土)、前回の続きを歩くため、茅ヶ崎に訪れた。 名古屋を七時過ぎののぞみに乗り、新横浜で乗り換え、茅ヶ崎駅に着いたのは、九時五十分を過ぎていた。 駅で湘南名物の鯵の姿すしとお茶を買って、前回終わったところまで戻った。  茅ヶ崎郵便局の反対側には、背の高い松が見下ろすような姿で立っている (右写真)
また、びっくりドンキーの前にも松の木があった。 国道1号線の右側の歩道を歩く。 
第六天神社 十間坂交差点を過ぎると、少し上り坂になったが、これが十間坂である。 
十間坂2交差点を越えた、右側に第六天神社があり、祭神は、於母陀琉神(おもだたがみ)と妹阿夜詞志泥神(いもあやかしこねのかみ)である (右写真)
元弘三年の新田義貞の鎌倉攻めで兵火にあった、と伝えられる、かなり古い神社で、この神様は天地創造の神で、天神七代の第六代目の神であると、神社の由緒には書か
南湖地区 れていた。   道は下りになり、南湖入口交差点を過ぎると茶屋町郵便局がある。 
道の左側に古い家が一軒あり、その先で、道が左にカーブして行くが、この南湖地区は、藤沢宿から平塚宿の間に三つあった間の宿の一つで、南湖の立場は茶屋町と称せられた程の大きな立場だったのである (右写真)
茅ヶ崎高校前の東海道の松並木の案内板にあった、広重の松並木の風景はこのあた
南湖の左富士之碑 りと、思えるが、松の木は一本もない。  カーブを曲がりきると少し上りとなり、その上に千川が流れ、鳥井戸橋が架かっている。  それ程大きな川ではないが、橋を渡ると、橋のたもとの左側に、南湖の左富士之碑が建っていた。 このあたりは、北西に道が続くので、左側に富士山が見えたからである (右写真)
富士山がある方向には、民家があるので、たまたま通りかかったご婦人に、 「 ここから
南湖左富士之碑 富士山は見えるのでしょうか? 」 と、聞くと、「 二、三日前の朝には見えましたが、今日は 雲が多く、生憎見えませんね!! 」 と、言われた。 
富士山は、残念ながら、見えなかったが、街道正面には、大山が見えた。 
道の反対側には赤い鳥居があるが、これは、鶴嶺八幡宮の鳥居である (右写真)
鳥居をくぐると、右側にある民家の中庭に弁慶塚がある、という案内板があった。 
弁慶塚は、武蔵国稲毛の領主、稲毛三郎重成が、亡妻の供養のため、相模川に橋を架
弁慶塚 け、文久九年十二月、落成供養を行なった際、参列した源頼朝は、その帰途、鶴嶺八幡 宮付近に差し掛かったとき、義経、行家等の亡霊が現れ、頼朝は落馬し、重傷を負い、翌、正治元年に亡くなった。 後年、里人は義経一族の霊を慰めるため、塚を築いた、と伝えられるものである。 民家の入口に、ご自由にどうぞと書かれているので、入って行くと、想像したよりひっそりとした塚だった (右写真)
鶴嶺八幡宮は、ここから約1km北方にあるようであったが、時間の関係からパスし、
厄神大権現と三体の石仏 街道に戻る。 松並木が残っている道を歩き始めた。 橋から300m程歩くと、新湘南バイパス 茅ヶ崎西 300m という標識があり、そこから道は大きく左にカーブするが、その先の左側に、神明神社があり、境内の左側に厄神大権現とある、大きな石碑と祠の中に、道祖神など、三体の石仏が祀られていた (右写真)
本堂には、龍の彫刻が施されていた。 道はこの先、左に大きくカーブし、傾斜のある
下町谷橋 上り坂になった。 上って行くと、左側に東海道の名物まんじゅう でかまん、という看板を掲げたお菓子屋があった。 このあたりに、旧相模川橋脚が残された小公園があるようだが、案内がないので、分らなかった。 新湘南バイパスの下に流れる川は、小出(こいで)川で、それ程大きな川ではない。 川に架かる下町谷橋を渡る (右写真)
橋を渡ると、左側に松の木があった。 更に歩くと、今宿バス停の道の右側に上国寺と
道祖神 いう日蓮宗のお寺があり、その先の下の川入口交差点の先には、信隆寺がある。 
産業道路を越えると、新田交差点の手前右側に、道祖神碑と道祖神像が小さな祠の中に祀られていた。 気を付けないと、通り過ぎるところにあった (右写真)
上って行くと、相模川に出た。 江戸時代には、相模川には橋を架けることは禁止されていたので、馬入の渡しにより、相模川を渡った。 
「 舟着場は旧中島村と対岸の旧馬入村にあったが、川会所と川高札場は馬入村に
馬入橋 あった。 川会所には、川名主三人、川年寄三人が勤務し、船頭は昼夜を問わず十六人が待機していた。 また、寛永十一年(1634)に、三代将軍家光が上洛した時と慶応元年に十四代将軍家茂が長州征伐に際しては、舟橋を架けられた。 」
、とあるが、現在は馬入橋という大きな橋が架かっている (右写真)
橋を渡ると陸軍架橋記念碑があり、大正時代に陸軍の手で橋が架けられたことが分か
広重の平塚宿絵 る。 左側の工事中のビルの塀には、広重の平塚宿の馬入川舟渡りの絵が描かれていた。 この絵を見ると、正面に大山があり、その先に富士山が一部見える (右写真)
200m程先の馬入交差点で、国道1号線は右折して分かれていくが、旧東海道はそのまま直進する。  ここと次の交差点(国道129号線と交差する)との間に、一里塚があった ようだが、それを示すものはなかった。  国道129号線を渡った、蔵屋敷バス停あた
屋敷バス停付近 馬りが入村の西の外れである。 江戸時代には、このあたりから、新宿まで松並木が続いた。 平塚は戦時中、軍の工場があったので、戦災にあり、ほとんどのところが焼かれてしまったので、現在ある並木は最近のものだろう (右写真)
それでも、松原バス停など、松並木があったことを示す地名が残っていた。 
もうすぐ、平塚宿に入る。 


