保土ヶ谷宿から戸塚宿に向かう途中に、江戸を出て、最初の難関といわれた権太坂がある。
境木地蔵はその名が示す通り、武蔵国と相模国との国境に祀られている。
戸塚宿は、他の宿より多少遅れて設けられた。
平成19年10月14日(日)、今日は、保土ヶ谷駅から保土ヶ谷宿、そして戸塚宿を見て、藤沢駅まで歩く予定である。 保土ヶ谷宿の西側の入口だったといわれる外川神社のある信号交差点の左側に細い松が数本植えられている。 また、一里塚のミニチュアみたいなものある。 これらはなんだ?と近づくと、案内板があり、一里塚を模したもので、当時と同じ、榎(えのき)を植えた、とあった (右写真)
また、江戸時代には、ここから境木地蔵まで松並木が続き、昭和初期まで残っていた
が、今は権太坂付近に一部残るだけなので、復元事業として植えた、とあった。
国道を少し歩くと、岩崎ガードと書かれた横断歩道橋がある (右写真)
江戸時代の後期に創られた東海道分間延絵図では、外川神社の先に西の木戸があり、茶屋町橋と西の木戸の間に、一里塚が左側だけ描かれているが、横断歩道橋のすぐ傍に一里塚が有ったようである。 さっきあった一里塚は、見やすいところに造った
のだろうが、どうせなら、江戸時代の場所に置いて欲しかった。 横断歩道橋の左側に、湯殿山の供養塔と石仏が祀られていた (右写真)
供養塔には、保土ヶ谷宿 文化七庚午年 三月吉祥日再建と刻まれていた。 江戸時代には、街道に、茶屋町橋という小さな木橋が架かっていたが、このあたりには、本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋本陣があったようである。 茶屋本陣は参勤交代の
大名が休憩するところで、宿場の入口にあたるので、大名の出迎えもしていたようである。 なお、文化七年(1824)に、保土ヶ谷宿に茶屋が三十三軒あったというから、江の島、鎌倉や大山詣での遊山客が多かった、ということだろう。
保土ヶ谷2丁目の交差点で右側の線路沿いの道に入る。 ようやく国道1号線とも別れた (右写真)
10時20分、いよいよ権太坂にむかう。 車の量も極端に減り、安心して歩ける
ようになったが、古い建物は無く、昔の面影は全く残っていない (右写真)
右側の石段の先に樹源寺の山門が見えていたが、葬儀のようなので、そのまま進む。 道は平坦で、ほぼ真直ぐである。 右手の小高い所を東海道線が通っている。 東海道に入って七百メートル歩くと、三叉路の元町ガードの交差点にでた。 ここを左折すると、
今井川に架かる元町橋があった。 橋の脇に、元町のいわれが書かれていた。
「 東海道が開設された当時の保土ヶ谷宿は、このあたりから始まり、相鉄天王駅の北側にある古町橋を渡っていた。 東海道は、慶安元年(1648)に、現在のルートに変更になり、宿場はそちらに移されたので、この町を元町と呼ばれるようになった。 」
橋を渡ると、右側の元町橋ストアー前に、庚申塔と堅牢地神塔が建っていた (右写真)
脇にあって見づらいが、庚申塔は明和二酉年、堅牢地神塔は文政十?、とあり、元町
講中とあった。 堅牢地神塔は初めての出逢いである (右写真)
後で、調べると、堅牢地神(けんろうじしん又は、じじん)塔は、農民が豊作を祈願するために地神講を結成し、造立したものが多いとあり、堅牢地神は、もともとはバラモン教の神で、仏教に取り込まれた十二天の一神、大地を司る地天(じてん)のこととある。
少し上り、国道1号線の元町交番前交差点の手前の右側の道に入る。 ここからは、本格的な上り坂で、この坂道が東海道最初の難所、権太坂である。 この角に、歴史の道
旧東海道の案内板があり、境木地蔵尊まで1.5kmとあった。 それを上っていくと、左側に赤い鳥居と社があり、その間に、権太坂改修の碑があった。 江戸時代には、行き倒れが出るほどの急坂だったらしいが、改修により現在の坂になった (右写真)
坂は横浜横須賀道路の上を権太坂陸橋で越えて、更に続いていた。 振り返ると、遠くに横浜ランドマークタワーが見えた。
更に上って行くと、右側の光陵高校の敷地の下に、権太坂の石柱があった。 新辺武蔵風土記稿によると、旅人が道端の老夫に坂の
名を聞いたところ、耳の遠い老人は、自分の名を聞かれたと思い、権太と答えたこと
が、名の由来、とある。 江戸時代には、坂の上から目の下に見える神奈川の海が大変美しかった、とあるが、今は、高層マンションが建ち並び、海は埋め立てられて、その姿を想像するのは難しかった。 坂の途中に、権太坂小学校があった (右写真)
