仕事では二度石垣島に訪問していたが、仕事オンリーで、観光では川平湾を訪れただけで、
しかも40年も前のことだった。
今回、クラブツーリズムの「絶景の川平ブルーと八重山四島の休日 4日間」のツアーに参加した。
令和5年(2023)11月14日(火)
11時にANAの羽田空港第二ターミナルの2Fで、旅行社の添乗員より、
旅のしおりと搭乗券をいただく。
保安検査を受け、出発ゲートに向うが、出発ゲートはかなり離れていたので、
移動が大変だった。
登場手続は予定時間より開始され、11時30分の出発時間には搭乗は終了したが、
待機待ちになり、15分後に離陸した。
東海道の南側の海岸線に沿って進み、静岡県の御前崎付近から、南西に向きを替え、
潮岬へ向かって飛ぶ。
潮岬からは沖縄本島に向って、海上を進む。 天候は雲が所々あるだけでよいように思えた。
しかし、雲が厚いところに来ると、「シートベルトをしめてください。」のアナウンスがあり、その址機体は大きく上下運動を起した。
沖縄本島まで2時間30分以上かかり、この後は乱気流にたびたび遭遇し、
シートベルトは締めたままであった。
沖縄本島から約1時間、石垣空港に到着したのは3時過ぎで、予定より20分程
遅れての到着であった。
泊まるホテルは離島ターミナル近くのホテルミヤヒラで、空港から45分の距離だった。
夕食は島の西側にある和流ダイニングみふねで、15分の距離である。
集合時間まで1時間くらいしかないので、部屋に入り一服し、
その後ホテルの売店を覗く。
ホテル前、道の反対には小公園があり、垂れ下がった枝の先に、赤い花が咲いて
いた。
近くにある木柱には「夜來花(ゆうらいしゃん)」と書かれていた。
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和流ダイニングみふねに着くと、入口に沖縄の織物に関する展示場があり、
係員が簡単に説明した。
その奥に売店があり、バックやシャッツなど、沖縄製のものが売られていた。
売店を通り過ぎると、食事の会場があり、
この日のメニューは島野菜10種と豚のしゃぶしゃぶであった。
食事をしていると青年があらわれ、蛇三味線の演奏と島唄、沖縄民謡が披露された。
始めて3年目といい、那覇で聞いたものに比べると、まだまだというレベルであったが、一生懸命であることは分かり、好感は持てた。
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令和5年(2023)11月15日(水)
今日はツアーのメインの日で、西表島・由布島・竹富島を見て廻る。
7時50分にホテルを出て、石垣港離島ターミナルまでは五分程で到着。
西表島行きの船は8時15分発なので、トイレに行き、船着場に行くと、
具志堅用高の銅像があった。
彼は石垣が生んだ英雄である。
乗船する船はプレミアムドリーム号で、既に後ろ半分には修学旅行の中学生が乗っていた。
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船は定時に出港した。
石垣港を出ると、船は南西に向って進む。
右に竹富島を臨み進むと、航路の左側にはサンゴ礁と思えるところがあり、
それに接近する位のところを進んでいく。
夏ならばもっと明るい海面なのだろうが、冬に近いため少し黒ずんだ色であった。
「 左手にハート型の島 」 と船内アナウンスのあった黒島が見える。
住民は二百人に対し、黒毛和牛が数千頭いるといわれる畜産の島である。
横に広がるテーブル状の台地が広がっているが、それ程高くないので、
地球温暖化で沈むのではないか、と心配した。
その先、左側に見える二つの島は新城島(あらぐすくしま・別名ぱなりしま)で、
上地港のある上地島と下地島で構成される。
干潮時には島が繋がるといわれるが、寄港する船には島民しか乗れないといい、
島内の宿泊か、観光会社のツアーで参加する時だけ、島内に入れるという。
船は北西に向きを変え、西表島の大原港FTに着船した。
石垣島から45分の船旅であった。
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大原港FTは浮桟橋になっている。 この桟橋ができるまでは大型船が、
着岸できなかったという。
桟橋を出ると、「西表島 仲間」の木柱と西表島(大原周辺)案内図があった。