平塚宿

松原バス停を過ぎると、宮の前地区に入る。 
平塚駅前 相模国風土記には、平塚宿が困窮し、公役の負担に耐えられないため、慶安四年、八幡村の一部を加宿とし、平塚新宿とした、とある。 その先は平塚駅前交差点で、右折すると、平塚八幡宮のある八幡山公園がある。 このあたりとその先の明石町が、旧平塚新宿だと思うが、ビル街になっていた (右写真)
平塚は、北条氏の城下町として発展し、相模川水運による物資の集散地であり、東海
お菊塚 道の他、中原往還(中原街道)、八王子道が通るため、交通の要衝として、早くから栄えたところである。 番町皿屋敷のお菊の墓とさせるお菊塚があるというので、平塚駅の先の商店街を探したが、見つからない。  しかたがないので、平塚駅まで行き、駅前の案内板を見ると、長崎屋の裏あたりの紅谷町公園にあった (右写真)
番町皿屋敷で自害させられたお菊さんの墓があったとされるところだが、塚の脇に詳しい 案内板があった (巻末参照)
江戸方見附 お腹が空いたので、平塚駅西口にあった餃子の王将で食事を摂ったが、関西と味が違うような気がした。   街道に戻り、再び歩き始める。 市民プラザ前交差点を横切ると、見附町に入る。 右側に、旧東海道平塚宿史跡絵地図という看板があり、その先に、平成十三年(2001)に復元された、江戸方見附があった (右写真)
宿場の入口の街道の両側に、石垣を築いて、塚をつくり、その上に矢来を組み、宿場に
江戸方見附 入る旅人を監視したのが、見附である (右写真ー復元された見附)
平塚宿は、前述したように途中から、平塚新宿が加わったが、それ以前の平塚宿は、ここから始まり、東西十四町六間(約1.5km)の間に、ここから西への順に、十八軒町、二十四軒町、東仲町、西仲町、柳町と、続き、上方見附まで続いていた。 宿場には、四百四十三軒の家と二千百十四人が住んでいたのである。 市民プラザの中庭には、
平塚里歌碑 平塚里歌碑があり、傍らの説明では、文明十二年(1480)、平安紀行の作者が京に上る途中、ここで隠遁して亡くなった、三浦遠江入道定可を思い出し、里人に墓などを尋ねたが、誰も知らなかったので、 「 哀れてふ 世のしるし朽ちはてて かたみもみえめ 平塚の里 」 と、吟じたとある (右写真ー平塚里歌碑)
なお、平安紀行の作者は、大田道灌とする説と異説がある。 見附跡から四百メートル
脇本陣跡碑 程行くと、旧二十四軒町で、右側の茅沼酒屋前に脇本陣蹟の石柱があった (右写真)
案内板には、脇本陣は、当初は西問屋場の西にあったが、天保年間に現在地に移転し、山本安平衛が営んでいた、とあった。  平塚本陣郵便局を過ぎると、旧東仲町で、右側の山口屋茶舗前に、平塚宿高札場の蹟の石碑があった。 
平塚宿高札場は、長さ二間半(約五メートル)、横一間(一.八メートル)、高さ一丈一尺
東組問屋場跡の石碑 (約三メートル)で、土台は石垣で、その上を柵で囲み、高札が掲げた部分には風雨を避けるための屋根が作られていた、といい、隣の宿場までの公定運賃などの高札が掲げられていた。 道の反対側には、東組問屋場蹟碑が建っていた (右写真)
平塚宿には、古い建物や往時の面影は残っていないが、この通りに五十四軒の旅籠が
本陣跡 軒を並べていたのである。 本陣は、更に100m先の右側にある神奈川銀行平塚支店のところにあったようで、その前に、平塚宿本陣旧跡という標柱が建つ (右写真)
加藤七郎兵衛が務めた本陣の建物は、間口約30m、奥行は約63mの総ケヤキづくりだった、と伝えられている。 
平塚信金交差点 平塚信金の先の交差点を左折した先にある宝善院が平塚宿本陣の菩提寺になっていた。 また、右折する道が新豊田道で、この先で中原街道と交差する (右写真)
