ステーキレストラン前の江戸見附前交差点から戸塚宿になる (右写真)
戸塚宿は、保土ヶ谷宿と藤沢宿間が四里九町(16.6km)もあったことから、慶長九年(1604)に設けられた宿場である。 天保十四年(1843)の東海道宿村大概帳によると、
宿場の長さは二十町十九間(2.2km)で、宿内に二千九百六人が住み、家の数は六百十三軒だった。 戸塚宿は、東に権太坂、西に大坂と、二つの難所に挟まれていることや
江戸から十里半(42km)であることから、日本橋を七つ時(午前4時)に出発した旅人は、
ここで最初の夜を迎えるのが一般的だった、という。 江戸時代の人は健脚だったのですねえ。 植え込みの中に江戸方見附跡の石碑が建っていた (右写真)
ステーキの看板に釣られ、さっき食べたのは少なかったと口実をつけながら、店に入り、サービスランチを頼んでしまった。 三十分程で食事は終えたので、旅を再開。
江戸見付前交差点を過ぎたスズキのあたりには比較的古い家も二、三軒あった。
元町交差点を過ぎ、その先の左側の狭い道を左折し、少し行くと、左側に妙秀寺がある。 鎌倉の小町にある日蓮宗の本覚寺の末寺に当たる寺で、延文元年(1356)の創建とされる古い寺であるが、明治時代に建物が全焼し、建物は最近のもの(右写真)
境内には、南無妙法蓮華経と刻まれた石碑と安藤広重の東海道五十三次、戸塚の
浮世絵に描かれているものとされる道標があった。 道標は、山門を入って左側の水屋の先にあり、途中で折れたものをコンクリートで修復したもので、刻まれた文字はほとんど読めなくなっていた (右写真)
街道に戻り歩き始めると、吉田橋の手前五十メートルのところに、一里塚跡の看板がある。
その先の吉田橋交差点は、前後左右の車で一杯だった。
柏尾川に架かる吉田大橋は、江戸時代には吉田橋あるいは高島橋とも呼ばれていた、長さ八間(約十四メートル)の大きな木橋だった (右写真)
東海道は吉田橋を渡って直進だが、橋の手前を左折する道が鎌倉街道で、五街道細見に、 「 やべ町と云う里を越えて、左の田中のあぜ道を鎌倉へ行く道あり 」 と書かれている道で、ここから鎌倉へは三里の行程である。 安藤広重の東海道五拾三次
の戸塚宿には、橋の手前の左側に、こめやという看板を掲げた茶屋があり、その先の常夜燈の右側に、「 左りかまくら道 」 と記された道標が描かれている (右写真)
田辺聖子さんの姥ざかり花の旅笠(集英社文庫)に登場する小田宅子さん一
行は、ここから金沢に出て、金沢八景の能見(のうけん)堂に詣でて、筆捨松を見た後、鎌倉を訪れ、鶴が岡の若宮社を詣でて、七里が浜から江の島まで、歩いている。
先程、妙秀寺で見た、かまくら道の道標は、ここに建っていたのである。
橋の手前の右側に、赤い鳥居と小さな社があるが、当宿の吉田元町の住民により、江戸中期に創建されたとある木之間稲荷である。
橋を渡ると、右側に、江戸時代の八王子道が残っていた。 川沿いに続く狭い道を二十メートルほど行くと、道祖神碑と道標が建っていた (右写真)
大きな道標の正面には、「上矢部 淡島大明神道十丁」、とあり、左面には、「ふしのや 八王子道」と刻まれていた。
このあたりは旧矢部町で、手前の吉田町、この先の戸塚宿と共に戸塚宿を構成した町で、道標は宝暦十二年建立である (右写真)
先程のかまくら道道標や八王子道標が示すように、この地点は東海道と鎌倉道や八王子道との分岐点であり、多くの人々で賑わった様子は、十辺舎一九の東海道中膝栗毛にも窺える。 弥次喜多のご両人は旅の一日目にここに投宿しているが、保土ヶ谷や戸塚宿で有名な客引きの留女(とめおんな)に、振り回されている。
『 両側より旅雀の餌鳥(おとり)に出しておく留おんなの顔は、さながら面をかぶり
たるごとく、 真白にぬりたて、いづれも井の字がすりの紺の前垂を〆たるは、さてこそ
いにしえ、ここは帷子(かたびら)の宿と、いひたるところとなん聞へし 、とあり、
とめ女 「 もしおとまりけへ 」 と、引とらへて引ぱる。 旅人 「 これ手がもげらあ 」
とめ女 「 てはもげてもよふございます。 おとまりなさいませ 」 旅人 「 ばかあいへ。
手がなくちゃあ おまんまがけはれねへ 」 とめ女 「 おぬしのあがられへほうが、
おとめもうしちやあ猶かつてさ 」 旅人 「 ええいめへましい、はなさぬか 」 と、
やうやうにふり切って行く。 』 ここで、弥次は狂歌を一句
「 おとまりは よい程ヶ谷と とめ女 戸塚前では はなさざりけり 」
当時の戸塚宿には、本陣が二軒、脇本陣は三軒、旅籠が七十五軒あったが、こうした表現から、隣の保土ヶ谷宿との客の奪い合いでの留女の活躍振りと戸塚宿の賑わいを感じとることができるが、現在の戸塚には古いものは残っていない。
矢部団地入口交差点を過ぎると、右手に善了寺がある (右写真)
道は右にカーブし、その先の信号交差点の左手はラピス戸塚、その先はJR戸塚駅。
ここまで、吉田橋から七百五十メートル位か?