その先に乗船場の待合室があり、一軒だけの売店があった。
船内にはトイレがなかったので、ここのトイレを使用した。
先程の浮桟橋から数十メートル離れたところに別の浮桟橋があり、
そこには「仲間川遊覧」と書かれた船が停泊していた。
この船が仲間川マングローブ観光に使われる船である。
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これから仲間川マングローブ観光で、この船に乗り込む。
クルーズ船は40人位乗れる屋形船で、屋根はあるが両側は開いているので、
波が出ると水にぬれる可能性があると、事前に説明を受けていた。
仲間港を西に向って進むと、左手に小さな桟橋があり、
これが以前の大原港桟橋だという。
正面の仲間橋が見えてきて、橋をくぐると仲間川の河口に入った。
仲間川は南風岸岳付近を源流とする二級河川で、河口部は川幅が200mを
越えるところもあるといい、広さを感じた。
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仲間川の深さは10メートル程で、潮の満ち引きにより、数メートル上下すると
いう。
川はその先で二つに分かれ、源流があるのは左側の川で、川幅は狭くなった。
そのあたりから川は蛇行して流れており、勾配は緩やかである。
このあたりには海水が流れ混んでいて、マングローブの群生林が川の両側に展開している。
「 マングローブ林はオヒルギ、メヒルギ、ヤエヤマヒルギなどで構成されています。 マングローブの木々は古代に植物の間で生存競争があったとき、
戦いに敗れて、陸地から海に追われ、海水に根を張って、生きるようになったものです。 」 という説明があった。
ここは仲間川天然保護区域として、国の天然記念物に指定されている。
オヒルギが群生する姿を見た。 呼吸根は水没してあまり見えなかった。
支柱根が短く、少ないが、呼吸根は屈曲膝根と呼ばれ、
湾曲し人の膝のように見える根をぼこぼこと泥の中から出ている。
訪れた時は干潮から満潮に移る途上であったが、干潮時には根が空気に触れる
のだという。
オヒルギは別名、赤花蛭木とも呼ばれるが、
これは直径3cm程の赤い花をつけるから、である。
最盛期は過ぎていたが、当日もちらほら咲いていた。
筒状の細長いがくのさきに花弁があり、その中にめしべ部分がある。
その前におしべ部分の赤色の花がある。
「 花は厚く、ラッパ状に下を向き、先端が8−12枚に裂けていた。
花弁は筒状のがくの中にあるので見えないがこれが胎生種子になる。
種が樹上で発芽し、幼根をある程度伸ばすと、がくの内側から先端の芽などが
抜け落ち、下が泥ならそのまま成長するが、多くの場合は、
海流散布で分布を広げる。 」 という説明があった。
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メヒルギは国内では7−8m程の小高木で、、
幹は直立し、樹皮にはタンニンを多く含む。
幹の下部に支柱根を出し、成木は幹の周囲に与球根を持ち、干潟の湿地に安定して
株立をする。
花は白色で、胎生種子の形状は細長く、笄(こうがい・かんざし)に似てることから、
リュウキュウコウガイの別名がある。
また、発芽した幼根の太さが、オヒルギより細く、女性的であることから、
メヒルギと命名されたという。
木に箱がぶら下がっていたが、その下にヤシガニを獲るしかけがあるのだといわれた。
さらに遡ると、中流右側にヤエヤマヤシが群生している。
岸にに近づき、ヤエヤマヤシの幼木が紹介された。
この地区はウブンドルのヤエヤマヤシ群生として、
国の天然記念物に指定されている。
その先で、マングローブはなくなる。
中流までしか潮は遡らないためと説明があり、陸上に育つ樹木に変わった。
左側の山に向う斜面にはヤエヤマ猪が棲息し、12月より狩が行われ、
肉質は良く、評判がよいという。
船はここで引き返し、帰路に着いた。
途中の狭いところで、向ってくる船が五隻以上、すれちがうのができないため、
待機させられた。
船は仲間橋より手前にある大富港に着岸、ツアーは終了した。
約七〇分の旅であった。
なお、ツアーの開始時間は潮の満ち干で変わるので、確認した方がよい。
降りた大富地区は昭和二十七年には波照間島より、先程の大原地区は
昭和十三年と昭和十六年に新城島より集団移住により誕生した。
ここで貸切バスに乗り、県道215号を北上し、美原地区の由布島入口に到着した。