徳川家康は東海道ではなく、中原街道を好んで使ったという。 鷹狩のために造営した中原御殿(雲雀御殿ともいわれた)があったので、鷹狩りで訪れただけではなく、江戸と駿河の往来にも利用した。 道は、この先で、田村の渡しを越え、寒川、用田、丸子
西組問屋場跡 渡し、洗足、虎の門と行くが、道が平坦だったことが、家康が利用した理由のようである。  それはさておき、東海度は直進すると、旧西仲町で、少し歩くと、右側に分かれて行く狭い道がある。 右側のなまこ壁の消防小屋が 西組問屋場跡である (右写真)
問屋場は、二十四軒町に東組問屋場、西仲町に西組問屋場があり、東西の問屋場が十日毎に、問屋1名、年寄1名、帳付3名、馬指2名の構成で、交替で勤めた。 
要法寺 この建物を右折して行くと、突当りに松雲山要法寺がある。 山門前に、七面大明神と
書かれた大きな石柱があり、松雲山要法寺縁起(案内板)があった (右写真)
それによると、鎌倉幕府の執権、北条泰時の次男、泰知が、この地の地頭をしていた時、日蓮上人が平塚にご来臨されるという、七面天女のお告げを受けた。 日蓮上人はこの地に宿泊され、法華経のご説法したところ、邸内の平真砂子塚にそびえ立つ
平塚 老松に、紫雲たなびくという端相が現れた。 それを見た人々は法華経の信者になり、北条泰知は、弘安五年(1282)、自らの館を献上して、当寺を開山した、とあった。  少し行くと、右側に西仲町公園がある。 その公園の一角に平塚と呼ばれる塚がある。  天安元年(857)、桓武天皇の曾孫で坂東平氏の始祖といわれる、平真砂子が、一族とともに東国へ向かう途中、ここで没したため、遺骸を埋め、この塚を築いた、という (右写真)
これが、平塚の地名の由来である。 隣には、春日神社があった。 
上方見附 東海道に戻り進むと、右からきた国道1号線と合流した。 国道に入り、百メートル程歩くと、西組問屋場跡のところで分れた道と合流する三差路の古花水橋交差点があった。 江戸時代には、旧柳町のこのあたりに上方見附があったといわれ、交差点の左側に、復元された上方見附があった (右写真)
これで、平塚宿は終わりである。 

(ご参考) 番町皿屋敷 お菊塚
平塚市観光協会の紅谷町公園にある案内板によると、
『 伝承によると、お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀見習いのため、江戸の旗本青木主膳方へ奉公中、主人が怨むことがあって、菊女を斬り殺した、という。 一説によると、旗本青山主膳の家来が菊女を見染めたたが、菊女がいうことを聞かないので、その家来が憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊女が紛失したと告げたので、菊女は手打ちにされてしまったが、後日皿は発見されたという。 この事件は元文五年(1740)二月の出来事であったといい、後に怪談「番町皿屋敷」の素材になったという。 また、他の話によると、菊女は器量が良く、小町と呼ばれていたが、二十四歳のとき江戸で殺されたと言われている。 死骸は長持詰めとなって馬入の渡場で父親に引き渡された。 この時、父親真壁源右衛門は 「 あるほどの花投げ入れよすみれ草 」といって絶句したという。 源右衛門は刑死人の例にならい墓をつくらず、センダンの木を植えて墓標とした。 昭和二十七年秋、戦災復興の区画整理移転により、現在の立野町晴雲寺の真壁家墓地に納められている。 』
とあった。


(藤沢宿〜茅ヶ崎)   平成19年(2007)   8 月
(茅ヶ崎〜平塚宿)   平成19年(2007)   11月
( 平 塚 宿 )    平成19年(2007)   11月


(08)大磯宿へ                                           旅の目次に戻る







かうんたぁ。