東海道は直進して、JR東海道本線の踏切を渡るのだが、電車がきていて、しばらく待たされた。 立体交差になればよいのに!! (右写真)
踏切をこえた左側は商店街だったと思うが、区画整理工事で、塀で囲まれていた。
清源院入口交差点の手前右手奥に、清源院、正式名は南向山長林寺という寺がある。
京都の知恩院の末寺で、家康の側室、お万の方が、家康他界の後、尼になり、本尊に歯吹阿弥陀如来像を祀って開基した寺で、清源院は、お万の方の法号(尼名)である。
短いが急な階段を上っていくと、本堂があり、戸に三葉葵の紋が付いていた (右写真)
本堂右側の石段を上ると、薄暗い墓地の左側の奥に、「当山開基清源院殿尊骸火葬霊迹也」と書かれた、安政十五年(1858)建立のお万の方火葬の地の碑があった。
本堂の石段の脇に、芭蕉の句碑 「 世の人の 見つけぬ花や 軒のくり 」 があった。
石段の左側に、心中句碑、朝日堂石碑と庚申塔が並んで立っていた (右写真)
心中句碑には、「 井にうかふ 番(つが)ひの果(はて)や 秋の蝶 」 という句が刻み込まれている。 寺の井戸で心中した戸塚の薬屋の息子(十八歳)と戸塚の伊勢屋の飯盛女(十六歳)を慰霊するため、当院の住職が建てたものである。
街道に戻ると、清源院前交差点の右側も、区画整理で赤い土が剥きだしになっていた。 このあたりが戸塚宿の中心地であったところで、白塀で囲まれた左側には最近まで古い家も一部あったのだが、すべて壊されてしまっている (右写真)
その先にあるバスセンター前交差点は、三叉路である。 東海道は直進するが、右折すると、その先に横浜新道があるので、車の大部分はそちらに向うので、東海道を走る
車はかなり少なくなった。
四百メートル歩くと、左側に戸塚消防署があり、その手前の一メートル程高くなった所に、明治天皇行在所阯の石碑と東海道戸塚宿澤邊本陣跡の木柱が建っている。 澤邊本陣初代の澤邊宗三は、幕府と掛け合って、戸塚宿を開設させた人物で、門柱に、澤邊とあったので、子孫の方がおられるようである (右写真)
その先の海蔵院は、臨済宗の寺院で、山門の横には、遍照金剛と刻まれた、文政四
年(1821)の木食観正碑がある。 また、山門の上部には、左甚五郎の作と伝えられる龍の彫刻がある。
さらに先に行くと、郵便局の少し先に、八坂神社がある (右写真)
毎年七月十四日、無病息災を祈念して行なわれるお札まきは、町内十名が女装して、渋団扇を打ちながら、原始的な踊りをおどって、五色のお札を撒く行事である。 境内には、明治天皇東幸史蹟と書かれた石碑と庚申塔があった。
その前の八坂神社前
交差点は三叉路で、東海道は直進、左折すると鎌倉へ通じる鎌倉道である。
百五十メートル程歩くと、右側に、富塚(とつか)八幡宮の鳥居があった (右写真)
富塚八幡宮は、平安時代、源頼義、義家親子が、前九年の役の平定を感謝して、延文四年(1072)に社殿を造り、誉田別命(交神天皇)と富属彦命(相模国造二世孫)を祀ったのが始まりで、富塚(戸塚)一族が、この地に住み、当神社を氏神として崇敬していた。
石段の脇には、 「 鎌倉を生きて 出でけむ 初松魚(初鰹) 」 と、いう松尾芭蕉の句碑があった。 芭蕉が元禄五年(1692)に初鰹を詠んだ句である (右写真)
江戸っ子に珍重された初鰹は、鎌倉で水揚げされて、戸塚を通り、江戸まで運ばれたようで、句碑は、嘉永弐年(1849)に、戸塚宿の俳人たちによって建てられた。
石段を登ると、拝殿があったが、樹木に覆われているので、大変暗い。 拝殿は昭和九
年のものだが、社殿は、天保十二年の建立である。 左手にかわいらしい赤い社と狐が祀られているのは玉守稲荷で、その先には庚申塔などの石碑群があった。 その先の小高い丘は、富属彦命(とつきひこのみこと)墳堂(墓)と伝えられる古墳であり、これを富塚と称したことにより、戸塚の地名の発祥となった、と伝えられる (右写真)
街道に戻り、200m程歩くと、大阪下バス停前のファミリーレストランサイデリヤが
ある。 その前には、東海道戸塚宿見附跡ー上方見附の標柱があり、石積の上に小さな松の木が植えられていた。 また、安藤広重の東海道五十三次の戸塚宿の浮世絵の模写絵があったが、松並木の下を旅人がこの坂を上って行く姿と富士山が描かれていた (右写真)
道路の反対側を見ると、民家の塀の所にも、同じような石積が見られた。
ここで、戸塚宿は終わる。
平成19年(2007) 10月