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由布島は周囲2km、0.15kmの小さな島で、島民が111人、25世帯を数える
時があったが、昭和四十四年の台風で、島全体が水没する台風により、壊滅的な
被害を受け、対岸の西表島へ移住し、美原集落を形成し、三世帯のみが島に残った。
当時は果樹や甘藷が栽培され、各戸に水牛が飼育されていた。
移住後の由布島にはヤシの植樹などが行われて、昭和五十六年に植物園として開業しし、今日に至る。
西表島と由布島の間の海は、大人の膝位の深さで、満潮時でも1m程しかならない。
そのため、移動手段には水牛車が利用され、島の重要な観光資源である。
徒歩でも渡ることが可能であるが、その場合は牛車の邪魔にならぬように、
海中に建てられた電線の下を歩かなければならない。
水牛車は10台以上あり、雄か雌か、成牛か幼牛かで、乗せる人数が違う。
水牛車に乗ると、御者の合図で海に入っていく。
牛の本能なのか、前の牛に続き、島に向って進むが、牛の性格により進むペースが
まちまち。
御者の中には三線を引くものがあり、その牛車では島唄などが聞けた。
行きの牛車は順調に進んだが、帰りの牛は気まぐれで、海の中で小便し、
しばらくあるくと走行をやめ、しばらく休憩とばかり立ち止り、
行きの二倍の時間を要した。
この島渡は徒歩だと5分、牛車で15分が標準という。
牛は一日3回往復が普通で、4回あるときはいやがるという。
牛は分かっていて、終了と分かるとさっさとねぐらに帰るといわれた。
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島の中央部にレストラン&ショップの水牛商店があり、
そこで和琉幕の内弁当を食べた。
思った以上にうまかったので、よかった。
食事後島内を散策する。
その先にはかってあった由布島小中学校の校門跡があった。
説明板「由布島小中学校の跡地」
「昭和23年 島分教場が開校。当時の校舎は島の住民による木造かや葺きのもの
でした。 幾度も台風による被害に会い建て直されました。
昭和26年 モルタル瓦葺きの校舎完成。 昭和34年 中学校の校舎完成。
昭和44年 台風エルシーによる高潮で島全体が水没、
島ぐるみの移転を決める。
昭和45年 島民の移転にともない閉校、
現在では当時の功門と校舎の一部が残っている。 」
十字路を右折すると海岸の脇に由布島茶屋があり、
浜の入口にマンタの文字の上にマンタ像がある石碑があった。
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海岸の名前はマンタの浜とあった。
沖に見えるのは小浜島、沖合には石垣島、黒島、新城島が遠望できた。
由布島と小浜島の間にはマンタが回遊する姿が見られることから、
その名がついたという。
さらに北に進むと、ブーゲンビレアガーデンがある。
温室の中に成育されていたが、温暖なので、暖房する設備はないようだった。
名古屋の東山植物園で見慣れた植物だが、ここでは三十種類以上あるようだが、
一本の木が貧弱なので、華やかさで劣っていた。
この島にはその他、蝶々園と果樹園などあるが、自然を感じることができるが、
素人的な小規模のもので、特筆する程ではなかった。
気になっていたのは、道端にあった「あじー 飛び出し注意」 と書かれた
黄色い標識。
和牛商店の売店に行くと、それをデザインしたTシャッツなどが販売されていて、
「 沖縄方言でおじいさんのことをおじ―といいます。
おじーの生態
急に草むらから飛び出してきます。 草刈りで右に出るものはない。
おじーが作った野菜が世界一。 一年中島ぞうり 」
の説明板があったので、
なるほどと思った。
スイレンの池を見ると、水牛が水に浸かったいた。
水牛はその他にも水牛の池で、働いていない牛が多くいた。
由布島には12時20分まで滞在し、12時25分、水牛車で島を出て、
バスで大浜港へ戻った。
港近くの交叉点に交通信号があったが、バスの運転手の説明では、
「 島内に交通信号は二つしかなく、児童の教育用とのこと。 都会に出た時、
困らないため!! 」 とのことだった。
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13時25分発の竹富島行きの船に乗った。