小学校を越えると、やっとフラットになったと思ったが、今度はだらだらと上り坂は続く。
上から中学生が下りてきたので、中学校は近いと予感。 その先が頂上のようで、右側に、お店があったので、おいなりさんとお茶を購入する。 これまでお店が一軒もなかったので、買えるとき買おうと思ったのであるが、ちょっと歩くと、バス停とコンビニがあった。 その先は三叉路になっていて、突き当たりは境木小学校だった (右写真)
これで権太坂は上り終えた。 権太坂で行き倒れになった人々を葬った投込塚を探す。
権太坂は、箱根につぐ難所で、行き倒れも多く、二番坂を上りきった横に死人を投げ込む井戸があった、と伝えられてきた。 昭和三十六年(1961)、井戸があったところが地区開発で発掘されると、多数の人骨が発見された、という。
三叉路を左折して、百六十メートル下ると、左側に、投込塚之跡碑を見つけた (右写真)
行き倒れた旅人の霊を慰めようと建てられたのが、大理石で作られた、投込塚之跡の
碑で、両脇には石仏、石碑が祀られていた。
街道に戻り、境木小学校を越えて、道なりに百七十メートル進んだ右側の黒塀に囲まれ、旧家の立派な門がある御屋敷は、境木立場茶屋を営んでいた、若林家である (右写真)
若林家は、明治中期まで、黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物があったとされ、参勤交代の大名までが利用したと、伝えられている。 宿場から宿場の間に、馬子や人足の休憩のため設けられたのが立場で、ここ境木の立場は、権太坂、焼餅坂、品濃坂と、
難所が続く中で、見晴しの良い高台にあり、西に冨士、東に江戸が望める景観にあったので、旅人は必ず足を止めた景観だった、といい、茶店で出す牡丹餅は、境木立場の名物として、旅人の間で広く知られていた。 そこから、数十m先の右側には、一心良翁院境木延命地蔵尊と刻まれた石柱があり、赤い屋根のお堂が見えた (右写真)
石段を登っていくと、地蔵堂があり、万治弐年(1659)に建立されたという、石のお地蔵
様が祀られている。 境木地蔵の境内には、大きなケヤキの木があり、堂前に、武蔵国と相模国の境の杭が建てられていたことから、境木という地名が生まれた、とある。
石段を降りると、道の脇の広場に、その復元と思える柱が建っていた (右写真)
神奈川県は相模の国と思っていた小生はびっくり!! これまで歩いた保土ヶ谷区は武蔵の国で、これから先の戸塚区は相模の国だったのである。
境木地蔵前交差点は三叉路になっているが、正面の褐色のマンション側に渡り、左側にある道を下って
行くのが、東海道である。 マンションの植込みに、右環状2号線、左旧東海道と書かれた大きな石標があった。 その傍には、小さな焼餅坂の石碑があり、この坂が焼餅坂であることが確認できた。 焼餅坂は、別名、牡丹餅坂とも呼ばれたが、東海道五十三次戸塚宿焼餅坂の絵は、ここから見えた富士山を描いたもので、当時の雰囲気を伝えている (右写真)
このあたりは急速に住宅化が進んでいて、一年前とまったく景観が変るという状態
である。 林の中を切り通しして造ったこの道も、早晩、マンションで埋まる気がした。 そのまま下ると、交差点があったが、左右の道も直進する道も狭くなる (右写真)
小さな橋を渡り、直進すると、左は山のままだが、右側は開発が進んだところに出る。 このあたりは、まだ自然が残っていたが、その先の車が一台しか通れない道では、完全に都市化が進み、集合住宅が建っていた。
少し上り坂になったと思っていたら、鬱蒼とした森があるところに出た。 右側には、←戸塚宿 旧東海道 →保土ヶ谷宿 と書かれた道標があり、隣に一里塚の案内板があった。 道の両脇にあるのは、江戸から九番目の品濃の一里塚である (右写真)
案内板によると、「 東海道をはさんで、ほぼ東西に二つあり、地元では一里山と呼ばれていた。 東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内に置かれ、西の塚には榎(えの
き)が植えられていた。 木が生い茂ってはいるが、盛り土は江戸時代のままである。 神奈川県内で、一里塚が両方残っているのは,ここだけである。 」 と、あった。
左側の塚は私有地のため立ち入る事も出来ないが、右側の塚は、右に回って見ると、公園になつていて、一里塚の形が確認できた (右写真)
サイレンが鳴ったので、時計を見ると、丁度十二時、幸い公園にベンチがあったので、
さっき買った稲荷ずしを食べ、お茶を飲んだ。 小さないなりが三つだけだったので、あっというまに食べ終わった。
街道に戻り、少し歩くと、交差点に出た (右写真)
左右の道は二車線で、右に行くと、環2品濃交差点である。 旧東海道である対面の道は、歩いてきた道と同じ幅である。
アップダウンはあまりないが、これが品濃坂だろう。
一車線しかない道の両脇には、住宅が並んで建っていた。
右手に、環2東戸塚交差点が見えるところの道角に、福寿観音
が祀られていた。 東戸塚駅誘致に貢献した顕彰の旨が書かれた碑がある。 住宅が切れると、交差点の左側に、観光果樹園があった。 かっては、こうした果樹園がこの地の産業だったのだろうが、土地が切り売りされ、次回訪れた時、果たして残っているか、と思った (右写真)
果樹園の脇をそのまま進むと、民家に入ってしまうような狭い道でこれでよいのかと
不安になったので、庭にいた人に聞いたら、その先に行くと広い道にでる、と言われた。
広い道を直進すると、三叉路に出た。 左側に旧東海道の標識があったので、安心し、指示通りに坂を下っていくと、交差点があり、左に行くと平戸小学校なので、右の道をカープしながら下ると、環状2号線を渡る横断歩道橋が見えてきた (右写真)
車道から歩道橋に降りる手前に、旧東海道の地図が描かれた銅板があった。
それを見ると、品濃坂は、環状2号で切断されているが、その先も続いている。
石段を下りると、品濃坂の石柱があり、こちらからなら迷わずにすんだのにと思った。 東海道の環状2号線を越える品濃坂歩道橋があった
横断歩道橋を渡り、右側の道路を下ったが、
途中で分らなくなり、環状2号が見える品濃公園に出た (右写真)
思案に困って、公園前のご夫婦にお聞きすると、先程の人にも聞かれたといわれ、教え
ていただけた。 多くの人が迷子になるところのようである。 公園の左手に通る道に出て、そこを右折して、坂道を下り、東戸塚陸橋の下をくぐり、少し歩くと、左側に東海道の標識があり、小さな橋を渡ると、川上川が道の右側に流れている (右写真)
用水のような川上川を見ながら、少し歩くと、東戸塚駅入口交差点で、国道1号線に出る。 この辺は江戸時代には前山田村で、戸数十三戸の小さな村だった。
東海道は、そのまま国道を横断し直進する。 トヨペットの先で
小さな橋を渡ると、左側に永谷川が流れ、川には白鴫と鴨が餌を探していた。 少し歩くと、再び、国道1号に合流。 その先に、赤座橋交差点があり、永谷川に架かる赤座橋があった。 永谷川赤座橋と表示され、旅人をデザインした橋柱があった (右写真)
橋を渡ると、左側の道に入るのが、東海道である。 ここからは、旧上柏尾村で、東西四町十間、村の中程を貫く三間巾の東海道が通り、字桃灯立場があったところだが、
当時の面影をしのばせるものはなかった。 再び、ヤマザキパン工場の少し手前で、国道1号線と合流した。
ポーラ化粧品の前を過ぎると、道路の左側の駐車場の奥に、白い蔵が見える。 さらに歩いて行くと、国道のすぐ左脇に、大きな木が目に入った。 近づくと、益田家のモチの木、という看板があり、蔵からすぐの国道の左側の二メートル程上にあるのが、神奈川県の名木百選に選ばれたモチの木のようである (右写真)
東海道は、この先で、国道1号線と別れ、左の道に入っていく。 この道の幅は、昔の
東海道のままの道幅といわれる。 国道の不動坂交差点の右手に大山跨線橋があるが、江戸時代の大山道にちなむものである。 このあたりは柏尾、江戸時代は下柏尾村であった。
不動坂を下って行くと、右側に赤レンガの倉庫が残っていた。 また、その先には、黄色い塗り壁に立派な土蔵と門構えの屋敷があった (右写真)
そのまま進むと三叉路となり、川に架かる橋は架け替え工事中だった。 この信号交差点
を右折し、舞岡川沿いに歩き、舞岡交差点で、再び国道1号線に合流した。
舞岡川に架かる五太夫橋を渡る。 橋の手前の左側が旧舞岡村で、橋を渡ると旧吉田町である。 道の右側はブリジストンの工場が続く。 左側に、天文十六年(1547)中興、寛永九年(1632)建立の不動尊を祀る宝蔵院があった。
それを過ぎた道端に、東海道 吉田町と書かれた標識があり、右手のダイエーの先に、江戸見附前交差点がかすかに見えた (右写真)
一部道に迷よったが、どうやら、戸塚宿に到着したようである。